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日本の反アパルトヘイト運動小史とその問題点
ー東京・アフリカ行動委員会(JAAC・TOKYO)の運動を中心に見た場合ー

アフリカアフリカ Africa 2014

日本の反アパルトヘイト運動小史とその問題点
ー東京・アフリカ行動委員会(JAAC・TOKYO)の運動を中心に見た場合ー

◆第一期 モシ会議(63・2)から、行動委員会誕生(69・5)まで
1950年代 1950年代末に英・米で反アパ ルトヘイト市民運動(AAM)誕生
1960年 3月 シャープヴィル虐殺
4月 日本人に「名誉白人」待遇
1962年 *国連総会南ア制裁決議 (通商・外交・交通のボイコット)
*日本はAA諸国提案の国連での南ア制裁決議では棄権か反対の投票でAA諸国の非難を受ける
1963年 2月 タンガニイカのモシで開かれたAA連帯人民会議でアフリカ研究者野間寛二郎、田中稔男社党代議士らは南アANC代表団から、日本での反アパルトヘイト運動を要請される。
12月 「南ア通信」(N0.1)、「リヴォニア事件」パンフ…野間の精力的な出版活動始まる。野間と連帯委員会は外務省に抗議。
 
1964年 5月 AA連帯委員会内に「南ア人種差別反対実行委員会」(JAAC)発足(労組・政党・市民グループなどが参加)。
学者・文化人(末川博・上原専禄ら)の10人アピール(南ア政治犯を救え!)。市民グループ(AAの仲間など)と労組、連帯委などが一緒になり集会・署名活動・パンフ発行・商品ボイコットなどに取り組む。
6月26日 日本で最初のフリーダムデー(分裂集会)。実行委解体の兆し。野間ら「南ア問題懇話会」設立、これがJAACを引き継ぐ。
*スポーツボイコット国連決議
1965年 2月 第2回フリーダムデーはAA連帯・懇話会合同開催
 ミニ・カインガら労組指導者の処刑に抗議して総領事館に抗議
 この頃より明大・東外大・東大など学生アフリカ研究組織多数生まれる。 
1966年 ヨハネスブルグに日本人学校設置
1967年 8月 ローデシでZAPU-ANCの連合ゲリラ活動のニュース。また、アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウの武装闘争のニュースが伝えられる。欧米のAAMの情報も入ってくる。
1968年 *文化ボイコット決議
*日本政府対南ア直接投資を禁ずる大蔵告示
1969年 1月 野間、ハルツームの「ポ領アフリカと南部アフリカ人民支援国際会議」へ…南部アフリカ、ポ領アフリカの解放闘争の動向が知らされる。また、ヨーロッパの反アパ運動の動きも。
5月 アフリカ行動委員会(JAAC-YouthSection)誕生:母体は野間の「懇話会」に関わっていた市民グループ「アジア・アフリカの仲間」と東大アフリカ研究グループ「インクルレコ」が合体して生まれたもの。時あたかも大学闘争の時代で、多くの学生たちが関わってくる。
5月 野間寛二郎『差別反逆の原点』(理論社)刊行
4月 ANCモロゴロ会議(南ア国内でのゲリラ闘争)
*米の黒人解放闘争
*各国でのベトナム反戦闘争
*ラテン・アメリカの農民闘争
*ポ領アフリカ諸国の戦いなど
(第三世界のたたかい)
★ANCの要請を契機に始まったこの期の運動は、市民グループ・労組・政党・学者文化人などの幅広い運動として出発したが、 中ソ対立、社共の分裂などでまたたくまに収束し、アフリカ研究者の野間の活動を、市民グループと学生グループ出自の若者たちが支える形で再出発した。大学闘争、第三世界のたたかいの盛り上がりの中で沢山の学生たちが反アパルトヘイトの運動にかかわってくるようになった。
◆第二期 アフリカ行動委誕生(69・5)〜ソウェト蜂起(76・6)まで
1970年 3〜4月 ANCロンドン駐在のM・クネーネはANCの資金源確保のため来日…政党・労組などもいずれも要請に応えず絶望して離日。作家の竹内泰宏・アフリカ行動委らが対応。「日本は我々を殺しつつある。日本の繁栄は我々の血によってあがなわれたものだ」(M. Kunene の残した言葉)
6月 第一回フリーダムデー・デモ(行動委員会・懇話会の主催。大阪からも2名参加。120名ほどの参加者)
9月 ポルトガル大使館へデモ(FRELIMO武装闘争記念日)
1970末 大阪に「こむらどアフリカ委員会」(下垣桂二・伊藤寿子ら)
*クネーネ・ショック(Too much talkではなく、Gunsを!)
1972年 6月 小川忠博写真集「NO PINTCHA」(ギニア・ビサウ解放戦線従軍ルポ)刊行…GB解放区及び世界各地に送る
8月 原水禁大会で来日中のA・カブラルを招き講演会(東京)
1973年 6月 第4回フリーダムデーは経団連に対してデモ
8月 小川解放区ルポ「モザンビーク解放戦線」(「太陽」特集)ポ訳・英訳をつけてモザンビーク解放区へ数百冊送る
*「アパルトヘイト犯罪の防止及び処罰に関する国際条約」の発効
1974年 3月 南ア選手の出場する国際ゴルフトーナメント(読売ランド)会場で抗議行動
6月23〜29日 「アフリカンウィーク・イン・東京」(講演・シンポ・映画・音楽など)
7〜8月 日本企業の対ローデシア国連制裁決議違反調査と発表(英タイムズ・朝日・行動委協力)「朝日ジャーナル」「タイムズ」同時発表)
9月 政府は来日中の国連アパルトヘイト特別委員会に対して違法な投資を続ける日本企業をやめさせると約束
12月 北沢洋子、南アで日本企業の実態を調査し、国連で発表
12月 日本企業の「ナミビア天然資源に関する国連法令違反」についての疑義がだされる(衆院予算委員会)。
*国連総会から南ア排除
*日本政府対南ア・スポーツ・教育・文化交流への制限措置を取る
1975年 2月 野間寛二郎、パーキンソン氏病で死去(63才)
4〜5月 南ア問題パリ国際セミナー(JAAC)2名代表を送り、日本・南アの経済関係と核開発問題について報告
5月 三木首相と関西出力にナミビアウラン購入問題について公開質問状
7月 「関西電力の南ア・ナミビアからのウラン輸入を止めさせる会」(「こむらど」「伊方労学共闘」「軍縮協」「新左翼社」などが中心)
11月 SWAPO代表団社会党の招きで来日・JAACと会見
1976年 6月 小川忠博の写真集『森と精霊と戦士たち』を出版。英語・ポルトガル版を作成してアンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウや欧米の反パルトヘイト団体におくる。WCCの財政支援をえる。 *南ア航空及び政府観光公社東京事務所設置
1970年代後半から欧米では南ア進出企業が連合して南アの自系の企業の黒人労働者の人権擁護のために「行動原則」(コード・オブ・コンダクト)を作成
★この期の運動の特徴は、大阪に「こむらどアフリカ委員会」誕生、 反アパルトヘイト・スポーツ問題への取組みが始まったこと、ナミビア・ウラン輸入と関連して、反原発組織と提携して日本の電力会社への抗議行動が行われるようになったこと、国連主催の国際会議に代表を送るようになったこと、WCCの補助を得て小川忠博の写真集を大量にアフリカの解放区や欧米のAAM団体に送ったこと、そして日本の反アパ運動の父・野間寛二郎の死。
◆第三期 ソウエト蜂起(76・6)から、ソマフコ支援(84・11)まで
1976年 6月16日〜 ソウェト蜂起 南ア国内のニュースが初めて届く。子ども・青年の登場。黒人意識運動(BCM)の顕在化。私達は前年から三井義(WUS:在ジュネーブ)や前年暮れに南アを旅した北沢洋子から黒人意識運動の情報をえ、WUSやWCCを通じてBCMの資料が送られてきていたので、ソウェト蜂起がBCMの影響をうけたものとすぐ判断。
7月 「アパルトヘイトを告発した黒人意識運動」(「朝日ジャーナル」(上下)を発表、同12月には「黒い怒りが炸裂する」(黒人意識運動の詩)を刊行
6月〜 南アの黒人居住区ソウェトで黒人の子ども・若者を中心にした蜂起。労働者、市民のたたかいへ。3ヶ月で700人近い子ども・若者の犠牲者がでた。不動に見えたアパルトヘイト体制に深刻な亀裂を走らせた。
1977年 1月 「静岡アフリカに学ぶ会」誕生
11月 南ア総領事館前で3週間連続 昼休みデモ
12月 ボツワナに亡命中の黒人意識運動リーダー、ランウエジ・ネングェクルを招待
*「日本・南ア協会(スプリングボック・クラブ)結成
9月12日 S・ビコ虐殺
10月 黒人意識団体を中心にした18団体を非合法化
1978年 5月 第一回反アパルトヘイト全国合宿(静岡) 3月21日〜翌年3月20日 国際反アパルトヘイト年
1979年 4月 南アを訪れた国会議員10人に質問状
1980年 1月 京都「南部アフリカ問題研究会」発足
1982年 2月 「南アの核兵器開発」(南アの軍事及び核開発への国際加担行為に抗議する世界キャンペーン)の翻訳出版。UN反アパルトヘイト特別委員会より補助。
12月 国会で南アへの日本の銀行融資問題を質問(井上一成社会党議員)
1983年 3月 東洋工業、ダイハツへ公開質問状
12月 「南ア問題研究所」(JAAC・Tokyo)事務所開設
9月 総評・同盟等4団体は(南アのアパルトヘイトに制裁を!)の要請を外務・通産・労働の各省に申し入れ
5月 南ア国内にUDF(民主統一戦線とNL(全国フォーラム)誕生
1984年 6月 設立されたばかりの「日本・南ア友好議員連盟」に公開質問状
9月 在タンザニアの南ア亡命者学校・ソマフコ訪問(楠原)
10月 友好議連の石原慎太郎と会見
10月 ANC(ロンドン)のS・チョアビを招待
11月 衆院予算委で井上一成「南アからの血漿輸入と青木功の南アのゴルフ大会への出場問題で質問」…85年5月の政府答弁で「血漿輸入は止めさせる」と約束。
*日本南ア友好議員連盟誕生
9月〜10月 日本政府の「アフリカ月間」…飢餓キャンペーン
10月 南アは日本に最恵国待遇
*アメリカの20の都市で反アパルトヘイト・デモが生まれ、NYの南ア領事館には2000人の有名無名の市民が入り込んで逮捕された。
★76・6のソウェト蜂起は南ア国内の声を初めて国際社会に伝えるものだった。子ども・若者の果敢な闘いとその背景となっている黒人意識の思想は、日本の若者たちの内面を揺り動かした。ソウェト蜂起以後陸続と南アの青年・学生たちは国境をかいくぐって亡命し、多くはANCに流れ、かくしてANCは甦ったのである。
この期の日本の反アパルトヘイト運動は最初は停滞気味だったが、南ア国内の若者の戦いやUDFの動向が伝えらてき、欧米の反アパルトヘイトの盛り上がりがつたえられるにおよんで、若い世代がいままでになく運動にかかわってくるようになった。そうした若者たちによって「ソロモン・マシャング解放学校を応援する会」が1984年12月に結成された。
◆ 第四期SOMAFCO支援(84・11)から〜日本は世界最大の南アのパートナー(87・12)まで
1985年 1月 PACのモード・ジャクソンを招待・交流
1月 SOMAFCO支援基金運動始まる(若者中心)
6月17〜28日 南ア領事館前連続昼休みデモ
8月 募金200万円で必要物資を買って3人の若者がタンザニアのSOMAFCOへ
8月 「反アパルトヘイト女性委員会」(大阪)誕生
9月 政府に対して、クルーガーランド金貨の輸入禁止など南アへの経済制裁強化を求める共同行動を呼びかける
10月 行動委の投書がきっかで南ア駐在日本領事処分
10月 東京の南ア総領事館包囲デモ
11月 来日中の国連反アパルトヘイト特別委議長と会見
11月 SOMAFCOからB・シェンベを招く
*ロンドンでは13万人の反アパルトヘイト・デモが実現。ミュージシャンたちは各地で反アルトヘイトコンサートを成功させた。
*国連もようやく安保理決議の形で、南アへの新規投資禁止、クルーガーランド金貨販売禁止、軍・警察向けのコンピュータ機械の販売禁止などの制裁決議を採択。これに基いて北欧、EC諸国、コモンウェルズ、日本、アメリカなどが多様な制裁措置をとることとなった。
*西側の主要銀行が南アへの投資を禁止。200を超える欧米・日本の企業が南アから撤退
10月 日本政府、南ア軍・警察へのコンピュータ輸出禁止、金貨の輸入自粛
1986年 2月 「反アパルトヘイト大集会」(労音会館)
3月 労働5団体の「反アパルトヘイト集会」に参加
4月 アムネスティの招待で来日中のファリサニ師(かつての政治囚)と会見。師は12月に再逮捕
8月 ツツ主教来日集会…受け入れのための連絡会議が「反アパルトヘイト連絡会」(市民グループ、教会労組など)となる
9月 ボタ外相来日に抗議して外務省前でビラまきなど
6月 全土に非常事態宣言 6月〜9月 南アから観光相、蔵相、外相の来日 *日本は南ア世界供給量の半分ちかい580トンの金を輸入(その半分が天皇在位60年記念金貨に使用された) *アメリカはレーガン大統領の拒否権を上下院が覆し、「包括的反アパルトヘイト法」を成立させた。
1987年 3月 サッツ・クーパー来日・集会
3月 南ア進出企業に「公開質問状」発送
3月 アフリカフェ輸入・販売プロジェクト動き出す
4月 O・タンボANC来日会歓迎集会(政府招待)
5月 A・ブーサック師来日歓迎集会(NCCの招き)
5月 来日中のSWAPOTトイボと会見
9月 「アパルトヘイト下の子ども・抑圧・法に関する国際会議」(ハラレ)にJAAC/TOKYO参加
11月 集会「反アパルトヘイト下の子どもと女性」
12月 南ア報道規制1周年に抗議し南ア紙に意見広告(ニューネーション、サンデースター)
5月 白人議会選挙(右派躍進)
*スウェーデン政府は対南ア・ナミビア貿易の全面禁止を決定した
4月 日本外相、南アの黒人非政府組織に40万ドル援助供与表明
4月 政府ANCタンボ議長招待
5月 南ア全国鉱山労組(NUM)のストライキ、 各地でストライキや市民の不服従闘争起こる
年末 日本が南ア最大の貿易相手国となることが明らかになる。国際非難起る
*アパルトヘイトを考える市民の会(名古屋・1985)、日本反アパルトヘイト女性委員会(大阪・1985)、広島アフリカ講座実行委員会(1986)、松戸アフリカから学ぶ会(1986)、日本反アパルトヘイト委員会熊本(1986)、札幌反アパルトヘイト委員会(1987)、ごめんだアパルトヘイト神戸の会(1988)などの反アパルトヘイト市民団体が次々と誕生。
★この間、欧米では、市民運動や政府の圧力のなかで南ア進出企業の撤退が始まったが、日本企業の動きはにぶく、ついに1987年には、日本は対南アフリカ共和国貿易第一位の相手国「アパルトヘイトの最大のパートナー」となり厳しい国際世論の批判の矢面に立たされることとなった。JAACも毎年何回も国際会議に代表を送り、日本のアパルトヘイトへの加担の状況を報告せざるを得なくなった。国内にもようやく南ア商品ボイコット、南ア紙への意見広告掲載、進出企業批判などの運動のネットワークが生まれ始めた。
◆第五期 アパルトヘイトの最大のパートナー(87・11)から〜マンデラの釈放(90・2)まで
1988年 3月 政府「遠い夜明け」を日本で上映
3月 ツツ主教、ブーサック師らの逮捕と17組織の活動禁止に抗議して総領事館抗議行動
4月 南ア紙「サンデー・スター」に抗議の意見広告
4月 集会「アパルトヘイト最大のパートナー」(K・スローター、千草スティーブンらがゲスト)
4月 「シャープビル6人」救援要請のために総領事館内に30名が入りコシシケレリ・アフリカを合唱
5月 ANC東京事務所開設(J・マツェーラ代表)
5月 南ア商品ボイコット・キャンペーン開始(銀座の歩行者天国から始まる)
5月 D・ウッズ講演(反差別国際運動・主催)
6月 「反アパ・ニュースレター」毎月定期発行態勢整う
6月 イトーヨーカドー、ダイエイー、ジャスコ、など南ア商品の取り扱い中止を決める。小売店からアップルタイザー、南アワイン、南ア産黄桃缶詰などが消える。(部落解放同盟の力が大きかった)
6月 反アパルトヘイト絵画を積んだ特殊トラック『ゆりあ・ぺんぺる』号、沖縄を起点に500日間日本各地を回り、反アパルトヘイト美術展を開催
6〜7月 「ニューネーション」「ウィクリーメール」の南ア紙に前面意見広告
7月 マンデラ70歳誕生記念集会(ANC主催)
8月 『反アパルトヘイト・アジア・オセアニア地域ワークショップ』(主催・全国JAAC、国連後援)
ANC、PAC、アジア・オセアニアの反アパ、反差別組織が一堂に会した4日間の国際セミナー(早稲田奉仕園。8・29に「東京宣言」採択)。このセミナーで反アパルトヘイト運動と自国の反差別運動との関係をめぐって対立。ANCとPACの評価をめぐる対立。さらには日本国内の反アパ運動内のジェンダー問題も国内参加者から指摘される。
9月 総評主催「反アパルトヘイト集会」
11月 ナミビア・ウラン密輸に抗議して東京電力交渉
12月 「南ア・ナミビアの政治犯を救え!コンサート」(ANC東京事務所主催)
2月 南ア政府UDF、AZAPOなど17団体の政治活動を禁止
2月 日本の対南ア貿易拡大に対し米黒人議員連盟は竹下首相に警告書
7月〜 南ア国内からアパルトヘイト諸法や非常事態規制に公然と反対する不服従闘争のニュースが次々と入ってくる。
8月 「東京宣言」で日本と台湾の代表は「名誉白人」を拒否宣言
1989年 1月 『二匹の犬と自由』出版(JAAC訳編)
1月 F・チカネ師を迎えて「反アパルトヘイト集会」(NCCの招待)
2月 「アシナマリ」東京公演(2・14〜28)
3月 ナミビア・ウラン密輸に反対する国際統一行動(東電本社、大阪関電本社、東電ロンドン支社などに対して国際的抗議)電気解約手続き14人
4月 一日電気ボイコット運動
6月 東京に「マンデラハウス」(勝俣邸)オープン
8月 「南ア女性の日」東京集会(M・チャーリー、E・モコトングを迎えて;JAAC、NCC、庭野平和財団)
9月 大阪で「日本反アパルトヘイト委員会の連絡調整会議」
11月 JAAC全国会議(大阪)
11月 ナミビア独立選挙 峯陽一(JAAC・Kyoto)国際監視団一員として参加
12月 銀座の田中貴金属店に30人のJAACメンバーとANCマツェーラが出向き『名誉白人大賞』賞状とクリスマスケーキを贈る
1990年 2月 「南アのアパルトヘイトは今ーマンデラ氏獄の中27年を考えるー」集会。昼は総領事館へ行き即時釈放を要求
3月 ミュージカル・サラフィナ東京公演(10〜19)
5月 南アのスクォッター・キャンプ「ウィラーズ・ファーム」学校建設基金カンパの開始。2年ほどで300万円集まる。
6月 「反アパルトヘイト・ウィーク」(コンサート、チャリティーウォーク、天皇即位10万円金貨反対キャンペーン、徐勝釈放集会など)
7月 マンデラ・バースディーコンサート(マンデラ歓迎日本委員会主催)
9月 「ネルソン・マンデラ歓迎集会」、「マンデラ歓迎集会」「マンデラ歓迎シンポジューム」などが労組、法律家協会、市民グループ、歓迎実行委員会などの主催で全国各地で開かれる。
10月27日〜11月1日 マンデラらANC代表団、政府の招待で来日
10月28日 「マンデラ歓迎集会(マンデラ・スピーチ)」大阪扇町公園、東京では日大文理講堂で「歓迎ライブ」
10月29日 「マンデラ歓迎集会(マンデラ・スピーチ)」東京・日比谷野外音楽堂、(マンデラと徐勝出会う)。マンデラはそのほか国会議事堂でスピーチ
2月 デクラーク南ア大統領はネルソン・マンデラの釈放を発表
1990年〜 南ア国内では黒人同士の暴力事件が相次ぐ。とくにズールー族の伝統的な指導者ブテレジに率いられたINKATAグループの民主勢力への襲撃事件の頻発。多くの日本のメディアは「部族対立」と報じ、反アパルトヘイト関係者の批判を浴びた。
★この期の日本の反アパルトヘイト運動は最盛期。著名なミュージシャン・渡辺貞夫、爆風スランプなども運動に参加。南ア商品のボイコット運動も大きな成果を上げた。熊本坂本村の中学校に「アパルトヘイトを考える会」ができ、人口5000人に満たない村で「アパルトヘイト否(ノン)美術展」に2000人の村人の参加をみる、といったこともあった。JAAC/Tokyo内には中・高校生のセクションも誕生した。しかし、国家権力の掌握を間近に約束されたANCの流儀には強い違和を感じざるを得なかった。ぼくらはそれを「マンデラ・ショック」と呼んだ。
◆第六期 マンデラの離日(90・11)から〜マンデラ大統領就任(94・5)まで
1991年 1月 集会「なぜ、まだアパルトヘイトなのか」
6月 経団連に対して「南ア経済制裁早期解除反対」行動
9月 JAAC制作絵はがきの一枚「ナイロビの売春婦」をめぐって論争が「ニュースレター」紙上で始まる
9月〜10月 JAACの招待でソウェトからエリック・ンゲレザ、ノマテンバ・ンゲレザ夫妻来日(東京・北海道・広島・名古屋などで交流)
*デクラーク大統領来日(政府招待)
1992年 1月 外務省前で「対南ア早期外交関係再開は時期尚早」の抗議
3月 集会「南アの現状と新憲法」(アムネスティ主催)
3月 JVC主催帰国報告会「南ア草の根の動きー女性・都市スラム・農村ー」
6月 「南ア大統領デクラーク来日緊急シンポ」(はじめて財界代表、ジャーナリスト、開発・援助NGO、反アパグループが同席して討論)(総評会館)
9月 セミナー「南ア・暴力事件の背景」(主催JAAC・NCC)
10月 グシナ・ショーペを囲む夕べ(JAAC・JVC)
11月 「私が変わる・村が変わる」(ノグゾラ・マギダ)(JVC主催)
*1992年〜 南ア制憲会議
1993年 7月〜9月 写真家ヴィクター・マトム来日・全国各地で写真展
9月 「日本と南アの今後の関係を考える市民の集い」(川崎市平和館;V・マトム、黒人教育を支える会など)
5月 国連モザンビーク活動に日本政府は自衛隊を派遣 10月 政府「アフリカ開発会議」(第一回・TICAD)開催 10月 アフリカ・シンポジウム
1994年 4月 パネル・ディスカッション「今、南アフリカの選挙と私たち」
6月 「新生南アフリカの現状と女性たち」(講演とシンポ)(佐保美恵子・勝俣誠ら)「マトム写真展・南アフリカの人々・神奈川実行委員会」+JVC共催
7月 講演会「激動の南ア」(JVC,写真展実行委員会)
10月 アフリカ日本協議会主催シンポジウム「新生南アフリカと私たち」
 第一部:講演会
  RDF(復興開発計画)導入で変わる南ア・林晃史
  南アNGOが描く社会づくり・尾関葉子」
 第二部:パネル・ディスカッション・南アフリカヘの協力を考える
  福川正浩(外務省課長)、南部アフリカ貿易懇話会役員、南アからの研修生、国会議員、高梨直樹(JVC)
4月〜5月 南アの国政選挙行われる
5月2日 ANCは62%の票を獲得。マンデラは勝利宣言
1995年 4月 「民主南アの展望」(主催:写真展「南アの人々」連絡会)
7月〜8月 マシイレ中等学校合唱団来日
11月 「反アパルトヘイトイ・ニュースレター」最終号(No.85)
*「豊かな生活は誰かの犠牲の上に成り立ていることを反アパルトヘイト運動とかかわることによって学んだ」(中学時代からJAACにかかわった大西佐奈枝)
*「解放勢力の反権力闘争と市民の反権力闘争を取り違えるな」(新聞記者の松本仁一)
*個人や社会の変革にとどまることなく、政財界の対南ア政策への民主的コントロール(Watch-dog)の役割も重要だった(政治学者・森川純)
★この反アパルトヘイト運動最終期は、反アパルトヘイト市民運動から、開発・援助・支援型のNGO運動に交代する時期であった。日本国際ボランティアセンター、アフリカ日本協議会、笹川アフリカ協会、アフリカ地域開発市民の会などが新たな運動を展開する。そんな中でかつての反アパルトヘイト運動に出自をもつ「関西・南部アフリカネットワーク」は南アに新しい黒人政権誕生後も、日本ー南部アフリカ双方をつなぐ市民のネットワークとして、重要な働きをつづけている。
また、「アフリカ開発会議」(TICAD・2003)に市民の声を届けるために「TICAD市民社会フォーラム」が誕生している。

作成・楠原彰 (2006年6月9日)
■これは全く個人的な、しかも東京中心の「マトメ」であって、一緒に運動にかかわった東京ならびに全国の友人たちとのディスカッションを経ているものでないことをお断りしておきます。


今、日本(東京グループから見た)の反アパルトヘイト運動をふりかえってみて(幾つかの問題点)

  1. 日本ー南ア(アフリカ)関係を戦前との関係との延長で考える必要があった。
    「名誉白人」問題(明治以来の入欧脱亜の考え方、そして1930年代の商売上の問題〜)
    人種差別撤廃決議案提出問題(1919パリ講和条約)、またアフリカ再分割への参与の問題
    (以上は森川純『南アフリカと日本』(1988)の指摘を受けて)
  2. 市民運動としての反アパルトヘイト運動における市民性(民衆性・専門性の統合とは)ー民衆運動にするためにー
    出会いと別れの数々
    • 運動の初期(60年代前半)には第三世界的状況の中で働く多くの日本の労働者たちがいた(自衛隊トラック部品を作っている下町の工場で日本のアパルトヘイト加担を訴えるスライドを上映)
    • 国際連帯運動での英語能力と民衆性の問題ー運動のリーダーシップ
    アパルトヘイト問題を日本の生活や思想の問題として捉える・提示する努力が弱かった。(上原専禄の指摘)
  3. 反アパルトヘイト運動と自国内の差別の問題…反アパ運動で「アパルトヘイト問題こそ<トップ・プライオリティ>(最優先課題)」(東京で開かれた「反アパルトヘイト・アジア・オセアニア地域ワークショップ」でのANCなどの発言)として主張できるか。
  4. 「クネーネ・ショック」から「マンデラ・ショック」へ
    • Japan is killing us.Japanese prosperity depends upon our blood.(Kunene.M.)
    • 権力(State Power)を握った解放勢力(ANC)と反権力の市民運動(JAAC)


UP:2008 REV:
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