書家 石川九楊
 
 2月4日は立春。暦の上では春。まだしばらくは寒い日も続くでしょうが、温かくなる気配も少しずつ感じられるようになりました。
 さて、今、私は日本語で話を始めました。アジア大陸の東の海に、たくさんの島々からなる日本と言う国があって、そこでは日本語が話されている。大半の人がこう考えています。しかし私は、ほんとうに「日本語」という単一の言語はあるのだろうかと疑います。今日は、このことについてお話します。

 日本語と言う単一の言語があって、これを表記するために、漢字とひらがなとカタカナの三種類の文字があるというのが一般的な考え方です。一つの言語に三種類の文字があるというのは、いささか異様ですから、これを整理しようという考えが生じるのは当然のことです。
 明治時代になって、近代郵便制度を作った前島密は漢字を廃止しようと唱え、これを皮切りにローマ字で書くことにしよう、いや、ひらがな、あるいはカタカナ書きにしようと、いろいろな論が興りました。明治の外交官・森有礼は英語を、小説家・志賀直哉はフランス語を国語にしようと唱えたほどです。近年では梅棹忠夫さんのかな文字タイプライター論に至るまで、さかんに議論されました。しかし、しぶとく、三種類の文字は生き残りました。そしてワープロの出現によって、議論そのものが雲散霧消してしまいました。
 なぜタイプの異なる漢字、ひらなが、カタカナの三種類の文字は残り続けたのでしょうか。その答えを見つけるためには、文字とはどのようなものかを正確につかまえる必要があります。

文字は話し言葉を定着するための記号ではありません。文字は言葉そのもの。言葉でない文字はありえません。
 
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 たとえば、漢字の「雨」、ひらがなの「あめ」、アルファベットの「rain」は文字です。
しかし、漢字の横画や縦画、「ひらがな」の「あ」、アルファベットの「r」は文字を構成するための単位ではあっても、十分な文字ではありません。
 文字は長い年月をかけて、絶えることなく書きつづけられることによって伝えられてきました。ですから、そのかきぶりと形の中に、その文字で書かれねばならなかった理由がそっくりとどめられています。
 
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 漢字は、いくつかの構成要素が中央から遠心し、また中央へと求心する書法で、正方形に収まるように書かれます。一字一字が独立し、完結した姿を見せるこの書法は、一字が一語である漢字の自立した性格を物語っています。この漢字語が得意とするのは、政治、宗教、思想、哲学の表現。憲法も民主主義も平和も愛も、世界も自然も人間も宇宙も漢字語なくして語ることはできません。
 では、ひらがなはどうでしょう。「の・す・お・あ」の文字に共通するのは文字の終りが右回転状に伸びること。また上部はアンテナを立てたような姿になっています。アンテナの形は、上にある文字とつながるための仕掛け。また、下部の回転形は、下に来る次の字とつながるための仕掛け。これがひらがなの規範的な形です。「あ」は「め」の字と手をつなぐことによって、はじめて「あめ」という語になります。平安時代の中期、西暦九百年頃、ひらがなを作り上げ、漢詩や漢文に頼らなくても、身近な言葉で、和歌と和文を作る事ができるようになりました。はる、なつ、あき、ふゆの四季の歌。また、ひらがなは女性にも解放されたことから、男女の性と愛をめぐる表現もとても豊かになりました。古今和歌集の歌と、源氏物語がその代表です。
それではカタカナはどうでしょう。カタカナを学ぶとき「ノメクタ」「サイタサイタサクラガサイタ」から学びますが、いずれの文字も右上から左下へと向かうベクトル、楔のような形状で書かれています。ひらがなとはまったく違ったこの書きぶりは何を意味しているのでしょう。
「春雨(シュンウ)」とかかれた漢字の間に「ノ」を挟むと「春ノ雨(シュンノウ)」、「春ノ雨(はるのあめ)」と開かれます。カタカナは漢語、漢文を翻訳するための半ば文字、半ば記号。いまだ一人前ではなく半人前という意味での「片カナ」、またもともと漢字の傍らに添えたという意味での「片カナ」。まさに絶妙の命名です。漢字やひらがなには規範となるモデルがありますがカタカナはこれといったモデルはありません。これまたカタカナの半文字、半記号性を物語っています。
もうひとつつけくわえましょう。「ノメクタ」の文字をひとふでつづけて書くことはできません。ひらがなと大きく違うところです。強固な漢文、漢詩、漢語の傍らに打ちこまれて、これを開く、つまり翻訳する、それがカタカナ語の性格です。近年、「とりあえずビール」という語をよく耳にしますが、外来語をとりあえず受け容れるのが「カタカナ語」です。
 
 このように、単一の日本語があって、これを漢字やひらがな、カタカナの文字で書くと考えるところから、実に多くの文字改革論争が行われてきました。しかし、改革論者達の提案は実現しませんでした。それは、単一の日本語があるのではなく、漢字で書かれるところから生まれてくる漢字語と、ひらがなによってもたらされるひらがな語と、カタカナを使うことで書きとめられるカタカナ語、この三つの語が複雑に入り組んだ集合体を日本語とよんでいるにすぎないからです。「日本語なんてない。あるのは漢字語とひらがな語とカタカナ語。」この三つが複雑にからみあう言語を日本語とよんでいるのではないでしょうか。
 
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 今は入学試験の季節。受験生諸君もあと一息と準備をしていることでしょう。
大学入試の「国語」には「漢文」と「古文」と「現代文」にわかれていますが、これは日本語が漢字語とひらがな語とカタカナ語から成っていることを証かしています。書道の分野が漢字と仮名と近代詩文に分かれていることも同じです。
 このように見てくると、今、日本語の中で、漢字語が萎縮していることに気づきます。日本語の政治的、宗教的、哲学的表現が急速に劣化しています。長い見通しにたって、漢字語教育の再生が急務であると考えています。