れんだいこの「八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』」書評その2
本能寺の変の犯人推理は邪馬台国論争ほどではないにせよ明智光秀説、その配下の斎藤利三説、豊臣秀吉説、徳川家康説、比叡山焼き討ちに怨念を高めた僧侶説、足利義昭将軍説、朝廷説、堺衆説、バテレン陰謀説等々十指を数える。八切氏の「信長殺し光秀ではない」の結論は後半に明かされ、「秀吉とか家康といった役者が上の男どもに利用された信長の正妻・お濃の方説」となっている。それまでバテレン陰謀説を臭わせながら、なぜだか「お濃の方説」で結ばれている。
しかし、れんだいこは同意し難い。こう云う場合、れんだいこにすれば八切論考の値打ちがなくなるのが普通であるが、八切氏が論証過程でふんだんに紹介しているイエズス会レポートの方に値打ちを認めている。国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには、日本史上戦国期に於けるバテレン活動の重要文書の数々の存在を教えられた方が有益だった。これまで八切氏を措いて他に誰か指摘していたのだろうか。いないとすれば、これこそ本書の大功績であろう。それにしても、イエズス会の陰謀はかの時代にも濃厚に認められ、今の時代で云うところのCIA活動の元祖的役割を果たしていることが分かる。
本書の値打ちを、当時の戦国大名の宣教師活動庇護の背景に鉄砲火薬の硝石(しょうせき)売買があったことを指摘したことをもって炯眼ぶりを指摘する向きがあるが、それもさることながら、このバテレン資料の開示こそ第一等の功に挙げたいと思う。硝石売買に注目するのは一理も二理もあろうが、硝石売買にのみ特化するのは去勢された理解の仕方であろう。当時の宣教師活動が、硝石売買を介在させながらキリシタン大名網を構築し、次第に日本政治の中枢に容喙していったことの重みを窺うことこそ本筋ではなかろうか。れんだいこのこの理解は至極真っ当と思うのだけれども、諸氏の見解ではどういう訳かスル―されてしまう。解せないことである。
ちなみに八切氏の「お濃の方説」なる結論を、八切氏がこれをマジメに云っているのか今ひとつ分からない。むしろ、その結論に至る前にあちこちで示唆しているイエズス会の怪しい動きを思えば、イエズス会こそ主犯とすべきだろうに「お濃の方」を挙げてジ・エンドとしている。これは、正面からイエズス会主犯説を唱えることは処世法上賢くないとの弁えからのトリックではなかろうかと思われる。
そもそも、光秀主犯説をお濃の方主犯説に替えたところで、光秀の汚名は灌(そそ)がれるにしても今度はお濃の方の汚名が発するではないのか。それと、八切氏のお濃の方主犯説なる結論は、それまで指摘したところのバテレンの陰謀と接合していない。お濃の方主犯説に導く以上は、お濃の方とバテレンの陰謀との繫がりを論証せずんば片手落ちではないのか。八切氏がこれをしないままお濃の方主犯説へと結論づけているのは変調であろう。
ところで、八切氏の「信長殺し光秀ではない」を読んでイエズス会主犯説へと結論を導いた者は、れんだいこだけではない。例えばサイト「本能寺での爆発事故」も「信長を殺害したのはイエズス会」とする見地を披歴している。 (http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/jiko/index4.html)
同様の感慨を覚える者は他にもいるだろうと思われる。八切氏は本当のところはイエズス会主犯説としたかったのではなかろうか。れんだいこは普通に読むので易々とイエズス会主犯説へと辿り着いた。正確には、イエズス会と云うより国際金融資本帝国主義ネオシオニズム系秘密結社と云うべきだろうが。本書が、こういう推理に誘う論旨になっているところが面白い。
知るべきは、ネオシオニズム系秘密結社の暗躍は何も信長殺しだけではない。彼らが出向いた世界のあちこちで、この種の政変「王殺し」が起きていることである。連中の活動は、その国の王権を打倒し、手なづけた傀儡政権を樹立し裏からコントロールすると云う手法にまみれている。それは現代史に於いてもますますそうであり逐一挙げるにも及ばない。彼らには、そういうノウハウが歴史的に蓄積されていると思うが良かろう。してみれば、バチカンはトンデモ神父の巣窟と云うことになる。こたびの新法王はイエズス会出身だが、この疑惑から免れた稀有の人足り得ているだろうか。と云うところが気になる。
日本史上の当時の例で云えば、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝暗殺も臭い。これは、れんだいこの初指摘かもしれないが、ずっと気になっている。1565(永禄8)年、足利義輝は、松永久秀と三好三人衆の謀叛に殺害された。辞世の句として「五月雨は 露か涙か 不如帰(ほととぎす) 我が名をあげよ 雲の上まで」を遺している。「ウィキペディア足利義輝」は、「永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した」と記している。これは妙な記述であり、れんだいこのアンテナが作動する。
こういう下りはマトモに読んではならない。義輝が命令を無視したかどうかの史実検証をせねばならず、仮にそれがどうであろうと、このことには意味はない。かの時代に於いて正親町天皇が京都からイエズス会追放令を出したほど、既にイエズス会の政治容喙「王殺し運動」が始まっていたことを窺えば良い。「松永久秀と三好三人衆の謀叛の背後事情」を検証すれば、この推理が当っているのか外れているのかはっきりしよう。この推理が当っているとした場合、イエズス会№2のフランシスコ・ザビエルが来日したのが1549(天文18)年であることを思えば、僅か16年で日本の王権騒動に辿り着いていることになる。
幕末1867(慶応3)年の近江屋事件も然りであろう。この事件により、幕末維新の立役者である土佐藩の幕末志士の双璧である坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された。この犯人を廻って諸説入り乱れているが、国際金融資本帝国主義ネオシオニズム論を確立しているれんだいこには容易にネオシオニズム系秘密結社が黒幕と推理できる。連中が幕末内戦を画策していたところ、坂本と中岡が薩長同盟に奔走し、その流れで大政奉還、江戸城無血開城の道筋を生みだし、内戦を回避させたことが連中の怒りを買い、粛清指令が下されたと読める。要するに、連中は操り難い有能政治家を見つけては始末して行く癖がある。
その他その他この種の事例を挙げればキリがない。近いところでは、明治維新以来の政変による有能政治家の失脚、暗殺、事故死等の殆どすべてがこの類のものである。問題は、世上の歴史家なり評論家なりの推理が、この本筋から外れた所でのみ許容されており、その範囲の推理を喜々として行う物書き屋が多いと云うことである。それらは本命推理以外の全てが自由と云う虚構の推理遊びでしかない。そういう論調のものを学べば学ぶほどアホウにされてしまうと云うことについては既に何度も指摘した。我々は対抗上、本筋の真実史の解明に向かい、学べば学ぶほど脳のシワを増すべく鍛えねばならない。と云う結論になる。
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