スピリチュアルブームとはなんだったのかーーオウム真理教的集団主義から霊性的個人主義へ

私が以前書いたファウスト系論がなかなか好意的に受け止められ評判が盛況だったこととても嬉しく思います。

セカイ系以後の生存の技法――ファウスト系はどうサヴァイヴしたか - A Mental Hell’s Angel

このエントリがどういう経緯のもと書かれたのか、あるいはスピリチュアリティといったものが現代的にどうして論述されるべきなのか、そうした文化的背景と理論的妥当性について少々書かせていただきたいと存じます。

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現代社会とは、といった大上段から論じるのも気が引けますが、しかしまぁそれは良しとして、いわゆるポストモダンでも後期近代でも再帰的近代でもポスト産業社会でもハイパーリアルでもなんでもかまいませんが、現代社会なるものがいわゆる単純な「近代性」=「モダニティ」を剰余するような構造体であるということは、人文社会科学において広く承認された考えです。仮に完全に自然科学の領野に属する人であろうと、現代が情報社会であり、今後も現今の自然な延長として技術的な変容を被りそして成していくであろうこと、これを認めない方はおられないでしょう。それが仮想現実なのか拡張現実なのかもペンディングとしておきましょう。個人的にはその絡み合い以外ではありえないと思いますが、それについてはいずれ別の機会に。

ちなみに私はいまちょっと依頼で幾原邦彦論のほう書かせて頂いておりまして、きちんと書ければあるポータルに載るかと思います。執筆に際して私が直面せざるをえなかった問題とは、『輪るピングドラム』における「九十五年問題」です。

日本文化史において九十五年が一種のメルクマールとなることはおよそ疑いようがございません。すなわち、阪神淡路大震災Windows95の発売、そしてオウム真理教による集団的な暴力。これらが画期となり1995年以前/以後といった時代区分とまたそれに付帯するプロブレマティック=問題設定が生じてくるわけです。

かくして私たちは当然の理路として、オウム真理教とは何だったのかということを問わざるをえません。それは戦後日本社会がある流れのなかにおいて必然的に孕んでしまった悲劇であり、日本の問題、そしてそれを含む近代の問題そのものであるからです。私たちがそれを思考せねばならないこと、その義務性は、たとえるならば戦後ドイツがアウシュヴィッツについて、ナチズムについて、思考しそしてその罪を贖う必要性があったことと同型です。また論理的にも、ナチズムオウム真理教の類似性は指摘されております。(参考:オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義)

その本質とはなにか、それはすなわち「近代の生み出した野蛮」、「近代による半近代主義」、そしてその実装としての「集団主義的・官僚主義的な虐殺」です。その思想的背景となっているナチス的な優生学と、オウム的な選民主義が、どちらも排外主義的な虐殺へと結実したわけです。

さて、ここで問題となるのは、学術的な分析のみならず、ジャンクなサブカルチャーの問題であることに、お気づきの方もおられることでしょう。ナチスドイツにせよオウム真理教にせよ、そのどちらもが反近代的な、あるいは前近代的なシンボルやエンブレムを多用し、また彼らが強くオカルティズムに傾倒していたことはよく知られております。それは実に幼く、理論的には瑕疵だらけ、しかしその未熟さことが人々の欲望、不安なる中間層の要求に合致したわけです。

彼らのアンチモダニズムは、当然定義上近代への疑義として、すなわち反抗として生じたものですが、同時にそうした疑義の発せられる地平そのものが近代によって整備されたものです。

なぜなら彼らが取ったある種の集団主義的な虐殺はまさしく近代的なビューロクラシーによって敢行されたからです。これをポール・ド・マン的なフォーム/コンテントのシェーマで言えば、近代的なフォーム=形式のもとに反近代的なコンテント=内容が流し込まれていると言えるかもしれません。

斯くの如くして、ある時期までの社会の趨勢として、宗教的意匠による集団主義的な虐殺の形態があった。このように概括してもおよそ問題はないかと思われます。

しかし、その転機として、前述の「九十五年」の転換点がある、そのような話です。

こうした論点はもちろん論壇や文壇における常識のようなものでして、ここまでの話はそこそこよくできたチャート式の解説に他なりません。ここからが私の主張になります。さて、それでは九十五年以後の社会とは、あるいは文化とはなんであったのか、そして現在なんであるのか。それについて正確に論述しきることはおそらく完遂できないでしょうが、可能な限り精緻にそれに肉薄してみましょう。

ひとまず、また早速再び論壇の議論をリファーすることをご寛恕願いたいのですけれど、九十五年以後はポストエヴァンゲリオンの時代でもあります。それはバブル崩壊によるデフレ不況の世相とも相まって、エヴァ的なトラウマ文化、メンヘラカルチャー、心理主義、ひきこもり問題やオタクの通俗化などが生じて参りました。

これらはもちろん弁証法的過程としてあります。近代、反近代、脱近代。社会体の構成員たるところの諸主体=エージェントの折衝において生じる力学=ダイナミクス。その動向のマルキシズム的な唯物論的分析をしているわけです。

このようなプロセス=過程において、従来のエピステーメーとは異なる別種のプロセッシング=情報処理が生じます。もちろんフレームワークが変わればその情報処理方式も転換しますので当然のことです。いわゆる「九十年代的な心理主義」と「ゼロ年代的な決断主義」とは、それ以前の思潮とはどのような差異を持つのか。それは前述の「集団主義」と連関します。

すなわちオウム真理教とは、社会的なコモンセンスにうまくアダプトできなかった主体を吸引し集団テロへと駆り立てる装置だったと総括できます。しかし、オウム以後においてはその装置は機能不全に陥ります。それは俗な表現をすればマスメディアによるバッシングと宗教的話題に対する自主規制によるものです。マスメディアが大衆に情報を発信しており、それが社会的な総意なるものを仮構しまた代理=表象するわけですから、それがのちの世相を一定以上に規定したと述べても、メディア論的に問題はありません。もちろん単純化されているという問題はあり、その他の論点として、集団形成についての規定だけではなく、諸主体の側の欲望自体の変化がある。ラカン精神分析を援用するまでもなく、人間の欲望とは他者の欲望です。それは模倣=ミメーシスによって形成されます。そのナチス的ないしはオウム的な欲望のミメーシスの回路、シミュラークルの循環経路そのものが弱体化した、これが重要です。

より簡潔に言います。「九十年代的な心理主義」と「ゼロ年代的な決断主義」といったもの、この両者はスペクトル的に繋がっており、本質的には延長上の以降でしかありません。その二つの共通点とは、実は「反集団主義」=「個人主義」なのです。

もちろんそもそも、社会学の基礎的な分析として、近代とはそもそもアトム化の時代であり個人主義の時代です。とはいえ過渡期にあっては個人化への反作用が生じます。それが反近代的な熱狂や祝祭による一体感です。ナチス民族主義を、オウムはシヴァ神信仰を採用し、一方はヒトラーを、他方は麻原を崇め奉りました。それはどちらもシステム論的には機能的等価物です。つまるところなんでもいい。ジャンクな記号表現です。

こうしたものへの反省として、あるいは弁証法的な綜合として、政治的に正しい穏当な個人主義が浸透します。それは孤独であることが所与であるような世界、あるいはセカイに他なりません。冒頭のエントリはそうしたセカイの問題が文芸においてはファウスト系として表現されたといったことを論述してあります。私が執筆している背景はこうしたものです。

仮に「セカイ系サブジェクト」と「サヴァイヴ系的サブジェクト」とそれぞれの主体を呼ぶとして、それらの共通性は詳らかになったかと思います。しかし、問題はそもそも個人主義の孤独さ、寄る辺のなさであったことを看過してはなりません。セカイ系サヴァイヴ系も主体が取りうる生存戦略であり、またそれ以外の生存の技法も存在するからです。

ここでスピリチュアリティの存在が重要になる、それが私の考えです。私の考えも何も、そもそもゼロ年代のテレビジョンにおいて、スピリチュアル系が跳梁跋扈していたことなんて指摘するまでもない。にも関わらず批評の言語はそれをほとんど直視していない。それが問題です。

スピリチュアリティの理論的な側面については冒頭のエントリについてお読みいただければと存じます。それではより社会的な趨勢としてのスピリチュアルブームについてです。

これはさきほども述べたようにゼロ年代の様々なる文化的なシーンにおいて繁茂したものです。あえて固有名は挙げませんが、幾人もの有名人がそこで偉そうに虚妄を垂れ流していました。私が文芸においてスピリチュアルの問題を最も真摯に思考しそれを実践したと考えているのが滝本竜彦です。それについては論じました。

滝本竜彦はもちろんエヴァンゲリオン直撃世代です。内向的なひきこもりで心理主義そのもの、セカイ系的なメンヘラです。その彼が決断主義ではなくスピリチュアルを最適なソリューションとして出したこと、これは重要なことです。あるいは「セカイ系的な留保からスピリチュアルの選択を決断した」と言えば収まりが良いでしょうか。

こうした動向について要約すると次のようになります。「宗教的集団主義的虐殺の時代が終わりスピリチュアルな個人主義的テロルの時代が現代である」。

これは軍事的に言い換えれば、冷戦構造の崩壊後のグローバル化によって戦争の時代からテロルの時代に移行したこととパラレルです。現今のイスラーム国問題もまたこのような視座から眺めないと理解できません。

イスラーム国など存在しないーーテロルのメディア論に向けて - A Mental Hell’s Angel

おおよそ現在私が考えていることについて論述は終わりました。予定より長文になってしまいましたが、お読みくださった方に感謝のほど申し上げます。それでは。