今の先進国における貧困は、ぼろぼろの服を着て、常にお腹を空かせているような、一目見てわかるようなものではない。だから、「20世紀の野蛮な」人間は、今の日本に貧困があることがわからないし、信じようとしない。
だが、豊食の時代ではあっても、教育費や土地代などはかつてとは比べ物にならないほど高くなっているし、個人の裁量でお金を稼ぐことも格段に難しくなっている。貧困層は、今の貧困から抜け出せる見通しが立たなかったり、心労や劣等感が積み重なって鬱になったりしてしまう。
身体障害者には優しくなれる人も、心を病んでいる人には優しくない。病気は、さんざん悪化して、誰にでもわかるくらいの「病気」として認知されなければ、誰も助けてくれない。往々にして、それが自分以外の人でもわかるものになるまでに、病気が取り返しのつかないくらい悪化してしまう、または自らそれを望んでしまうという悲しいことが起こる。
ウルフリッヒ・ベックが、著書「危険社会」で述べたことだが、近代化された社会において起こる「リスク」は、航海すると嵐が起こって難破する可能性がある、みたいな、わかりやすい種類のものではない。
放射能や化学物質など、目に見えず感じ取ることもできない「リスク」は、測定器を通さなければ視ることができないし、そのようなリスクを理解するためには教育が必要になる。
また、どれだけの放射線を浴びるとどれくらいの被害が出るか、どれだけの化学物質が蓄積すれば身体にどんな異変をきたすか、因果関係を特定しようとする科学の手法では、確実なことはほとんど何もわからない。人間の健康状態にはあらゆる変数が作用するので、科学的な手法に誠実であろうとすればするほど、断定的なことは何も言えなくなる。
- 作者: ウルリヒベック,Ulrich Beck,東廉,伊藤美登里
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 97回
- この商品を含むブログ (82件) を見る
今起こっている多くの問題は、化学物質が人体に与える影響のように、目に見えるものでもなく、明確な因果関係も特定できず、どの程度かも精確に数値化できないような、「わかりにくい」種類のものだ。
あらゆる問題に今まさに直面しているのだが、そのような社会の感覚を、僕たちはまだ手に掴みかねている。
例えば、スペックの高い女性ほど結婚できないと言われている。自分に見合う男性がなかなか見つからず、決めかねているうちに年齢を重ねてしまいやすいから。(これは日本の産業構造や男女観を含む根が深い問題なのだが)
価値があるからこそ結婚できない、というのはなかなか心地よい慰めの言葉になっている。実際に、選ばなければ相手はたくさんいたのだし、彼女にとって結婚はやろうと思えばできないことではなかった。
だが、そのような「妥協が難しい」というのも含めて、現代において、男女が結婚するというのは本当に難しいことだ。相手を選ばなければ結婚できるけど、そんなに簡単な問題でもない。そして、結婚自体がしないといけないものでもなくなっている。
この問題において、結婚は、「やろうと思えばできるけどやらない」のではなく「本当に難しい」のだ。この「難しさ」は、なかなか認識するのが難しい。野蛮な価値観のおじさん達は、「相手選ばなきゃお前と結婚してくれる相手なんてたくさんいるぞ?婚期逃すからとっとと相手選べ」と言うだろう。彼にはそこに関わっているたくさんの変数を認識することができない。
このような「わかりにくい」問題は、それがはたして問題なのかどうかすらもわからないというレベルで、複雑な話になる。おそらく明確な答えは誰も用意できないだろう。
わかりやすい働きを持ったもの、「機能」の価値は低下している。先進国においては、ITのような言い訳のきかない「機能」を扱う仕事は、国籍に関係なくできるので待遇が劣悪になっていく。かつては意味があったであろう、銀行や証券会社は老人を騙す仕事がメインだし、保険会社はほとんどファンタジーのようなライフスタイルを押し付ける残酷な所業に従事している。
かわりに、わかりにくい部分を扱うもの、根拠を持たない「コンテンツ」産業、ソーシャルゲームやアイドルなどが、唯一景気の良い業界になっている。
若い世代の主な感心事は、車とか家とか家庭みたいなわかりやすいものからは離れてしまっているだろう。
これから、何か新しいことをしたい、と思っても、今まで積み重ねられてきた既存の仕組みは堅いし、高齢者が多いから何かが急に変わるという見通しも立たない。革命の起きるような最新技術が生み出されても、日本の人口の半分以上はそれを受け入れられずにテレビなんかを視ながら長々と生き続けるのだ。
安心できるものや、熱くなれるものを社会には求められない。仮に安心したり高揚したりして、何かを打ち破ろうと強い対立軸を持ち出したりなんかしても、それはわかりやすく過激な分だけ間違っている。だが、それでも、足を止めて生きていけるわけではない。
僕たちはかつてのように、社会に繋がるという形で晴れやかな気持ちにはなれないだろう。
少子化の問題は象徴的だ。経済が成長し続け、自分たちの子供が、後の社会をどんどん発展させていく。自分たちの国がずっと続いて繁栄していく。そういう幻想は、たしかにわかりやすいし、気持ちのいいものだ。
だがそのような、現在想定されている生き方は、経済成長というわかりやすい目的があった上に、人口ボーナス、男女差別、情報格差、様々な国際状況などが味方した、超ヌルゲー状態だったからできたことだ。そういう時代の味を占めた人間は、野蛮な状態から抜け出すことを拒否するだろう。
自由主義と保守主義かけあわせて、競争して脱落したら自己責任とか、今までの成長の枠組みがなくなったから国内は捨てて海外の市場に打って出ようぜ、みたいな考え方は、あまりにも幼稚だと僕た思う。
本当は、まず手元にあるものから大切にするべきなんだけど、それはわかりにくい、晴れやかな気分を味わいにくい種類のものだ。そういうものと向き合っていかなければならない。あるいは、なんとかごまかしながらやっていく必要がある。
これからどうすればいいのか?それはわからない。問題の特徴それ自体が「わかりやすさ」を拒絶するからだ。
「絶対◯◯じゃないと駄目!!」みたいな断定は、人の目を惹きやすいかもしれないが、対立軸に回収されてしまうだけだろう。草タイプを選ぶか炎タイプを選ぶか水タイプを選ぶか、という程度の話でしかない。政治的な立ち位置なんかも、個人が社会と切り離された上では生活と結びついたものにはならず、一つの「コンテンツ」になっている。
(僕の関心領域の「ゲーム」で言えば、現代の「わかりにくさ」の反映として、ゲーム内の作用の因果関係が明確で意味のあるような、そういうものがコンテンツとして消費されているのではないか、と思う。)
本当に無難なことしか言えないのだけど、「寛容さと慎重さを持つこと」だと思う。なによりもまず自分自身に対して。
つらい環境の中で一生懸命働いてたって、他の人にもそれを強要したり暴言を吐いたりするようになれば、地獄が広がっていくだけだ。
あと、「何が嫌いかより何が好きかで自分を語る」こと。
誰でも手軽に情報を発信できるようになった世界で、インターネットの海に沈まず誰かに届くのは、肯定的なメッセージだと思うぜ!
近年価値を強めている「コンテンツ」は、わかりやすいものではない。そして、何かが好きという気持ち、それを応援する気持ちは、間違いがないし、肯定的なものだ。
個人的には、最近「SHIROBAKO」というアニメにハマってます。
「花咲くいろは」と同じ「働く女の子シリーズ」です。そういえば北陸新幹線開通しますね。僕の地元は石川県なのです。
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
- 発売日: 2011/07/20
- メディア: Blu-ray
- 購入: 4人 クリック: 353回
- この商品を含むブログ (106件) を見る
日本のアニメってすばらしいね!!
というわけで、(色々とやらなければならないことを放り出しているのだが)僕は「信念」を持って、アニメやニコニコ動画を視ながら、ゲームしたり本や漫画を読んで過ごすぞ!みんなわかってほしい!!僕は戦っているんだ!!
次: