2015年2月12日木曜日

熊谷奈緒子『慰安婦問題』についての補足:「冷静な議論」とは?

本稿は「読書会のまとめ」に対する能川元一による補足です。

 本書の帯には「冷静な議論のためにいま何が必要か?」という、またカバー見返しにも「冷静な議論のための視点を提供する」との謳い文句が記されている。この文言そのものは著者に帰責できるものではないだろうが、本書がどのような文脈で受容されることを目指して企画されたのかをうかがうことはできる。すなわち、「慰安婦」問題を巡っては冷静でない議論が行われているという認識を前提とした文脈、である。すべてのアクターが「冷静」に議論しているという認識のもとでは「冷静な議論のために……」は謳い文句たり得ないからである。では、「冷静でない」議論をしているのは誰なのだろうか? これについては、著者自身が(少なくともそうしたアクターの一部を)明らかにしている。2014年12月30日の『朝日新聞』でのインタビューにおいて熊谷氏は「法的補償を求める韓国や日本の一部団体は『道義』という言葉を「責任逃れ」と拒否するかもしれないが、法も超越した倫理観としての道義と、それに基づくお詫びの姿勢を冷静に見てほしい」(下線は引用者)と語っているからだ。

 まず頭に浮かぶのは、熊谷氏がいったいどのようにして「韓国や日本の一部団体」のメンバーの(あるいは「冷静でない」議論をしているその他のアクターの)心理状態を知り得たのか、という疑問である。仮に著者の観点から見たとき「韓国や日本の一部団体」の主張に誤りなり偏りなりがあるとして、それが「冷静さ」の欠如に由来すると判断した根拠は何なのだろうか? 本書にはその根拠らしきものは見いだすことができない。見解を異にする者の主張に対して具体的な根拠なしに「冷静でない」というレッテルを貼るのが建設的な議論の進め方であるとは思えない。

 しかし本書が「フェミニズム」や「ポストコロニアリズム」の視点を重視していると謳っている[i] 点をふまえるなら、ここには議論が建設的であるか否かを超える問題が孕まれていると考えることもできる。周知の通り、「冷静・理性的/感情的・非理性的」という対比は女性差別と植民地支配を正当化するために常に持ち出されてきたものだからである。「韓国人=感情的」というステレオタイプが今日でもなお根強く生き残っていることは、書店に並ぶ「嫌韓」本やインターネット上のヘイトスピーチを観察すれば容易に知ることができよう。元「慰安婦」を支援する運動の中心を担ってきたのは日韓いずれでも女性たちであったし、日本の「一部団体」には在日コリアンが多数参加している。著者の言うところの「韓国や日本の一部団体」を構成するのは、「感情的、理性的でない」というステレオタイプと戦うことを強いられてきた人々なのである。そうした人々の主張に対して、具体的な根拠なしに「冷静でない」とレッテル張りをすることは、著者が重視しているはずの「フェミニズム」や「ポストコロニアリズム」といった視点への裏切りではないのだろうか?

 本書の記述を一つ、具体的に取り上げてみよう。20ページには「法の支配を貫く日本政府は、請求権問題は解決済みで紛争は存在しないとの立場をとり」とある。ここでは「解決済み」という認識の是非は問うまい。問題は日本政府のこの立場を著者が「法の支配」によって説明しているところにある。「解決済み」という立場をとるにしても、新たな立法措置による被害者への補償は「義務付けられてない」だけであって禁じられているわけではないのだから、仮に日本政府が法的手続きを踏んで補償を行ったとしても「法の支配」に反するところはまったくないはずである。逆に、2011年8月30日の憲法裁判所の判決[ii] をうけて韓国政府(当時は李明博政権)がそれまでの方針を転換したことはなぜ「法の支配を貫く」と評されないのだろうか? 大統領が憲法裁判所の判決に不服だからといってそれを無視するならそれこそ「法の支配」が踏みにじられたことになるではないか。

 “近代的な法意識の欠如”もまた、宗主国が植民地支配を正当化するために用いた「未開人」の表象の一要素であったことを想起せざるを得ない。「フェミニズム」や「ポストコロニアリズム」の視点を重視するというのであれば、差別的なステレオタイプを再生産しかねないような議論の進め方には、もう少し慎重な姿勢が求められよう。






[i] カバー見返しには「民族主義、ポストコロニアリズム、フェミニズムの三つを重ね合わせる多面的な理解の必要性を訴え」とある。ただし「フェミニズム」と比べて「ポストコロニアリズム」という語の方は、本文中ではほとんど用いられていない。もっとも、日本軍「慰安婦」問題の「主要なポイント」の一つとして「日本の戦争植民地責任」が挙げられてはいる(42ページ)。
[ii] この判決は本書では「一九六五年の日韓基本条約及び請求権・経済協力協定において個人の請求権の存否について日韓の間で解釈に対立があるにもかかわらず、それを解決するための手続きを履行していないことは韓国政府の不作為であり、それは違憲であると判断した」と紹介されている(19ページ)。

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