入れ墨の女房
いつだったか夏、散歩のことを思い出しました。
左右の肩から入れ墨がのぞいていた女性を見ました。
ワシかタカの翼の一部らしきかたちでした。
年の頃は20代半ば、化粧は濃いがきれいなひとにみえた。
「わたしは、暴力団関係者のおんなです。手を出すと殺されますよ」というメッセージか。
それとも、かたぎの職業から脱落し、いろいろな職を経験して、自分を受け入れてくれるのがじぶんしかいないことに思いが至り、自分のことは自分で決めようと決心して、他人にはまねのできない自分になろうとしたのかもしれません。
それとも、「あんたたちに出来ないことを私はやっている」という自己表現で、周りの人を威嚇して、自分を認めさせたかったか。
帰り道には偶然、別の女性が左の肩に、なにやら漢字の入れ墨をしていた。
最近の人なら「○○命」であろうが、もっと字数の多い熟語か何かのようであった。
としはすでに五〇を超えていたが、だんなさんは(もし、いればですが)満足なのだろう。
親から授かったからだを自分できずつけるのは、この上ない親不孝と知りながら、やらなければ生きていけないいきさつがあったわけです。
つまり、親と縁を切る、精神的な縁を切る。
いまなら「精神的自立」でしょう。
親から暴力を受けたり、親が人をだますことを教えられ、本当に親がいやになったのでしょう。
このままじゃ自分もダメになる。
そんなことをいっても自分は、堅気の職業に就職は出来なかった。
親との関係を捨てた「ろくでもない」自分を受け入れてくれたのは、義理と人情のやくざ稼業の、今の旦那さんだけだった。
旦那さんに操を捧げる決意が、彫り物をさせたか。
もともと、入れ墨は日に当てると色がさめてしまうので、日には当てないものなのです。
だから、昔の彫り物は、腕はひじから10センチくらいまで、着物の袖口からも見えませんでした。
今のチンピラのように、見せびらかすように手首まではやらないのです。
日に当てないとは、どんなに立派な彫りものでも、他人様の目から隠すと言うことです。
まあ、死を覚悟した殺し合いの時しか見せないのです。
でも、さすがに、暑い夏にはそうもいかないのでしょう。
入れ墨を入れたら、やせ我慢しなきゃ。