電波犯罪と超科学

世評の歪みを正す。左派リベラリズムを斥ける。社会問題の解決を示す。世界の先端思想がここに。私は電波犯罪の被害者。

イデオロギーの終焉 11 まとめ 道徳教育法-政治教育の歪みを正す

2015-02-13 12:04:12 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は曇り 雨が降りそう

 頭痛はやっとおさまった。気楽に記すか。ここは、日によって読者数が変動する。しかも少ない。私のファンがいて、彼らが毎日チェックしているのが大半、と思う。世間受けしてないのが、難だ。がんばろう。

 イデオロギーの終焉 11 まとめ
 昨日は、社会組織成長論の概要を示した。この論は経営学の最難解。これを理解したら、経営学をマスターした、といってもよいほど。一昔前は。だから、研究者も少なく、反響も小さい。私の提案の価値も、理解されないようだ。

 今日は、今まで10回にわたった連載をまとめる。

1, 20世紀は社会イデオロギーの時代
 20世紀は、人類全てが社会改革、社会思想(イデオロギー)に熱中した。「社会」が人類のテーマだった。その期間は正確には、1910年から2030年だった。それまでは「理性」がカント、ヘーゲルなどドイツ人によって探求され、英知をもつ人格が賞賛された。今や、人類の発展には社会改革が必要で、事業に成功した者が認められる。

2, 社会の時代は、6段階ある
 20世紀の変化は、6段階にわけられる。各段階は20年のようだ。

 1,創業期(1910-30年)の段階は、ユートピアが認められ、軍人会やテニスクラブなど社会グループが雨後のたけのこのように誕生した。

 2,集権制(1930-50年)の段階は、権力を一つにまとめることが課題となった。権力をもつ者への信頼が厚くなり、国家の権力は一つに集中して、独裁国家が猛威を振るった。

 3,分権制(1950-70年)の段階は、権限委譲が始まった。自治が流行して、民族主義で各国が植民地から独立した。

 4,官僚制(1950-70年)の段階は、専門家や市民運動が台頭した。初期には、学生の無能化が起き、ヒッピー・全共闘が発生した。各国は巨大な官僚制を敷いた。専門家が人間の究極とされた。

 5,集団制(1990-2010年)は、官僚制が崩壊して、分社した。大企業は分社した。多くの共産国家が崩壊して、民主化した。資本主義の時代である。小さな集団でのリーダーシップがもてはやされる。地域主義が発生した。

 6,個人主義型組織(2010-30年)は、独立個人の事業が見直された。コラボレーション、企画ごとに人が集まるという組織形態が流行する。個人、民族のアイデンテティを模索し、ナショナリズムが台頭した。この段階は、国家は機能化しやすい。
そして、社会の段階を終える。

3, この時代は、社会学の中で理論が発展した
 理性期は、カントやヘーゲルなど哲学者が、思想の開拓者だった。社会期は、社会学を純粋に研究する者達が社会思想を切り開いた。マルクスは偽りの社会論である。多くは経営学でその理論が提案された。思想(構造主義など)は、適切に、この時代の原理を説明してはいない。よっていわゆる思想は廃れ、経営学ほどの影響はなかった。

4, この時代の末期には、組織理論の数理モデルが登場する
 理性期は、ヘーゲルが、理性を純粋に現す数式を開発した。"論理学"である。よって、社会期も、社会を純粋に表現する数式が発見される。

5, この時代の末期には、社会論を工学にしたものが発展する。
 理性期の末期には、理性的なものがものとなって人々の生活を変えた。産業革命のことだ。機械工学が、実用化した。
 社会期の後半には、コンピューターが登場した。特に、インターネットは、人間どうしをつなぐもので、社会的だ。インターネットは、社会期の成果といえる。

6, この時代の次は、空間を課題とする。
 人類の思想区分は、理性→ 社会 → 空間である。次の課題は21世初頭に始まる。厳密には、2030年からだ。最初に、価値観の転換が起きる。それで、空間という尺度で、見直す運動がおきる。それは21世紀のルネッサンスとなる。

7, 人類の思想史と発達心理は相似する。
 人は、15-18歳で合理主義や理性に興味をもつ。18-20歳で社会に熱中する。21歳以後は建築や家、都市など空間的なものに関心がうつる。このテーマの変遷は、人類の関心と一致する。
 人類は、15-19世紀は、合理主義的なものを探求して、カント・ヘーゲルは理性を求めた。20世紀に入ると、社会改革、社会的な地位に関心を寄せた。
 このように、人類と個人の関心は似る。人間の1年が、人類の約100年に相当する。ここから、人類の未来のテーマは、個人の発達心理を明らかにすると、解明できる。それを人類の地図、という。

 以上
 これが、私の「20世紀の社会組織論」だ。この理論はあらゆる社会イデオロギーを統合する。

 私はこれを1992年の卒業論文で、原案を記した。今は 各部を補う。この理論の価値がわかるのは、当面は、ケン・ウィルバー他、数人だろう。

 これは社会思想を完成させる唯一無二の代物で、世界最高ランクだ。20-21世紀初頭の最も偉大な思想なのだが。世界に影響を与える思想が過去一つもなかった日本人が書き上げたのだ。日本も誇ってよいのかもよ。ここまで見抜けたら、世界の思想に通じている、といえる。

 昨日の宿題
 人は、25歳で絵画、写真に興味をもつ。これは25歳になったら、わかる。絵画を見たくなり、写真を撮りたくなるから。しかし、これは二次元的なもの。それまで三次元の空間を興味をもっていた。残る一次元にどこにいったのか?

 答え
 霊的なことに興味をもつ。見えない領域に、一次元の関心がゆく。これは自覚は弱い。だがも直感など、霊的なものに関心をもちはじめる。さて、これと同じことはね人類は25世紀頃におきるだろう。人類は次の次の段階で霊的なものに関心をもつのである。
 それはつまり、どういうことか? 人類は神と統合される、という意味となる。一次元的に。一次元とは、文や声などをさす。人類は直感的に神に従う。おそらく実際には、神の声を直に聞くシステムが開発され、それが社会全体にゆきわたり制度になる、ということをさす。神の直接統治がその頃に起きる、だろう。

 では、次の問題 私の研究では、発達心理論で精神次元を示せる。いわゆる菩薩の精神(仏教で用いられるものでもよい)は、いったいどの精神段階にあるか? 何歳までの発達心理のテーマを消化した人格か?
 これは、ケン・ウィルバーがとびつく理論だ。精神の向上(精神の基礎的な次元)はなんと若いうちに止まる、という衝撃の理論なのだから。年取ってからはけっして悟れない、という話。

 道徳教育法 政治教育
 週刊新潮の2015年2月19日号、「日教組」教研修会で発表された亡国の授業風景、という記事は衝撃。そこでは、日教組が半ば公然と政治教育をする実態が暴露されていた。安倍政治に反対するため、偏った内容(反原発、憲法、無抵抗平和主義)を叩き込むことに激烈な教師が紹介されている。

 政治教育は、公共教育で行なわれる。そこに偏りがあってはならない。日教組といえば、人権、個人の思想の自由のため道徳教育は否定している。その論理だと、特定の政治思想などはもっての他。彼らは、それら特定の思想を国が教えてはいけない<という。ならば、教師も同じく教えていけないはず。だが、日教組の教師だけは例外で、彼らの言う人権に反して、特定の政治思想を教えてもよいのだろうか?

 こういうゆがんだ社会教育がなされないようにするためには、それを国が禁じるしかない。しかし、学校で人々が見えないところで、そんなイデオロギー教育が行なわれる。その対処としては、正しく、公平、中立な政治教育を行なうしかないだろう。文部省はそういうカリュキュラムを用意しなくてはいけない。どうしよう?

 私は、国家の仕組みは、小学校5-6年に習った。普通選挙があって、議員が決まる。衆議院の議員から首相が選ばれる、と。選挙は秘密投票にされる、という。このように、首相は国民の代表である、と習う。

 国は、どんなことをして、国民のために働くか? それはあまり記憶にない。そういうことをよく教えなくてはいけないだろう。過去、首相が行ったことで、特筆するようなものは学ばせたい。
 歴代首相の功績を。意外と、どこそこの知事は何をしたか。そういうことは地元学習でよく学ぶ。だが、国の首相は、そういうことがない。ここはおかしいから、学ばせておく。これをしっかりさせないと、首相に何ができるか、どんなことをするか、具体的なイメージができない子供になる。

 次に憲法論を教える時の問題。憲法とは何か? これがインチキくさかった。国の法律で根本的なもの。「最高法規」という言い方が繰り返しされる。しかし、それがよくわからなかった。基本的なルールでよいだろう。

 憲法の精神というのがさらにひどかった。憲法の精神とは、何か? 基本的には、世俗にある理念や慣習・ルールを憲法は採り入れた。よって、その精神とは、個別の制度の理念をさす。私が教わった時には、憲法に書かれているから、理由はなく、それが最高という。何が最高かわからなかった。

 一つ一つは、誰かさんがある理由をもって考えたルールだ。そこを詳しく説明すべきだろう。どうして、誰がそのルールをどういう意図で憲法に採りいれたか。外国はどんなものがあるか。

 選挙もしっかり教えよう。低投票率も、選挙の意義をしっかり教えられなかった結果である。

 このように国の制度だけでも、丁寧にぬかりなく教えておく。すると、あまりに品位のない考え方や過激な思想は、否定されるから、子供はもたなくなる。これは過激派になる子供を減らす上でも、大切である。
 
本日の被害
 昨日は偽装のための頭痛攻撃だった。昨日、麻薬を室内にばらまく犯人の家を区画までつきとめた。多田神社の北西だった。ネットで嫌がらせをする"くず"の南100Mほど。前回の調査では、くずの西から西北30Mを調べたが、そこではなかった。そこを通ったら、中毒にしてきた。理由は不明。この犯人は、独善的な男だ。
 全国の共産が私にのろわれる。これを回避したくて、アカは、おとなしくなるのがふつうだ。が、このアカはそんな規律を守る、共産に迷惑をかけない、というふつうの人がもっている心がない。自己犠牲ができない最たる男だ。他人を巻き込んで犠牲にする、という。自己犠牲が足りない男だ。
コメント

社会イデオロギーの終焉10 各段階の説明 道徳教育法-博愛

2015-02-12 12:02:32 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 今日も軽い頭痛。昨日よりはまし。

「資本主義の終焉」はダニエル・ベル(イデオロギーの終焉)のばくり
 最近、本屋で目につく言葉。書店は、「格差」、「資本主義」などそんなキーワードの経済本が並ぶ。これらの本は単に、左派全共闘のブーム。それを読んでも、世界の真の流れは見えてこない。
 「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書)(水野和夫著)は、そんなブームにのっかった本だ。資本主義は終わらないのだが、それは彼の見識のなさだ。共産理論に惑わされたような発想だ。このタイトルは、ダニエル・ベル「イデオロギーの終焉」のぱくりだ。昔の流行したものなので、受けいれられやすい。
 しかし、終焉する資本主義もある。例えば、「里山資本主義」はすでに廃棄間近。薪で発電するのは企画倒れだ。事業としては一人分の賃金分の利益しか出なくて、赤字すれすれだったと思う。
 もう一つ終わりつつあるのは、中国の資本主義だ。何が終わるか? 共産政権のほうが20年以内に倒壊して、資本主義だけ残る。
 「ヤンキー資本主義」は長持ちするだろう。都会に出たくない人の地元志向の経済をそう名づけただけだから。
 チンケな資本主義と社会主義は終わっているが、本物の資本主義はつづく。

 社会イデオロギーの終焉10 各段階の説明
 昨日は、社会成長論で読み解く20世紀の社会事象を説明した。私は大事なことに気づいた。第五段階の集団制組織、第六段階の個人主義組織が、どういうものか説明不足だと。今日はそれをする。

期間(年)  段階 (理念)組織形態  思想・ブーム

1910-30   1 原初    共産ソ連誕生
1930-50   2 集権的   権力主義、日本軍部の台頭、ヒトラー
1950-70   3 分権的   民族主義、「自治」ブーム
1970-90   4 官僚     市民運動、官僚組織の神話、G7管理体制
1990-2010 5 集団(分社) EU誕生、地域主義、文明の衝突,
2010-2030 6 個人主義  インターネットで個人が認められ

 上の組織形態。わかりにくいかもしれない。が、1-4段階のは、経営学にあるから、それで十分だろう。

簡単に記す。
1,原初書の組織
 創業当時で、数人のグループが集まっている。命令系統も役割分担もあいまいな組織である。
2,集権的な組織
 成功すると、大きくなり、社員が増える。末端には特定の仕事をさせなくてはいけない。ただ小さいから、社長が全て命令できる。そんなトップダウンの組織だ。命令系統が統一されている。
3, 分権的な組織
 組織が大きくなりすぎて、社長は命令を全てできない。地域支店や、ある製品の製造などは、それぞれ独立して行なわせる。事業部制の組織である。
4, 官僚組織
 しかし、多くの事業が独立的に行なうと、全体の統制がとれなくなる。それで、金銭面や人事などは、特別に専門の組織をたちあげる。国家の官僚組織みたいなものとなる。官僚組織では、専門分野ごとに組織が作られ、それが組織全体を見張る。

ここからが新しい概念である。

5, 集団制組織
 これはコロボックルという藻のように、小さな組織に分割されて、それが大きな組織の中にある、というイメージだ。官僚組織では、認可が大変で、その手続きをとるために機能麻痺する。新しい問題に組織が対応できなくなる。それで、大きな組織を崩して、小さな組織が単独でできるようにする。分社化する、というイメージだ。
 これは現在の大企業では、流行している。企業はなんとかグループとなっている。その中に、たくさんの同じ企業の名前の違う会社がある。そういう組織形態をさす。
 これは国家組織では、資本主義という組織形態と同じだ。この組織形態は、中小企業 → 大企業 → 産業 → 国家 → 地域国家郡 → 文明圏 → 地球、と範囲を拡大して、自己組織化(その範囲でこの形態の組織を形成する)する。

6, 個人主義型組織
 集団制組織では、自分にそれが本当に向いているかわからない。それなのに、いったん加わるとその会社に長くいる。向いてない仕事をやらされる感が強くなる。そういう役割分担の危機、適性の危機が生じて、それでメンバーが抜け落ちる。個人は独立して、自由に活動するようになる。そのような集団制組織の危機のあと、誕生する。

 独立した個人は、コラボレーション型の組織で活躍する。会社内では、企画ごとに個人が集まる形態となる。そんな経営手法はある。またこの段階では、組織に属さない人が、企画ごとに参画するような制度が整う。インターネットで、そういうものはよくみかける。この段階では、企業内の人の動きよりも、企業外の個人の行動のほうが、注目されやすい。

 世界の現象としては、フェイスブックの台頭があげられる。それは個人の顔と人格を公にとりあげるシステムである。ブログやホームページなど個人の活動の場所も増える。個人を独立した一人の人間として、社会は扱うようになる。

 この段階では、個人の社会的な確立が起きる。そのため、2010-2013年頃の「自分探し」ブームが起きた。組織よりも個人が活躍することが多くなる時期である。個人主義的な組織の象徴として、今後、大企業に匹敵する力量をもつ個人が出てくるのではないだろうか。

 また自分の社会的な位置づけは日々、拡大する。家族という組織の中の自己、地域社会における自己、民族における自己、国家における自己、文明圏における自己、地球人としての自己。それらを体現したような現象が順次起きる。

 昨日の宿題? 空間の次は何を求めるか?
 それは25歳で絵画、写真に目覚める。二次元的なものに興味をもつ。30歳では音楽、文学など一次元的なものに興味をもつ。それが答えだ。わからなかった? 絵に感じ入るのは、25歳にならないと無理だ。これは不思議で、空間は3次元だ。それなのに、次の課題は絵など二次元のもの。課題が易しくなっている。では、残る一次元はどこにいったのか?

 もう一つ、空間期の初期(2030-50年)には、ルネッサンスが起きる
 時代の変わり目にはいつもルネッサンスが起きる。それまで、社会的な価値によって、あらゆるものが秩序づけられていた。貨幣のこと。値段の高いものは、よいものと思われていた。
 が、その時代は2030年で終わる。その後、空間的な価値でよいものと悪いものを区別してゆく。人類の価値観がそう変わる。何か? 感性に響くものがよいのだろう。質感、量感など。もしくは空間をよくするものに高い価値がつけられる。
 その時、新しい価値観で、万物をとらえなおす運動がはじまる。価値の見直しだ。それが、ルネッサンスなのである。

 道徳教育法  博愛
 博愛とは、広く愛すること。もっと簡単には、公正に、差別なく、誰でも人を愛すること。これは人権を守る側の人が、人を差別しないときの精神とよく似る。人権を教えても、身につかない時には博愛を教える。無理やり、社会制度通りに人を動かすには、無理がある。博愛を実行する気になると、自ら進んで、人に対して、公平に振舞う。人権の態度を補強するには、どうしても、博愛を強く教えなくてはいけない。

 役所の窓口で、差別しないようにするのは、博愛の精神が強くなくてはいけない。また奉仕ボランティアで、貧者に身を捧げるのも、博愛からくる。博愛をよく身につけさせると、何かと社会のために奉仕する人材になる。これは、捨てがたい。
 また博愛がないと、他人を平気で差別する。貧者に対して、意地悪をする。なぜなら、彼ら博愛の欠落者にとっては、愛する対象でもないし、特別大事な人でもないからだ。

 太陽のような誰でも照らす愛を行なう、とそれを受ける人は心地よい。しかも、その愛を行なう人は立派だ、と教える。博愛は人を慈しむ精神が強い人のみがやれる理想の境地とも。

 誰にでも公平に接するのは難しい。平等に接するのではない。人ごとに法を説くのが愛だから。公平・公正にだ。汚れた人、顔が醜い人、さっきまで犯罪をしていた者、さらには病人もいる。そんな人にいやな顔を一つせず、やさしくいたわる。心からそう相手のことを思う。そんな全員への揺らぐことのない愛はなかなかできない。訓練の賜物だ。

 しかし、少しでもそうなろと子供が決心してくれたら、よいことだ。立派な人になろうとしているのだから。人権社会では、特に、博愛の精神を人々がもってないと、人権侵害は必ず起きるから、よく教えること。

本日の被害
 飲み物は、全滅。牛乳に一番濃く、何か薬物が入っている。コーヒー、紅茶、茶は飲めない。今朝作ったスパゲティにも、具財と麺に、何か薬剤がついていた。しかも、軽い頭痛がある。目も刺された。アカは深夜、忍び込んで、私の部屋の前までは来れる。が、扉は内かぎをしているから入れない。扉の外側から、内視鏡を使って、私を刺すことになる。扉のどこを通すか。下だろう。きっと。上のほうは塞いだし。

 犯人の家は私はみな知っている。小唄を歌うのは、近所の基地である。そこから強い電波が届く。普段は、東の"待つ"場所にいる。
 私は一方的にやられはしない。彼らを呪っている。神も悪人を呪うので、呪うこと自体は、低い世界の話ではない。これがあるから、アカも私にひどいことはできない。もししたら? 全国の共産仲間がのろわれる。彼らは仲間うちから責められる。ウチゲバは彼らの論理だが・・・ そうやって犯行を抑制する。
 しかし、多田神社の北東のアカは、全国に迷惑をかけてもまったく平気とは。規律がなってない。
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イデオロギーの終焉9 人権・格差ブーム他 道徳教育法-公共心

2015-02-11 12:05:22 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 朝から軽い頭痛だ。共産に活動妨害された。共産と闘った公安刑事はよく本に記す。彼らのアジトに入ったら、担当警官の自宅の合鍵があった、と。家宅侵入はアカの常套手段なのだ。

 今月の保守系雑誌は、いい記事が多い。先月は不作だったが、立て直してきたようだ。「中央公論 2015年3月号」は、全共闘とは何だったのか? 『対談 佐々淳行×保坂正康』。そこで、全共闘が無能、無責任、逃げ足が早い、と本質をついている。昨日の投稿(全共闘無能論)はここからアイデアを得た。ただ佐々氏は、60年代全共闘は話が通じるというが、そこはおもてづらに騙されている。ウチゲバでのしあがってきた彼らの影をもっと強く意識すべきだ。犯罪者に話は通じない。また、共産党を批判するものが出てきているのがうれしい。選挙で倍増したから、さすがに警戒感をもたれたのだろう。

 イデオロギーの終焉9 人権・格差ブーム他 

 昨日は、社会統合論で社会現象を、分析した。読みづらかったかもしれない。

期間(年)  段階 (理念)組織形態  思想・ブーム

1910-30   1 原初    共産ソ連誕生
1930-50   2 集権的   権力主義、日本軍部の台頭、ヒトラー
1950-70   3 分権的   民族主義、「自治」ブーム
1970-90   4 官僚     市民運動、官僚組織の神話、G7管理体制
1990-2010 5 集団(分社) EU誕生、地域主義、文明の衝突,
2010-2030 6 個人主義  インターネットで個人が認められ

 この理論から導き出せるものについて

 人権は第六段階(2010-30年)に完成される
 人権とは国家が個人を保護する制度である。集団(企業)を保護するものではない。あくまでも、個人の安全と生活を保証する制度である。これに対応するのは、個人を単位とする社会組織形態を実現する第六段階である。この時期に、個人を保護するあらゆる制度が完成する。

 ベーシックインカムが成立する時期
 やっと、人権が完全に整う。先進国における人権は、自由の保障だけではなく、生活の保護もある。最低限の生活を国が保護する。それだけがまだ達成されていない。それが、完全に整うとは、貧困層の援助という支援制度ができること。それは家族として国が面倒を見るということではなく、個人を保証するという意味で、ベーシックインカムの成立を意味するだろう。

 格差論が注目される理由
 現在、この個人の生活レベルを対等化する流れがあるる。格差という視点で個人の生活を見直す風潮となっている。貧困層や下層など、非標準的な者達を解決する機運が高まる。格差問題が、ブームとなっている。個人を完全に保護する制度を現在、作る時期だからだ。

 格差論は現在、政治に利用されている。格差の解消を率先して解決しようとするのは、オバマであり、安倍である。ピケティがちょうど、この議論を盛り上げたことを好機とする。彼らトップリーダーは格差解消が重要な政治課題(社会問題)であり、それは今解決する問題だと考えたようだ。

 共産国は2030年までに滅ぶ
 ゆがんだ社会イデオロギーによって成立して、それによって統制を維持できているのが中共、北、ベトナム、キューバなどである。社会イデオロギーは2030年は効力をもたない。人々をしめつける力とはならない。ユートピア論など誰も見向きもしなくなる。偽りのユートピアならなおさらだ。それらは2030年までに崩壊するだろう。これは、社会成長論の予言である。

 社会主義は、第2-4段階である
 5段階の集団制組織になると、分社化がはじまる。大企業は内部で、多くのグループに分割される。それは国家の中に、多くの国内企業を抱える資本主義と同じ組織形態である。
 社会主義とは、企業の自由活動を禁じる体制である。単一組織(独裁)なのだ。集権的な組織が単一だとは理解できるだろう。分権的な組織とは事業部制組織で、権限を委譲しただけで、末端を独立はさせてないから、単一組織だ。官僚組織は単一組織である。第2-4段階の集権、分権、官僚的な組織は、どれも一つの社会組織だ。つまり、小グループの自由な活動は許可されてない。よって、2-4段階は社会主義的な組織形態といえる。

 勘違いしてはならないことはある。社会主義は、配給を国が統括するという理解ではいけないことだ。それは一面だ。社会主義の本質は、他の社会グループ(企業)の活動を認めないことにある。そうやって社会を統制することが、社会主義なのだ。

 ついでに、資本主義が終わる、というのは再び、社会主義に戻る、という考え違いだ。これは後退も甚だしいからありえない。資本主義のまま、人類は新たなテーマを獲得する、というのが正しい。配給という面で考えるから、こんな単純な間違いを犯す。社会主義とは一つの組織形態だ、とその本質に立ち返って考えてみるべきである。

 資本主義と社会主義が対立するのは、そういう理由からだ。分配がどうのこうのは、副次的な面だ。社会主義の制度そのものではない。

 社会主義国家は、集権的、分権的、官僚的な組織作りを課題とする時期は、人類が求める制度を提供できるから、おおきな反発は起きなかった。が、1990年から集団的な体制になるように組織改革の機運が高まり、資本主義体制になれ、という人民の要求が強まるから、それには抵抗しきれなくて、ついにソ連などはつぶれた、といえる。1990年に共産政権が崩壊したのは、社会体制の進化の必然なのだ。

 中国人は、社会主義などもっけから信じてなく、商売人気質が強いため、資本主義を導入して、危機を乗り切った。ソ連は、独裁をやめて、民主化して、資本主義体制にチェンジした。

 社会成長論から導きだせる20世紀の諸社会現象の理由であった。

 おまけ
 では、人類は理性(合理主義)→社会→空間、と探求したら、次は何を求めるか? わかる人はいるだろうか。
 ヒントは、発達心理と思想史は相似する、ということだ。人間の一年は、人類の約百年となる。ほら、思い出そう。建築や都市に興味をもった後、君達は何に関心をもっただろうか? それが答えだ。それは何世紀頃だろうか?

 社会 → 空間 → ? → ? → ?

 道徳教育法 国家について正しく教える
 国は、人々を守り、外国の侵入からも守り、生活をよくするために、橋や道路を作り、警察が悪いものを捕まえてくれる。しかし、日教組は、そんな国の本来の役割を正しく教えることはしない。
 国のやることなすこと、反対せよ。国は何かと人権を侵害しようと企み、悪いから闘え、と正反対のことを教える。これでは、素直で良い子供は育たない。そんな子供は、繰り返し、国は悪だと左派マスメディアがいうものだから、国のおかげで、医療費や薬代が安くすむことや 日本が何かと便利だということは、大人になったら忘れてしまい、国は悪者だと思い込む。頭の悪い子供はすぐにそんな唯物史観に騙されて倒錯した国家観をもつ。これではいけない。

 西行は多くの人々を救おうと決意した。日照りと飢えから人々を救うために、各地にため池を作った。実にいい話だ。だが、何度も洪水を起こす淀川の堤防を改修するのは日本国だが、多くの市民は国に感謝しない。どこかおかしい。どちらも、人々の苦しみを和らげるための社会事業だ。それらには、恩義を感じなくてはいけないだろう。

 国のおかげで、生活が楽になったことは多々ある。きれいな道路がたくさんある。でこぼこはすぐに補修してくれる。堤防があるから、洪水になかなかならない。大雨土砂災害では、すぐにレスキュー隊がくる。病気になったら、救急車がかけつける。学校はできて、格安で教えてもらっている。先生は国が雇っているから、授業料はそんなに高くない。

 税金はそんなことに使われている。税金は自分の金だから、使い道を監視しよう、とあまり威張れる立場ではない。本来、自分達で、町を守らなくてはいけない。それを国に任せている。だからありがたいのだ。本来、自分達で老人を守らなくてはいけない。それができないし、そんな時間もない。そんな仕事をしたくない人は、誰かにそれを依頼する。国に頼んでいる。税金を払う側が、オーナー気分で、あまりに高飛車になってはいけない。それら公共事業を行なう人には、依頼しているわけだから、感謝しなくてはいけない。

 修身の教科書は、そんな公教育は、しっかりと教えられてた。国家の公共事業の意義は、子供にわかりやすく説明していた。そういうところは参考にしてよい。

 国の役割を正しく理解して、それについて感謝すべきである、と教えよう。国は役立たずではない。国は国民の生活向上や国民を守ることを第一に仕事をしている。国は、すぐに悪さをするところではない。いつでも、国民の生活をよくするために働いている。

本日の被害
 朝から強い頭痛で、午前10時まで寝込む。前頭部に強い痛みがある。そこに針刺し、きんぽうげ毒を注入されたようだ。左腕も同じ痛みがある。

 これはアカの犯行のせい。ストーカーによる毒被害。きんぽうげ毒だ。それを頭に注入された症状。私は20年被害を受けているから、どうされたかは、たちどころにわかる。裏ネットは読まなくても。川西多田に、共産のくずを名乗る連中がいるが、その仲間。昨日、暗い成人おたくを見た。共産の子は、おたく顔であんなに黒い時代遅れの服を着て、みすぼらしい。なぜここの田舎アカの息子はおたくの暗さを装えるのか、不思議だ。流行を感じさせない。昨日、多田の大店で私の隣に座ってきた。さすがに薄気味悪くて、逃げたよ。その後、同じように暗いのが百円ショップの入り口あたりまで追いかけてきたのも、やっぱり薄気味悪いし。二人とも死相が出ているし、それが犯人だろう。世の中、無駄に生きている嫌われ者はいる。

 さて、頭痛だが、共産主義を批判する時になると、強くなる。これは電波によって症状が強められる。犯人は、共産関係者だと、推測できる。
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社会思想の終焉8 社会成長論から読み解く 道徳教育法-地球人を育てる

2015-02-10 12:03:43 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 鈍い。判断力が低下しているのが痛い。

 『イデオロギーの終焉』はダニエル・ベルの書物。大学のゼミで読まされた。一時的な社会思想ブームが去ったからと、1960-70年頃にもう社会イデオロギーは影響力をもたない、と唱えた人物。何もわかってない思想家と思っていた。社会イデオロギーは今も活力をもつ。イデオロギーという思想は、経営学の方面で開花した。それが世界の構造変化をひっぱった。同じ言葉を今、私が使っていたのは驚き。

 私の理論は、ケン・ウィルバーはすぐに理解しても、他は価値がわからない、と思う。そもそも社会組織論が、どれほどすごい理論かがわからない。それを現代史に適用することが、いかにすばらしい発想か。気づける人はわずかだ。


 社会イデオロギー終焉

 昨日、20世紀の思想を、私の社会組織成長理論で、分類した。
 
期間(年)  段階 (理念)組織形態  思想・ブーム

1910-30   1 原初    共産ソ連誕生
1930-50   2 集権的   権力主義、日本軍部の台頭、ヒトラー
1950-70   3 分権的   民族主義、「自治」ブーム
1970-90   4 官僚     市民運動、官僚組織の神話、G7管理体制
1990-2010 5 集団(分社) EU誕生、地域主義、文明の衝突,
2010-2030 6 個人主義  インターネットで個人が認められ

ざっとこうだ。これを使っていくつかの社会事象を読み解ける

ベルリンの壁が1989年に崩壊した理由
 1970-90年が官僚の段階だ。次は、集団的な組織になる。集団的な組織形態は、分社化(資本主義化のような)で達成される。その間、国家は官僚制度が弱まり、企業が力をもつ。イメージとしては、コロボックルという藻のよう。丸い藻の中に多数の丸い藻がある。それが資本主義社会のモデルである。

 当時、ソ連は官僚組織の弊害をそのまま抱えていた。末端まで管理できなかった。それで、機能不全に陥った。それで、東欧からの西欧への集団逃亡を誰も食い止めることはできなかった。1990年には官僚制の危機が最大になる。それを乗り越えられなかったと思える。

全共闘が1965-1972年で終わった理由
 全共闘が『大学の自治』を要求したのは、1950年からはじまる民族主義の真似事である。当時は、権力を国家からおろすこと、権限委譲が流行していた。大学にもそういう自治を、と。

 60年代はまだ戦前の教育を受けた左翼の闘争だから、まだ道徳をわきまえていた。が、戦後世代が主軸となる70年代になると、人を人と思わない人格欠陥者が増えた。自治ブームは1970年に終わる。それ以後は、彼らは共感されなくなる。

 70年からは市民運動の時代だ。専門家が台頭する。自治ブームは去り、その魅力はなくなり、普通の学生は参加しなくなる。革命闘争の専門家がそれで残された。そして、専門分化して、過激派となり、浅間山荘事件を起こして、一気に消えた。全共闘は、自治闘争だったものが、共産過激闘争へと変化したのである。

全共闘が無責任で、才能がなく、逃げ足が早いのは?
 1970年に無能な学生が登場するのは世界共通である。アメリカではヒッピーが退廃的な生活をはじめた。日本では、全共闘が無責任に暴れた。アメリカは自由主義的な面を反映して、のどかだった。が、日本は共産の暴力的な面が入りこんだために、激しく粗暴だった。

 全共闘の無責任さは、民主党が政治家になってから、はっきりとした。誰も責任をとらないで、逃げ足だけは早い。ヒッピーは、ただ世界に平和を、と叫び、コカインと自堕落な生活にはまった。共に長く続かなく、消えた。

 なぜ1970年にそんな無能者が流行したのだろうか? 1970-90年に起きたことで説明できる。この期間、専門家が何もかも解決できる、と思われたのだ。そしてこの段階の末期、1990年には人間は何かの専門家となって働くべき、何かの専門家である、という空気が充満していた。

 この段階は、専門的な才能を醸成する期間だった、といえる。その最初の1970年ころは、無能から始まるわけだ。はじめから才能があるのはおかしい。そして、やがて才能を高めて、末期のほうでは、全員が専門家であらねばならない、という空気となった。
 全共闘が無能なのは、そういう専門家の活躍する時代、その初期に期待された人格スタイル。その反映なのである。

 文明の衝突が消えたのは?
 2000年を過ぎると、アジアと西洋の対決、さらにはイスラムと西洋の対決が真剣に語られた。が、2010年を過ぎると、アラブの春や、ギリシアの崩壊、さらに民族主義が台頭しだす。文明の衝突は、発生もしないで、消えた。

 しかし、それは当然である。なぜなら、理論上は、世界は統一文化圏を2009年に達成したからだ。

 1990-2010年まで地域主義では、まず小さなものから始まる。当時、日本周辺でもいろんな地域の経済圏を確立することが夢だった。日本海経済圏など。

 それが時間と共に、より広域の経済圏を作ることがブームとなる。EUやアジア経済圏、東南アジアのそれなど。そして、文化ごとの大きな経済圏が現れた頃に、経済圏同士が対峙する、と思われた。

 しかし、実際には911くらいしかなかった。それで、戦争というほどの対決は発生しないで、次の課題に進んだために、文明の衝突は消えたように思われた。今後、それは起きない。なぜなら、もう地域主義の闘いの期間は過ぎたからだ。

 地域圏の規模
 1990年    1993年EU誕生   2001年911,    2010年
 村→町→県→複数県→国家→地域エリア→地域文化圏→6大文明圏→南北→世界

 他にもいろいろ世界の流れを説明しえる。それがその年に起きた理由を理論的に説明できる。上の表は実に役立つ。

 なぜ民族主義が、現在起きるのか?
 1950年の民族主義は、民族自決という自治の要求だった。それは、この理論からもいえる。現在の民族主義は、何だろうか? アイデンテティの確立という面はあたっている。個人としての自己の内面の整備は個人主義という段階における個の確立という課題になるからだ。

 現在のは、日本民族としてのアイデンテティを、外国の国家・文化面をとっぱらってとらえたい、という探求の表れである。この民族主義は数年で終わる。年とともに対象範囲は広がるからだ。

 今は民族国家意識を再形成している。その次は、地域国家におけるアイデンテティを模索する。その時、日本と韓国、台湾、中国は中華圏としての自己を理解する。そうなると、西欧の要素は排除するとしても、中華的なものは歓迎される。

 それを超えると、もっと大きなアイデンテティ、大アジア主義か、先進国としてのそれを求めるだろう。そして、最終的には地球人としての自覚が生じる。このように、意識は日々グローバル化して、広がっている。

 意識は拡大する。いつまでも民族主義にとどまりはしない。そんな論争はナンセンスである。

 道徳教育法  地球人の育て方
 世界はグローバル化している。地球人としてのわきまえを教えてなくはいけない。それには何を教えるべきだろうか?
 1, 民主主義と自由
2, 地球の生い立ちと危険 隕石落下、超新星爆発、フレア、宇宙、銀河系
3, 地球上の鉱物や組成 マントル・核、大陸移動、地殻、鉱物
4, 地球上の動植物  生物の誕生から現在まで、現在の動植物、レッドリスト
5, 人間という種族について 人間が生物としての位置づけ
6, 人間の大雑把な歴史 おおまかな歴史
7, 社会1, 世界の国々と文明
8, 社会2, 食料問題
9, 社会3, 資源問題
10,社会4, 公害
11,社会5, 発展途上国と先進国
12,社会6, 世界の戦争と原因
13,社会7, 難民
14,社会8, 世界の病気
15,社会9, 科学技術 遺伝子、工学
16,社会10,交通手段 道路、自転車、バイク、車、飛行機、ロケット
17, 社会11, お金
18, 社会12, 各地の民族 全4-6回

 ざっと思いつくまままにこんなにある。大人は一年に一度はこんな書物を読むべきである。毎年、世界情勢は変わっている。子供はこのために専門の科目を設置したほうがよいかもしれない。中学生以上が対象となる。範囲が広くなるから軽く、表面をなぞる程度でよい。まったく知らないよりは、知っているほうがよい。水をまくと、いずれ大きく開花する。
 日本では特にこれらを教えたい。世界を知ると、内に閉じこもる子供は減るだろう。ひきこもりが減る。


本日の被害
 薬物が、自宅の全食べ物に混入している。コーヒー、紅茶、お茶は飲めない。私の飲み物だけでなく、食べ物も。多田の世間知らずは、まだ続けるようだ。彼らを党は処分を検討している。
 朝食はとらなくてはいけないため、軽い酩酊状態のよう。頭が働かない。薬物の軽い軽い症状だ。アカは倍きついはず。
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社会思想の終焉7 社会思想の統合論(試案) 

2015-02-09 12:06:34 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 気分は冴えない。理由は下に。それでもがんばろう。これは、世界の歴史に残る文書だ。読めた人は幸運だ。日本人がここまで考えていたとは思わなかっただろう?


 社会イデオロギー終焉 社会統合理論(試案)
 「終焉」ブームだから、そう書いたが、実際は「社会思想の完成」が、適切。昨日は、20-21世紀初頭の社会思想を体系化する理論を示した。「社会成長論」。思想だから、仮説を入れている。が、学会で認められる時には、実証して、詳細に根拠づけなくてはいけない。それは当面先だろう。

 私の提案する社会成長理論は、6段階ある。各段階は、独自の組織形態を発展させる。その時々、改革を主導する理念はあり、リーダーとしてもてはやされる人格はある。それらを一覧表にしてみた。それぞれ末期に起きる「危機」は次段階の理念でもある。

段階 理念 リーダー    組織形態      危機 

1 創造性    創造性      原初    リーダーシップ
2 指揮系統  命令・一人    集権的   自主性の
3 権限委譲 自主独立、自立   分権的   コントロールの
4 調整     専門家      官僚     形式主義の
5 協働   多能化、ジェネラリスト 集団(分社) 適性の  
6 適性    独立した個人   個人主義

 (大野の改良理論)

 新しいポイントをみておく。官僚組織では財政、経理など専門組織が発生する。その段階で必要とされるのは専門家である。誰もが専門家になろうと努める。が、次に段階に進むと、分社化すると、一分野の専門だけでなく、ジェネラリスト(多能工)としての役割を期待される。個人主義では、例えば、インターネットでは、一人がなんでも行なう。経理から法律、交渉、営業まで。それで一人一人が資本家(経営者)としてあらねばならない。

 個人主義の段階で、共同で仕事をする時は、自立した者がコラボレーションをするという形となる。その組織は、そのつど集まり、終わるとばらばらになる。個人は組織に縛られない。

 この理論に、20-21世紀の社会事象をあてはめる。

 まずは、20世紀初頭の話
 社会学という本では、20世紀初頭に、様々なグループが発生したという。軍人会、遺族会、テニス愛好会、なんとかの会などなど。19世紀にはそんなものはなかった、という。20世紀の後半の今では、グループはいくらでもある。が、20世紀に入るまでそんなものはあまりなかった、という。ここから、20世紀になって、人々は社会グループを形成することが、できるようになった、といえる。

 「社会イデオロギーの時代」は、社会思想に人々が関心をもつだけでなく、実際に、各段階の社会組織が登場して、世界がそういう組織形態(世界の構造)になる。

 社会思想の時代の基点?
 よって、社会思想の時代に入ったのは、1880-1920年までの間と推定できる。これは別の方法で特定できる。

 権力主義の時代1930-1945年
 ヒトラーが独裁政権を握り、イタリアのムッソリーニ、日本でも軍部が拡大した。この時期、なぜこうも権力者に人々は熱中したのか? 従ったのか? 上の理論ではうまく説明できる。

 というのは、当時は、2段階目の集権制の時代だ。その段階では、リーダーの命令に従いやすい。それまでバラバラだった命令系統を統一することが、社会を発展させる。そのため、そんな権力志向の風潮がある。当時は、植民地の宗主国が絶対権力を握っていた。集権的だった。

 民族主義の勃興 1950-1970年
 大戦が終わると、植民地はあいついで独立した。世界各地で民族国家が誕生した。これは、時代の流れである。もう権力をもち世界を統一する野望は、社会的な力をもたない。

 この時期、植民地体制は、各民族が独立して、つぶれた。それは権限が委譲されたともいえる。もちろん独立後も、宗主国との関係は続く。この当時は、「自立」・「自治」という言葉がはやった。国家がもつ権力を我々によこして、自治をさせろ、と。権力は委譲され、財閥も解体された。この期間は世界各地で国家の自治が生じて、国家内では自治ブームだった。第3段階の分権制組織の形成期と同じだ。

 1970年以後は官僚的
 市民運動が始まったのは1970年からだ。市民が何かを要求するようになった。例えば、人権や汚染など。彼らが要求するのは、「自治・自立」ではないことが重要だ。統治権を要求する時代ではなくなった。権限委譲の流れは終わった。市民運動は、それ以外の何か専門的なことを訴える。

 1974年のベトナムの独立運動は、民族主義とはほど遠かった。もし民族主義なら、民族を反映させる自由国家になるべきだ。が、そうではなく、イデオロギーを主体とする国家となった。共産主義で民族的なものはかなり破壊された。1970年代以降、民族主義は終わっていた。

 この頃に、ソ連の官僚組織はさらに強くなる。この頃、官僚組織ほど合理的なものはないと思われていた。官僚組織の神話があった。

 またAPECという石油専門の国家グループも誕生した。世界はG7という寡頭体制を敷いた。国家独立が世界の発展につながる時代ではなくなった。集団でそれぞれの専門分野をもちより、世界を支配する体制となった。世界全体が官僚的に統治された。

 1990年からは、地域主義
 1990年すぎに巨大なソ連は崩壊した。官僚体制が通じなくなったのだ。それは世界の潮流だ。それまでG7やG8が世界の動向を決めていた。が、その影響力は衰えた。1992年からはEUが誕生したように、地域主義がブームとなる。
 地域主義とは、地域が集まり、活力を高めようとする流れだ。ヨーロッパだけでなく、アジア経済圏、アメリカの経済圏(南北二つ)が構想された。そして、地域ごとに経済圏が強められたところもある。
 地域主義は、しだいに大きな枠組みになり、「文明の衝突」が懸念された。世界はアジア主義と西欧とイスラムの三つの争いになり、東西が闘うと思われた時期もあった。が、その心配はいつのまにか消えた。

 2010年頃からは、地域主義にかげりがみえた
 EUでギリシアやスペインが財政破綻しかけ、EU経済圏が崩壊の危機にさらされている。国家を地域ごとに集め、その集積効果で、経済が発展するという時代ではなくなった。現在は、別の力学が働いているようだ。
 インターネットの発展はそれでも好調で、個人同士がつながる商売は、一時的にブームになっている。

 ざっとおおまかに以上の流れをまとめる。

 各段階の期間
 一つの流れが勢いをもつのは、約20年である。1950年は民族主義の始まりである。1970年は転機である。市民運動が始まった。また1990年頃も冷戦の終結で転機である。20年ごとに世界の潮流が変わっている。各段階は約20年である。

 各段階の時期
 期間はおよそ20年とわかった。そして、官僚主義が始まるのを1970年とする。終わったのが巨大な官僚組織ソ連が終わりつつあった約1990-92年だ。1990-92年から地域主義が始まったから、集団主義はその頃に始まったとする。

 これらをすべての段階にあてはめると、こうなる。

段階 組織形態 期間(年)  思想・ブーム

1 原初    1910-30     共産ソ連誕生
2 集権的   1930-50    権力主義、日本軍部の台頭、ヒトラー
3 分権的    1950-70   民族主義、「自治」ブーム
4 官僚     1970-90   市民運動、官僚組織の神話、G7管理体制
5 集団(分社) 1990-2010  EU誕生、地域主義、文明の衝突,
6 個人主義   2010-2030  インターネットで個人が認められ、

 どうだろうか。よく20世紀の潮流を分類できている。しかも、それぞれの構造化(組織化)についての根拠を与えている。この表からは、社会思想の時代がいつ終わるのかを予想できる。2030年である。2年ほどの誤差があるから、2032年かもしれないが、その頃に、社会改革をする機運は衰える。そして、空間を改良する新時代が始まる。

私は、これこそが、20世紀の社会思想を統合する理論と確信する。

 えっ。難しくて長い? 20世紀の思想をまとめるくらいだから、それぞれ記すだけでも、たいへんだから。

 道徳教育法 
 時間がなくて、遠慮する。


本日の被害
 茶葉、コーヒー、紅茶の汚染(薬物の混入)が著しい。牛乳もだ。これは悪質だ。飲み物が全部、麻薬類で汚染されている。これは集めて、おこう。いつか警察に提出しようかな。それがいい。アカのやり口がよくわかる。保存用のものを買ってこよう。
 洗濯物だけでなく、着るためにとっている服も、同じ薬物で汚されている。洗濯物は洗えば落ちるけど。
 食べ物は捨てるのはもったいないから、きれいになるのを待つ。捨てたときは、賠償金が高くつく。
 これは、大阪でも使われていたもので、摂取すると、軽いアルコール摂取と似る。どんよりする。また手のひらが温かくなる。アカが同じ症状に陥っているのを見た。周囲への反応しにくくなり、内向的になる。麻薬の一種だと思う。
 こんな覚せい剤のようなものを飲まされたら、誰も眠れないよ。犯人は、川西多田のアカなのは確かで、多田神社の北西方面の高台と思うのだけど。こういうのは組織犯罪の一員としては失格だな。こんなに迷惑かけて平気なやつは除名(党籍剥奪)でいいんじゃない?
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社会思想の終焉6 社会思想の統合 その理論とは?

2015-02-07 12:06:48 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 ユーチューブで海外のレシピを見るのは、面白い。日本食しか作れない私の発想にないものが多々ある。

 ブログで新しい社会論を訴えるのは、他にあるけど、専門用語ばかりで、意味不明。ここはわかりやすくしたい。

ここの理論は、世界の先端だ。次世代のスタンダードがここにある。見抜けたらなかなかの通だ。これは日本人がはじめて世界の思想を書き上げた、という空前の代物だ。

 社会イデオロギーの終焉6 社会思想の統合 その理論とは?

 昨日は、発達心理論から人類の次のテーマ「空間」を導きだした。思想区分は 理性 → 社会 → 空間 となる。

 しかし、2015年現在、まだまだ社会の改良が必要だ。空間を改良して、世界をよくしよう、という運動は強くない。また新しい思想が登場するには、前の段階(現段階)の思想を完成させる必要がある。そういうものなしに、中途半端に次の段階に進むことはない。では、社会思想を完成させる理論は、どんなものだろうか?

 共産主義者はすぐに間違える。資本主義が終わると、社会主義になる、と。が、地球上の全国家が社会主義国家になると、それで社会期の課題を解決したことにはならない。それは1992年に滅ぶ考え方だ。

 社会主義の後に、資本主義を導入して、進化を継続した。それが答えの一部だ。しかし、それは全体を現す理論ではない。単純な誤りを多数含むインチキ理論(共産主義のこと)では、社会思想をとうてい統合できない。

 社会思想の統合理論の条件
 まず、それは1,あらゆる社会組織を分類できる理論である。資本主義、社会主義、官僚主義、QCサークル、個人主義組織、集団体制などなど。次に、2,適切に分類していることが大切だ。ただ羅列したものではない。ポートフォリオのようにあいまいに分類するものではない。そして、理性期には、カントから理性そのものを純粋に探求した。それは3,「社会」そのものを純粋に研究した成果でなければならない。

1,あらゆる社会組織を分類できる理論
2,適切な分類
3,「社会」そのものを純粋に研究した成果

では、それは何だろう?
 もうおよそ見当がついただろう。「社会」を純粋に研究したのは、社会学(経営学、経済学、社会学)だ。そこで社会を純粋に研究する学問では、「社会」を「社会組織」という専門用語で呼ぶ。そこで、あらゆる組織を扱うのは経営学の一分野、「組織形態論」である。そこで、組織を時間軸という指標で扱うのは、「社会組織成長論」である。それは多くの組織を分類する。社会思想を完成させるのは、「組織成長理論」かもしれない。あっという間に、たどりついてしまった。

 組織成長論とは?
 いくつかあるが、ラリー・グレイナー(Larry Grainer) が1972年に発表した「組織ライフサイクル理論」が最もできがいい。それは企業の成長には五段階ある、とする。

 段階 成長要因    危機           組織形態

第1段階 創造性による成長 リーダーシップの危機  原初組織
第2段階 指揮による成長 自主性の危機       集権的な組織
第3段階 権限委譲による成長 コントロールの危機  分権的な組織
第4段階 調整による成長 形式主義の危機      官僚組織
第5段階 協働による成長 新たな危機        集団制組織
(グレイナーの理論より )

各段階の組織形態を右に記す。

第一段階は、創業者が会社を作る。部下も少なく、規則もない。が、数人が共同で作った会社なので、誰が社長かはっきりしないから、分裂しやすい。

第二段階は、それを克服すると、誰が社長か決めて、命令系統をしっかりさせる。これが指揮による成長だ。組織が大きくなっても、社長が細部まで命令しなくてはいけない。が、それができないために、末端が動かなくなる。それが自主性の危機。これは社長の命令が絶対で、自主的に行動してはいけないからだ。会社の命令しか実行しない社員がいると、会社はつぶれる。

第三段階は、トップ一人が権限を握っていては、巨大組織が動かないから、権限を委譲する。それで、事業部制などになる。多くの部署が自主的に活動して、指令も適切になり、安定してくる。しかし、あまりに権限委譲すると、今度は末端が勝手に行動するようになって、管理不能となる。

第四段階は、そこで全社を管理する調整専門の組織を採り入れる。人事は人事のみ、経理は経理のみ、分野ごとに組織を作る、というイメージだ。それはトップとつながっている。この段階で、巨大な官僚組織となる。すると、何をするにも、いくつかの専門部署の判断を仰がなくてはいけなくなり、手続きがたいへんとなる。組織は硬直する。そして、巨大官僚組織はあっという間にゆきづまる。

第五段階は、その反省から、トップがかつてもっていたような権限まで、末端に委譲する。会社を自由に作り、自主的に全部やりなさい、とする。分社のイメージだ。会社の中に、プロジェクトチーム(QCサークルのようなグループ)を作らせて自由にやらせる。このように社内に小さな組織を多数たちあげる。それで、大きな会社の中に、小さな会社が多数ある、というような組織形態となる。

グレーナーは1970年代に発表したから、第五段階まで詳しく論じられなかった。今では、このくらいは解き明かせる。

 組織成長理論で、あらゆる組織を時間で分類できた。これが社会思想の統合理論である。

 どうして社会思想を統合しているか、わからない?

 資本主義や社会主義は書かれてない?
 上の理論は企業を扱っている。が、社会組織の一般論だから、企業だけでなく、社会組織全体、つまり、国や地方自治体、学校、宗教団体も同じように分析できる。資本主義は、国の中に小さな企業が多数活動している形態。つまり、五段階目の「小集団的な組織」である。
 社会主義は、個人と企業の権限を奪うことで、国家による統制を達成する。つまり、社内で起業を許可しない第2段階から第4段階までの組織形態である。ソ連が鉄の官僚組織(4段階)を作り上げ、崩壊したことを思い出そう。レーニンが完全な独裁体制(集権組織)を築いた。
 みえてきただろう。社会主義は2-4段階の全体主義組織をさす。社会主義は官僚組織以上には発展できない。そして分解する。資本主義は集団を単位とする組織形態で、5段階以降の大きな社会内に小さなグループをもつ構造をさす。段階的にも、資本主義のほうが優れている。

 社会主義の次の段階は資本主義である
 よって、中国が官僚体制(4段階)となり、その崩壊の危機を回避するために、資本主義(5段階の組織構造)を導入したことは、組織成長理論でも、理に適う。そうするか、ソ連のように官僚組織=共産主義体制をつぶし、民主化して企業活動の自由(5段階の組織)を採り入れるかしなかったからだ。そうしないと、5段階めの組織形態へ移行できなかったのだから。

 組織成長理論では、社会主義は資本主義に劣るのである。資本主義は社会主義より進んだ組織形態であり、思想なのだ。

 では、第5段階(資本主義形態・集団制組織)が最終形態か?
 それは違う。個人主義的な組織がまだある。それは、上に示されていない。私は、第6段階に個人主義的な組織がくる、と考える。確か、グレイナーも集団活動は、メンバー間の軋轢が生じて、危機に陥る、とその後の論文に書いていたはずだ。それを回避するために、集団的な組織から、メンバーが抜け落ちる。それで個人による自由な活動が始まる、と思える。

 第六段階 個人の適性による成長 個人主義的な組織

 集団単位の組織では、メンバーがいつも同じだった。が、個人主義的なものになると、個人は自由にどの集団に属するか、自ら決めることができる。プロジェクトを作るたびに、人々は集まり、それを達成すると、解散する。そういうことを繰り返す。個人の適性によって、組織が作られてゆく。この段階では一人一人が、資本家であり、経営者である。つまり、全員が経営者のように社会的技能をマスターした上で成り立つ。

 インターネットで、個人によるビジネスが増えつつある。そして、個人どうしが集まり、新しいプロジェクトを行なうものもの容易になっている。おそらく、これ以上、組織は細分化できないから、これが最終形態だろう。

第1段階 創造性による成長 リーダーシップの危機  原初組織
第2段階 指揮による成長 自主性の危機       集権的な組織
第3段階 権限委譲による成長 コントロールの危機  分権組織
第4段階 調整による成長 形式主義の危機      官僚組織
第5段階 協働による成長 新たな危機        集団単位の組織
第6段階 適性による成長              個人主義的な組織
 (大野の改良理論)

 これが組織成長理論の完成版である。

 この理論はあらゆる組織を網羅するとても強力な理論である。当然、既存の社会思想も、位置づけることができる。

 これはまず社会主義は行き詰まり、崩壊することを明らかにした。資本主義の優位性も明白に示した。さらには、資本主義と社会主義以外にも、1940年代の独裁国家、1990年の地域主義、1950年の民族主義、2010年の地域主義。それらも、分類できる。それはまた今度にしよう。


 話が難解だろう? こういう専門的な話は経営学をやってないと、慣れない。理性期の最高の哲学が超難解ヘーゲルだった。社会期の統合理論=集大成がそんなに生易しいものではない。こんなものと思ってほしい。

 道徳教育法 
 今日は時間がないからなし。


本日の被害
 昨夜から、よく小を出す。電波で、もよおしたくなるように、刺激されている。また睡眠中の針刺し、注入は続く。口中は、よく刺された箇所から血が出ている。毎日。
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社会イデオロギーの終焉5 発達心理とは? 道徳教育法-正義とは

2015-02-06 12:17:19 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 最近、話が難解? まだ初歩なのだけど・・・

 私は基本的に、思想を記すのが一番似合う。私の文には、社会論と精神論はある。霊能者でもある。地震予知もする。どこかの宗教家? と勘ぐるだろう。しかし、ここは基本的に、私オリジナルの理論だ。私は思想家だ。
 
 現在、思想=理論だ。一昔前は、なんでも言葉で説明した。まるで、数学を言葉で説明するよう。構造主義は特にそう。理論モデルを言葉で的確に説明できない。読むのもわずらわしい。それが現代思想。私以後は、思想はきっちりと理論モデルで表現されるだろう。それもできないのは小者だ。

社会イデオロギーの終焉5 発達心理学で人類の次の課題を決めてよいのか?

 昨日のおさらい。私は人類の思想区分を、理性→社会→空間、と明らかにした。人類はもうすぐ、社会イデオロギーの時代を終えて、空間改革へと向かう。根拠は発達心理。

人類の次段階のテーマを発達心理学で決めてもよいのか?
 それはよい。なぜなら、他にみつける方法がないからだ。しかし、私の提案する発達心理は、何か知らないだろう。今日はそれを説明する。

 現状、発達心理学は幼児期の心理・課題をよく明らかにする。が、青年期以後は、大人・社会人になるとか、最近は青年期が伸びたとか、古いものではリビドーという性的衝動に支配されるとか、とても学問とは思えない未完成品だ。青年期も大人の時期も、ほとんど解明されてない。生涯学習などある。が、あれは理論とはとうていいえない代物だ。

 私はその青年期の課題を独自に研究して、自分の体験から明らかにした。15-18に理性や知性に目覚める。18歳から社会を探求する。21歳頃からは空間を探求する。これは一般性があるようなので、提案している。この実証は今後の課題だ。

 発達心理学の父は、エリク・ホーンブルガー・エリクソン
 彼のライフサイクル論が、よい。人は段階(期間)ごとに特定の関心(テーマ)をもつ。その期間にそれを深める。私の発達心理論は、エリクソンをベースにした。私は青年期以降の段階と課題を、自身の体験から割り出した。それは多くの学生や大人が共通することも確認している。

 孔子の論語にも、発達心理がある。それは日本人にも馴染みがある。

子曰
吾十有五而志于学
三十而立
四十而不惑
五十而知天命
六十而耳順
七十而従心所欲、不踰矩

 15歳で学問に目覚め、30歳で立つ、40歳で惑わず、50歳で天命を知る、60歳で耳従う。70歳で心の欲するままにして、矩を超えず。

 これは人生の心の変化を記す。孔子は15歳で知性に目覚める。15歳から知性や理性を研究した点は私と同じである。

 私の発達心理(青年期)はこうなる。
 15歳は、理性や知性に目覚める。実際は、自分とは何かというアイデンテティを探す。人類の思想史を勉強し、哲学や理性を知る。さらさには宗教思想もかじる。このあたりは、フランスもよくわかっていて、フランスは15歳から哲学や思想を教え始める。孔子も自身にその傾向を自覚した。
 18歳から、社会に関心をもつ。大学生(18歳)から社会的自己を自覚する。実際は、社会論や経営学を学ぶ。社会運動に1-2年のめりこむことからも、証明される。
 21-22歳から、空間に関心をもつ。大学の後半(20-21歳)では、なぜか建築物、都市を見ることに関心が移る。ここは感性が高い、自己の欲求を敏感に感じ取れる学生のみが志向する。

 欲求段階説では 社会的欲求の次は空間的な欲求
 成金が何を求めるか? 彼らは貧乏な時は、まず食べ物を求めた。食べ物に不足しなくなると、住む所を得て、いい衣服を着た。
 やっと中間層に入った彼らは、学問がなかった。学問がないと、上の地位にもなれない。まずは、学問を会得しようと、大学に入り、勉強した。そうやって、知性を身につけた。
 彼らはますます事業に精を入れて励み、大金を得た。そうして、社長などと呼ばれ、町のおえらいさんの仲間入りを果たし、社会的な地位を得る。やっと上層に入った。
 彼に教養はあるし、社会的な地位も手に入れた。が、急いで、かけあがったものだから、家が中流のままで貧弱だ。余裕が出来た彼は、さらに広くて大きな家を買う。美術品に懲りはじめる。彼は美術館に通い、よい音楽を聴き、文学をたしなみ、芸術を学び始める。彼は快適な空間を演出するし、感性を高め、その芸術的な才能を求める。

 この経緯はごくごくありふれている。自然な欲求の変化だ。彼の欲求はしだいにあがった。それは、身体的欲求 → 知的欲求 → 社会的欲求 → 空間的な快適性(欲求)だ。やはり、欲求の発展でも、社会的欲求の次は、空間を求めるものだった。

 私は金持ちが、大きな家を買い、芸術的な世界をたしなむことを、自然な欲求とみなす。贅沢ではなく、マズローの言う最も高等な欲求、自己実現の中身だ。自己実現には、様々な欲求が混ざる。快適な空間を求める、絵画の鑑賞、音楽を聴くはその一つだ。

 どうも、心理テーマは、社会欲求の次が空間的なものであることは、否定しようがない。

 私の発達心理論そのものはまだ国際的に認められたものではないにしても。よって、人類は社会建設に飽きたら、次は、空間的なものを改良してゆく、といえる。

 私の話についてこれただろうか。これは先端の理論なのだ。

 だが、人類はいまだ社会改革に忙しい。格差をなくせとか、経済成長率が低すぎるとか、借金大国をいかに解決するかなど。インターネットが個人の活躍する場を増やす。民族主義も台頭しつつある。現在のこの社会の流れを説明できる理論はあるのだろうか? それは次の話。

 道徳教育法 正義の話
 正義とは何だろう? ルールがある。ルールとは社会規則や慣習だ。法律は慣習が国家で認められたものだ。それを踏み外すと悪となる。それを守ろうとすることが正義だ。
 初期の有名なルールに、モーゼの十戒がある。このうち、人は殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、というのが悪いことをさしている。

 つまり、当時、1,人を殺さない、2,姦淫しない 3,盗まない 4,嘘をつかない、というルールが共有されていた。社会を維持するために、守らなくてはいけないものと思われていた。当時は、このルールを守ることが正義で、破ることが悪だった。この当時の正義は、簡単だった。

 ハンムラビ法典の頃になると、法律はさらに複雑になった。してはいけないことはたくさん増えた。社会が発達すると、ルール=その社会を維持するために必要な規則、は増えた。そして、同時にしてはいけないこと、悪なることも増えた。

 正義の特徴
 正義とは、1,社会を維持するために良きルールを守ることだ。盗まれないように見張ることは正義の一つだ。2,誰かにルールを破られることを阻止することだ。盗みをやめさせることは正義だ。
 ルールとは、その社会を守るためにある。治安維持の手段だ。
 人を殺すと、社会が乱れる。人殺しが放置されると、その社会の全員が殺されてしまうかもしれない。それを食い止めるために、社会は自身を守ろうとするために、禁止する。盗みが蔓延すると、社会が混乱する。よって、盗みも取り締まる。
 正義感とは、よって、その社会を守る意思である。

 ルールは社会が発達すると、どんどん増える。
 毒物はどんどん明らかになる。古い時代に、麻薬は禁止されてなかったが、今は社会に退廃をもたらすと、禁止されている。新しい正義が増える。昔のほうがおおらかである。

 新しい正義
 時流の正義、というのはある。円高不況の時代には、円安にすることは正義だった。その問題で社会全体が苦しんでいる時は、それを解決することが、強い正義となる。社会全体から支持される正義となる。

 正義のいきすぎ
 その学校でつまらない校則を決めた、としよう。全員、制服を着る。男子は短髪にする、と。これも学校の雰囲気を守るため、と考えられた規則だ。しかし、表現の自由を大きく侵害する。しかし、校内では、風紀委員が、口やかましく、制服の乱れを正そうとする。実に、煩わしい。このように、行き過ぎた正義とは、本当は正しいルールではない時に、生じる。小さな正義という。特殊な正義でもある。
 試験的にある些細な規則が試みられた時によくこんなことが起きる。例えば、政治資金規正法(過度な資金の取締り)、人権のいきすぎなどある。社会をよくする規則だが、あまりに細かすぎるものは、およそ本当の正義ではない。原則からかなり派生した規則などはそうだ。
 こんなのは小さな正義という。それは、その規則そのものが原則的な正義によって、社会に停滞をもたらす悪法・悪慣習だと否定される。すると、この面倒ないちいち守るのが面倒な細かい正義も消え、小さなことで正義ぶる規律委員の面々もおとなしくなる。

 正義は、社会を守る意思、と覚えたい。正義感が強い人は、ふつうの人々よりも、社会を人々を悪から守りたいのである。

 本日の被害
 朝6-7時に起こされて、左目を傷つけた、と音声送信で言われた。左目奥がやや痛んでいた。殴打後のような感覚。朝になると、目は大丈夫と言う。嘘くさい。痛みは真実だ。
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社会イデオロギーの終焉4 21世紀は「空間」、道徳教育法- 心の傷

2015-02-05 12:07:09 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 中東情勢はよくわからないから、消した。雪が東京で降るような積もるような報道がちらほら。
 
社会イデオロギーの終焉4 21世紀以降の人類の課題 「空間」 

 昨日、社会思想の末期にそれを統合する理論が登場する、と記した。思想区分で、その末期にどんな思想が出てくるかを説明した。しかし、いまだに社会思想を統合する理論は、誰も見ていない。世界中にそれはまだない。もしそれがあるなら、新聞、メディアはこぞって取り上げるだろう。まだ社会思想は末期に近づいているとしても、終わりまで時間はある。

 社会思想の統合理論
 私の案はある。しかし、長くなるから今度にしよう。

 簡単なものからゆく。思想区分で次の人類のテーマは何だろうか?

 理性 → 社会 → 空間

 答えを言う。「空間」である。なぜ空間か?
 上の順番を思い起こそう。人々は、理性に興味をもった後に、社会に強い関心をもった時期がある。青年期だ。

 灘の高校生は、勉強に飽きたら、思想や哲学を読み漁る。私も高校生で哲学と思想に関心をもった。フランスでは、15-17歳頃に哲学思想を教える。つまり、その年齢には、哲学と思想に関心がゆく。合理的な精神になろう、としてそれを求める。

 「思想」と「哲学」がなぜ「理性」と同一か?
 それを探求する動機は、思想や哲学を究めたい、知りたい、解明したい、という欲求からくる。つまり、解明するとは、合理的に理解する、ということだ。ただぼんやりと、それを丸暗記するということではない。それを理解するのだ。理解するとは、本人が納得することで、合理的に解釈する、ことである。
 人間か何かに関心をもったら、それを解明することになる。世界の七不思議に関心をもつ人は、それを知りたい。それが謎であること、その合理的な理由を知り、その謎を解明したい、と思っている。

 大学生になると、哲学と思想は関心が薄くなる。そして、社会をよくすることに熱中する。これは全共闘や、台湾の学生運動、香港の雨傘革命。社会運動をはじめるのは18歳以降で大学生からだ。高校生は内向的で、社会運動をする意欲は弱い。

 つまり、人は、15-17歳に哲学・思想に関心がゆく。そして、18歳からは社会に熱中する。特に、優秀な学生で感受性が高い人々は、そういうものに参加したがる。鈍い人は、自分の内的課題も見出せないから、そういう面は弱くなるのはしょうがない。

青年期の発達心理
 理性(哲学・思想) → 社会  → 空間
 15-17歳       18-20歳  21歳〜

思想区分
 理性       → 社会   → 空間
 15-19世紀     20-21世紀初頭 21世紀以降

 つまり、思想区分は、人間の発達心理に似る。上のようになる。

 学生の社会運動熱はしかし、21-22歳に急速に冷える。実際に、大学を卒業する頃には、学生運動は青くさく思えるものだ。彼らの心は変化している。社会運動に強い情熱をもてなくなっている。何か別のものに関心があるようだ。

彼らは次に何を関心にもつか? 何に興味を持ち始めるか? それが次の思想の答えでもある。あまり難しくない。青年の関心、その統計をとればはっきりする。

 私の経験では、「建築」、「都市計画」に興味をもつ。「インテリア」に関心をもちはじめ、しだいに、「建築物」そのものに興味をもつ。それが発展すると、「都市空間」にいたる。それらを一ジャンルにまとめると、それは「空間」なのだ。私以外にも、大学の後半に、突然、建築物に興味をもちはじめる者たちは多かった。人は20-21歳から空間的なものに関心を移す。

 発達心理と思想区分は似る。よって、人類の次の探求テーマも「空間」だろう。

 本当に人類は次に、「空間」に関心をもつのか?
 人類の探求テーマに条件がある。それを探求、改革することで、人類は大きく進歩することができる。つまり、空間の改革すると、この停滞を打破できるのだろうか?

 「空間」の研究がまもなく時代の主流になる。もしそうなら、現在でも、その潮流が小さく生じているはずだ。それら新時代の端緒はどこに現れているのだろうか?

 一つは、事務所のアメニティの改善にみられる。人々が快適に過ごせる空間。それを模索する動きが1990年にはあった。仕事の能率を高めるために、事務所はどんな空間にすればよいか。それは社会制度(企業の制度)の改革ではなかった。いかに快適な空間にするか。臭い、音、人間の動きの範囲、それら空間の要素をよりよくすることで、達成するものだった。

 創造性開発にもみられる。人間はどんな場所で創造性を高められるか。自然の中、リラックス、臭い、音(自然の音)など空間的な面が特に、近年研究されている。これも社会制度の改革ではない。組織内の創造性を高めるには、どんな制度にすればよいか、創造性を取り込むこと、学習する組織などは経営学でよく研究される。企業の研究は、社会思想の一つだ。が、空間をいかにすると、創造性があがるかは、空間論の範疇だ。

 都市の快適さ。これは90年代によく研究された。その成果としては、自動車が入ってこない都市などある。まだこの都市計画が、都市の発展に直接結びつくという水準には至っていないのだが、新しい流れである。

 最近は大規模スーパーマーケットを郊外に設置するか、駅周辺に作るか、という問題で、駅前スーパーが見直されている。都市は、駅を中心に発展する。そういう空間的に自然という理由から採用される。郊外は地価が安いという経済の論理で、郊外に作るのが1970年代からの主流だった。が、それでは町そのものが荒廃してしまう。それで、駅そば、一番の繁華街に大店を作り、にぎわいを取り戻すことが、推奨されている。これは空間を大事にする考え方である。

 まだまだこれら空間技術・理論が時代をリードするものではない。が、しだいにその存在感が高まっていることは確かである。まだ社会制度を改良したほうが、劇的に問題が解決するという状況は続いている。しかし、それも勢いは低下している。やがては、新しい流れが上回るだろう。

 そして、社会思想の最後の段階が終わるまでは、次の時代にはならない。社会理論、社会制度の改革による発展は、しだいに低下している。が、まだまだ必要なのだ。今回は、次の時代の思想テーマをみた。「空間」である。

道徳教育法 心の傷
 心が傷ついた、と大げさに騒ぐのが最近の日本人の特徴だ。では、心の傷とは何か? それは、本人の考えが間違っていたことに気づくことだ。例えば、「母親はすごくいい人」と思っていた子供が、母親が実は前科二犯、とわかったときのショック。自分の子供が純粋無垢と思い込んでいた母親が、子供が嘘をつかれた時のショック。
 人は、新しい事実に気づくたびに、心は傷つく。そして現実をより知る。外国にはじめていったとき、思っていた世界と違うことで、あまりに驚く。ショックよりも驚きだ。純粋な心は、現実を知るたびに、心は傷つく。
 これは、経験することで、新しいことを知る。悪いことではない。当初の思い込みが現実と違っていたのだから。それが心が傷つく、もっとも根本的な原理の一つだ。

 この思い違いに気づいた時、本人の思っていたことよりも、よいことを知った時は、驚き、喜びとなる。本人が思っていたよりは、悪いことを知った時は、ショック、心の傷となる。

 当初から犯罪者の町に住んでいると覚悟している人は、隣人が犯罪をして電波を飛ばしても、あまりショックではない。が、ここは平和な町と引っ越してきたのに、住民はアカの手先となって電波を飛ばして、悪さばかりしている者が大半を占めている、と気づいたら大ショックで心はとても傷つく。

 仲良しの友達が、影で私の悪口を言っていたら、大きな心の傷となる。だが、悪友が掲示板に自分を批判しても、そんなにショックではない。

 心が傷つく典型的なケース。
 体育の時間に部屋においていた財布から現金を盗まれた。これは傷つく。本人は悪くない。こういう方法では傷つけてはいけない、だろう。
 自分の祖母が自殺して死んだ、とある日聞いた。これは心が傷つく。これは、そんなことにならないと思っていたから、傷つく。しかし、事実としては受け止めなくてはいけない。事故や犯罪に巻き込まれた時、心が傷つく。それは、思いもかけない悪い状況になったからだ。こういう不幸が襲うことで、心が傷つくのは避けなくはならない。しかし、その事実を隠すのはさらに悪い。

 ただ、価値観が逆の人もいる。犯罪者や悪人はそうである。万引きしても捕まらないと思っていた女が、店員に捕まった。それで心が傷ついた。今までつかまったことはなかったから・・・。正しい体験をしたのに、それで心が傷つく。こういう価値観が逆さまの人はいる。

 また犯罪の勧誘をしている。そして、多くの市民を騙して、その勧誘に成功していた。しかし、ある時、物のわかった人に「電波を飛ばすことは犯罪よ。ただちにやめなさい。」ときつく叱られた。それでその女は傷ついた。犯罪を犯罪と思わずに、続けてきた自分の長年の習慣が否定されたと思ったからだ。

 卑怯なことをした人が、「お前は卑怯だ。」と言われ、傷ついた。

 これら価値観が狂っている人は、そのゆがんだ価値観を正すために、おおいに心を傷つけなくてはならない。そして、その悪しき考えを傷つけ、壊し、なくすことが肝要である。彼・彼女が正しい考えを受け入れ、更正するまで。

 心を傷つけてはいけない、といわれる。が、全てにおいてそうなるとは限らない。一般的には、人を傷つけるには、その人に悪いことをしなくてはいけない。それはしてはいけない。

 が、悪人の心は、善人になるまでどんどん傷つけ、犯罪志向は壊さなくていけない。これは悪心の心の傷と呼ぶことにする。また、真実を知ることで傷つく場合も、それは適切に、真実を教え、傷つけなくてはいけない。いつまでも真実を隠して、嘘を信じ込ませるほうが悪いからだ。これは無知による心の傷、と呼ぶことにする。

 「心が傷ついた」といえば、いつでも被害者面できるとは、限らないと教える。一般的には善人を傷つけてはいけない。が、知らなくてはいけないのに知らない時、と間違った考えをもっている時は、その人をどんどん傷つけなくてはいけない、と教える。またそれら教育的効果もなく、意味なく善人を傷つけるのはやめよう、と教える。

 ここはまとまりがあまりよくない。
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社会思想の終焉3 その末期に起きること 道徳教育法-日本的精神論の弊害

2015-02-04 11:57:31 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は晴れ

 ユーチューブでアメリカの高校生の朝食を見ている。驚きの朝食ばかり。バナナと卵を混ぜ、焼いたものを食べる。オートミルに、クランベリー、ヨーグルトを入れたもの。まるで外国だ。

 今、大学の卒論に書いたことを整理して、わかりやすく説明している。卒論はたいしたことがない、と思うなかれ。発達心理学、青年期のテーマから人類の思想の発展を世界初で明らかにしたものだ。読んでいくうちに、日本人離れしてるとびっくりするはず。

 社会イデオロギーの終焉3 社会思想の末期に起きること

 先日、人類の思想テーマは16-19世紀に"理性"、20世紀は"社会"と示した。今日は、21世紀以降のそれを明らかにするつもりだったが、その条件を詳しく説明する。

 "時代の思想"とは何か
 まずはおさらいしたい。社会イデオロギーやヘーゲル哲学への当時の熱狂を思い起こす。人々はそれが時代の先端を走る、と思っていた。そして、実際に、その新しい哲学によって社会は謎を解明して、発展しているように感じた。多くの人々が熱中した。そして、その哲学が当時の思想の流行だった。

 "時代の思想"とは、1,大衆に支持され、2,社会を発展させる理念である。それは、3,何かの解明である。社会の解明は20世紀の人類課題だった。それは4,人類の研究対象である。理性とは何か、社会とは何かが過去の思想でテーマとなった。

 新しい思想は、5,過去の思想テーマではない
 誰でもわかることは、それが過去の思想ではないことだ。社会イデオロギーではないこと。資本主義でも、社会主義でもない。とっくに破綻した共産主義でもない。こういう理想社会を論じたり、社会の体制を説明するものではない。そんな過去の思想テーマではない。その答えは、社会思想や理性の哲学以外にある。もちろんヘーゲル哲学のようなものでもない。次に、大事なことを述べる。

 時代の思想とは
1,大衆に支持されるもの
2,社会を発展させる理念
3,それは何かの解明である
4,それは人類の研究対象である
5,過去の思想テーマではない
6,前段階の思想の完成後に現れる

 新しい思想テーマは、6,前の段階の思想が完成した後に現れる
 理性の時代で、その哲学を完成させたのはヘーゲルだ。彼は「人生哲学(岩波文庫)」で、理性の発展の最終形を記した。理性は永遠に発展するかのように。それは学問体系(理論)の分化という形だった、と思う。理性の内容=学問である。学問の発展をモデルにして示せば、それが答えだ。そして、"小論理学"を彼は生み出した。理性の本質とは論理学だ、と明らかにした。

 理性=論理学というのは正しい。なぜなら、最も理性的な思考をするのは、コンピューターである。ここにいう、理性とは論理的な思考をさす。理性=良識的な思考、という意味ではない。感情的でない大局的な思考という意味である。合理主義の極致、合理性とは何か。それは論理的な思考である、というのがある真実である。

 コンピューターは論理でもって、演算する。ただそれだけの機械だ。が、コンピューターは理性的だと思われる。つまり、理性の本質は論理学(論理回路・演算)なのだ。このようにして、ヘーゲルは理性をつきとめて、完成させた。

 若干ここは異論があるかもしれないが、共産連中のように支離滅裂なことは言ってない。理性とは、大方、理論体系(学問体系)と論理学である。学問とコンピューターがそうなのだから。

 ヘーゲルが理性を明らかにしてしまった。人々はもう理性が何かを知ってしまった。すると、理性探求への情熱がとたんに冷えていった。冒険はそれが発見されるまで人々のロマンをかきたてる。発見されてしまえば、もうそこに魅力は感じない。

 19世紀後半から20世紀にかけて、人々はヘーゲルを批判しだした。ヘーゲルを過去のものにした。新しいテーマを追い求めた。20世紀になると、人々は理想社会を意識した。そして、人々は社会イデオロギーに向かっていった。

 前段階の末期にはそんなことがあった。ここから、人類は新しいテーマを、理性期の終わり頃と同じように見出す、と予想できる。まずは、1,社会イデオロギーの完成が起きる。そして、その後に、2,社会を改革する意欲の低下が起きる。そして、徐々に3,人類は新しい課題を意識しはじめる。

社会思想の時代の末期に起きること
1,社会イデオロギーの完成が起きる
2,社会を改革する意欲の低下が起きる
3,人類は新しい課題を意識しはじめる

 新しい思想が出現する前に、社会思想の完成形が世に出る。それがないと、人類は次の課題に進めないのだから。それはどんなものだろうか?

 では、問題。社会思想の完成、理論的な統合とは何だろうか?
 少し考えてみよう。社会思想を統合する理論だ。統合とあるから、インテグラル理論のケン・ウィルバーがやってくれるのだろうか? 彼の成長理論で、社会の発展を明らかにしたものはなかったはずだ。

 答えはどこにあるか? 社会を最も明らかにしたのは、経営学だ。企業組織の内部を明らかにしたが、それは一般の社会も分析できるほど優れている。おそらく、経営学のどこかに、社会思想を網羅して、整理する理論があるのだ。

 共産主義と自由主義の社会の優劣、共産主義の悪質性すら簡単に見抜けない頭の弱い人には、とうていわからないだろうが、必ずそこにある。それはまた今度。

 道徳教育法-日本的な精神論の弊害
 昨日は、理想の人格をもつことの大切さを述べた。今日は、道徳教育で、危険な思想を一つ記す。それは、日本人を日本的にしているものだが、それがあるために、日本人を愚かにしているものだ。

 よく、学校のスポーツクラブで、「根性があればできる。」、「気合があれば、技術などなくても、なんとかなる。気合だ。気合だ。」とはっぱをかける。「気合が足りないんだ。」とすぐに安直な精神論に走る。

 これは、強く念ずれば物事を成し遂げられる、というむちゃくちゃな思想、日本的な精神論である。技術がなければ、相手に勝てない。それはわかりきったことだ。気合や根性という言う人ほど、技術を教えないで、同じ要領の悪い練習をさせる。そして、生徒はいつまでも実力が上がらないで、低迷する。

 そして、試合の時に、根性を出すようなすごい形相で臨ませる。生徒は気は張り詰めているようだが、実力がなく、あっさりと負ける。要は、思いだけでは何もなしとげられないのに、そんな精神論が日本では幅を利かせる。

 これは大問題だ。この精神論は、無能の勧めなのだから。日本人はこの精神論をよく行なう。そのたびごとに、非能率的なことをして、満足している。つまり、無駄かつ愚かなことをしている。これは、道徳教育で改めたい。

 私は、その日本的精神論を支える考えはどこから来るのか。ずっとわからなかった。

 なぜ日本人は、物資も技術も得ないで、「気合があればできる。」、「根性があればできる。」、「強く思えば、それを成し遂げられる。」という精神論に走りやすいのか。

 この精神論は実に、多くの弊害を生み出している。一に、無理な事をやらせる時に、使われる。勝てる訳がない相手に、試合で勝つ時に、「根性」や「気合」、「やる気」があればできる、というが、大負けする。精神的に強くもてば、技術を覚えることもなしに、なんの工夫もしないで、何かか成し遂げらる、という風潮に至った。

 二、これは戦前、戦中にひどい使われ方をした。「根性や気合」を出すために、上官が殴ることは平気で行なわれた。それはスポーツ界に残るおかしな風習である。これらは、改めなくてはいけない。この精神論はいらない。

 これはどこからくるかよくわからなかった。「祈願」という風習からくるのか。しかし、最近、新しいルーツをみつけた。

 孟子の思想である。「誠意があれば、人に伝わる。」、という。誠意を示せば、なんでも相手に通じる。それが転じて、気合や根性があれば、なんでもできる、というふうになったのではないか、と思う。これは、現在は"熱意"というのが普通である。欧米では、たぶん、熱意と理解されている。

 この精神論の弊害は、子供にはよく教えたい。大人になってから、ど根性のスポコン無能指導者。根性と気合、やる気しかいえない社会人にさせないために。


本日の被害
 白い涙が左目に出た。涙が固まると白くなる。これは網膜が切られた症状。重症である。回復まで最低、一ヶ月かかる。目はやや痛む。視界にうっすら横線が短く入る。すぐに消えるけど、あったことは確かだ。朝6時頃に目覚めさせられ、音声送信で、左目の網膜を切ったとしつようにアカは言ってきた。犯人は、昨日、川西の本屋でみかけた老人男の仲間だろう。
 見るからに薄気味悪くいやらしい男だった。悪人顔だ。この手の人物は必ず、悪いことをする。悪質なやつだ。それが私が立ち読みしていると、隣にきた。もうこれは、嫌がらせだ。放っておいて本を読んでいたら、いつまでも横にいたから、舌打ちをした。誰にしたかは、別にわかるものではない。
 が、隣の男は、ストーカーだから、自分にされたと思ったのだろう。事実そうだが、すると、独り言で「バカがなんとか・・・」と言い出した。やはり、ストーカーだ。こういう反応でそいつがストーカーでアカと判明する。私の真横に来て長く立つ。これは、威嚇なのだ。警察用語でいう、威圧、というやつだ。音声送信によると、この男のグループがかなりひどいことをしたという。
 私に何かすると、ウチゲバされるのが常だ。こっぴどくやられているだろう。
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社会思想の終焉 - 次の思想は? 道徳教育法- 尊敬する人を決める

2015-02-03 12:01:02 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は曇り

 昨日は文が乱れた。昨夜、訂正した。読みやすくした。
 頭痛で集中力を欠くと、丁寧に校正できなくなる。またオリジナルの持論を発表する時は、上手に表現できない。そうならないようにがんばろう。

 社会イデオロギーの終焉2 次の思想は?
20世紀を導いたのは社会イデオロギーである。一方に自由主義陣営がいた。人権と民主主義をもち、それによって経済は発展して、繁栄を謳歌した。他方には共産主義グループがいた。1914年にはロシア王朝がソ連に乗っ取られた。そして、東欧を傘下におさめ、恐怖支配が長く続いた。共産主義は統治した時から退潮が始まり、それは1992年に解体して終わった。20世紀は、西と東の対立で、お互いが争っていた。

 20世紀は社会イデオロギーの闘いに世界中があけくれていた。どちらの社会論が正しいか。どう社会改革すればよいか? 政治家も国家も、そして国民も。これが、20世紀の思想の中核だったことを誰も否定できない。20世紀は、"社会思想の時代"、といえる。

では、社会思想が登場する以前は、人々は、何に熱狂していたのだろうか?
思想史では、マルクスが登場する前に、ヘーゲルが活躍していた。ヘーゲルは19世紀にドイツで"理性"を研究した思想家だ。ヘーゲルの前の有名な人物はイマヌエル・カントだ。カントは純粋理性を明らかにした。

 社会改革に興味をもつ前、人々は「理性」の探求に熱中していた。いかに、人間は理性を発達させて、神に近づくことができるのか、と。19世紀は、理性の時代である。

 理性の時代はカントに始まり、ヘーゲルで終わった、と考えるべきだろうか。合理主義はもっと遡ることができる。終わった時期は、ヘーゲルでよい。が、始まりがいつかは今回ははっきりさせない。私は純粋自己を見出した合理主義哲学の祖ルネ・デカルトがいた16-17世紀か、ルネサンスの始まった頃と思っているが。

 思想区分は、大雑把に

    「理性」  →     「社会」      →     ?
15-17世紀〜19世紀   20世紀初頭〜21世紀初め   21世紀初め〜

となる。そして、21世紀のはじめに社会イデオロギーの時代が終焉しつつあるのは、事実である。人々が社会改革に熱中した期間は100年と少しで、他の思想より短かった。もうそろそろおしまいだ。

 では、次に人類は何を課題とするのだろうか? 
 まずは、時代の思想の条件をおさらいしたい。それは世界中の人々が熱中する。社会イデオロギーに大学生が熱中したように。それが世界を導く主導原理になる。世界を民主化する動きは、大きな力となったように。この条件にあうものは何だろうか?

 人類は、社会の改革の次に、何を改良したくなるのだろうか? 人類は社会をよくすることを成就させたら、次に何をよくしようとするのか? 社会思想に飽きたら、次は何に関心を人々はもつのだろうか?

 わかった人はいるだろうか。これは宿題にしておこう。あまり難しく考えなくてよい。

 人間は、知的欲求が満たされたら、何を求めるか? それは社会的な欲求を満たすことだ。もし、社会的な欲求を満足させたら何を求めるか? そういうことなのだ。マズローの欲求段階説を思い出せばよい。そう、答えは「自己実現」だ。しかし、まだ正解ではない。自己実現とは具体的には何か? それが答えである。

 安直な人は、資本主義が終わったら、社会主義になる、と思っている。それは間違いだ。社会主義はとっくに終わっている。社会主義が終わると、資本主義が始まる。中国が資本主義を導入した政策、ソ連(社会主義)がロシア(資本主義)に変わったことが正しい発展なのだ。彼らはそれで成長を取り戻した。ここは正確に理解しておこう。社会主義が終わると資本主義の時代になる。これは歴史法則であり、一般法則でもある。

 今議論しているのは、そんなことではない。どちらも社会思想である。その社会思想そのものに魅力が失われている。その社会思想を探求する時代が終わりつつある。そうなったら、次は何があるか? そういう問題である。

 社会主義が終わったあとに、何があるか? 資本主義だが、それが主軸となる時期が終わったら、次は何が始まるか? それを考えてみよう。

 私は、当然知っている。これは20年前に私の大学卒業論文に書いたようなことだから。書いたかな? 考えてはいた。

 道徳教育法 尊敬する人を決めよう
 人間は、目標とする人格をもたないよりはもっているほうがよい。心の師、そんな人物になろうと、切磋琢磨するからだ。戦前の学校教育では、理想的な人格としては、天皇や軍神(乃木など)が讃えられた。その方法では、日本人の精神性が一定方向に進む。そういうことがないように、もっと世界の偉人や、日本の偉人など、自由に本人に決めさせることが大切だ。その理想者、尊敬する人をもつと、人格を磨くようになるだろう。

 私のケース。私は天皇や軍神、さらに戦国武将の豊臣秀吉に憧れたこともない。それよりも、聖徳太子のほうが好きだし、西行、空海のように活躍するのもよし、と思っていた。私は理想の人はもってない。そんな人もいる。

 だから、誰彼を心の師にしろ、と強制するのはよくない。そこは自由なのだ。強制しても本人はそれを尊敬しない。その人物のようになろうとはしない。よってこれは自発的に選ばせなくては意味がない。本人に選ばせるほうがよい。すると、本人は自ら進んで、そういう人格を目指す。

 しかし、いくら生徒に選ばせるといっても、いくつか条件はある。そんな人に憧れては困る、という人物はいる。

 まず殺人鬼を憧れさせてはいけない。将来、殺人を犯すかも。また歴史上の凶悪な独裁者や過激派共産ゲリラ(部下を次々粛清したレーニンとか文化大革命の毛沢東、ゲリラ軍人リーダーのチェ・ゲバラ)などを尊敬したら、そんな生徒は将来、海外に出て過激派に加わる危険性がある。この手のは、大学に入ったら、過激派闘争に加わりたい、という願望をもつ。私の知り合いにいた。彼は面白かったけど、志向が一般学生とは違っていた。もしくはそんなものを支援したがる。そういう反社会的な人格にしてはいけない。

 アイドルは、姿形に憧れるのはよい。将来の職業としてもよい。しかし、それを人格の理想とするには問題があることは教えておこう。彼らは精神性によって、人気を得ているのではなく、歌唱力、みかけの美しさ、格好よさ、または演技力で評価されているのだから。人間性だけを比べたら、過去の偉人と比べることもおこがましい人物が多い。

 アイドルは現代の偶像だが、アイドルが最高と思うようになってはいけない。アイドルの精神性はたかが知れている。それより精神的によい人物になろうとしなくなる。つまり、アイドルだけに憧れる人は、高度な人間性を求めなくなる。

 スポーツ選手も同様である。職業として憧れるもの、なりたい選手としてはよい。しかし、精神的な理想からは、遠い人たちである。そういうことは教えておこう。バットを振り回すこと、守備がうまくなっても、徳をもっているかは、別だ、と。野球はすぐに監督まで巻き込んでの乱闘騒ぎになる。あれのどこが徳ある人の振る舞いか、と。

 無難なのは、キリストや仏陀などの偉人だ。生徒がキリスト教徒や仏教徒だったら真っ先に選ぶだろう。宗教家を否定してはいけない。本人の自由だ。他に名の知れた精神的な模範はいる。中国が好きな子は、孔子や諸葛孔明をあげる。立派な祖父を尊敬している子もいるだろう。父や母もいてかまわない。

 そして、何を尊敬しているか、どうしてその人物を選んだか。そして本人はどんな人物になりたいのかを、語らせる。そのために、どんなことをして、心を磨いてゆくか。そういうことを考えさせるとよい。何も精神の理想をもたない人よりは、心が大きく成長するだろう。

本日の被害
 自転車がパンクさせられた。少しずつ空気が抜ける。この自転車、買ってまだ一年なのに、後輪のブレーキは壊れ、タイヤは前輪のゴムが数年もののように硬化すると。これらが被害だ。
 また目を毎日刺される。顔も。まゆげの上に一箇所に、何かに刺された傷がある。アカは、そこを刺して、私の目を悪くしようとしている。
 昨日、東のアカ基地。そこの隣の家を警官が見に来ていた。私は常々、警官が現れる時は、犯人の家の周りを捜査しているように、したらわかりやすい、と思っていた。そをやってくれたのか?
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社会イデオロギーの終焉(地球は資本主義一色に)、道徳教育-人格を高める

2015-02-02 12:09:04 | 社会思想の終焉
こんにちは 大阪は曇り
 昨日、伊丹まで自転車で散歩。風が冷たかった。
今日は軽い頭痛だけではなく、体の各所が痛む。が軽症のようで、昼になると、苦痛は去る。

 後藤氏は遺体に
 残念だ。ISISは橙色服を着せたら、見世物にして殺す。その方針は変えないようだ。どんな交渉もいかんともしがたい。週刊文春2015年2月5日号の記事「10分300万円」に命を懸けた・・・・ によると、後藤氏はイスラム国の支配地域には、テレビ朝日に提供する映像を撮影するために入ったそうだ。10分の映像が300万円の価値になる、という。後藤氏の救出もあるが。朝日の記者がシリアに入ったという情報が流れている。これら情報が真実ならば、後藤氏がイスラム過激派に捕まったのは、テレビ朝日のプッシュのせいではないのだろうか。メディアはこの件の重大性に気づいてはいる。

 社会イデオロギーの終焉
 現在、多くの人々が気づいている。イデオロギーは影響力をもたなくなったことを。

 「人権が弾圧されない社会はすばらしい。」、と1970年代には思われていた。人々から差別がなくなる。そんな世の中にしたい。人権社会では、人々はその価値を偏見と差別なく認められ、もっと自由に活動でき、活況あふれる。そう夢見ることができた。しかし、40年かけて、人権は日本の隅々にまで浸透した。それがいきすぎて、人権の過剰保護が問題にされるくらいだ。人権は、社会を主導する理念にならなくなった。

 「民主主義と自由こそが人民を幸福にする。」 これはアメリカのイデオロギーである。多くの日本人も民主化こそが世界を救う、と信じている。彼らは世界の独裁国家を倒し、民主主義と自由を広めてきた。1991年にソ連は倒壊、東欧諸国も民主化した。それによって、世界は平和になった。進歩が止まり、破滅へと向かっていた共産圏は再び、発展する方向に歩みだした。
 しかし、民主化しなくてはいけない国は中国、北朝鮮、ベトナム、キューバといくつかある。が、民主化はいまだに一部悪辣な国家の問題を解決するものの、それが世界を大きく改革させるものとはなっていない。自由の効力は低下している。

 「資本主義社会の成長神話が・・・」
 自由社会において、経済は永遠に発展する。現にそうだ。が、経済学上はそれが数字に表れなくなっている。これも、社会の制度改革が、社会の発展を促さないようにみえる理由の一つである。経済という指標を発展の目安にする限り、これはなかなか改善されないだろう。

 つまるところ、社会の制度改革によって、社会が活性化する時代が終わりつつある。社会制度を改良する効果はだんだんと小さくなっているからだ。

 これは資本主義経済の終わりではない。資本主義は今後も続く。マルクス経済しか知らない単純な人は、経済は資本主義と社会主義しかなく、資本主義が限界になると、終わり、社会主義になる、と思っている。それは間違いだ。資本主義が永遠に今後何億年は続く。

 ここで言うのは、そういうことではない。マルクスも所詮、社会改革しか書いていない。自由主義も社会思想の一つだ。私は、その社会改革全体が、もうゆきづりつつあることを主張している。

 どちらも同じ社会制度の思想である。社会イデオロギーそのものが、限界にさしかかっている、とここでは説明している。マルクス(共産主義は)は1992年に完全に死んだ。その後も続く、自由主義国家の制度を改革させて、社会を進歩させるやり方が、そろそろ勢いをもたなくなっている。

 社会制度を改革していたら、社会はよくなる、というこれまでのやり方が通じなくなっている。

 つまり、社会改革をう目標とするあらゆる社会思想が、魅力ないものになりはじめている。特定の社会思想が時代を主導する原理になりえていない。

 これは社会イデオロギーがなんらか完成したから、生じた現象である。なぜなら成熟期(完成期)を経ない、と後退局面に突入しないからだ。

 人権は社会に広くゆきわたった。自由競争、個人・企業の自由は、およそできるものはした。民主主義はまだ問題はあるものの、世界で広く行なわれる。つまり、社会制度は、大方整ってきている。その改革では、人類そのものの大きな進歩にならないところまできた。

 ようやく人類は、社会イデオロギー闘争の時代を完成させつつある。自由主義は共産主義に勝ったという栄誉を残して。もうすぐ地球は全国家が資本主義一色にそまるだろう。


 道徳教育法 人格を高める
 道徳教育を行なうと、人々が徳をもち、日々それを養うようになる。すると、自らを律する人間となる。悪いことはしなくなり、いじめ、陰口、陰湿なこと、犯罪もしなくなる。なんとすばらしい国民か。

 道徳教育の課題は、その習慣の持続だ。人を信じること、自分より才能ある者を尊敬すること、人を愛すること、暴力を振るわないこと、公平に接することを教えても、それを知識として覚えても、実践しないと身につかない。

 さらに、これら人徳をたえず向上させる意義を知らないと、卒業したら、これらを忘れる。堕落した生活を送ったり、放縦に身を任せたり、欲望に走ったり、悪事に手を染めたり、ひきこもったり、精神が退廃する。人格は低下する。

 せっかく学校で良き人間としてのあり方、振舞い方、心の律し方を教えても、社会に出たら心変わりして、野獣のようになっては無駄である。そのように、倫理観を捨てた人間にならないように、一生、精神の向上に励むことを教え込む。

 生涯学習は知識だけを向上させる。知性に走るが、賢明さを求めるものではない。教養あるふりをしても、精神性の欠如がみられるのは全共闘世代だ。知性だけで徳性を養えない。学校で、老後に生涯学習をしたらよい、と教えるくらいでは、十分に人間を高められない。

 人格を高める。それを直接、常日頃、行なうよう指導するのがよい。徳ある人を一生目指すことを教える。生徒には、理想的な人物を思い描かせる。そして、その人物がどんなにすばらしいかを語らせる。一生かけて、そんなよき人格を目指すべき、と教える。生徒がもつ理想の人格は、強制しない。個性があるからだ。悪い事例だけは教えておく。

 良き人間になる方法として、1,人格を高める、2,精神を向上させる、3,精神を成長させる、4,大人の人間になることを教える。それぞれ一長一短がある。

 1,人格を高める
 これはあらゆる徳目を身に着けようとする態度が生じる。道徳教育の目指す人格がの最終点にある。これは、よい。

 2,精神を向上させる
 これは修行僧の信念と似る。だから、これを信条とすると、仏教の高層を目指しやすい。徳目を全体的によく養った人格とは、若干違う方向に子供は進む。

 3,精神を成長させる
 これは発達心理に沿った成長を目指す。大人の人格になる。老人のような成熟した人格を子供は目指す。それが目指す目標となる。徳目は軽視しがちになるから、あまりよくない。

 4, 大人になる
 これは最低の目標である。"大人"は、社会人としていくつかの用件を満たす人格をさす。働くこと、自分で稼げること、社会人としてのマナーを身に着けていること、あまりに感情的にならないことなど、精神性とはあまり関係ない条件だ。道徳教育が示す理想の人格からは、遠い。これは目標が低すぎて、話にならない。

 私は、「人格を磨く」、「人格を高める」と人格の向上を目指すのが、よいと思う。それを指導すべきである。すると、生徒は自ら進んで、人格を高める。学校を卒業しても、それは持続する。大人になっても、自らを律して、犯罪や悪事に走らなくなる。

 本日の被害
 今日は、前回寝込んだときのような、皮膚の水ぶくれ感がある。睡眠中に毒を注入された。内視鏡みたいな工具を使って、さす。私は部屋は内かぎをしているからけっして入られない。睡眠中に扉の外側にまできて、犯行を行なうようだ。ベランダに来て、やっているとは思えない。もも、右指、ひざ、頭部は、それを強く感じる。毒が広がり、そのあたりが痛む。この毒は犯された部位では、苦痛を伴うため。
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仏の新聞社銃撃は治安上の問題、名大の事件からみえてくること

2015-01-31 11:48:55 | 電波犯罪
こんにちは 大阪は曇り

 このところ、天気が悪く、多田ばかりゆく。つまらない。

 最近、長い。思いつくままに書き連ねたら長文に。整理して書いてみた。今日は、なんだか殺伐とした世の中の話。

 フランスの風刺漫画会社へのテロについて
 この件でジャーナリズムが言論の自由の侵害、と騒ぐ。それに市民があわせてよいか? と考えた。ジャーナリズムは過激なことを書いたら、とたんに襲われたらかなわない。それで揃ってメディアはあれは悪いことだ、と非難する。しかし、しつこい。何度も聞いているうちにどこかおかしい、と私は気づいた。

 言論の自由の侵害という名目で非難していた。この名目は、正しくはない。テロは、暴力で犯罪だ。テロは、治安問題である。だから悪い。こちらが妥当だ。

 あの漫画は下品で、預言者をしつように侮辱していた。左翼色ぷんぷんだ。しかし、言論だけは特別に守らなくてはいけない、というのはメディアに都合のよい論理である。

 表現の自由だけならば、中国で日本食を作る自由、フランスで左翼反日漫画に反論する自由、フランスでブルカを着る自由、自由に人々を写真で取る自由があってもよい。なぜ、出版メディアだけが、言論の自由として特別なのだろうか。言論の自由の侵害と、メディアの権利だけを過度に擁護するメディアの論調は、自己保身的で違和感がある。

 口げんかから、殴り合いに発展することも多い。暴力(運動)は人間の表現の一つである。踊り、プロレス、ボクシング、レスリング、剣闘士、さらには戦争、それは人間の表現である。文章も表現の一つだ。だから、あの新聞社襲撃事件は表現という観点からみると、暴力という表現が、紙の表現と戦った、ということになる。言論の自由だけが、特別ではない。

 では、なぜ暴力だけがいけないのか? それは人を殴ると捕まるからだ。人を殺すと悪いことだ。それは暴力がはびこる社会にしないための統治の知恵だ。暴力は治安上、よくないからだ。

 つまり、単に、新聞社が銃撃された。それが殺人事件であり、刑法で治安上、悪いことだった。だから、それは非難される。それだけのことだ。表現の自由という考え方と切り離して、フランスのテロ事件を考えると、すっきりする。

 道徳教育法 学力ある女学生が、「人を殺したくなる」理由
 名古屋大に入った女子大生が、宗教の勧誘を受けた。その勧誘者を下宿で殺害した。「人を殺したかった。」という。名古屋大に入れるのは、かなり学力は高い。
 佐世保女子高生殺人事件も進学校の生徒で、「人を殺したかった。」という。
 このところ、成績がよい女子学生が、人を殺したい衝動をおさえきれない事件が続く。

なぜ彼女達は倫理観を喪失したのか?
 2度も起きた。「人が殺したかった。」から行なったという殺人は、特異な事件と片付けられない。これは、日本社会の重大な問題だ。これは、一言でいえば、昭和・平成の人権教育、命を大切にする教育、心の教育はニセモノだった、ということだ。

 人権教育では、倫理や道徳は教えない。それをベースにした教育では、人としてのあり方は教わらない。日教組教師は言う。「道徳など価値観を教えるのは、本人の思想・信条の自由の侵害、押し付けである。」そうやって、子供は精神的空白になった。

 道徳は押し付けではなく、国民がもつべき精神としては、義務みたいなものだ。それがなければ、遵法精神もなく、己も律することができない無法者になり、秩序破壊者になるからだ。民主主義を維持する上では、治安上、国民に規律を与えることは必要不可欠なのだ。

 これらは、道徳排除の人権教育の結果生じた哀れな事件である。二度とこういう精神が希薄な者達による残虐な事件を起こさないためには、道徳ゼロの教育を改革するしかない。道徳をしっかりと教え込まなくてはなない。

 命の大切さだけ、部分的に教えても、それは基本ができてないのに、二階を増築したような建物だ。基礎がしっかりしてないから、すぐに上にとってつけたうな人権教育や心の教育は身につかないで、消えうせる。そういう繰り返された教育上のミスはしないようにしよう。心は基礎から充実させて、築こう。

 本日の被害
 顔が一部、かゆくなる。これは、刺激性の液体をにじませたホコリが侵入者によって室内に噴霧される。それが顔にかかる。それを電波で刺激すると、顔がかゆくなるしかけ。目や体の針刺しは同じ。室内の洗濯ものからは、異臭がする。
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沖縄の左翼ナショナリズムの本質 道徳教育-素直

2015-01-30 11:51:24 | 電波犯罪
こんにちは 大阪は小雨

 雨が続いて、近場を出歩く。
 この時代を読み解く、新しい視点を提供している。どこの雑誌にもない新しい視点だ。この価値がわかる人は、まだ少ないだろう。

 左翼ナショナリズム 国家社会主義が台頭
 昨日、ナショナリズム、民族主義の発展を記した。現在は、沖縄の全島における左翼ナショナリズムが台頭している。前回の衆議院選挙で、沖縄は左翼の牙城となった。ギリシアでも、同じような左翼政党が躍進して、与党となった。つまり、現在は、ナショナリズムで左翼面が際立っている。

 この左翼ナショナリズムとはどういうものか?
 沖縄もギリシアの共通性は、どちらも国・県(地域)を守りたい、という態度がある。愛国主義運動といえる。だが、どちらの地域も左翼体質だっため、過激な左翼運動が台頭した。左翼はこの時期、より過激な形となる。

 また規模が小さい。ギリシアは島国の集まりで、沖縄も小国である。左翼ナショナリズムは2015年前半は小国で発展する。

 この愛国左翼は、過去にどんなものがあるか?
 忘れてはならないが、ヒトラー率いるナチスは、社会主義運動だった。国家社会主義運動と名乗っていた。彼が右というのは、あまり正しくはなく、彼は共産主義をまねて政党を作った。この愛国左翼は、やがてはヒトラーのような凶暴な国家社会主義運動になる危険性はある。

 では、愛国左翼の限界とは?
 左派政党が国をとったら、どうなるか? 民主党政権を思い出すと、過度な福祉政策と浪費が印象にある。それでしか人気は取れないためだ。つまり、すぐに財源は行き詰まる。

 保守は国家経営の視点があり、国を持続的に発展させることができる。が、愛国左翼は基本的に、ギリシアのように散財政党である。自らは何も生産せずに、福祉・福祉と言い立てる。しばらく放置しておくと、国はがたがたになる。時流による一時的な人気によって政策者になっても、すぐに支持率は凋落する。

 愛国左翼は、国を守るといいながら、国を破綻させ、つぶす。彼らはメディアの批判により、国家や地域の衰退を自覚する。彼らは焦る。そして、さらに過激な政策を主張する。この転落は、ヒトラーでも同じで、新しい敵を無理やりに作り出し、その殲滅をはじめる。

 沖縄は政府与党と敵対する。ギリシアはEUや移民と敵対する。中国は反日である。愛国左翼の危険性は、この時に大きくなる。左翼は小さく、町の片隅で反対運動を唱える分には、それに巻き込まれる被害者は少数ですむ。が、国家単位でその敵の撲滅運動をはじめると、大規模に国全体がそういう方向に進む。

 沖縄はもう一年以内に、すでにきつくなりはじめているが、さらに強く排外主義に覆われる。ギリシアがそうなり、移民排斥、反EUに進むのは時間の問題である。
 国家社会主義ほど危険な思想はない。沖縄やギリシアにはその萌芽がみられる。

 道徳教育法 素直
 素直な人間になるか、ひねくれた人間となるかは、教育にもかかっている。学校教育だけで、本人の性格全般を形成することはできない。が、学校で習ったことが精神的な指針になる人もいる。うっすらと社会全体に浸透する。素直になるこつを子供達に学校で教えておくと、少しは身につく。すると、日本人は全体的にそうなり、日本人の心は美しくなる。良い心になる。

 最近の子供は何かとよく知っていて、教師の言うことを素直に信じない。また違った受け取り方をする。物知りになったから、素直でなくなったのは一理ある。正しいことは素直に信じる。正しくないことは信じにくくなった。それがはっきりしただけである。要は、子供をだましにくくなった。子供はあいかわらず素直である。

 例えば、左派社会科教師の危険性を知る賢い子供は、社会科教師の嘘を見抜いて、信じない。特定の左翼思想を子供に教えることは、子供の思想信条の自由の侵害であるが、日教組は歴史教育の中にこっそり混ぜておけば、許容される、と思い込む。しかし、それも最近は発覚して、許されない。子供もわかるようになった。
 だが、「地域を大切にしよう。自分の育った町を大事にしよう。」、というスローガンは納得して、素直に実行してくれる。子供は素直でなくなったのではなく、賢くなったのである。

 「素直になる」とは、子供がそれを信じたということだ。子供は間違っているものは、素直に信じない。素直に言うことをきくも、同じだ。それをよいと思って、実行することにした、と子供が考えたのだ。泥棒の脅しには子供は従わない。親の納得できる言いつけならば、子供は従うだろう。素直は、簡単に信じるという態度ではない。

 素直とは、正しいものを信じる、そういう態度である。なぜなら、間違ったことを素直に信じるのはよくないからだ。子供はよくないことはしない。また、悪い人のたくらみを素直に行なうのはいけない。言いつけを子供に素直にきかせるには、その言いつけ(命令)が妥当でなくてはいけない。

 大人は子供に素直になりなさい、と言うことはできる。ただ、子供が素直になるかは、その命令、言葉が妥当か、もしくは正しいかにかかっている。よって無茶なことを要求して、それを子供が素直に受け入れるよう強制はできない。そういうのは会社でも家庭でも学校でもできない。なぜなら、無理な要求に対して子供は、まずできない、と思う。それをやることは、素直に応じない。

 子供が小さいうちは無理やりにやらせることはできても、大きくなるとまったくそのやり方では従わなくなる。しかし、子供が素直に従ったわけではない。子供なりの打算で「素直に従ったように」ふるまったのである。

 子供が大人の無理な要求に、素直に従った、と思うのは間違いである。子供は心の中では不平不満だらけだ。ただ強制されたときは、みかけ上、抵抗せずに従っただけである。素直には従ってはいない。反発しなかったからといって、素直に従ったわけではない。

 では、どんなときに素直になるか?
 それは正しいことを聞き入れるときだ。子供が納得することは素直に信じる。怪しいと思ったことは素直に信じない。子供が疑問に思うような言いつけは、子供が素直に行なわない。子供が納得しないことは、子供は素直に従わない。

 なお「素直に聞く。」と「黙って聞く。」とは違う。教師は新しい提案をすると、生徒がすぐに文句を言うのを嫌う。その反発を抑えるために、「素直に聞け。」大きな声で命令するのは適切ではない。「黙って聞け。」というのが正しい。子供は、聞いている間に、その新しい提案の善悪を考えているからだ。素直に受け入れてよいものかどうかを。

 子供に素直さが要求される前に、まずは大人が正しくなくてはいけない。犯罪者達に囲まれて、いつもずるをして、姑息なことをして人を騙すことしか考えてない大人の中に子供がいたら、当然、子供は素直にはならなくなる。素直さや正直さが、ルールの社会でなくては、子供は素直になろうとはしない。これは適応の問題である。


 先入観はある。あの教師はダメだよ、と地域で知られていると、その教師の言葉を、子供は従わない。子供は、地域の噂のほうを素直に信じてしまい、教師の言葉に疑いをもつからだ。
 親は(政治、世間)を語る才能がなく、めちゃくちゃなことを言う、と子供がわかってしまったら、その親のその面の話は、子供は信じない。話半分以下に聞く。これは、子供が素直なのではない。大人の見識が歪みすぎている。そのため、子供は大人の話を素直にきいてはいけない状況となっている。
 子供を素直にするには、大人はできるだけ正しい見識をもち、それを話さなくてはいけない。子供が素直に聞いてはいけないような話をしてはならない。子供が素直にきいてもよい話をしなくてはいけない。

 では、大人が正しいことを言っているのに、子供が素直に信じないときはどうするかか? それを教育しなくてはいけない。子供には素直にならないいくつかの理由がある。

 まずは先入観があって、それを信じない。知識(ある仮説や理論)を教えるとき、子供はそれを素直に信じるだろうか。子供がその話に対して、先入観をもっていたら、素直にきかないだろう。そのときは、子供の先入観を解いてやらなくてはいけない。

 またそのしゃべる大人が、悪人のケースもある。大人が嘘をついている、大人の言うことがおかしい。それを子供が察知すると、素直にきかない。大人は身の潔白を説明して、疑念を晴らす。それから、自分自身は信用のできる人と明らかにしなくてはならない。そうすると、子供は閉じていた心を開くだろう。
 
 では、素直にそれを信じる子供にするにはどうすればよいか?
 先入観でその真偽を判断しないことを教える。はじめから、他人の話を首を傾けて聞いていては、子供らしくない。あまりに先入観がある子供は、素直さから遠い。次に、相手の身なりや身分、評判、噂などで判断しないように教えること。彼の言葉そのものを純粋に考えて、それを信じるかどうかを決める、と教える。
 
 素直になるには、その言葉、命令そのものの善悪・真偽を先入観なく、見抜く知恵が必要だ。それを鍛えるよう指導する。

 知恵の少ない子供は、人や物事を信じやすく、疑うことを知らないから素直になる。またとても賢い子供は、すぐに善悪を見抜く。学校で大方は有益な知識を教えてもらうから、そんな子供は素直にきいている。彼は、善人の中では素直に振る舞い、悪人の中ではまったく素直さのかけらもみられなくなる。そして、小ざかしい子供や、小知恵をつけた子供は、素直さに欠ける傾向となる。

 子供を素直にしよう。そのためにはまず、大人が純粋でなくてはいけない。
 

本日の被害
 睡眠中に目を刺されたようだ。視野に横線が見える。
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2015年はナショナリズム形成期、道徳教育法-教師は尊敬される?

2015-01-29 12:01:45 | 電波犯罪
こんにちは 大阪は曇り。

 病み上がりで、ほぼ完全に治った。今日は何か、目覚めたようで素晴らしいことがかけた。

 「WILL」という雑誌、「蒟蒻問答」は堤堯と久保紘之の対談。いつも楽しみに立ち読みする。三月号は、「パリのテロより日本のテロだ!」というお題目。
堤氏は文芸春秋の元編集長で、日本の言論界でかつて最高峰にいた人物。なかなか教養があり、安定している。
http://web-wac.co.jp/magazine/will/
彼は西洋の教養を、珍しく日本人の中で、間違いなく使っているように聞こえるが、本当に西洋人の使い方と一致しているかはよくわからない。

 戦後と最近の政治に詳しいが、今後を示すヒントはあまりない。日本の雑誌界でトップを目指すなら、彼らの品評に耐えるものを書けばよい、と思った。

 彼は、ピケティが"経済成長率<資本家の成長率"を長々説明しただけ、と言った。世相に惑わされず(左派・労働者団体のピケティの過度な持ち上げ、格差論を国民に納得させ、給料をあげようとする計略)に彼は理論もみぬける。なかなかである。

 私はピケティをジョークのネタにしたけどな。とるに足らない理論だから。

2015年はナショナリズムの形成期

 日本の言論人はナショナリズムの本質を語れない。その理論を知らないからだ。それを説明しよう。

 最近はナショナリズムが世界各地に。2014年には、香港で雨傘革命。台湾でも学生が反対運動で活躍した。韓国で日本文化の排斥が強くなった。中国は反日運動が盛んだ。日本でも、韓国や中国を遠ざける運動が目立つ。ヨーロッパでは民族主義が強くなっている。これらは民族主義である。

 現在は、世界的にナショナリズムの形成期とみなせる。2014年は小さな組織単位だった。それが、2015年には沖縄全土に広がるなど、より大規模になっている。

 このナショナリズムには3タイプある。右と左、イスラムなどである。右は韓国、日本、台湾、ヨーロッパの諸国でみられる。左は中国・沖縄・ギリシア・ロシアで生じている。イスラムは、イスラム国である。

 特色としては、現時点は規模は小さく人口1000-4000万以下の地域である。文化が独特な小地域で、一部ジャンルで発生する。2014年では小国家を除き、国家全体に広がらなかった。が、2015年にギリシアでは左翼が政権与党となっている。その地域で支配的な思想(右・左)が台頭する傾向がある。

 政権は、このナショナリズムをうまく取り込んだほうが支持率が高い。日本の安倍首相、韓国の李ウネ、ロシアのプーチン、中国の習近平。アメリカでは共和党。沖縄では左翼政党、左翼政治家である。ヨーロッパではギリシアの左翼政権などである。

 日本の左派メディアが、ヨーロッパのナショナリズムを「極右」と表現するが、現在強まっているナショナリズムには、左のものをいくつか散見する。ナショナリズム=右と考えるのは間違いである。左のナショナリズム(沖縄型左翼、ギリシア左翼、ロシア左)もいる。

 このナショナリズムは、個人主義的だ。自らのアイデンテティを確立する。日本では、自己の民族性を再構築する運動だ。自身の民族とは何かを純粋に見直す。そのため、その他の要素(異文化、外国の影響)を取り除く。それ自体は悪くない。

 この民族主義は、時間が進むほど、自覚する民族・文化が大きな単位となる。

 どういうことかといえば、人間は育ちで、自身のアイデンテティを規定できる。枚方育ちならば、まずは枚方人としての自己、大阪人としての自己、関西人の自己、日本人としての自己。このように、自己のアイデンテティは。地域が大きくなるほど、広い文化としての自己を認識する。

 この社会的な自己を再構築する期間は、自分自身の地域性を確立するため、その他の文化面は取り除く。初期は、自己の地域性の確立である。時間がたつと、日本人としての自己を確立する。ここまではナショナリズムの形成にみえる。

 それが完了すると、さらに広域の自己を認識する。それは中華文化圏の一人としての自己となる。こうなると自分の信条の中にある中国思想の影響を、理解しなくてはならない。そのため、中国思想や韓国文化に関心をもつ。周辺文化にも親しく感じる。日本、中国、韓国、台湾が仲間となる。

 この段階にいたると、嫌韓や嫌中、反日は魅力がなくなる。中華文化圏の同一者としてお互いを認め合う。外部は、西欧文化やイスラム、東南アジアとなる。この段階は大中華主義だ。

 中華主義の次は、東アジア主義となる。アジア圏での協同が模索される。アジア圏とは、中華圏と東南アジア、チベットである。この後に、人類としての自己を認識する段階になる。この頃には、人類としての目標などが語られることがブームとなる。

 つまり、アイデンテティの形成期間は時間がたつと、

地域主義 → 国家主義 → 地域文化主義(大中華主義) → 地域主義(アジア主義) → 文化の対立→ 地球共同体主義

 に広がる。2015年にやっと国家主義に入った。次のより広域文化主義になるのは、2016年くらいだろう。

 現在、国家意識、民族精神の勃興は、世界共通だ。それは人類の課題として起きている流れだ。それをナショナリズムとして否定するのは、おろかなことだ。現在、世界中で各民族は、自らのアイデンテティを確定させる作業中だからだ。それを暖かく見守ろう。
 
 今、左に歪んでしまえば、あなたの民族は、自己のアイデンテティを確立できない。右は、この流れを強く自覚する者達で、過激にならなければよい。右はより好ましく人類のこのテーマを解決している。彼らナショナリストこそが、今の社会を主導する原理となって、ひっぱっている。

 道徳教育法 教師への尊敬
 戦前は教師を尊敬した。皆さん生徒は、教師の言葉によく従った。が、戦後、教師はしだいに軽んじられるようになった。教師の言葉を聞かない子供が増えた。では、再び、子供が教師を尊敬するようにできるだろうか?

 私は無理だと思う。もう教師は尊敬の対象ではない。まず、私が教師を尊敬したことがない。一度も。敬意は払っても。
 なぜ、尊敬しないか? これは各自の子供時代を思い返してみよう。尊敬していた人物は誰だったか? 豊臣秀吉? 徳川家康、諸葛孔明? イエス・キリスト?

 私は枚方育ちで、西行はため池をたくさん作り、そのため池で水不足が生じない、と教えられた。空海は四国の土手工事、ため池作り、さらには寺(一派)を建てて高野山にこもった偉人。西行は空海に劣る、と思った。そう思うと、西行の価値は下がった。こういう人々は尊敬に値する人だ。人格的にも、功績でも。

 それと比べて、教師は? ただ教えるだけではないか。私は女性教師が多かった。男性もいたが、尊敬の対象ではなかった。人格は見劣りする。感情に任せて怒り出して、小人だ。単なる教師ではないか。社会貢献も皆が賞賛するほどのことはしてない。

 尊敬を受けるには、人格的が卓越して、性格だけでなく、能力、さらには社会的にも評価されているなど、総合的な優位性をもっていなくてはならない。今の子供は、テレビでいろんな人物を見ている。教師はそれらテレビの中の芸能人、評論家、キャスター、スポーツ選手と比較される。そして、それでも立派な教師だけが尊敬される。

 昔は、テレビがなく、田舎では子供は優れた人物となかなか会うことがなかった。学校の先生か、医者、お寺の僧侶くらいしか尊敬される人物はいなかった。が、今では、子供も多くの人間を知っている。そんじょそこらの平均的な教師は尊敬されない。よほど優れてないと。

 敬意を持たれる。これは、部分的な能力が優れるだけでもよい。将棋・囲碁がうまいだけで、その点にのみ尊敬される。人格ではない。教え方がうまい。歴史のことを教師としてよく知っている。スポーツのできる先生。そういう部分的なものだけで、敬意を受けることはできる。そのくらいで満足しよう。

 ただ囲碁がうまいなら、大阪府でナンバーワンになるくらいならば、それだけで尊敬される。過去に大会でよい成績を残したことがあるなら、それは生徒に伝えるべきである。あまり軽んじられなくなり、敬意を受けるようになるだろう。

 全面的に敬服されるのは、今の時代、校長先生でも無理だ。一介の教師が、まだ人格がそれほど立派でもないのに、社会的な評価もないのに、偶然担任になっただけで、教師として自負があるだけで、それを生徒全員から受けようなど、欲張ってはいけない。

 全ての面で尊敬されなくても、一定の敬意を子供から受けたら、それで授業は成り立つ。それで満足しよう。

コメント

安倍内閣は戦後政治の過ちを正す 道徳教育法-尊敬

2015-01-28 11:35:55 | 電波犯罪
こんにちは 大阪は晴れ。

 病み上がり。草の中毒からやや回復。まだ万全ではない。

 安倍政権の方針  -- 戦後政治の間違いを正す

 安倍政権の基本方針は知らない人が多い。それで、噂に惑わされ、不安になる人がいるようだ。しかし、それを知っていると、今後の動向がよくみえる。また彼らが行なおうとしていることも、大枠を理解できる。

 「日本を取り戻す」という標語は、民主党が歪めた日本の諸制度を元に戻し、よりよくすることだ。それは自民政権に戻って最初にした。現在はさらにその先を進んでいる。
 安倍政権の政策で、注目されているものは、何か。円高是正。農協改革。朝日新聞の影響を落としたこと。中国への投資の減少。最近では、身代金要求を退けたこと。これらは、一つの大きな枠組みの中におさまる。それは、戦後の政治の歪みを正すことだった。それはかっての自民党ではできなかった。が、ようやく彼はそれに大胆に挑む。

 一つずつみていこう。
 円高是正
 デフレ克服の名目で、量的緩和を行なった。政策でインフレを目指す。これは、そもそも1990年代に西洋各国が量的緩和を行い、各国通貨を引き下げた。そして、日本だけがそれを行なわずに、円高が進んだ。輸出苦境に陥り、最終的には円高不況に突入した。国内の工場は海外に移転して、日本国内の雇用は小さくなり、特に、電器産業が衰退の一途をたどった。
 この円高は、1990年に始まり、その後20数年も日本を苦しめた元凶である。安倍政権はこれをやっと修正した。西洋諸国のように、量的緩和を始めたのである。平成での経済政策の大失敗を安倍政権は修正した。

 農協改革
 日本の農業は高齢者が担う。これは異常だ。若い者が働けない。それは農業補助のバラマキで、小農家を保護したからだ。その旧態依然とした農業を維持する上で、農協は強い力を発揮している。このままでは日本の農業は、高齢者がいなくなるころに壊滅する。この危機感が強い。農業改革は、その最大の抵抗勢力である農協を変えるしかない。農協への過保護というかつての政策を改め、農業の活性化のために、やっと政権は圧力をかけ始めたのである。
 
 朝日新聞の影響の低下
 日本の全共闘新聞のような左翼メディア。自民党はかつてこの影響力をそぐことはできなかった。しかし、世論の適正化のためには、虚偽をまきちらすことは是正しなくてはいけない。やっと、それが政治的にもできた。日本のメディアは、左傾化しすぎている。それを修正するのは、全共闘世代が勃興した時の世代の責任である。政権はこの点にはよく、配慮している。

 日本がテロリストにお金と捕囚を差し出すという悪評の修正
 ダッカで日本赤軍が航空機をハイジャック。日本政府は、身代金と犯罪者の解放を要求され、政府は14億円を払い、6人の獄中犯を解放した。これで世界から、「日本はテロを輸出する。」と非難された。
 安倍政権はテロに屈しないと欧米と同じ姿勢である。そして、身代金要求は拒絶したようで、湯川氏がISISに殺された。これは、ダッカ事件の反省から、そういうテロリストの要求には応じない、と日本は方針を改めたことを世界に印象づけるため、と思える。当然 もう一つの要求、獄中犯の解放にも応じない、と予想できる。

 中共への資本投入を下げる
 過去、日本政府は中共の要求に応え、民間に中国への資本投下を推奨していた。が、中国内の日本店や日本の工場が焼き討ちにあい、やっとそれは是正された。中国にゆく企業は激減した。が、最近、安倍氏はトップセールスで、また中国との経済交流をはじめる、という不可解な動きもみられる。

 北朝鮮への対応
 小泉政権で朝銀の破綻処理のため、公的資金約2兆円を野中広努が与えた。拉致被害者はそれで戻ってきたにしても、北朝鮮の資金源を絶つアメリカは激怒した。現在は、朝鮮総連の本部ビルは土地が売却される。厳しい態度で臨んでいるようだ。

 みての通り、日本政府は戦後政治の過ちを正している。

 まだ直っていない戦後政治の歪み、過ちはある。例えば、戦後中国に与えた日本軍の毒ガス兵器の処理に中国に大金を渡している。慰安婦問題は、日本の外交官が無策のため、世界に拡散した。いまだにその日本の評判の悪さは消えてない。教育界の是正もある。左翼日教組は戦後長らく、放置されてきた。いつか解体しなくてはならない。共産犯罪の野放しもある。共産の地下犯罪は20年も続くが、いまだにメディアがまったく報じないばかりか、誰も捕まらない。共産そのものを解散して終結させなくてはいけない。上記の他にも、自衛隊の法整備は急務である。過度な人権教育で、日本人の倫理観は低下したことで、道徳の復活。たくさんある。

 安倍政権は戦後政治の過ちを一つずつ修正している。この大きな方針さえ把握したら、今後の動向もわかる。彼らは長年できなかったことを、一つずつ確実に達成する。現在は、新規のものに挑戦することがメインではなく、従来の失敗を正すことが中心の内閣である。

 道徳教育法 尊敬
 「尊敬」とは何か? 彼らがすばらしいから尊敬する。では何がすばらしいのか? 自分にできないことをする。偉大なことをする。自分より優れたことを行なう。全てそうだ。彼ら尊敬される人は"能力が卓越"している。"優れた技術を使える(技能をもつ)"。尊敬とは、能力が上の人にいだく感情だ。また自分ができない技能を使える人にもつ感情だ。

 教師や親を敬う。それができない子が増えた。しかし、原点にかえると、彼らは子供よりも能力がある。それで尊敬に値する。そのように尊敬する理由を合理的に教えられる。

 最近の悪い風潮だが、「上から目線」という物言いがある。しかし、より上の見地から物を言っていることは、それ自体は悪いことではない。優れた見地には、何か真理が含まれているからだ。上から目線に反発するならば、それは己が下の視点しかもてないことを恥じるべきである。

 理由がわからなくても、彼らが強い、そう感じるならば、そこに優れたものがある。尊敬しなくてはいけない。尊敬する気になれなければ、敬意を表することを覚えなくてはいけない。間違った力によって強いならば、警戒しなくてはいけない。

 何も尊敬できない子供には、それら大人や先生のもつ能力のすばらしさを教えるべきだ。技能工がすばらしい仕事をする。スポーツ選手が常人にはできない運動をする。大学の先生がすばらしい理論を発表する。

 世界中にある様々な尊敬すべきこと(技能や技術、秘められた能力)を子供に体験させる。そして、尊敬させる。すると、子供は自分もそんな立派な人物になろう、と励むようになるだろう。

 あなたは尊敬されなくなった? それはみじめではない。子供達が君を超えたからだ。それはうれしいことだ。

 尊敬できないことに、子供は関心をもたない。それを学ぼうとはしない。これは尊敬できない先生から学ばないということではない。尊敬できない先生に対しては、その先生の独自のやり方を子供は認めないだけだ。その先生が教えることは、その先生のものではなく、教科書のものならば、それを誰が教えるかに関係なく、学ぶ。
 生徒に尊敬されなくなったら、それは教え方ではなく、人格的なものだ。教育には直接は関係ないから、教え続けることはできる。上手に教えていたら、子供はついてくる。

 世界には、無数に尊敬できる人がいることを教えよう。すると、子供は追い求める多数の理想をもつ。それらたくさんの技能や能力を身に着けることを目指す。大きく伸びることができるだろう。

本日の被害
 睡眠中に何か飲まされる。喉が乾いた感じとなる。皮膚がややむくんでいる。音声送信は、「鎮痛剤。」という。草毒の症状は出ているが、鎮痛剤で痛みは出てない。左目は刺された。

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