都道府県別インターネット人口普及率を見ると、面白いことがわかる。
2001年時点で55%、2006年で70%に到達していたのは東京・神奈川のわずか2都県だけだった。という。
そしてこれは関連する他のデータでもわかる。2004年のブロードバンド普及率が25パーセントを超えていたのも東京と神奈川である。2006年のホームページやブログの設置率も、やはりこの2地域がずば抜けている。
東京と神奈川では、2000年代前半時点で、パソコンや携帯電話は持っていて当たり前のツールだった。情報感度が高いならば高齢者でもパソコンを使いこなせていたし、仕事でデジタルツールが必要な中年とそもそも新しいメディアに飛びつきやすい若い世代ほどその傾向は顕著だった。だからこそ、地方に行くと情報弱者が当たり前と言うことに驚いたし、大学に入って「大学生になるまでネットを一切やったことがなかった子」やチャラそうに見えて実は「高校生になって初めて携帯電話を買ってもらった子」が地方人にいくらでもいることには本当に驚愕だった。
今冷静に思うと、東京・神奈川でデジタルツールが早期に普及した背景は、単純な話、「パソコン屋が身近にあったから」ではないか。
例えば私の地元の辻堂には、コンプマートと言う名古屋発祥のパソコン店があった。その隣にはマック専門店(アップルストアではない)が隣接していて初代imacが発売された時は、地元の人間が物見雄山的にやってきていた。何度も何度も、小学校の同級生と鉢合わせした。オタク系ではなく単純に「最新のメディアに触れたい」というミーハー根性である。コンプマートはその上近所に別館を増設し、線路を挟んだ南側には神奈川県の家電チェーンのノジマ系列のパソコン店があり、茅ヶ崎にはPCデポもあった。
日本社会は均質化していて、幹線道路風景の画一化は既に当時かなり進んでいたというのは事実だ。平塚の129号線のあのうらぶれた感じは同じ時期の福島にそっくりであった。しかし、首都圏にあって地方にないものといえば、間違いなくパソコン屋だった。
いま「若者のパソコン離れ」が起きているという。
これも生活者感覚からすれば、「パソコン屋が減ったから」ではないかと思う。茅ヶ崎のPCデポは閉店し、辻堂コンプマートの別館だった場所に移転した。コンプマート本体とマック専門店の並びは事務洋品店になり、辻堂南口のパソコン店もなくなっている。明らかに湘南のパソコンチェーン店は激減している。
これは県央だって同じである。本厚木駅前は「ミニ秋葉原」で、ソフマップがあり、ラオックスもパソコン専門館と家電館とパソコンゲーム専門館があった。しかし、それらはみんな潰れてしまった。厚木のパソコンゲーム館はいつもたむろしている猛者系のオタク1名の発する激臭で鼻が曲がりそうになるのが名物だったが、県内で最もパソゲーが充実していたので、ルナティックドーンとかシムピープルを買っていた思い出があるが、そういえば「パソコン店が一斉に閉店した頃」に私もかなりパソゲー離れをしてしまった。日本最大のパソコン街の秋葉原すらあんな風になれば、そりゃあパソコンはオワコンになってしまうわけである。
「ネット通販があるじゃないか」「家電量販店があるじゃないか」と言う人もいるかもしれない。しかし、専門店が存在することが、その商品がこの世にあることを示しているということは重要だ。「そういう商品がある」と言うことを知り、ある程度知識を有していて、目当てのものを買う人にはそれでいいのかもしれないが、ふらっと見物し、買うという行動につながるような機会が無くなっていることは、日本の消費文化において大きな損失なのである。
逆に言えば、2000年代前半の地方でパソコンでインターネットする人がほとんどいなかったのも、「パソコン屋」が身近になかったからだと思う。「家電量販店のパソコンコーナー」なら確かに当時からコジマやヤマダ電機にあったはずだ。
本屋が無くなる問題もまさにこういうことだと思う。
「amazonがあるじゃないか」「ヤマダ電機の書籍コーナーがあるじゃないか」と言うのは簡単だ。しかし、それでは、生活者のうち一定層である「日常的に読書を趣味とする人」や「職業柄読書を必要とする人」に需要は限られてしまう。老若男女や所得などを問わず、大多数な凡庸な人間がフラッと立ち読みし、そこから買うという行為が崩壊してしまうことは、世の中にとって大きな損失ではないか。
例えばヤマダ電機茅ヶ崎店の4階はワンフロアが書籍専門である。大きさで言うと国道沿いの宮脇書店や文教堂やよむよむ書店(ロードサイド版のリブロ)と同じくらいだ。でも、売っている本はマンガと雑誌とサブカル系にやたらと偏っていて、やはりここは「家電量販店の1コーナー」なのだと思ってしまう。凡庸性があって必ずニーズがあるような書籍(例えば文庫本など)は、文教堂やよむよむ書店の平均的品揃えより乏しく、でもサブカル本は、ジュンク堂や蔦屋書店やヴィレバンにしか置いてないようなやたらとあって、良くここで無駄遣いをしてしまうのだ。
たぶんヤマダ電機って全国チェーン画一化の代表格だから、きっと日本全土のヤマダ電機の書籍コーナーがこうなのだと思う。しかしそれでは「ある程度ネット通販も使いこなせて商品知識もある上でサブカルを狙う物好き」と、「ネット通販を全く使えないし商品知識もないがほどほどの商品が欲しい層」の間で著しい格差が生じてしまいそうだ。前者には、ヤマダ電機の書籍コーナーは中途半端なリアル本屋でも商品候補が無数にありすぎて困るamazonでもない第三の選択肢として家電のショールーミングついでに活用できる。しかし、後者はそこしか本を買う手段がない場合、無意識的に更なる情報弱者になってしまう。
パソコンを買えればいいとか、本を買えればいいという「要素」ばかりを重視した結果、箱がなくなることってかなり問題だ。
これはいろいろなことに応用できないか。「モール併設のフードコートばかりやたら増えて独立店舗の減っているマクドナルドの問題」もそうだ。子どもからすれば、家族で天気のいい日にドライブの途中にマックの店舗に寄って、プレイランドで遊べたり、グリマスとかのイラストのあるキッズ椅子に座らされてハッピーセットを楽しむのがいいのであって、セルフうどんだの、クレープ屋だのと十把一からげに設置されたカウンターだけのマクドナルドは、出てくるハンバーガーは同じでも体験価値はまるで異なる。むしろ、充実したフードコートであるほどマクドナルドは最もつまらない選択肢になるため、家電屋のパソコンコーナーのように無視されてしまうのではないか。
パルシステムで売っている「吉野家のチルド牛丼」を手に入れれば、わざわざ家から出ることなくセントラルキッチンで作っているレトルトと同じものが家で食べられるのにも関わらず、吉野家がリアル店舗から撤退しないのだって、それをやってしまえば凡庸な多くの日本人が牛丼を食べる文化そのものが死んでしまうからだろう。国民食の牛丼だって一歩間違えればカルディコーヒーファームとか成城石井で売っているクスクスと同じになるのだ。
つまり本屋が無くなるという問題は、パルシステムが吉野家を潰すようなことだと思う。それは日本人が本を捨てることを意味するわけである。amazonや電子書籍が同行できるレベルの話ではないのだ。