こんにちは 大阪は晴れ
ユーチューブでアメリカの高校生の朝食を見ている。驚きの朝食ばかり。バナナと卵を混ぜ、焼いたものを食べる。オートミルに、クランベリー、ヨーグルトを入れたもの。まるで外国だ。
今、大学の卒論に書いたことを整理して、わかりやすく説明している。卒論はたいしたことがない、と思うなかれ。発達心理学、青年期のテーマから人類の思想の発展を世界初で明らかにしたものだ。読んでいくうちに、日本人離れしてるとびっくりするはず。
社会イデオロギーの終焉3 社会思想の末期に起きること
先日、人類の思想テーマは16-19世紀に"理性"、20世紀は"社会"と示した。今日は、21世紀以降のそれを明らかにするつもりだったが、その条件を詳しく説明する。
"時代の思想"とは何か
まずはおさらいしたい。社会イデオロギーやヘーゲル哲学への当時の熱狂を思い起こす。人々はそれが時代の先端を走る、と思っていた。そして、実際に、その新しい哲学によって社会は謎を解明して、発展しているように感じた。多くの人々が熱中した。そして、その哲学が当時の思想の流行だった。
"時代の思想"とは、1,大衆に支持され、2,社会を発展させる理念である。それは、3,何かの解明である。社会の解明は20世紀の人類課題だった。それは4,人類の研究対象である。理性とは何か、社会とは何かが過去の思想でテーマとなった。
新しい思想は、5,過去の思想テーマではない
誰でもわかることは、それが過去の思想ではないことだ。社会イデオロギーではないこと。資本主義でも、社会主義でもない。とっくに破綻した共産主義でもない。こういう理想社会を論じたり、社会の体制を説明するものではない。そんな過去の思想テーマではない。その答えは、社会思想や理性の哲学以外にある。もちろんヘーゲル哲学のようなものでもない。次に、大事なことを述べる。
時代の思想とは
1,大衆に支持されるもの
2,社会を発展させる理念
3,それは何かの解明である
4,それは人類の研究対象である
5,過去の思想テーマではない
6,前段階の思想の完成後に現れる
新しい思想テーマは、6,前の段階の思想が完成した後に現れる
理性の時代で、その哲学を完成させたのはヘーゲルだ。彼は「人生哲学(岩波文庫)」で、理性の発展の最終形を記した。理性は永遠に発展するかのように。それは学問体系(理論)の分化という形だった、と思う。理性の内容=学問である。学問の発展をモデルにして示せば、それが答えだ。そして、"小論理学"を彼は生み出した。理性の本質とは論理学だ、と明らかにした。
理性=論理学というのは正しい。なぜなら、最も理性的な思考をするのは、コンピューターである。ここにいう、理性とは論理的な思考をさす。理性=良識的な思考、という意味ではない。感情的でない大局的な思考という意味である。合理主義の極致、合理性とは何か。それは論理的な思考である、というのがある真実である。
コンピューターは論理でもって、演算する。ただそれだけの機械だ。が、コンピューターは理性的だと思われる。つまり、理性の本質は論理学(論理回路・演算)なのだ。このようにして、ヘーゲルは理性をつきとめて、完成させた。
若干ここは異論があるかもしれないが、共産連中のように支離滅裂なことは言ってない。理性とは、大方、理論体系(学問体系)と論理学である。学問とコンピューターがそうなのだから。
ヘーゲルが理性を明らかにしてしまった。人々はもう理性が何かを知ってしまった。すると、理性探求への情熱がとたんに冷えていった。冒険はそれが発見されるまで人々のロマンをかきたてる。発見されてしまえば、もうそこに魅力は感じない。
19世紀後半から20世紀にかけて、人々はヘーゲルを批判しだした。ヘーゲルを過去のものにした。新しいテーマを追い求めた。20世紀になると、人々は理想社会を意識した。そして、人々は社会イデオロギーに向かっていった。
前段階の末期にはそんなことがあった。ここから、人類は新しいテーマを、理性期の終わり頃と同じように見出す、と予想できる。まずは、1,社会イデオロギーの完成が起きる。そして、その後に、2,社会を改革する意欲の低下が起きる。そして、徐々に3,人類は新しい課題を意識しはじめる。
社会思想の時代の末期に起きること
1,社会イデオロギーの完成が起きる
2,社会を改革する意欲の低下が起きる
3,人類は新しい課題を意識しはじめる
新しい思想が出現する前に、社会思想の完成形が世に出る。それがないと、人類は次の課題に進めないのだから。それはどんなものだろうか?
では、問題。社会思想の完成、理論的な統合とは何だろうか?
少し考えてみよう。社会思想を統合する理論だ。統合とあるから、インテグラル理論のケン・ウィルバーがやってくれるのだろうか? 彼の成長理論で、社会の発展を明らかにしたものはなかったはずだ。
答えはどこにあるか? 社会を最も明らかにしたのは、経営学だ。企業組織の内部を明らかにしたが、それは一般の社会も分析できるほど優れている。おそらく、経営学のどこかに、社会思想を網羅して、整理する理論があるのだ。
共産主義と自由主義の社会の優劣、共産主義の悪質性すら簡単に見抜けない頭の弱い人には、とうていわからないだろうが、必ずそこにある。それはまた今度。
道徳教育法-日本的な精神論の弊害
昨日は、理想の人格をもつことの大切さを述べた。今日は、道徳教育で、危険な思想を一つ記す。それは、日本人を日本的にしているものだが、それがあるために、日本人を愚かにしているものだ。
よく、学校のスポーツクラブで、「根性があればできる。」、「気合があれば、技術などなくても、なんとかなる。気合だ。気合だ。」とはっぱをかける。「気合が足りないんだ。」とすぐに安直な精神論に走る。
これは、強く念ずれば物事を成し遂げられる、というむちゃくちゃな思想、日本的な精神論である。技術がなければ、相手に勝てない。それはわかりきったことだ。気合や根性という言う人ほど、技術を教えないで、同じ要領の悪い練習をさせる。そして、生徒はいつまでも実力が上がらないで、低迷する。
そして、試合の時に、根性を出すようなすごい形相で臨ませる。生徒は気は張り詰めているようだが、実力がなく、あっさりと負ける。要は、思いだけでは何もなしとげられないのに、そんな精神論が日本では幅を利かせる。
これは大問題だ。この精神論は、無能の勧めなのだから。日本人はこの精神論をよく行なう。そのたびごとに、非能率的なことをして、満足している。つまり、無駄かつ愚かなことをしている。これは、道徳教育で改めたい。
私は、その日本的精神論を支える考えはどこから来るのか。ずっとわからなかった。
なぜ日本人は、物資も技術も得ないで、「気合があればできる。」、「根性があればできる。」、「強く思えば、それを成し遂げられる。」という精神論に走りやすいのか。
この精神論は実に、多くの弊害を生み出している。一に、無理な事をやらせる時に、使われる。勝てる訳がない相手に、試合で勝つ時に、「根性」や「気合」、「やる気」があればできる、というが、大負けする。精神的に強くもてば、技術を覚えることもなしに、なんの工夫もしないで、何かか成し遂げらる、という風潮に至った。
二、これは戦前、戦中にひどい使われ方をした。「根性や気合」を出すために、上官が殴ることは平気で行なわれた。それはスポーツ界に残るおかしな風習である。これらは、改めなくてはいけない。この精神論はいらない。
これはどこからくるかよくわからなかった。「祈願」という風習からくるのか。しかし、最近、新しいルーツをみつけた。
孟子の思想である。「誠意があれば、人に伝わる。」、という。誠意を示せば、なんでも相手に通じる。それが転じて、気合や根性があれば、なんでもできる、というふうになったのではないか、と思う。これは、現在は"熱意"というのが普通である。欧米では、たぶん、熱意と理解されている。
この精神論の弊害は、子供にはよく教えたい。大人になってから、ど根性のスポコン無能指導者。根性と気合、やる気しかいえない社会人にさせないために。
本日の被害
白い涙が左目に出た。涙が固まると白くなる。これは網膜が切られた症状。重症である。回復まで最低、一ヶ月かかる。目はやや痛む。視界にうっすら横線が短く入る。すぐに消えるけど、あったことは確かだ。朝6時頃に目覚めさせられ、音声送信で、左目の網膜を切ったとしつようにアカは言ってきた。犯人は、昨日、川西の本屋でみかけた老人男の仲間だろう。
見るからに薄気味悪くいやらしい男だった。悪人顔だ。この手の人物は必ず、悪いことをする。悪質なやつだ。それが私が立ち読みしていると、隣にきた。もうこれは、嫌がらせだ。放っておいて本を読んでいたら、いつまでも横にいたから、舌打ちをした。誰にしたかは、別にわかるものではない。
が、隣の男は、ストーカーだから、自分にされたと思ったのだろう。事実そうだが、すると、独り言で「バカがなんとか・・・」と言い出した。やはり、ストーカーだ。こういう反応でそいつがストーカーでアカと判明する。私の真横に来て長く立つ。これは、威嚇なのだ。警察用語でいう、威圧、というやつだ。音声送信によると、この男のグループがかなりひどいことをしたという。
私に何かすると、ウチゲバされるのが常だ。こっぴどくやられているだろう。
ユーチューブでアメリカの高校生の朝食を見ている。驚きの朝食ばかり。バナナと卵を混ぜ、焼いたものを食べる。オートミルに、クランベリー、ヨーグルトを入れたもの。まるで外国だ。
今、大学の卒論に書いたことを整理して、わかりやすく説明している。卒論はたいしたことがない、と思うなかれ。発達心理学、青年期のテーマから人類の思想の発展を世界初で明らかにしたものだ。読んでいくうちに、日本人離れしてるとびっくりするはず。
社会イデオロギーの終焉3 社会思想の末期に起きること
先日、人類の思想テーマは16-19世紀に"理性"、20世紀は"社会"と示した。今日は、21世紀以降のそれを明らかにするつもりだったが、その条件を詳しく説明する。
"時代の思想"とは何か
まずはおさらいしたい。社会イデオロギーやヘーゲル哲学への当時の熱狂を思い起こす。人々はそれが時代の先端を走る、と思っていた。そして、実際に、その新しい哲学によって社会は謎を解明して、発展しているように感じた。多くの人々が熱中した。そして、その哲学が当時の思想の流行だった。
"時代の思想"とは、1,大衆に支持され、2,社会を発展させる理念である。それは、3,何かの解明である。社会の解明は20世紀の人類課題だった。それは4,人類の研究対象である。理性とは何か、社会とは何かが過去の思想でテーマとなった。
新しい思想は、5,過去の思想テーマではない
誰でもわかることは、それが過去の思想ではないことだ。社会イデオロギーではないこと。資本主義でも、社会主義でもない。とっくに破綻した共産主義でもない。こういう理想社会を論じたり、社会の体制を説明するものではない。そんな過去の思想テーマではない。その答えは、社会思想や理性の哲学以外にある。もちろんヘーゲル哲学のようなものでもない。次に、大事なことを述べる。
時代の思想とは
1,大衆に支持されるもの
2,社会を発展させる理念
3,それは何かの解明である
4,それは人類の研究対象である
5,過去の思想テーマではない
6,前段階の思想の完成後に現れる
新しい思想テーマは、6,前の段階の思想が完成した後に現れる
理性の時代で、その哲学を完成させたのはヘーゲルだ。彼は「人生哲学(岩波文庫)」で、理性の発展の最終形を記した。理性は永遠に発展するかのように。それは学問体系(理論)の分化という形だった、と思う。理性の内容=学問である。学問の発展をモデルにして示せば、それが答えだ。そして、"小論理学"を彼は生み出した。理性の本質とは論理学だ、と明らかにした。
理性=論理学というのは正しい。なぜなら、最も理性的な思考をするのは、コンピューターである。ここにいう、理性とは論理的な思考をさす。理性=良識的な思考、という意味ではない。感情的でない大局的な思考という意味である。合理主義の極致、合理性とは何か。それは論理的な思考である、というのがある真実である。
コンピューターは論理でもって、演算する。ただそれだけの機械だ。が、コンピューターは理性的だと思われる。つまり、理性の本質は論理学(論理回路・演算)なのだ。このようにして、ヘーゲルは理性をつきとめて、完成させた。
若干ここは異論があるかもしれないが、共産連中のように支離滅裂なことは言ってない。理性とは、大方、理論体系(学問体系)と論理学である。学問とコンピューターがそうなのだから。
ヘーゲルが理性を明らかにしてしまった。人々はもう理性が何かを知ってしまった。すると、理性探求への情熱がとたんに冷えていった。冒険はそれが発見されるまで人々のロマンをかきたてる。発見されてしまえば、もうそこに魅力は感じない。
19世紀後半から20世紀にかけて、人々はヘーゲルを批判しだした。ヘーゲルを過去のものにした。新しいテーマを追い求めた。20世紀になると、人々は理想社会を意識した。そして、人々は社会イデオロギーに向かっていった。
前段階の末期にはそんなことがあった。ここから、人類は新しいテーマを、理性期の終わり頃と同じように見出す、と予想できる。まずは、1,社会イデオロギーの完成が起きる。そして、その後に、2,社会を改革する意欲の低下が起きる。そして、徐々に3,人類は新しい課題を意識しはじめる。
社会思想の時代の末期に起きること
1,社会イデオロギーの完成が起きる
2,社会を改革する意欲の低下が起きる
3,人類は新しい課題を意識しはじめる
新しい思想が出現する前に、社会思想の完成形が世に出る。それがないと、人類は次の課題に進めないのだから。それはどんなものだろうか?
では、問題。社会思想の完成、理論的な統合とは何だろうか?
少し考えてみよう。社会思想を統合する理論だ。統合とあるから、インテグラル理論のケン・ウィルバーがやってくれるのだろうか? 彼の成長理論で、社会の発展を明らかにしたものはなかったはずだ。
答えはどこにあるか? 社会を最も明らかにしたのは、経営学だ。企業組織の内部を明らかにしたが、それは一般の社会も分析できるほど優れている。おそらく、経営学のどこかに、社会思想を網羅して、整理する理論があるのだ。
共産主義と自由主義の社会の優劣、共産主義の悪質性すら簡単に見抜けない頭の弱い人には、とうていわからないだろうが、必ずそこにある。それはまた今度。
道徳教育法-日本的な精神論の弊害
昨日は、理想の人格をもつことの大切さを述べた。今日は、道徳教育で、危険な思想を一つ記す。それは、日本人を日本的にしているものだが、それがあるために、日本人を愚かにしているものだ。
よく、学校のスポーツクラブで、「根性があればできる。」、「気合があれば、技術などなくても、なんとかなる。気合だ。気合だ。」とはっぱをかける。「気合が足りないんだ。」とすぐに安直な精神論に走る。
これは、強く念ずれば物事を成し遂げられる、というむちゃくちゃな思想、日本的な精神論である。技術がなければ、相手に勝てない。それはわかりきったことだ。気合や根性という言う人ほど、技術を教えないで、同じ要領の悪い練習をさせる。そして、生徒はいつまでも実力が上がらないで、低迷する。
そして、試合の時に、根性を出すようなすごい形相で臨ませる。生徒は気は張り詰めているようだが、実力がなく、あっさりと負ける。要は、思いだけでは何もなしとげられないのに、そんな精神論が日本では幅を利かせる。
これは大問題だ。この精神論は、無能の勧めなのだから。日本人はこの精神論をよく行なう。そのたびごとに、非能率的なことをして、満足している。つまり、無駄かつ愚かなことをしている。これは、道徳教育で改めたい。
私は、その日本的精神論を支える考えはどこから来るのか。ずっとわからなかった。
なぜ日本人は、物資も技術も得ないで、「気合があればできる。」、「根性があればできる。」、「強く思えば、それを成し遂げられる。」という精神論に走りやすいのか。
この精神論は実に、多くの弊害を生み出している。一に、無理な事をやらせる時に、使われる。勝てる訳がない相手に、試合で勝つ時に、「根性」や「気合」、「やる気」があればできる、というが、大負けする。精神的に強くもてば、技術を覚えることもなしに、なんの工夫もしないで、何かか成し遂げらる、という風潮に至った。
二、これは戦前、戦中にひどい使われ方をした。「根性や気合」を出すために、上官が殴ることは平気で行なわれた。それはスポーツ界に残るおかしな風習である。これらは、改めなくてはいけない。この精神論はいらない。
これはどこからくるかよくわからなかった。「祈願」という風習からくるのか。しかし、最近、新しいルーツをみつけた。
孟子の思想である。「誠意があれば、人に伝わる。」、という。誠意を示せば、なんでも相手に通じる。それが転じて、気合や根性があれば、なんでもできる、というふうになったのではないか、と思う。これは、現在は"熱意"というのが普通である。欧米では、たぶん、熱意と理解されている。
この精神論の弊害は、子供にはよく教えたい。大人になってから、ど根性のスポコン無能指導者。根性と気合、やる気しかいえない社会人にさせないために。
本日の被害
白い涙が左目に出た。涙が固まると白くなる。これは網膜が切られた症状。重症である。回復まで最低、一ヶ月かかる。目はやや痛む。視界にうっすら横線が短く入る。すぐに消えるけど、あったことは確かだ。朝6時頃に目覚めさせられ、音声送信で、左目の網膜を切ったとしつようにアカは言ってきた。犯人は、昨日、川西の本屋でみかけた老人男の仲間だろう。
見るからに薄気味悪くいやらしい男だった。悪人顔だ。この手の人物は必ず、悪いことをする。悪質なやつだ。それが私が立ち読みしていると、隣にきた。もうこれは、嫌がらせだ。放っておいて本を読んでいたら、いつまでも横にいたから、舌打ちをした。誰にしたかは、別にわかるものではない。
が、隣の男は、ストーカーだから、自分にされたと思ったのだろう。事実そうだが、すると、独り言で「バカがなんとか・・・」と言い出した。やはり、ストーカーだ。こういう反応でそいつがストーカーでアカと判明する。私の真横に来て長く立つ。これは、威嚇なのだ。警察用語でいう、威圧、というやつだ。音声送信によると、この男のグループがかなりひどいことをしたという。
私に何かすると、ウチゲバされるのが常だ。こっぴどくやられているだろう。