れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その3
「信長殺し光秀ではない」を読んで、どう推理すべきか。れんだいこは次のように考える。八切氏の推理に反して、黒幕が国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社、使走させられたのが明智光秀と読む。ネオシオニズム系秘密結社の陰謀を見て取らない黒幕説を排斥する。加えて、明智光秀を犯人としても、その謀反の動機に於いて巷説の云うところの所領変更に対する抵抗なり、徳川家康接待に面目潰された故なり、その他諸々の欲望と怨恨に基づく犯行であったとする説を排斥する。真相は、明智光秀がネオシオニズム系秘密結社の指令に従い本能寺事件に誘われたと読む。その論拠は次の通りである。
まず、ネオシオニズム系秘密結社は、「この日」に誘い込む為に用意万端整えている気配がある。八切止夫著「信長殺し光秀ではない」に採録されたイエズス会資料から判明することは、当時のバテレン宣教師が信長の動静を克明にキャッチしていた様子である。開示されているのは一部の文書であろうから、その全貌が明るみになれば、より克明に判明するであろう。残念ながら用意周到に隠蔽されており、明るみにされているものは大半が改竄されていると読む。あるいは際どい記述の個所は削除されている。故に真相に辿り着けない仕掛けが廻らされている。こういう場合、高度な歴史推理を働かせる以外にない。
元々で云えば、信長はネオシオニズム系秘密結社の後押しを得て天下取りに向かった形跡がある。恐らく、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで頭角を表わした信長がバテレンの注目するところとなり、以降バテレンの後押しを得て天下布武の歩みを共に開始した。ところが、信長は権力の階段を昇り詰める度合いに応じてバテレン離れし始めていた。それはどうやら1571(元亀2)年の比叡山延暦寺焼き討ち辺りからではなかろうかと思われる。比叡山延焼き討ち事件の背後にもバテレンの教唆があったと推定できる。1579(天正7)年、安土城が完成する。この頃、信長はいわば絶対王権を確立した。信長とバテレンは互いに面従腹背の関係に入っていた。
本能寺の変の1ケ月前の1582(天正10)年5月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを誇示する殿堂を建て、参拝者の人山を築いた。これより前、信長とバテレンの宗祇問答の際、信長が「我こそ、まことの神なり」と述べたと記されている。しかしそれはバテレン側の悪意ある捻じ曲げであり、窺うべきは「今後はバテレンの命令を受けない。我の権力を優先させ我の思うところを施策する」との自律の言を述べていたと云うことであろう。ネオシオニズム系秘密結社が、信長のこの態度を不遜として用意周到に姦計を廻らし、本能寺の変へ向けてお膳立てをして行くことになった。この姦計に協力したのが堺衆と呼ばれた商人たちであった。この堺衆の正体を解析するのも一興であろうが本稿では割愛する。
信長の絶対権力が確立された時より信長の光秀バッシングが始まっている。バッシングの態様も様々に説かれている。これをどう読むべきか。れんだいこは、そもそも信長も光秀もバテレンの後押しを得た戦国大名であったと読む。その見返りとしてバテレン教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。当時、バテレン教は信長―光秀を頂点とする政治権力の庇護の下、旺盛な布教活動を展開していた。ところが、信長は絶対権力を確立した頃より日本支配を企むバテレンの陰謀に気づきバテレン離れした。これに対し、光秀は相変わらずバテレンの腰巾着のままであらんとしていた。その姿勢は信長よりもバテレンの指示に従うことになる。信長の光秀に対する憎悪はこれに起因していたのではなかったか。信長からすれば光秀のバテレン信仰は教条的なものであり既に病膏肓であった。信長は光秀の頑迷な頭脳に対して既に敵意を抱いていた。二人の確執は既に絶対矛盾に辿り着いていた。こう読むべきではなかろうか。
ちなみに光秀の三女の玉(珠)は筋金入りのクリスチャンであった。細川藤孝の嫡男・忠興の正室となり、ここに明智―細川閨閥が形成されている。明治期にユダヤ―キリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、この名が定着している。光秀配下の従弟(父の妹の子)の斎藤利三(その娘が春日局、利三の妹婿が長宗我部元親)はクリスチャンであったかどうかは分からないが、光秀を絶対的に支えることにより同様の役割を果たしている。光秀配下には、こうしたクリスチャン武将が相当数送り込まれていたと推測できる。この光秀軍が「敵は本能寺」とばかりに本能寺へ進撃したのは史実ではなかろうか。これを否定すると却って史実と合わなくなる。
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