イスラーム初期の時代の最も重要な出来事の一つである、ヒジュラ暦6年の「フダイビーヤの和議」に関する再解釈が、最近話題を呼んでいる。「英雄的柔軟性」への道を開いたと言えるこの重要かつ歴史的和議を、誇りを失った自らの態度の根拠にしようとする者たちが、一部にいるためだ。
「フダイビーヤの和議」とは、次のような出来事のことである。預言者ムハンマドはバドル〔の戦い〕やバニー・ナズィール〔との抗争〕、そして塹壕〔の戦い〕で大勝利を収め、メディナにイスラームを完璧に打ち立てた後、多神教徒のアラブ諸部族をイスラームに惹きつけ、イスラームとイスラーム教徒の偉大さと栄光を宣伝するなどの、高邁な目的を達成し、それと同時に〔預言者ムハンマドとともにメッカからメディナに移り住んだ〕ムハージルーンたちとその親族の再会を実現させるために、ウムラ(小巡礼)を計画した。預言者はその際、ウムラに成功しようと、多神教徒たちが預言者の行く手を遮ろうと、いずれの場合でもイスラーム教徒が利し、多神教徒のクライシュ族が害を被るよう、準備をした。
※訳注:「バドルの戦い」は624年にムハンマド軍とメッカ軍の間に起きた大規模な戦闘で、その結果、ムハンマド軍が勝利を収め、メディナでの地位を確立した。「バニー・ナズィール」はメディナ在住のユダヤ教徒で、聖遷後のムハンマドと対立し、同じくムハンマドと対立していたメッカのクライシュ族にムハンマド討伐を要請した人物。その結果、「塹壕の戦い」が627年に勃発した。この戦いで勝利を収めたムハンマド軍は、メディナでの支配を万全のものとした。
預言者はメッカに向けて移動し、フダイビーヤという名の地域にキャンプを張った。多神教徒たちはそれを知って、預言者のメッカ入場を阻止しようとした。彼らは代表者らを預言者のもとに送り、クライシュ族の代表者と預言者の間で、数回にわたって話し合いがもたれた。その結果、「フダイビーヤの和議」と呼ばれる7項目からなる条約が、預言者とクライシュ族の間で結ばれた。
和平条約が作成される過程で、一部の内容が削除されたり、付加されたりしたが、一部のイスラーム教徒はこの和議を、多神教徒に対する預言者の後退と理解した。確かに、表面上はその通りであった。しかし最終的に、この和議は偉大なる預言者の運動がいかに綿密に計算されたものであったのかを、示すものだった。
「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において」の文言が、和議本文の冒頭から削除され、また預言者の名前から「神の使徒」の語が外された。さらに、この条約の第2条は、クライシュ族から逃亡したイスラーム教徒の送還をイスラーム教徒に義務づける内容だった。これに対し、メッカにいる多神教徒たちは、こうした約束を免除されていた。こうした条項は預言者の一部の仲間を傷つけ、彼らはそれを容認しようとはしなかった。
最近、フダイビーヤで結ばれた和平条約やその際に行われた条項の削除・追加を根拠に、核交渉で5+1グループ(国連安保理常任理事国とドイツ)に対して、というより実際にはアメリカに対して、矢継ぎ早に見返りを与えることで、自らを預言者の立場に置こうとしている者たちが一部にいる。彼らは、自分たちのやり方を批判する者たちを、イスラーム初期の時代に預言者に反対した、急進的なイスラーム教徒に仕立てあげようとしているのだ!
こうした中で、いくつかの重要な点が意図的に、あるいは過失によって、無視されている。これは、イスラーム初期の時代の重要かつ教訓に満ちたこの出来事を歪曲するものだと言えるだろう。【次ページにつづく】