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shi3zの長文日記 RSSフィード

2015-02-09

附属の人間は新潟大学を目指してはいけない

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 故郷の長岡市から依頼されて、地元の若者にメッセージを送って欲しい、というちょっと変わった講演会をすることになった。


 対象は地元の高校生、大学生、そして保護者の方々だ。


 丁度今年の始めに、中学の同級生と会ったりしたので、僕とはぜんぜん違う生き方をしてきた同級生の吉川と二人で話すことにした。


 何を話そうか、と事前に二人で話し合った時に、「とりあえず附属の奴らは新潟大学を目指すべきじゃないよね」という話になった。


 僕らは二人とも、新潟大学教育学部附属長岡中学校の出身だ。

 地元では唯一、入学試験のある中学校である。この中学に入るのはなかなか難しい。地元の長岡市だけではなく、中越地方のすべての学校の成績上位者が受験する難関だ。


 ただし僕も吉川も、受験はしてるが苦労はしてない。なぜなら、附属小学校の出身だからだ。


 基本的にここはエスカレーターなのであるが、附属小学校へ通うハードルは異様に低い。誰も好き好んで小学校を受験したりしない。さらに小学校の手前に附属幼稚園があるが、そこへの入園条件は親が車で送り迎えできること、がメインである。4歳児の能力の優劣なんかどんなテストでもわかるわけがない。要するに誰でもいいのだ。


 僕だって小学校は最初普通の公立に行って、あまりに浮きすぎたから新任の先生が手に負えない、とさじを投げたから編入したのだ。編入試験はあったけれども、慌てて受験勉強をしたのがバカらしくなるほど簡単なテストだった。


 大学進学率が全国最下位クラスの新潟県民にとって、附属中学への進学は、人生がかかった大勝負といっても過言ではない。


 附属にいかなければ大学進学への道は相当険しいものになる、と信じられていた。


 というのも、当時、学区内で国公立大学に進学するには長岡高校へ行くしかなく、長岡高校の新入生の大半は附属の卒業生で占められるからだ。


 これは、長岡市に限らず、新潟市にある附属でも状況は似たようなもので、やはりそちらでは新潟高校に通わなければならないのだ。


 しかし実際には半数は附属小学校上がりで、さらにその半数は附属幼稚園あがりである。

 信じられないほど学力の低い人間が1/4は混じってる。小学校のカラー印刷されたワークテストで40点(100点満点)を取って平気な顔をしてるやつは公立にもいなかったので衝撃を受けたものだ。


 実力で附属中学に入ってきた連中は皆すばらしく頭が良く、おいてけぼりになった僕らは必死で勉強するのだった。考えてみれば、附属小学校、附属幼稚園に入れられた人間というのは犠牲者だとも言える。目的は教育実習生の受け入れ先であり、言ってみれば実験台だ。教育学部に附属してるんだから。能力も才能もバラバラな連中を教育によっていかに底上げできるかという実験に使われているに過ぎない。このあたりが東京の私立と根本的に違うところだと気付いたのは自分の子どもが小学校に通うようになってからだった。



 僕は長岡高校に行くのが嫌で、新設された国際情報高校に進学することにした。

 吉川は長岡高校を受験して、落ちて地元で最も偏差値の低い高校に進むことになった。


 しかし、吉川はここで頑張り、ついにはその高校で初の一流大学進学を果たした。

 受験勉強は環境が大きく作用する中で、一人孤独に耐えながら受験を制した吉川は立派だと思う。その後、霞ヶ関でいわゆるキャリア官僚になってエネルギー分野で活躍し、今は地元、長岡にも拠点を置く石油開発企業に転職し、アブダビの石油開発を担当している。実は長岡市のガス田は日本最大級のガス田なのである。一昨日まで知らなかったけど


 吉川は和田秀樹の「受験は要領」という本を読んで革命的な勉強法だ!と感じ、一気に成績が上がったと言う。


 もはや受験とか関係ない僕でさえ読んでみようかと思うほど引き込まれた。

 Kindle版もある。


 一方の僕は、高校時代はまるで勉強しなかった。高校では落ちこぼれ、成績は常にビリに近かったが、あまり気にしなかった。どうでもいいやと思っていた。


 とはいえ、僕は長岡市で産まれたことを大変感謝している。


 なぜなら、長岡市には、70年代からマイコンショップがあり(当時の地方都市としては極めて珍しい)、電子パーツ屋があり、中古パソコン屋があって、附属中学の隣には市立中央図書館があって、ここの蔵書が素晴らしい。レーザーディスクが見れるようになっていて、放課後は附属の子ども達が争うようにして教養ビデオを見ていた。歴史が好きな吉川みたいな奴は歴史のレーザーディスクを、僕はコンピュータについて知りたいから、コンピュータや技術に関するレーザーディスクを何度も繰り返し見た。筋書きを全部覚えてしまえるくらいに。


 知りたいことは中央図書館にいけばほとんど全て知ることが出来た。

 プログラムリストの載った本も大量にあったし、美術に関する蔵書も充実してた。太平洋戦争の作戦要項をまとめた海軍軍令部の公式文書まで読める。宇宙船を制御するためのジンバルの仕組みや、それを数学的に表現するためのオイラー角といったものだ。


 中央図書館がなければ、6歳でプログラミングを始めた僕が小学生のうちに3Dプログラミングを習得することはできなかっただろう。


 中学に上がる頃には、4×4行列を操っていた。同次座標系というやつだ。

 これは数学の先生に聞いても解らないと言われてしまったので、途方に暮れていたら、同級生の大矢君が「僕のお父さんが高専で数学教えてるから、聞いてきてやるよ」と言って翌日、その行列をC言語でプログラミング可能な形式に変換したものを持ってきてくれた。長岡には高等専門学校があって、理数系の科目に精通している人が多かったのだ。


 加えて、地元の図書館に、そうした人々が書いたコンピュータ関連書籍が寄贈されていた。

 この寄贈というのは重要で、僕は「○○氏寄贈」というスタンプを見ては、「僕もいつか本を書けるようにならなければ」と思っていたのだ。


 それでもついに全く解らないことがあって、途方に暮れたらやはり同級生の誰だったかが「技科大に行ってみれば?」と言った。


 技科大・・・長岡技術科学大学は街からは遠いが、バスでいけないこともない。

 なにより、技科大の図書館には誰でも入ることが出来、わずかなお金さえ払えばコピーをとることができるのだ。


 国立大学の図書館に誰でも入れるというのは凄いことだ。

 東京では大学のOBすら図書館には入れてもらえない。これは実に勿体ないことだ。国益を損なう行為と言ってもいい。


 技科大の図書館で、月刊アスキーのバックナンバーと情報処理学会の論文を漁って、僕は任意軸回りの回転行列という、クォータニオンが一般化する以前の世界では究極形とも言える行列式を知ることが出来た。やがてその行列は、僕自身が基底変換を理解するのに多いに役立った。


 こうした環境なしでは、高校生の頃に3Dプログラミングの雑誌連載をすることは不可能だっただろう。


 自分で本を揃えるとすれば膨大なお金が必要だったし、どれだけお金があっても月刊アスキーのバックナンバーや情報処理学会の論文が存在するということすら、中学生には解らなかっただろう。インターネットだってふつうの場所にはない時代だ。


 思い返せば長岡という土地が僕のパーソナリティそのものだ。

 長岡に産まれなければ、僕は今とは全く違った人生を歩んでいたことになるだろう。



 さて、話はこれからだ。

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 吉川も僕も、中学の頃にそれほど優秀だったわけでも真面目だったわけでもない。

 

 僕らより遥かに優秀で賢い人たちは長岡高校へ行き、そしてそのまま新潟大学へ進学した。


 新潟に住んでいる以上、それが当たり前のことであり、特に附属出身の人間にとって、新潟大学とは天竺のようなものだ。


 新潟大学の施設にいながら、実際のキャンパスを訪れることはない。

 しかし校長は新潟大学の教授で、教育学部の学生たちが毎年二回くらい、教育実習に来る。


 僕らにとって新潟大学とは有難い教育を教えてくれる知性の源泉であり、ちょっと大人びてかっこいいお兄さんやお姉さんのいるところなのだ。


 だから附属を出た人間が、新潟大学を志望するというのは実に自然なのである。


 ところが僕は東京に来て20年経つが、未だに仕事で新潟大学出身の人とただの一人も会ったことがない。

 少なくともITという世界においては、新潟大学出身者の影は薄いと言わざるを得ない。

 しかし実際の新潟大学は、偏差値が極端に高いわけでもなく、かといって極端に低いわけでもない。よくある典型的な地方国立大学だ。県外からの進学者も多い。


 もっと偏差値の低い東京の私立大学はいくらでもあるし、そっちに進んだ方が人生の選択肢は大きく広がる。


 新潟で産まれて新潟で育って新潟で死んで行く、そういう人生を選択する人があまりにも多い。


 それは才能の浪費だと僕は思う。僕も吉川も、中学では落ちこぼれだ。しかし吉川は霞ヶ関で官僚になり、僕はまあ適当に楽しく暮らしてる。そういう生き方もある。けど、新潟にずっと居たら、それは解らない。僕らよりずっと優秀だったはずの連中は、何をやっているのか、噂さえ聞こえてこない。


 そして少子化と後継者問題で地元の産業はどんどん衰退している。


 それをなんとかしたいと、市から泣きつかれるのが、本来は落ちこぼれであったはずの、地元出身者である僕たちだというのはどうも解せない。


 もっと優秀な人物は地元にいくらでも居たはずで、彼らが産業を起こせば僕らよりずっとうまくやれそうな気がする。そういう優秀な地元の人間はこれまでいったい何をやって来たのだ。



 しかし一方で、新潟県民のマインドの問題もある。

 東京が嫌いだ、東京に行きたくない、という人も相当数居るのだ。


 それは人ごみが嫌いだったり、水道水をそのまま飲めないことに対するストレスだったりする。物価も高いし、美味い酒は長岡で作ったものだし、美味い米は、また近所の南魚沼で作られたものだ。


 長岡市はなんのかんのいって、素晴らしい自然と、都市の両方がある。

 環境としてそう悪くない。毎年積もる雪も、風物詩と考えれば悪くないし、僕はとにかく少年時代をあの場所で過ごせたことはとても良いことだと思っている。


 けど同級生の誰もが当たり前のように「新潟大学」への進学を口にしていた状況だけはどうも解せないのだ。


 新潟県が、地元の産業をどうにかしたいなら、まず新潟大学へ進学することをやめさせることから始めた方がいい。


 一回は県外の大学に行ってみて、それから気が向いたら地元に戻ればいいと思う。

 

 特に東京は凄い。

 東京ほど魅力的な街で暮らすことを知らずに一生を終えるのは実に勿体ないことだ。

 人生の1年か2年を過ごす価値がある。


 東京も色々で、八王子の方にいけば山も川もあるし、どこもかしこも高級住宅街というわけでもないし、あちこちに犯罪者がいるというわけでもない。


 何より東京が凄いのは、世界一の知性密度だ。

 国内の一流大学がこんなに集中的に存在している地域は全世界でみても極めて珍しい。


 コンビ二やコーヒーショップの店員でさえも、一流大学の学生がアルバイトしていたりする。

 ゴールデン街にいけば様々な職業の人と交流できる。 

 六本木や西麻布では芸能人と当たり前のようにすれ違う。

 毎晩のようにいろいろな勉強会や交流会があちこちで開催されている。


 地元のような心地よさはここにはないが、学びとるべき刺激がたくさんある。

 東京で2〜3年過ごしてから地元に帰って起業すればいい。


 そのほうがいきなり地元で会社を作るよりもずっと上手く行くと思う。


 長岡は人が育つには素晴らしい環境である。けど、それにも限界がある。

 本当に人が成長するには競争の激しい世界に身を置くしかない。


 少なくとも僕はそう思っている。