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たとえ最終結果に反映しなくても、裁判員が判断にかかわる意味は失われない…
たとえ最終結果に反映しなくても、裁判員が判断にかかわる意味は失われない。
ふつうの市民が加わった裁判員裁判の死刑判決が、高裁で無期懲役になり、最高裁がそれを支持して確定する。
裁判員裁判の死刑判決は昨年末までに22件あり、うち今回の2件を含む3件が高裁で無期懲役に変わった。
市民が悩み抜いた末の死刑判決がプロの裁判官に覆されることは、関係者ならずとも複雑な思いを抱くかもしれない。何のための市民参加なのか、と。
だが、問われているのは、公権力が人の命を奪うという究極の刑罰である。別の法廷で、違う目で精査し、ほかの刑の選択肢があると判断するなら、避けるのは当然のことだ。
担当する裁判員や裁判官によって結果が異なることもある。裁判員裁判の結果だからと重きを置きすぎれば、裁判の公平さへの信頼が揺らぐ。
09年に制度が始まってから、裁判員裁判の控訴審はもっぱら事後的審査へと役割を変えた。市民に参加を義務づけながら、その判断を高裁が次々と否定することになっては、制度の理念が損なわれるからだ。
実際のところ、性犯罪に対する刑が厳しくなった、刑の執行を猶予する場合に保護観察付きが増えたといった、制度による変化が指摘されている。
とはいえ、市民感覚を法廷に持ち込みさえすればいいという制度ではない。主眼は裁判員と裁判官が対等に話し合い、犯した罪に過不足ない刑を選びとっていくところにある。
今回の2件はいずれも殺された被害者が1人で、従来の死刑判決の基準からは外れていた。裁判員は、被告の前科や、殺人事件の前後に起こした別の事件なども重視したが、最高裁はそれらは死刑を選ぶ理由としては不十分と判断した。
被告の前科や人格などを、裁判でどこまで考慮するかをめぐっては、ふつうの市民と法律家の間に意識差が生じがちだ。だからこそ、市民の参加に意味があるというべきだ。
最高裁は今回の補足意見で、死刑に対する国民の意見、感覚は多様なことに触れ、「国民の司法参加の意味・価値が発揮される場面」であるとした。まっとうな見方である。
これまでの司法判断の積み上げを踏まえたうえで、今後どう向き合うか、裁判官と裁判員が議論を続けていくしかない。
司法は誰かにゆだねるものではなく、国民全員が当事者だ。その認識をさらに深めたい。
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