ところが2人の被害者の家族は「安倍政権の責任」とは一言も語らなかった。しかも責任を追及しないどころか「人質の救出に力を入れてくれた政府に感謝したい」と機会あるたびに語っていた。遺族らのメッセージは徹底して自制されており、またその内容も事前に考えられていた。言うべき内容をあらかじめ何かにメモし、練習でもしていたかのようだ。そのため「作為的」という見方もあるが、いずれにしてもこれが国の品格というものだ。
個人に対して沈黙と忍耐を強要する日本の文化を「旧時代的」とする見方もあるだろう。責任の所在を明確にしないため、日本そのものが無責任な国になったという指摘もある。しかし少なくとも遺族らは、政府が最善を尽くし、自分たちを裏切らないという信頼を持っていたようだ。これは個人が国家と一つになる「公の価値観」だ。
もし韓国が同じような目に遭ったらどうだろうか。2004年に貿易会社社員のキム・ソンイルさんがイラクで殺害される事件が発生した。ところが当時、世界のメディアが報じたのは遺族が泣き叫ぶ韓国発の記事と写真だった。野党や左翼団体などはこの問題を政府攻撃の材料にした。国会では与野党が激しく対立し、左派陣営はイラク派兵そのものを問題視してデモ行進まで行った。数カ月後、遺族らは国を相手取り損害賠償を求める訴えを起こした。
国家的な悲劇の中で韓国と日本が示した反応は極と極だった。激情的な韓国と冷静な日本、どちらが良いとか悪いとか断言はできないだろう。実際に情熱とエネルギーあふれる韓国人は、何かきっかけさえ与えられれば驚くほどの爆発力を発揮してきた。
その一方で韓国人は共通の敵の前でも互いに争い、何かあればいつも他人のせいにしてきた。この分派性は韓国人の致命的な弱点だ。これを克服できない限り、日本に追い付くことは永遠にできないだろう。20年前も今も日本はやはり恐ろしい国だ。