ものと向き合って語りかけると、ものと触れ合ったときの記憶がよみがえり、思考の機会を与えてくれる
春爛漫(らんまん)の東京。西新宿の高層ビル街が身近に迫る目白のマンションにある栄久庵さんのオフィス。室内には、各国を訪れたときなどに贈られたものや自身の作品の写真などが並ぶ。その一つ、帝政ロシア時代の砂時計を手にしながら、静かに語り始めた。
「この砂時計、なかなかしっかりしているでしょう。私はこの部屋にいるときは、並んでいるものたちによく語りかけます。ものと対話していると、あのときはこうだった、などと思い出されてくるし、退屈しません。ものを通じて、つくった人の思い、つくられた時代の状況などいろいろ伝わってくるのです。自分の記憶だけではなかなか思い出せないことも、ものを見ていると思い出されてきます」
日本のインダストリアルデザインの世界を切り開いてきた栄久庵さん。「ものとこころ」のかかわりの大切さを説いてきた。「人間にこころがあるように、ものにもこころがある。人間世界と同じように道具にも道具世界があります。ものは人のこころを映している。ものの造形につくり手が自らのこころを込めたとき、使う人にもその思いが伝わるはずです。道具というのは、人の道に備わりたるもの。道具をそこに置くことによって、生活にも秩序が生まれ潤いが出てきます」
「ものには人の思いが込められている。ものを友のように大切に感じ、同じ目線で大事に扱っていけば、愛着が沸く。そしてものが人に寄り添い、生き生きとしてきます。しかし、消費社会でものに対するおごりが出てきたのか、人間がものをまるで奴隷のように考え、使い捨ての対象としてとらえる発想が強まってきました」
「今、問題になっている環境破壊は、ものとのコミュニケーションの足りないことの反映だとも思う。例えば自動車も持ったときは気持ちがいいが、動かなくなるとけ飛ばしてしまう。今、ものが人間に対し、『私たちをもっと大事に扱ってほしい』ともの申しているのです」
終戦後間もなく被爆地広島を訪れた。悲惨な状況をしっかりとその目に焼き付けたとき、人々に役立つものを届ける仕事をしたいと心に誓った
「広島の駅から見やると、町は真っ赤な夕焼けに包まれ、瀬戸内の海が見えました。『国破れて光あり』という光景を目にしたとき、消えようとしているものたちの『助けてくれ』という叫び声が、私の心に響いた気がしました。そのとき、ものをつくる世界にかかわれば、国のためにも自分のためにもいいことだと思ったのです」
日本を代表するインダストリアルデザイナーとして、キッコーマンの卓上びんや成田エクスプレス、秋田新幹線「こまち」など、多くの人々に今なお愛されるものを数多くデザインしてきた。
「私がインダストリアルデザインの世界に身を投じてから、ものづくりで心がけてきたことは、世の中に役立つ社会的に意味あるものを生み出そうということでした」
「今、世界の約百カ国で愛されている卓上びんをデザインするとき、思い浮かべたのは母が一升瓶から小さな容器に苦労しながら移している姿でした。そこで、『古きを新しく見せる』をテーマにしたのです。そこに赤いキャップを付けたのは、おいしさや温かさを表現するためでした。また、成田エクスプレスやこまちで赤を強調したのは、迎賓のこころ、おもてなしのこころを表したかったからです」
ものとこころの新時代を切り開いていくのが、私の夢です
「日本の高度成長を支えてきたのは、優秀な技術や日本人の勤勉さ、そして洗練されたデザイン」との自負を持つ。ものづくり大国を代表する多くの製品が世界で人気を高めたのは、複雑で多様な機能をコンパクトに使いやすくまとめたデザインが果たした役割も大きかった、と強調する。
「日本のものづくりが世界的に果たした役割は非常に大きかったと思います。ただ、ここへ来て日本の産業がつくっているものが、果たして人々の求めているものにどれだけ応えているのだろうか、との思いはあります」
「今の時代、とかく効率が強調されがちですが、それでいいのだろうか。日本にはかつて針供養とか包丁供養とか、ものに感謝する伝統が受け継がれてきた。ものとの交流を通じて、自分の創造性を引き出してきたのです。若い人たちには、技術を究めることで人間としての発展、進化を図ることができることを教えてほしいと思います。そういう点で、最近、技能五輪で活躍する若い人が増えてきたことは頼もしいことです」
こう語る栄久庵さん。心筋梗塞(こうそく)で入院生活を送っていた四十九歳のとき、「ものの求道者として生きていこう」との思いを強めたという。“物教徒”と自任するほど、ものの世界への思い入れも強まる。道具学会などの活動にも力を入れる。
「日本が外国に押されている今、どうするべきか。それにはものの価値を再発見していくことが、大切だと思います」。そこで、学ぶべきものとして挙げるのが幕の内弁当だ。「あの限られた空間で、無限の可能性が生み出されるのですから。そしてこの幕の内弁当や茶室に見られる美学や伝統が、自動車やカメラなど日本を代表するものを生み出していったのです。それが伝統で、伝統はこころが伝わるものだと思います」
「人のこころとものの心の新しいつながりを求め続ける」栄久庵さん。「でも、まだ道半ばですね」とにっこりほほ笑んだ。(編集委員 栩木誠)
えくあん・けんじ インダストリアルデザイナー。1929年東京生まれ。55年東京芸大卒。57年GKインダストリアルデザイン研究所設立、所長に。成田エクスプレスなどをデザイン。89年世界デザイン博覧会総合プロデューサーなどを務め、現在、GKデザイングループ代表、世界デザイン機構会長。