即身仏のページ
第四章 思想背景ごとにみた即身仏
湯殿山系
仏海上人
11・仏海上人
文政11年5月9日、村上市安良町の近藤家の長男として出生。18歳で湯殿山注連寺に入門し、さらに本明寺で修行。その間15年にわたって仙人沢で荒行を重ね、伊豆天城山や海向寺でも修行をしている。35歳のとき、五穀絶ちの木食行をはじめ、明治36年まで41年間も苦行を続けた。慶應3年、37歳で本明寺の住職となり、明治7年には観世音寺に戻った。明治21年5月、注連寺が全焼したため注連寺住職となり復興、再び故郷へ帰り明治36年に76歳で入定した唯一の20世紀即身仏である。
仏海上人は激動期の湯殿山で本明寺住職をつとめていた。文政11年(1828)越後の国岩船郡村上城下に誕生、俗名近藤庄次郎。弘化二年(1845)、注連寺快音住職に弟子入り。文久3年(1963)35歳で木食行を開始、元治元年(1867)仙人沢籠りを開始、慶應3年(1867)本明寺の住職に着任。明治6年、神仏分離例により出羽三山が神道の山となり、仏海上人は下山して故郷、村上に戻り観音寺の住職に就任。観音寺は湯殿山系行人寺の一つである。祈祷料やお布施はそのままお金に困った信者に渡したり、大晦日に近隣の困窮家庭に現金を投げ入れたりした。死の二年ほど前に宮大工に石室を建造させ、漆を飲み始めた。即身仏になろうとすることを官憲にばれ、自殺行為はまかりならんと指し止めをくらった。病死となっているが、別の言い伝えでは土中入定を遂げたが官憲の目を欺くために病死ということにしたとなっている。信者たちに3年後の発掘を遺言していたというが、明治新政府の各種法令によりその約束は果たされなかった。昭和36年、死から57年後に発掘された。
仏海上人の湯殿山での修行は燃え盛る一束の線香を手に川下に飛び込み、失神して川下に流される、左手の掌に油を注ぎ、それに灯心を入れて火を点じるなどと伝わっている。死の数年前から木食行に加えて漆を一匁ずつ飲んで脂肪分を落としていた。死ぬ前に自分で墓を作り、何遍も墓の中に入って座り心地を試して、生きながら墓に入って入定したいと希望していた。
日清戦争のときには日赤へ4000円の寄付をしたり、80名の弟子を育てたり、貧民救済したりと、即身仏志願して無欲となり浄財を社会福祉事業に使うの繰り返しに生涯を終えた。上人の業績は7度も役所から表彰を受けるほどであり、信者からも非常に慕われていた。生前の上人を知る斉藤キヨさんは「上人さまが亡くなられたとき、湯灌した水を、みんなでのんだものです」と話をしている。
仏海証人はオアカとよばれる粉末を湯殿山からとってきて信者に与えていた。また、明治のころ湯殿山神体から出るお湯を乾燥させて売り出した者もいた。この主な成分は硫酸亜酸化鉄である。これは神仙思想で飲まれた仙人薬の成分にも含まれるものである。
昭和36年7月7日(没後58年)、ミイラ研究グループによる仏海上人の入定墓発掘が行われた。本明海上人も真如海上人も松板で棺をつくり、水はけのよい場所を選んで地中入定したと伝承されているが、実物は消滅している。松板は即身仏となるための入定には頻繁に利用されていた。
発掘作業は観世音時境内本堂裏手「大悲院仏海上人墓」の除去からはじまった。墓石の重さ400kg、下の台石は300kg、その下は茶色の乾いた砂壌土となっていた。地表下1.2メートルのところに石蓋で蓋をされていた。この蓋は3枚の切石が用いられている。この石は村上市西方の下渡山から採取されたもので、一枚の長さは約30cmである。石蓋の下は石組みの井戸になっていて、上人の入った木棺がその中に入っていた。井戸の深さは約70cmで、木棺と周囲の壁面との間にはほとんど隙間なく置かれていた。井戸の穴の上端から約1.5メートルの深さの場所に鉄棒を横に数本渡し、その上に木棺は安置されており、墓底から60センチほど浮いていた。木棺が湧き水などにつかって腐らぬように鉄組の棚の上にのせて宙吊りするように工夫されている。
木棺の厚さは3.5センチほどの松板、縦横60センチ四方、高さは80センチ。木棺の上蓋は左隅が腐っていた。
棺内には、遺体の下半分が埋まるほどのおがくずが詰められていた。遺体もくずれ落ちていて手がつけられないほど破損していたため新潟大学医学部へ運び復元処理を行った。即身仏は頭を前に垂れ、背中がアーチ状に湾曲していた。遺体は崩れそうなので、晒し木綿にくるみ、数ヶ月間ホルマリン噴霧し、自然乾燥剤によって乾燥させた。
文政11年5月9日、村上市安良町の近藤家の長男として出生。18歳で湯殿山注連寺に入門し、さらに本明寺で修行。その間15年にわたって仙人沢で荒行を重ね、伊豆天城山や海向寺でも修行をしている。35歳のとき、五穀絶ちの木食行をはじめ、明治36年まで41年間も苦行を続けた。慶應3年、37歳で本明寺の住職となり、明治7年には観世音寺に戻った。明治21年5月、注連寺が全焼したため注連寺住職となり復興、再び故郷へ帰り明治36年に76歳で入定した唯一の20世紀即身仏である。
仏海上人は激動期の湯殿山で本明寺住職をつとめていた。文政11年(1828)越後の国岩船郡村上城下に誕生、俗名近藤庄次郎。弘化二年(1845)、注連寺快音住職に弟子入り。文久3年(1963)35歳で木食行を開始、元治元年(1867)仙人沢籠りを開始、慶應3年(1867)本明寺の住職に着任。明治6年、神仏分離例により出羽三山が神道の山となり、仏海上人は下山して故郷、村上に戻り観音寺の住職に就任。観音寺は湯殿山系行人寺の一つである。祈祷料やお布施はそのままお金に困った信者に渡したり、大晦日に近隣の困窮家庭に現金を投げ入れたりした。死の二年ほど前に宮大工に石室を建造させ、漆を飲み始めた。即身仏になろうとすることを官憲にばれ、自殺行為はまかりならんと指し止めをくらった。病死となっているが、別の言い伝えでは土中入定を遂げたが官憲の目を欺くために病死ということにしたとなっている。信者たちに3年後の発掘を遺言していたというが、明治新政府の各種法令によりその約束は果たされなかった。昭和36年、死から57年後に発掘された。
仏海上人の湯殿山での修行は燃え盛る一束の線香を手に川下に飛び込み、失神して川下に流される、左手の掌に油を注ぎ、それに灯心を入れて火を点じるなどと伝わっている。死の数年前から木食行に加えて漆を一匁ずつ飲んで脂肪分を落としていた。死ぬ前に自分で墓を作り、何遍も墓の中に入って座り心地を試して、生きながら墓に入って入定したいと希望していた。
日清戦争のときには日赤へ4000円の寄付をしたり、80名の弟子を育てたり、貧民救済したりと、即身仏志願して無欲となり浄財を社会福祉事業に使うの繰り返しに生涯を終えた。上人の業績は7度も役所から表彰を受けるほどであり、信者からも非常に慕われていた。生前の上人を知る斉藤キヨさんは「上人さまが亡くなられたとき、湯灌した水を、みんなでのんだものです」と話をしている。
仏海証人はオアカとよばれる粉末を湯殿山からとってきて信者に与えていた。また、明治のころ湯殿山神体から出るお湯を乾燥させて売り出した者もいた。この主な成分は硫酸亜酸化鉄である。これは神仙思想で飲まれた仙人薬の成分にも含まれるものである。
昭和36年7月7日(没後58年)、ミイラ研究グループによる仏海上人の入定墓発掘が行われた。本明海上人も真如海上人も松板で棺をつくり、水はけのよい場所を選んで地中入定したと伝承されているが、実物は消滅している。松板は即身仏となるための入定には頻繁に利用されていた。
発掘作業は観世音時境内本堂裏手「大悲院仏海上人墓」の除去からはじまった。墓石の重さ400kg、下の台石は300kg、その下は茶色の乾いた砂壌土となっていた。地表下1.2メートルのところに石蓋で蓋をされていた。この蓋は3枚の切石が用いられている。この石は村上市西方の下渡山から採取されたもので、一枚の長さは約30cmである。石蓋の下は石組みの井戸になっていて、上人の入った木棺がその中に入っていた。井戸の深さは約70cmで、木棺と周囲の壁面との間にはほとんど隙間なく置かれていた。井戸の穴の上端から約1.5メートルの深さの場所に鉄棒を横に数本渡し、その上に木棺は安置されており、墓底から60センチほど浮いていた。木棺が湧き水などにつかって腐らぬように鉄組の棚の上にのせて宙吊りするように工夫されている。
木棺の厚さは3.5センチほどの松板、縦横60センチ四方、高さは80センチ。木棺の上蓋は左隅が腐っていた。
棺内には、遺体の下半分が埋まるほどのおがくずが詰められていた。遺体もくずれ落ちていて手がつけられないほど破損していたため新潟大学医学部へ運び復元処理を行った。即身仏は頭を前に垂れ、背中がアーチ状に湾曲していた。遺体は崩れそうなので、晒し木綿にくるみ、数ヶ月間ホルマリン噴霧し、自然乾燥剤によって乾燥させた。
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