【オウム裁判】裁判公開の原則はどこへ…
江川紹子 | ジャーナリスト
オウム真理教の一連の事件で、最後の被告人となった高橋克也被告の裁判が、東京地裁で開かれている。2月3日の第12回公判で、開廷と同時に、主任弁護人が立ち上がって吠えた。2月6日に予定された裁判が、非公開となったことへの抗議だった。証人となる元信者が、公開法廷に出たくないと言い出したため、裁判所が検察側の要望を受けて、非公開を決めたのだ。
何も明かさないまま非公開に
この元信者は、教団諜報省の元次官で、假谷事件では被害者を車に引き込むなどした実行犯。先月26日にはVX殺人事件の証人として出廷し、各事件の状況のほか、自らの教団内での地位などをかなり饒舌に語った。その際、遮蔽板で姿が傍聴人から見えないようにしてあり、メディアの報道も名前は出さないなど、すでに服役を終えた彼に対して十分な配慮がなされた。にもかかわらず、同様の形で假谷事件を証言するのは、嫌だというのである。しかも法廷では、なぜ今回は嫌だというのか、その理由すら明らかにされなかった。それどころか、弁護人の抗議で初めて、私は公判が取り消しになったことや、それが証人が出廷をいやがっているためだと知った。
裁判は公開の法廷で行う。これは憲法が定めている基本原則だ。証人が証言するのは義務。召喚状を出されて正当な理由なく出頭しない場合、罰金や拘留などの罰則もある。裁判所には、出頭を拒む証人を勾引する権限も与えられている。なのに、元信者のワガママを唯々諾々と認め、基本原則を放り出すとは、あきれ果てる。裁判所は、自らの権威を貶めたも同然だろう。
原則よりスケジュールが優先?
高橋被告の裁判は、裁判員裁判で行われている。事件数も多く、多い時には週5回開廷する過密スケジュールが組まれた。終盤に予備日なども準備されているが、もし証人の説得に時間がかかるなどして、スケジュール通りに進行しないような事態にしたくない、非公開にしてスケジュール通りに尋問も済ませたい、というのが、裁判所の本音ではないのか。憲法に書かれている基本原則が、たかがスケジュールのために曲げられたとしたら、大問題だ。
死刑囚も隠される
それだけではない。最近の裁判所は、実に安易に証人の遮蔽措置を行う。オウム裁判では、先の諜報省元次官のように服役を終えた元信者は全員遮蔽。平田信被告の場合、オウムとはまったく関係ない入信前の友人まで遮蔽措置がとられた。さらに、死刑囚も全員が遮蔽板で隠される。遮蔽板があると、傍聴席からは裁判官や裁判員の姿も見えなくなる。席によっては、尋問を行う検察官や弁護人の姿も隠される。これで本当に公開された法廷と言えるのだろうか。(冒頭の絵を参照)
高橋の裁判では、これまでに3人の死刑囚が出廷したが、いずれも遮蔽措置で傍聴席からは完全に隠された。入廷の時にはアコーディオンカーテンまで出して、傍聴人からはその姿が一切見えないように、裁判所は全力を挙げる。
こうした措置は、死刑囚たちが求めたわけではない。むしろ、普通に堂々と証言したいという書面を出した死刑囚もいる。なのに認めないのは、拘置所側の求めに、裁判所が従ったためだ。
開廷前に報道機関による法廷内撮影が行われることがある。その時には、この遮蔽板は法廷の外に出されている。なので、テレビなどで裁判のニュースがあっても、遮蔽板は映らない。裁判所は遮蔽板の存在も隠したいのだろうか。
傍聴人が目と耳で審理の内容を確認できてこそ、裁判の公開だろう。日本の裁判の基本原則が、こんな簡単に崩されていいのか。
(2月4日付日刊スポーツに掲載の原稿に加筆しました)