2013年03月27日
八切止夫史観から見る庶民の暗黒史(1/2)
《1》
昨日の「バカ・アホ」の分布の考察で、八切止夫の史観にちょっと触れたが、その続きで、彼の言い分をもう少し。
何度も本ブログで八切止夫の日本史を紹介してきたが、私は高く評価するので、機会があれば何度でも取り上げたいと思っている。
八切止夫の日本史によれば、白村江の戦い(663年)で敗れた日本原住民(すなわち平家系と源氏系)の国家は、進駐してきた支那軍(藤原政権)とそれにへつらって支配階級に帰順した百済系(南朝鮮系。のちに大和朝廷で貴族化する)によって支配されることになった。
白村江の戦いの時期はざっくり言って大化の改新のころである。
支那人(藤原氏)と百済系朝鮮人は、貴族階級を形成し荘園制度の下、のちに平家系の庶民となる住民を仏教に帰順させるとともに農耕漁業などの一次産業に従事させる。それ以外の源氏系と平家系で帰順しない(仏教徒にならない抵抗勢力)は、囲い地(今日言うところの被差別部落)に押し込め、出てこられなくした。天皇はお飾りである。
藤原政権は被差別のものを、「五色の賎」と称して「綾戸、雑戸、家人、公奴婢。私奴婢」の5つに分けていた。
こちらの政策は歴史に隠されてしまい、天皇の権威化だけが日本史の主流であるかに偽装された。
平安末期に平清盛が代表する平家一族(和歌山あたりに漂着したマレーシア方面からの民族)が一時藤原氏にとって替わって隆盛を誇るのだが、これを旧来の(伊豆に分布していた)平家=北条家が、馬をつかった機動力に優れた源氏(源頼朝や義経)を利用して壇ノ浦で撃破し、再び南方へ追いやるのである。
壇ノ浦で敗れた平家はいわゆる「平家の落人」にはならず、船でほとんどは南方へ逃げ帰ったのであった。北条平家は首尾よく源氏をつかって天下を取ると、ただちに源氏一族(義経、頼朝の子、梶原氏などの武将)を滅ぼしてしまう。源氏一族は使い捨てだった。そうやって北条氏は平家系の民族をいったんは平安時代の藤原氏の抑圧から解放するが、一方で源氏系を再び弾圧し、これを囲い地に押し込める。これら源氏がいわゆる「平家の落人伝説」となる。
時は流れて鎌倉幕府(北条平家政権)の末期、元寇によって平家は権力が弱まるとともに、後醍醐帝という権力亡者の少しおかしな天皇によってガタガタにされ、鎌倉幕府は滅びてしまい、南北朝時代となる。後醍醐帝は天皇家だから武力を持たないので、兵力として囲い地に追いやられた源氏系の連中を使うのである。結局、このときは北朝が勝って、南朝は逼塞させられるのだが、この後醍醐に仕え南朝を支えたのが囲い地(被差別部落)にいた源氏系または山中に隠れていた原住民だった。楠木正成はこの一党である。
北朝が勝って足利時代になると南朝方になった地方の者はみんな反体制とされて被差別の人間にされた。これらを再び「除地」と称する囲い地に押し込めた。同時に北条政権側だった平家系の者も再び平安時代のように差別扱いされ、農奴に戻されたのだ。
ここで歴史を区切って、この平安朝から南北朝あたりにかけて、日本の人口の約6〜7割は王朝時代(藤原時代)と足利時代に農奴にされた農奴であり、山中に逃げ込んで反仏教で抵抗した源氏系などを入れると約85%が被差別人というか非支配階級とされたのである。人間扱いされなかった。
この連中=庶民のうち、美しい娘や働き者は妾や娼婦に取り立てられ、また男で丈夫で働くものは囲い地から出されて下人にされた。百姓や漁師にさせられたのである。この連中を称して支配階級は「阿呆」と蔑称したと八切止夫は説く。
平家系庶民は「八」とも呼ばれ、また「天の民」あるいは「天(あま)」からとって「あ」の民とも呼ばれた。その「あ」だから「あほう」なのである。旗印から「赤」でもあった。
同じ阿呆と分類された庶民でも、源氏系は馬や牛、つまり運搬業に関わるため「馬鹿」と蔑称されることになっていく。だから、馬や鹿は4つ足なので、源氏系を「四」と呼んだ。「四谷」などの地名は「四つの民」が居たところである。旗印から「白」である。
こうして見てくると、アホは西日本で多くつかわれ、バカは東日本で多くつかわれる理由が、大雑把には西日本には平家系が多く、東日本は源氏系が多いから、という推測がなりたつのかと思われる。
この差別、被差別体制が壊れるのは、織田信長や秀吉、家康といった戦乱の中から登場し、被差別人から成り上がった武将による。信長、秀吉、家康は、いずれもいわゆる被差別部落から脱出して武将になった者で、美濃、尾張、三河といった地域から登場している。
この地域がまたかなり特殊な地域で、昔から平家系(南方系)の一大集落があったところであって、中央権力から大きな囲い地とされていた処なのである。
「他外(たわけ)」の地区である。ここから奇しくも信長、秀吉、家康が出て天下統一を実現させた。彼らは大きく言えば、部落解放に立ち上がった英雄であった。つまり「他外」による叛乱である。
では徳川政権が熱心に部落解放をしたかというと、そうでもない。取って代わっただけである。とくに5代将軍綱吉あたりから、徳川家は家康の正当な家系(赤、平家系)が消えてしまい、済州島から来た朝鮮人によって徳川家が乗っ取られてしまう。それが八切止夫の説である。
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