今日、「バブみ」という言葉を知り、日本語の持つ奥深さとオタク文化の繊細さに感銘を受けた。
「バブ」が「バブバブ」という赤ちゃんの擬音語から来ており、対象に母性を感じるという意味で使用されているのは明らかとして、この言葉の発案者はそれに「み」を付けた。「バブい」でも「バブさ」でもなく、「バブみ」。
「み」とは「味」である。「旨味」や「エグ味」などに並ぶものとしての「バブみ」。「バブい」ではその度合いが表現できず、「バブさ」では程度を測るようで、対象に対する敬意に欠ける。ほのかに醸し出される「味わい」としての母性を、彼(おそらく)は「バブみ」と表現した。
そこには、オタク文化ならではの「対象との繊細かつ一方的な距離感」がある。「味わい」という繊細で多次元的な評価軸を持ち、さらに、あくまで甘える側からの視点である「バブバブ」を使用することで、対象の主観を排除している。矛盾するかもしれないが、対象に敬意を込めることと、対象をこちら側に巻き込まないことは、オタク文化にとっては同義である。「萌え」も同様で、草木が伸びる様を表す自動詞で自らを表現することで、間接的に対象を表現している。そこに対象の主観はないが、それを無視したのではなく、敢えて入れなかったのである。
そういった脈々と連なる想いがどこからともなく湧きあがり、2015年の言葉として顕在化したのが「バブみ」なのではないだろうか。
(オチはありません)
「み」とは「味」である。「旨味」や「エグ味」などに並ぶものとしての「バブみ」。「バブい」ではその度合いが表現できず、「バブさ」では程度を測るようで、対象に対する敬意に...