「あなたのすきはほんもの?」
ということで最近アニメを見ています。「ユリ熊嵐」。
セーラームーン、ウテナ、ピンドラと常に我々(誰だ)の心を鷲掴みにしてきた幾原監督の最新作。
私はちょうど保育園時代にセーラームーンの連載、アニメが始まり小学生のときに終わったというセーラームーンどんぴしゃ世代である。当時は毎日セーラームーンの絵を描きセーラームーンごっこをし、「美少女戦士セーラームーン」から「美少女」という単語を覚えた暁には保育園の先生に「美少女と呼んで下さい」などとのたまっていた。
保育園の年長さんになったとき、私が属していたグループを指揮していた子が突然「もう私達は年長になったのだから、セーラームーンごっこみたいな幼稚な遊びをするのはやめよう」と言い出し、以降セーラームーンごっこができなくなった。その悲しみは今でも覚えている。当時別のグループには当然まだセーラームーンごっこをしている子たちもいたのだが、私は所属グループを変えるという選択が怖くてできなかった。
幾原監督といえばエヴァンゲリオンのカヲル君のモデルであるという話なんですが、幾原監督の作り出すアニメは、突然何の説明もなくいきなり理解不能な世界が展開しているなかに視聴者はつっこまれ謎に謎が重なりトリッキーな言説が飛び交い登場キャラの言葉は回を追うごとに意味深かつ意味不明になる、という点ではエヴァンゲリオンと同じレベルをいっていると思われる。
今回のユリ熊嵐にしても、一体話が何から始まってどこへ行き着くのか全くわからない。
クマリアという星が爆発?してそのかけらが地球に降り注いだら、なんとびっくり熊が一斉決起して人間を食べ始めちゃったよ!おどろきーって感じだよね!人間は「断絶の壁」をつくり熊を隔離しようとしたんだけど、
「でもでも、人間の作ったルールなんて通用しないんだからね!
くまは、ひとをたべる、そういうい生き物!」
っていうわけで、人間を食べる生き物である熊と人間が「断絶の壁」を境に暮らしている世界のある女子高が舞台である。主人公が通うその高校に人間に化けた熊二人が転校してくるが…ガウガウ!
既にのっけからだいぶ意味がわからない。そういう生き物!っていわれてもな。そして話は回を追うごとにますます訳がわからなくなった。熊ってなんなんだ。ていうかこの物語がどこへ向かうのか全くちっとも読めないぞ!
この意味不明さ具合のレベル的には庵野監督と同じであるにも関わらず、両者が決定的に違っているように思われるのは、なんというか最後がなんとなくハッピーエンドかそうでないか、だろうか。ハッピーエンドに見えるかどうか。或いは、「女の子に優しい」かどうか。優しいというよりも、女の子の物語であるか、否か。
ものすごいふんわりした感じになってしまうのだが、幾原監督のアニメは意味不明なのだが「見ててイライラしない」というのがある。
演出のうまさとか印象的なセリフ回しとか音楽とか色々あるんだろうが、あとなんといってもエヴァンゲリオンがメカ!ウルトラマン!おれ達のガンダム!!的世界観を感じるのに対して、ウテナやピンドラから感じるのは、ヅカ!変身!お姫様と王子様!!的世界観であり、「女の子」として育った身にどっちかいうと馴染みがある。馴染みというよりも、「ここは排除されない世界」と言ったほうがいいかもしれない。
パシリム騒動のときもあったけど、「こういうのは男のおれ達のものだ」という言説が起こる世界がありうるとき、例えばウテナを「おれ達のものだから女には本当のよさは分からないだろう」と言うひとは、多分いないだろう。
つまりそういうことだ。
最終的に世界はやっぱり希望があってだから負けないでみたいなメッセージを勝手に受け取って大感動したりする私であるが、幾原監督と庵野監督の交流エピソードを見るにつけ、多分幾原監督は器のでかい人間なんだろうなと想像する。
幾原監督の作品はフェミ的視点を多分に持つと言われるし私もよく感じる。「王子様になりたい」と願うウテナや、「家族とは何か」を問うピンドラ。ウテナとアンシーは世界を後にして新しい世界へ出てゆき、血の繋がらない3人の子ども達は最後に「愛してる」の言葉によって「家族」を超えた世界に旅立った。
多分、世界を信じているからだと思う。例え闇があっても。それこそセーラーギャラクシアを最後に抱きしめたセーラームーンのように。それでもこの世界を肯定する、ということ。それはそれこそ「新しき世界」への可能性という意味で。肯定できる世界、への希望。
あちこちにあーウテナっぽい、と思ったりあーセーラームーンにあったなこういうのってなったりピンドラだなと思うところあり、幾原監督感が満載のユリ熊嵐。
ただ今回少し気になるのは、わりといかにもな感じの「萌え絵」っぽい画面だ。声も。そしてタイトルにも入っている「百合」。
ウテナのとき、ピンドラのときと多分その当時の絵柄をさくっと取り入れる方針のようなので、今大体アニメ絵といえば「萌え絵」という感じをさくっと取り入れただけなのか何か思慮遠謀のうえでの「萌え絵」なのかどうかはよく分からない。それから女子高のきらきら毒気のないイメージをそのまま投影したような登場人物たちも。
女子高!きらきら!ふわふわ!「私あなたのことがだいすき」「私も」という百合。
私は正直言って「萌え絵」みたいなのがすきではない。すきではないというかなるだけ見たくないくらいには嫌いである。
「萌え絵」って何が萌え絵やねんという定義からしだすと大変なことになるんだけども、不思議なのは、目が大きくてふわふわきらきらでっていうのは同じなのに、種村有菜は私はすきなんである。何が違うのだろうと思うんだけど、よく分からない。多分種村有菜の絵は何かが「過剰」だからなんだと思うんだけど一体何が過剰なんだろうか。背景の花か?種村有菜もいわゆる百合とかやおいとかそういうのをストーリーのなかにぶっこんでくるんだけど、でもやっぱなんか「萌え絵」とは違うのは一体何なんだろうか。やはり背景の花か。
「萌え絵」って一体何が嫌なのかというとそれはもう端的に言ってその「ロリ」感である。もうそれだけである。それに尽きる。
登場人物が別に18歳以上でもなんなら45歳でも同じで、どうにもこう「幼女感」のある絵柄に落ち着くところが、私にとっては成熟を拒否した姿に見える。「幼さ」を愛でるというのがどうも日本にはあるようだが、私はどうもそれがよく分からない。
人間は絶対に歳をとるのだし、若い頃にしかない魅力があるのも確かだけど、なんかこうそれを絶対的にしてしまうと、歳をとるという現実をどうやって肯定していいか分からなくなる。特に女の場合には歳を取るということがただそれだけで自身を否定される要素となるものだし、若い女の性的搾取のみならず、さらにそれよりもっと下、自分の強い意志を表立って示すのではなく「無垢な」「純粋な」ものによって「汚れ」を知らないものだけしか愛せないのなら、それはどうあがいても絶対に避けられない加齢その他の自分の「汚れ」とさえ向き合えないだけだ。自分を肯定できないのならなおさら他人など肯定できるわけがない。
「無垢」な幼いものを愛すことは、「無垢さ」を愛することができる、という自分への「無垢さ」という価値の取込をも可能にするわけだが、私は「無垢」を否定したい訳ではない。ただ、「無垢な幼さ」をもつものを愛すならばそこには必ず「愛す自分」の対象との段差が生じることは否めない。「無垢でない」自分と、「無垢」な対象。「知っている」私と「何も知らない」あなた。そんな「何も知らない」あなたがかわいくて大好き。それはあなたが、私を決して傷つけない世界一。何故なら私の方が「無垢」なあなたより、世界を知っているから。
そもそも「かわいい」という言葉は暴力である。「かわいい」は、自分が上位にあるものが下位にあるものに対して使われるからであると私は思う。かわいい、と言うとき、そこには対象を少しだけ上から見て、自分の価値観のなかに丸め込もうとする暴力的な意思がある。
ムキムキマッチョもヒゲ毛むくじゃらおっさんもちょっとイキがってる若い兄ちゃんもストイックな武士も全部「かわいい」の魔法で一気に解決である。ただひとこと、「かわいい」と言えばいい。それだけで、どんなホモソもミソジニーも全部上から丸め込んで包んで飲み込んでしまえる。まさしくオブラートみたいなもので、全て咀嚼できるものに変換してしまえる。
ONE PIECE描いてるおだっち氏はどうもイケメンという表層に群がる女子が好ましくないようで(5年間ワンピジャンルでサンジ君を愛で続けた感想)、金髪スーツのイケメン男子サンジ君にはすね毛をわざわざ描き(ゾロにもルフィにも画面上生えていないすね毛を、わざわざ!)、すね毛が嫌だという女子ファンを一掃しようとしたし、ほかにもとにかく毛深いおっさんやらやたらデカいおっさんやらを出しては「純粋な」男の子のファンを増やし「不純な」ファンを減らしたいらしいのだが(5年間ワンピジャンルでサンジ君を愛で続けた感想です)、それに対して腐女子その他ファンがどうしているかというと、「かわいい」という言葉の丸太を持って大航海時代の海を疾走している。サンジ君のすね毛も毛深いおっさんやらやたらデカいおっさんも全部「かわいい」。「かわいい」という丸太で全てのおっさんをなぎ倒し丸め込み飲み込んで走り続けている。
そうやって「これでもか」と繰り出される「少年こそ正当な読者」というホモソな価値観を、一段上から見下げて安心して咀嚼できるのだ。「かわいい」という丸太で薙ぎ倒して倒れ付したおっさんをきれいにまるめて食べてしまって、「ああかわいかった、ごちそうさま」。
まあそのおだっち氏の「純」「不純」読者の選定基準にも「無垢」という価値判断が入っているわけで、「より無垢で正当な読者」というのを求めるおだっちに、「そういうところがかわいい」とさらにその上から包み込んでやれという「無垢」レッテルの応酬合戦になってくるわけだがまあサンジ君はかわいいしイケメンだよね。ゾロとの扱いの差が私はどうにも解せぬぞ。もっとちゃんとカッコいいサンジ君ください。平田さんだって「カッコいいサンジがみたい」って言ってました!
「私はそういうことは知ってて言わない/しないけど、知らずにそういうことを言う/するあなたが、とっても」という気持ち。「かわいい」ということ。
抱きしめたいということは物理的な大きさがあってこそ可能だ。対象のほうが大きかったら抱きしめても抱きしめきれない。すっぽりと私の腕に収まるような大きさ、でないのならぐるぐるに丸めて私が抱きしめられるようにしてあげる。「かわいい」ということ。
その「ぐるぐるに丸める」過程において一番力を使わずに、安全に、そもそも最初から「抱きしめられる」くらいの大きさでしかない、のが「無垢な幼さ」なのだからこっちの優位は圧倒的だ。
もしかしたら「抱きしめられている対象」が、「ふふ、そうやって自分がすっかり抱きしめきっていると思い込んでるあなた、そういうあなたが『かわいい』」と「かわいい」によって逆に飲み込んでくる可能性もあるのだが、そうではなくてそうやって「飲み込む」ことでしか愛せないならそれは自分の優位な状況がなくなったら崩れてしまう関係で、対等じゃない。相手が成長して抱きしめられなくなったとき、飲み込めなくなったとき、愛せなくなったらどうするの?
「対等」じゃない。
それが多分私の「萌え絵」に対するどうにも受け入れられない気持ちの根源であろう。
そんなん言ったら私なんて年下の綺麗な男の子達のアイドルに「かわいいかわいい」言いまくってるわけですがそうです私の「かわいい」はだいぶ暴力である。私は彼らを「かわいい」と言って「かわいい」の檻に閉じ込めてぐるぐるにして食べている。かわいかった。ごちそうさま。だから「かわいい」の域を出て行く行動に対して戸惑い立ち止まってしまうのだ。例えば脱退とかお金の問題とか不仲とかそういうの。檻に閉じ込めていたけどそれは私の脳内の出来事であって実際の彼らは自由なひとりの人間である。「かわいい」だけの訳がない。全ては私の「かわいい」という暴力が跳ね返ってきただけのことだからそ「かわいい」とぐるぐるにした分だけ跳ね返りの勢いも強くてそれで倒れ伏すのは当然の帰結。私が「対等」を怠った罰。
なにかというと、ユリ熊嵐、わりに途方もなく「萌え絵」的画面でおよそ現実の女子とはかけ離れた「萌え声」ともいうべき演出なんだけども、これは果たして、なんなのか。最近流行りの絵柄を単に取り入れただけなのか、それとも意味があるのか。「かわいい」の暴力の果てのとんでもないしっぺ返しがあるのかどうなのか。どっちかいったら私は後者がいいです。幾原監督。
私を無限のかわいいからどうか叩き落して。
目を覚ました先にある「新しき世界」がきっと肯定すべきものだと、私は信じているから。たとえ荒野でも。