2015-02-11 12:21:18
陳舜臣は「中国人作家」だったのか:その複雑な国籍の変遷を考える
テーマ:その他
陳舜臣は「中国人作家」だったのか:その複雑な国籍の変遷を考える
先日亡くなった陳舜臣さんの国籍問題を深めて考えてみた日本、台湾、中国の三角関係をめぐる試論です。
*国際情報サイトフォーサイトに執筆したものです。
「台湾出身の華人作家」と呼ぶべき(享年90)(C)時事
陳舜臣という戦後日本で傑出した実績を残した大作家の死について、日本のメディアの報道は総じて浅かったし、薄かった。
生涯に100冊以上の著書を残し、「江戸川乱歩賞」「直木賞」「大佛次郎賞」「吉川英治文学賞」「日本芸術院賞」など、ありとあらゆる文学関連賞を総なめにしたその実績からすれば、陳舜臣は国民的作家と呼ばれてもおかしくない。やはり日本人ではないからだろうか、あるいは、すでに病床に入って10年が経過して最近の文壇で存在感が薄かったせいだろうか。各社の文芸記者による評伝の書き方にも今ひとつ、迫力を感じなかった。付き合いのあった記者やライターたちがすでに第一線を退き、陳舜臣と直に語り合ったことがない人間が訃報や評伝を書かざるを得なかったことも響いたのかも知れない。
逆に、報道ぶりはむしろ中国や台湾のほうが熱心で、かの地のメディアでは陳舜臣の作品や生涯についていろいろと活発に語られていた。『阿片戦争』や『小説十八史略』などは中国などでもよく読まれていたという。陳舜臣の言論がそれなりに「愛国的」であったことも、中国のメディアにとっては取り上げやすい一因だったに違いない。
ただ、日本でも中国でも台湾でも、訃報の取り上げ方で私にとって特に物足りなかったのは、陳舜臣の生涯を「どんな本を書いた」とか「どんな賞を取った」という表面的な事象で紹介するのみで、彼の人生の変転ぶりについて詳しく触れていなかったことだ。
陳舜臣という作家の90年間におよぶ長い人生は、それ自体が、戦後の日本、中国、台湾の複雑な関係を見事に浮かび上がらせる「物語」である。その死に際しては、その点を語らなければ、いくら偉大な実績を美辞麗句でほめたたえたとしても、故人を送るにふさわしい言葉にはならない。
陳舜臣の国籍は?
陳舜臣の一族はもともと福建省から台湾に渡った福建人の移民の家系で、台北郊外の新荘というところで小作をやっていた。商才のあった祖父の代から神戸と台湾との間で商取引を始め、台湾が日本領になり、父の代になって一家で日本に移民し、1924年に陳舜臣が生まれた。陳舜臣は大阪外語大学に入り、インド語を専攻した。1年上の先輩には、モンゴル語を学ぶ司馬遼太郎がいた。2人の関係は、在学中はまだ面識のある程度だったが、その後、作家活動を始めてからは刎頸の友となる。
陳舜臣の国籍問題については、総じてこんな風に紹介されている。
「1973年に台湾の中華民国国籍から中華人民共和国籍に切り替えたが、天安門事件をきっかけに中国に失望し、1990年に日本籍を取得した」
しかし、調べてみると、どうもそんな単純な話ではないようである。そのことは、陳舜臣の著作をめぐる台湾での著作権紛争から浮かび上がってくる。日本では紹介されていない事例なので詳しく書いておきたい。
陳舜臣には『諸葛孔明』(中央公論新社)というヒット作があり、台湾の「大村出版」という出版社は、1991年に台湾でこの本を翻訳出版した。当時の台湾はまだ外国書籍の著作権保護という概念のない世界で、日本人の著作物の権利を保護していなかった。陳舜臣は日本人なので、それ自体は台湾において違法行為ではなかった。
ところが、同じ年の10月に「遠流出版」という出版社と陳舜臣は契約を交わし、『諸葛孔明』『太平天国』『阿片戦争』などの代表作を一括して台湾で出版する独占出版権を与えたのである。そのあと、すでに台湾で『諸葛孔明』の翻訳が出版されていることが分かり、大騒ぎになった。
正確には「台湾出身の華人作家」
遠流出版は当然、契約に基づいて、大村出版に本の回収を要請した。しかし、大村出版は陳舜臣が日本人だとして、著作権侵害にあたらないので、回収を拒否した。争いは法廷に持ち込まれ、焦点は陳舜臣が本当に日本人なのか、あるいは、台湾、つまり中華民国の国籍を有しているのかに絞られた。
陳舜臣が1990年から日本国籍を有していることはすでに公の場で明らかにされていることだったから、大村出版は、中華民国籍を放棄しているものと信じていた。しかし、調査の結果、陳舜臣は1945年以降に数年間、台湾で生活したときに中華民国籍になり、日本に戻ったときも中華民国のパスポートで渡航し、その後、一度も中華民国の国籍を放棄したことを表明していなかったことが判明したのである。
遠流出版が内政部と呼ばれる戸籍を扱う役所に問い合わせた結果、「1991年3月19日第81戸司発行8150103号」という文書で「台湾の光復(筆者注:中国復帰)時点で台湾に居住していた者は中華民国籍を有するとみなされ、陳舜臣は国籍放棄を表明しておらず、現時点でも中華民国の国籍を有している」という解釈が出ているので、これは法的には間違いなさそうだ。この結果、大村出版も『諸葛孔明』の回収に応じざるを得なかった。
ここで明らかになったことから、陳舜臣の国籍問題については、おおよそ次のような流れで整理することができるに違いない。
陳舜臣は1945年以前、台湾出身の日本人だった。1945年に日本が敗戦し、台湾を放棄したあと、台湾に一時的に戻った陳舜臣は中華民国の国民になり、日本に帰ったあとも一貫して中華民国籍だった。その後、1973年に中華人民共和国のパスポートを取得したのだが、台湾側に中華民国籍の放棄を申請しなかったので、事実上、「中台二重国籍」状態になっていた。
その後、1990年に日本籍に入るときも中華人民共和国の国籍放棄は表明したものの、中華民国籍の放棄は特にアクションを取っていなかったため、今度は日本と台湾との間で「日台二重国籍」状態になっていたのである。
訃報のなかで陳舜臣を「中国人作家」(朝日新聞)と評したところもあったが、ここは慎重な検討が必要であるに違いない。陳舜臣自身、中国人と呼ばれることに不満はなかったようだが、やはり正確な定義という意味で考えれば、陳舜臣という人は中国大陸には1度も住んだことがなく、現時点では中華人民共和国の国籍も有していないことを考えれば、「中国人作家」ではなく、「台湾出身の華人作家」と呼ぶことが正確かつ適当ではないかというふうに思える。
「国籍を選ぶ」という人生の決断
もう1つの興味深いポイントは、陳舜臣がなぜ1973年に中華人民共和国籍に切り替えたのかだ。1972年の日華断交と日中国交正常化が1つの契機になったことは間違いない。
当時の切り抜きなどを調べてみると、国籍を切り替える理由として、国交正常化で日本から中国への取材や資料収集がしやすくなったが、大陸と敵対する中華民国籍では中国に行きにくかったことが大きかったと、自分自身で説明している。そこに政治的理由や時流に乗る目的はなかったように思える。
1972年という年は、多くの日本在住の台湾出身者に究極の選択を突きつけた。ジュディ・オングの一家は中華民国籍を手放して日本籍になった。浙江省出身の父親同様に中華民国籍である王貞治は、「もしも中華人民共和国籍や日本籍に変えたら、その行為が政治的意味を持ってしまう」という考えから、中華民国籍に踏みとどまった。その当時、それぞれの人々が、いまとは違う次元の深刻さで「国籍を選ぶ」という人生の決断に向き合わなければならない時代だった
台湾出身者で、日本で育った人はたいてい2つのタイプに分かれる。1つは台湾への強いアイデンティティを感じ、国民党の圧政と闘った経験もあり、台湾は中国と違うことを主張する人々である。それが金美齢氏や黄文雄氏のような人々だ。
一方で、台湾を含めた「中華」という立場に立とうとする人々もいる。作家でこれもすでに亡くなった邱永漢氏や陳舜臣氏がそうであった。ジュディ・オングもそれにあたるだろう。そのことは、善し悪しの問題ではない。誰もが「故郷は台湾」という点には疑いを持たないが、そのアイデンティティの広がりを、台湾海峡の内側で区切るのか、あるいは大陸まで延ばすかの違いであり、それに政治的な弾圧を本人や家族が受けたかどうかなどの個人的体験も加わってくる。
「おれは支那人だ!」
この国籍問題と陳舜臣の自己アイデンティティの形成がどこまで関係していたのかは、非常に深いテーマである。陳舜臣は戦前、日本社会で差別を受けていたことから、逆に中国人アイデンティティを意識したことがうかがえる。
陳舜臣の自伝的小説『青雲の軸』(集英社文庫)によれば、「ちんしゅんしん」という日本語の名前の読みにかけていると思われる「陳俊仁」という主人公が神戸で学校に通っていたとき、教師がたまたま「支那人」という言葉を口にした。これに対し、教室では「級友たちの目が、申し合わせたように、陳俊仁のほうにあつまったことがあった」。
これに気づいた教師が「陳は支那人じゃない、台湾は日本領だから日本人だぞ」と付け加えたことにかえってショックを受け、「支那人がなぜいけないんだ? おれは支那人だ!」と心のなかで叫んだ体験が記されている。
また、陳舜臣は『阿片戦争』の執筆動機を、こう語っている。
「私は生まれたとき(1924年)は台湾人であった。しかし、日清戦争によって日本人になり、20歳ごろに今度は中国人に変わった。私の運命をこのように翻弄したものが一体なんであるのか、本当に探求したいのです」
ここで陳舜臣が言う「中国人」とは、中華人民共和国国民というわけではなく、広い意味での「中国人」であることは言うまでもない。
もっと記録・回顧されるべき生涯
中国へのこだわりは、作家としての活動からもしばしばうかがえる。陳舜臣はシルクロードや故宮について強い関心を示し、中国へも定期的に通った。日中関係については常に積極的に発言し、日本人の「中国理解」についていろいろな提言を行った。司馬遼太郎は陳舜臣の中国人論や中国歴史の著述について、「戦後の日本人に中国の歴史を理解させたのは陳舜臣以外にいない」との評価を残した。
ただ、晩年は故郷の台湾への思いを強めたのかもしれない。出版騒動で自らの中華民国籍が生きていたことを知ったこともあったのか、陳舜臣は2003年、台湾の戸籍を回復する意向を示したことがある。戸籍回復と国籍は別のことなのだが、妻の蔡錦墩さん(すでに故人)と一緒に台湾を訪れ、台湾北部の淡水に戸籍を置いたというニュースが報じられている。その後、どの程度の時間、台湾に暮らすことができたのかは分からない。体調を崩していたので、台湾との往来はままならなかったかも知れないと想像する。
日本社会は、陳舜臣から文学と歴史を通した中国理解という形で、多くのプレゼントをもらった。陳舜臣という人間の生き様には東アジアの錯綜した近代史がぎっしり詰まっており、そんな時代が作り上げた1つの個性だからこそなし得ることだった。そのことに感謝するうえでも、その生涯はもっと丁寧に記録・回顧されることが望ましく、ここで取り上げた陳舜臣の国籍問題が、その人生を理解する1つの切り口となるのではないだろうか。
先日亡くなった陳舜臣さんの国籍問題を深めて考えてみた日本、台湾、中国の三角関係をめぐる試論です。
*国際情報サイトフォーサイトに執筆したものです。
「台湾出身の華人作家」と呼ぶべき(享年90)(C)時事
陳舜臣という戦後日本で傑出した実績を残した大作家の死について、日本のメディアの報道は総じて浅かったし、薄かった。
生涯に100冊以上の著書を残し、「江戸川乱歩賞」「直木賞」「大佛次郎賞」「吉川英治文学賞」「日本芸術院賞」など、ありとあらゆる文学関連賞を総なめにしたその実績からすれば、陳舜臣は国民的作家と呼ばれてもおかしくない。やはり日本人ではないからだろうか、あるいは、すでに病床に入って10年が経過して最近の文壇で存在感が薄かったせいだろうか。各社の文芸記者による評伝の書き方にも今ひとつ、迫力を感じなかった。付き合いのあった記者やライターたちがすでに第一線を退き、陳舜臣と直に語り合ったことがない人間が訃報や評伝を書かざるを得なかったことも響いたのかも知れない。
逆に、報道ぶりはむしろ中国や台湾のほうが熱心で、かの地のメディアでは陳舜臣の作品や生涯についていろいろと活発に語られていた。『阿片戦争』や『小説十八史略』などは中国などでもよく読まれていたという。陳舜臣の言論がそれなりに「愛国的」であったことも、中国のメディアにとっては取り上げやすい一因だったに違いない。
ただ、日本でも中国でも台湾でも、訃報の取り上げ方で私にとって特に物足りなかったのは、陳舜臣の生涯を「どんな本を書いた」とか「どんな賞を取った」という表面的な事象で紹介するのみで、彼の人生の変転ぶりについて詳しく触れていなかったことだ。
陳舜臣という作家の90年間におよぶ長い人生は、それ自体が、戦後の日本、中国、台湾の複雑な関係を見事に浮かび上がらせる「物語」である。その死に際しては、その点を語らなければ、いくら偉大な実績を美辞麗句でほめたたえたとしても、故人を送るにふさわしい言葉にはならない。
陳舜臣の国籍は?
陳舜臣の一族はもともと福建省から台湾に渡った福建人の移民の家系で、台北郊外の新荘というところで小作をやっていた。商才のあった祖父の代から神戸と台湾との間で商取引を始め、台湾が日本領になり、父の代になって一家で日本に移民し、1924年に陳舜臣が生まれた。陳舜臣は大阪外語大学に入り、インド語を専攻した。1年上の先輩には、モンゴル語を学ぶ司馬遼太郎がいた。2人の関係は、在学中はまだ面識のある程度だったが、その後、作家活動を始めてからは刎頸の友となる。
陳舜臣の国籍問題については、総じてこんな風に紹介されている。
「1973年に台湾の中華民国国籍から中華人民共和国籍に切り替えたが、天安門事件をきっかけに中国に失望し、1990年に日本籍を取得した」
しかし、調べてみると、どうもそんな単純な話ではないようである。そのことは、陳舜臣の著作をめぐる台湾での著作権紛争から浮かび上がってくる。日本では紹介されていない事例なので詳しく書いておきたい。
陳舜臣には『諸葛孔明』(中央公論新社)というヒット作があり、台湾の「大村出版」という出版社は、1991年に台湾でこの本を翻訳出版した。当時の台湾はまだ外国書籍の著作権保護という概念のない世界で、日本人の著作物の権利を保護していなかった。陳舜臣は日本人なので、それ自体は台湾において違法行為ではなかった。
ところが、同じ年の10月に「遠流出版」という出版社と陳舜臣は契約を交わし、『諸葛孔明』『太平天国』『阿片戦争』などの代表作を一括して台湾で出版する独占出版権を与えたのである。そのあと、すでに台湾で『諸葛孔明』の翻訳が出版されていることが分かり、大騒ぎになった。
正確には「台湾出身の華人作家」
遠流出版は当然、契約に基づいて、大村出版に本の回収を要請した。しかし、大村出版は陳舜臣が日本人だとして、著作権侵害にあたらないので、回収を拒否した。争いは法廷に持ち込まれ、焦点は陳舜臣が本当に日本人なのか、あるいは、台湾、つまり中華民国の国籍を有しているのかに絞られた。
陳舜臣が1990年から日本国籍を有していることはすでに公の場で明らかにされていることだったから、大村出版は、中華民国籍を放棄しているものと信じていた。しかし、調査の結果、陳舜臣は1945年以降に数年間、台湾で生活したときに中華民国籍になり、日本に戻ったときも中華民国のパスポートで渡航し、その後、一度も中華民国の国籍を放棄したことを表明していなかったことが判明したのである。
遠流出版が内政部と呼ばれる戸籍を扱う役所に問い合わせた結果、「1991年3月19日第81戸司発行8150103号」という文書で「台湾の光復(筆者注:中国復帰)時点で台湾に居住していた者は中華民国籍を有するとみなされ、陳舜臣は国籍放棄を表明しておらず、現時点でも中華民国の国籍を有している」という解釈が出ているので、これは法的には間違いなさそうだ。この結果、大村出版も『諸葛孔明』の回収に応じざるを得なかった。
ここで明らかになったことから、陳舜臣の国籍問題については、おおよそ次のような流れで整理することができるに違いない。
陳舜臣は1945年以前、台湾出身の日本人だった。1945年に日本が敗戦し、台湾を放棄したあと、台湾に一時的に戻った陳舜臣は中華民国の国民になり、日本に帰ったあとも一貫して中華民国籍だった。その後、1973年に中華人民共和国のパスポートを取得したのだが、台湾側に中華民国籍の放棄を申請しなかったので、事実上、「中台二重国籍」状態になっていた。
その後、1990年に日本籍に入るときも中華人民共和国の国籍放棄は表明したものの、中華民国籍の放棄は特にアクションを取っていなかったため、今度は日本と台湾との間で「日台二重国籍」状態になっていたのである。
訃報のなかで陳舜臣を「中国人作家」(朝日新聞)と評したところもあったが、ここは慎重な検討が必要であるに違いない。陳舜臣自身、中国人と呼ばれることに不満はなかったようだが、やはり正確な定義という意味で考えれば、陳舜臣という人は中国大陸には1度も住んだことがなく、現時点では中華人民共和国の国籍も有していないことを考えれば、「中国人作家」ではなく、「台湾出身の華人作家」と呼ぶことが正確かつ適当ではないかというふうに思える。
「国籍を選ぶ」という人生の決断
もう1つの興味深いポイントは、陳舜臣がなぜ1973年に中華人民共和国籍に切り替えたのかだ。1972年の日華断交と日中国交正常化が1つの契機になったことは間違いない。
当時の切り抜きなどを調べてみると、国籍を切り替える理由として、国交正常化で日本から中国への取材や資料収集がしやすくなったが、大陸と敵対する中華民国籍では中国に行きにくかったことが大きかったと、自分自身で説明している。そこに政治的理由や時流に乗る目的はなかったように思える。
1972年という年は、多くの日本在住の台湾出身者に究極の選択を突きつけた。ジュディ・オングの一家は中華民国籍を手放して日本籍になった。浙江省出身の父親同様に中華民国籍である王貞治は、「もしも中華人民共和国籍や日本籍に変えたら、その行為が政治的意味を持ってしまう」という考えから、中華民国籍に踏みとどまった。その当時、それぞれの人々が、いまとは違う次元の深刻さで「国籍を選ぶ」という人生の決断に向き合わなければならない時代だった
台湾出身者で、日本で育った人はたいてい2つのタイプに分かれる。1つは台湾への強いアイデンティティを感じ、国民党の圧政と闘った経験もあり、台湾は中国と違うことを主張する人々である。それが金美齢氏や黄文雄氏のような人々だ。
一方で、台湾を含めた「中華」という立場に立とうとする人々もいる。作家でこれもすでに亡くなった邱永漢氏や陳舜臣氏がそうであった。ジュディ・オングもそれにあたるだろう。そのことは、善し悪しの問題ではない。誰もが「故郷は台湾」という点には疑いを持たないが、そのアイデンティティの広がりを、台湾海峡の内側で区切るのか、あるいは大陸まで延ばすかの違いであり、それに政治的な弾圧を本人や家族が受けたかどうかなどの個人的体験も加わってくる。
「おれは支那人だ!」
この国籍問題と陳舜臣の自己アイデンティティの形成がどこまで関係していたのかは、非常に深いテーマである。陳舜臣は戦前、日本社会で差別を受けていたことから、逆に中国人アイデンティティを意識したことがうかがえる。
陳舜臣の自伝的小説『青雲の軸』(集英社文庫)によれば、「ちんしゅんしん」という日本語の名前の読みにかけていると思われる「陳俊仁」という主人公が神戸で学校に通っていたとき、教師がたまたま「支那人」という言葉を口にした。これに対し、教室では「級友たちの目が、申し合わせたように、陳俊仁のほうにあつまったことがあった」。
これに気づいた教師が「陳は支那人じゃない、台湾は日本領だから日本人だぞ」と付け加えたことにかえってショックを受け、「支那人がなぜいけないんだ? おれは支那人だ!」と心のなかで叫んだ体験が記されている。
また、陳舜臣は『阿片戦争』の執筆動機を、こう語っている。
「私は生まれたとき(1924年)は台湾人であった。しかし、日清戦争によって日本人になり、20歳ごろに今度は中国人に変わった。私の運命をこのように翻弄したものが一体なんであるのか、本当に探求したいのです」
ここで陳舜臣が言う「中国人」とは、中華人民共和国国民というわけではなく、広い意味での「中国人」であることは言うまでもない。
もっと記録・回顧されるべき生涯
中国へのこだわりは、作家としての活動からもしばしばうかがえる。陳舜臣はシルクロードや故宮について強い関心を示し、中国へも定期的に通った。日中関係については常に積極的に発言し、日本人の「中国理解」についていろいろな提言を行った。司馬遼太郎は陳舜臣の中国人論や中国歴史の著述について、「戦後の日本人に中国の歴史を理解させたのは陳舜臣以外にいない」との評価を残した。
ただ、晩年は故郷の台湾への思いを強めたのかもしれない。出版騒動で自らの中華民国籍が生きていたことを知ったこともあったのか、陳舜臣は2003年、台湾の戸籍を回復する意向を示したことがある。戸籍回復と国籍は別のことなのだが、妻の蔡錦墩さん(すでに故人)と一緒に台湾を訪れ、台湾北部の淡水に戸籍を置いたというニュースが報じられている。その後、どの程度の時間、台湾に暮らすことができたのかは分からない。体調を崩していたので、台湾との往来はままならなかったかも知れないと想像する。
日本社会は、陳舜臣から文学と歴史を通した中国理解という形で、多くのプレゼントをもらった。陳舜臣という人間の生き様には東アジアの錯綜した近代史がぎっしり詰まっており、そんな時代が作り上げた1つの個性だからこそなし得ることだった。そのことに感謝するうえでも、その生涯はもっと丁寧に記録・回顧されることが望ましく、ここで取り上げた陳舜臣の国籍問題が、その人生を理解する1つの切り口となるのではないだろうか。
AD
最近の画像つき記事
もっと見る >>-
「認識・TAIWAN…
02月05日
-
新著「認識・TAIW…
02月01日
-
根津美術館「動物礼讃…
01月22日