しっきーのブログ

今年の目標はゲームをつくることです!

ネットの言葉は誰に届くのか?



 誰もが情報を発信できる時代になった。SNSなどでみんなワーキャーやっているが、まだまだ、ネットは手探り状態なのだと思う。リアルとネットの境目は、ほとんど何も定まっていない。

 バカッター騒ぎを起こすようなのは、工業の時代に歯車に挟まって死んでしまうような馬鹿だが、そういうのに群がって感情的になっている連中も、一歩遅れている。



 匿名や半匿名の言説が悪いというわけでは、決してないだろう。(それはフェイスブックを見ればよくわかる)このブログだって本名を出してやっているわけではないのだし、匿名みたいなものだ。

 実名であれ匿名であれ、情報を発信する自由はあってしかるべきだし、しかるべき批判はされるべきだ。だが、少々偏狭な意見がネット上でそれなりに勢いを持っているのも事実。


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 ネットで言葉を発するということの意味、自分が発した言葉が、広いネットの海を通ってどのような人間に届くのか、ということを、ここらへんでちょっとよく考えてみてもいい。

 人間は、自分の興味のない情報、自分にとって不利な情報は無視してしまえるものだ。(インターネットに潜っているとそれをしみじみと実感できるでしょ?)

 誰でも自由にアクセスできるインターネットの弱点は「無関心」である。そして、往々にしてネットで強く非難されるような人間も「無関心」だ。つまり、彼らは色んな言葉をずっと無視してきたからこそ、ネット上の多数の人の怒りを買う。数人を炎上せさてダメージを与えたくらいで自分たちに正義があると思い込むのもけっこうだが、極端な例以外の、もっと大きな集団で考えてみたい。


 例えば、SNSなんかでよく怒りの対象となるトピックの一つとして、子供の躾けに疑問を持つ声は多い。この種の様々な疑問や怒りは、実感として非常によくわかるし、他者性の欠けた人間は世の中にたくさんいるものだ。みんな色々と経験していると思う。

 だが、「自分の子供もまともに躾けられない親は子供なんて産むな!自己責任!」みたいな言葉が、どういう人達に最も届きやすいか、ということを考えてみると、どうなるだろう?

 そのような非難の対象になるような人間が、そういった文章を読んで自分のあり方を正すというのは考えにくい。むしろ、そのようなものを認識する能力がなく、さらりと「無関心」でいられるからこそ、まさに非難の対象になっている。

 そして、逆にそういう言葉を目にして、傷ついたり、つらくなってしまうのは、必要以上にそれを強く受け取ってしまう真面目な人だ。攻撃的な言葉は、責められるべき人間には届かず、その途中にいる、言葉をまともに受け止めてしまう人に届く。


 ネット上で盛んにある種の言説を発信する人達は、自分の言葉が相手に届いて何かを正すと信じているのか、ただ気持よくなりたいから同じ仲間と同じようなことを言い続けるのか、つい感情的になって発言してしまうのか、自分のストレスを発散するためだと割りきっているのか、まあ色々あるだろう。


 某国に関するあれこれも、仲間内で盛り上がって気持よくなるようなものが多い。そういう人達は、もしその国の国民で日本のことを好きな人がいて、彼がその種の言説を見てどう思うのか、ということは一切考えられない。日本語で書かれたそれが、日本のことを嫌いな人と好きな人の、どちらの目につく可能性が高いかということも。



 他罰的で攻撃的な言葉は、「仲間」を作って共感や一体感を得るための有用なツールだし、どうしてもそれが必要な人だっているのだろう。ただそれは、誰かを傷つけることで成り立つファンタジーにすぎない。

 ネットにおいて何かを動かせる言葉があるとするなら、それは、かつては繋がることのできなかった同じ苦しみを抱える「他人」への、祈りのようなものなのではないか。







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