まずはこの文章を見てほしい。
一体、禁酒禁煙とゆーことわ出来るが、節酒節煙わ出来ないと同じで漢字の節減わどーも六かしい。これで、従来の障害お、一洗しよーとゆーことわ、国語教育百年の大計でない。単に過渡時代における一時の方便に過ぎないものである。真に国語教育百年の大計おおもーなら、漢字わ全く廃止して、しまわなければなりません。
これは可愛い現代JC(可愛い)がスマホで国語改革案を書いたものではない。明治時代、文章表現の模索の中で生まれた棒引きかなづかいだ。最終的には採用されなかったけれど、「正しい」表記として文部省の教科書表記原案として提出されたものだ。
何が言いたいかっつーと、文章表記の「正しさ」ってのはゆらぐということだ。もしも引用されたような表記が採択されていたら。私たちは現在の若者的表現「あたしゎ」とかを比較的馬鹿にしていなかっただろう。句点読点の打ち方、てにをは、語尾…これらは数々の小説家や教育者、行政の議論の上で整備され模索され現在に至っている。
昨今の日本語表記に関する増田とかの投稿を見ていると、こうした文章表記の相対性に余りに無頓着でないかと思う。瑣末な「正しさ」に執心し、「これはこう!」みたいなのが多すぎる。もっと、書き手の負担の減らし方(上記の棒引きかなづかいはいわゆる文語表記の負担軽減から生まれた)や、相手への伝わりやすさ・読みやすさという大局的な視点・理由づけからの文章があってもいいと思う。もちろんそうしたなかで語られる「正しさ」も相対的なもので時代の変遷に合わせて変わっていくものだろう。
およそ文章表記の変革期と言うのは、出版事情の革新期と期を一にする。インターネットで気軽に誰でも文章が書けて多くの人の目にとまる時代。新しい文章作法が語られるのが(実は結構出てきていると思う)楽しみでならない。