こんにちは。いつも新作を楽しみにしています。最近は村上さんが翻訳されたものをゆっくりと読んでいます。
さて唐突ですが、私は建築関係の業務に従事しています。カタルーニャ国際賞スピーチにおける“壊れた道路や建物を再建する”立場の人間です。現在は直接的に東日本大震災の復興に関する業務を行っているわけではありませんが、その推移や経過などは注視しています。震災に関する復旧や復興では津波対策としての堤防の建設や住宅の高台移転などが行われています。勿論、その他分野においても色々と事業が進んでいるかと思います。
ただ、これらの事業に関しては、個人的にもやもやとした違和感があります。もやもやとしたものを自分なりに考えてみると、それは本当にこれらの事業は必要なのかと感じていることです。具体的には、将来的な見通し(よく計画とかビジョンと呼ばれているものです)が不明瞭な中で急いで物事を進めていいものかと言う疑念です。しかし、阪神・淡路大震災でも問題になりましたが、生活基盤が迅速に復旧していかないと生きている人の生活が成り立たなくなる側面もあると感じます。将来的な見通しが不明瞭になるのは、将来予測がその当時の計画通りにならないということが実績としてあるためだと考えます。例えば、戦後やバブル期における将来人口計画は実際の人口動向とは明らかに異なります。また、将来的な見通しとは機械的に作る物ではなく、どうあるべきかという思想の基にあるべきものだと考えます。その思想に関する議論が全くなされていない現状では同じ失敗を何度でも繰り返すのではなかろうかと感じています。
村上さんはカタルーニャ国際賞スピーチの中で“損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき”という表現をされています。私はこの表現の内容がとても重要だと感じました(読み手の勝手な解釈であることは申し訳ありません)。未来のことを語るときに自分たちはどうあるべきか、どこに行こうとしているのかという視点を持たないと、人間の生活が工場の作業ラインのようになってしまうと思います。村上さんは小説、物語において何かしらの行動を起こされているかと思います。それは簡単に語れるものではないと思いますが、倫理や規範の再生について具体的にどうお考えになっているか教えていただけると幸いです。
(すなどり、 男性、 41歳、会社員)
長期的なグランド・プランがないまま、個別の「復旧」がばらばらに行われていくことに疑念を感じておられるということですね。たしかにそのとおりだと僕も思います。上に立って一貫した大きなあらすじをつくって、「こういう風な基本方針でやりましょう」ときっぱり示せる人がいないみたいですね。これは日本の政治のいわば体質的なもので、どうしようもないんじゃないかな、という無力感さえ感じます。あらすじがないまま、ローカルな目先の利害で物事が進んでいくことの怖さ。これは原発問題についても言えることですが。
それから僕がずっと気になっているのは、海砂問題です。阪神・淡路大震災のとき、高速道路の橋脚があっけなく崩れたのは、川砂ではなく海砂をつかったせいが大きく、その責任者が追及されなくてはならない、みたいなことが言われていましたが(当然ですね、そのためにたくさんの人が亡くなったのだから)、そういう追及って、ちゃんとされたのかな。あるいは僕が見逃しているのかもしれませんが、ついぞそんな話を耳にしません。僕はそのことが個人的にけっこう気になっています。そういうのをきちんとしておかないと、どこかでまた同じようなことが起こるのではないかと心配です。
村上春樹