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南アフリカ共和国 1990年代
アフリカアフリカ Africa 2014


Achmat, Zackie
Mandela
Xolani Nkosi (Nkosi Johnson)

TAC (Treatment Action Campaign)

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○外務省 各国・地域情勢 南アフリカ共和国

◆1991/02/22 日本経済新聞 南ア 加速する民主化 アパルトヘイト「終りの始まり」
◆1991/02/28 Mail&Guardian Chris Hani: My Life
◆1991/03/13 日本経済新聞 土地差別廃止法を提案 南ア、アパルトヘイト崩壊
◆1991/05/02 日本経済新聞 英外相 南アの連邦復帰支持 経済再建テコ入れ狙う
◆1991/05/08 日本経済新聞 欧州の銀行 南アとの取引拡大 ランド建て債券販売も
◆1991/05/10 日本経済新聞 南ア制裁解除検討 外相表明
◆1991/05/13 日本経済新聞 南ア制裁解除早期実施に慎重論浮上 政治犯の釈放問題が未解決 政府内の意見割れる
◆1991/05/17 日本経済新聞 南ア経済制裁 日本は早期解除を ボタ外相表明 継続は黒人に打撃 企業の投資再開に期待
◆1991/05/20 日本経済新聞 中心街で連続爆破事件 南ア 対外投資に悪影響も
◆1991/05/23 日本経済新聞 黒人暴動の陰に経済悪化 南アの2居住区ルポ 失業者急増、不満根強く 「制裁」がしわ寄せ
◆1991/06/18 日本経済新聞 アパルトヘイト終結宣言 南ア 人種登録法廃止を可決(一面トップ)
◆1991/06/18 日本経済新聞 〈解説〉 混乱の火ダネ残る アパルトヘイト南アが完全撤廃 黒人勢力衝突続く
◆1991/06/19 日本経済新聞 南アは招待せず アフリカ競技大会組織委
◆1991/06/21 日本経済新聞 南ア制裁、部分解除 政府 人的交流の3項目
◆1991/06/24 日本経済新聞 南ア、和平で共同委設置合意
◆1991/07/02 日本経済新聞 南ア便開設ラッシュ 航空各社 人権政策転換で
◆1991/07/06 日本経済新聞 (フォーカス) ANC議長に就任するネルソン・マンデラ氏
◆1991/07/06 日本経済新聞 南ア旅行に熱い視線 第一弾はブルトレの旅 五年ぶりに観光再開
◆1991/07/06 Fin.Times シリル・ラマポーザ 新しいアフリカ民族会議事務局長 交渉の術を知っている人間
◆1991/07/10 日本経済新聞 南ア、五輪復帰へ 32年ぶり IOCとの会談で
◆1991/07/10 日本経済新聞 南ア制裁 米、一両日中に解除 ブッシュ大統領見通し
◆1991/07/11 日本経済新聞 米、南ア制裁を解除 大統領発表 人種政策前進を評価
◆1991/07/11 日本経済新聞 米の制裁解除 南ア、投資呼び込みに全力
◆1991/07/12 日本経済新聞 ビジネス急拡大望み薄 南ア経済制裁解除、産業界の反響 経済悪化が足カセ 長期的な視点で準備も
◆1991/07/12 日本経済新聞 対南ア経済制裁解除、商品市況への影響は 需給、急変はなさそう 相場低迷 復帰インパクト薄める
◆1991/07/12 日本経済新聞 南アへ投融資調査団 金融機関ミッション 制裁解除をにらむ
◆1991/07/14 日本経済新聞 一ヵ月以内に代表団派遣 南ア復帰問題でITF
◆1991/07/18 日本経済新聞 外務政務次官、南アへ 政治犯釈放迫る 22年ぶり高官交流
◆1991/07/20 日本経済新聞 黒人保守派に資金 南ア警察
◆1991/07/21 日本経済新聞 (サンデートピックス) 南ア共和国 金貨王国、復活の道険し クルーガーランド 「制裁」でシェア急減
◆1991/07/25 日本経済新聞 世界陸上への南ア招待を承認 国際陸連の評議員会
◆1991/07/25 日本経済新聞 南ア・ハンガリー、外交樹立会
◆1991/07/25 日本経済新聞 南ア産レモン、5年ぶり輸入 来月に日本到着
◆1991/07/27 日本経済新聞 W杯サッカー2006年は南アで FIFA副会長意向
◆1991/07/27 日本経済新聞 南ア政権苦境に 秘密資金供与問題 制裁解除に影響
◆1991/07/28 日本経済新聞 世界陸上 南ア不参加決定
◆1991/07/31 日本経済新聞 南ア、2閣僚解任
◆1991/08/01 New Africa SOUTH AFRICA'S ANC CHOSES ITS NEW LEADERS (on Cyril):南アフリカ、ANC 新しい指導部を選出す(on Cyril)
◆1991/08/07 日本経済新聞 アフリカ援助、日本に期待 世銀副総裁会見 周辺国への「南ア効果」も
◆1991/08/10 日本経済新聞 南アで衝突 40人が死傷
◆1991/08/14 日本経済新聞 OES 南アから開発輸入 高級皮革製品、10月から
◆1991/08/14 日本経済新聞 南ア経済制裁、月内解除 政府方針 EC最終決定待たずに
◆1991/08/16 日本経済新聞 南ア・ファンド上場 英大手証券 来月、世界で初めて
◆1991/08/16 日本経済新聞 南ア2黒人組織闘争終結へ
◆1991/08/17 日本経済新聞 ANCが歓迎表明
◆1991/08/17 日本経済新聞 亡命者に恩赦 南ア、国連と合意
◆1991/08/17 日本経済新聞 対アフリカ投資拡大 欧州石油資本、対南ア再開
◆1991/08/21 Fin.Times 若者が学校闘争で殺される 南アフリカ
◆1991/08/24 日本経済新聞 国際資本市場復帰へ 南ア、近く2億マルクを起債
◆1991/08/26 日本経済新聞 ズームイン 日本の国連安保理復帰 南ア問題が踏み絵に
◆1991/08/30 朝日新聞 対南ア経済制裁解除 「暫定政府樹立時に」 ムベキANC国際局長と会見
◆1991/08/30 日本経済新聞 「制裁破り」と独銀批判 南ア起債で国連特別委
◆1991/09/05 朝日新聞 黒人初の投票権 南ア新憲法概要を発表 大統領廃止も盛る
◆1991/09/13 毎日新聞 南ア新憲法構想
◆1991/09/15 日本経済新聞 南ア 黒人組織と和平協定 抗争完全終結は流動的
◆1991/09/17 日本経済新聞 南ア、核査察受け入れへ
◆1991/09/20 日本経済新聞 南ア、7年ぶり国際市場で起債
◆1991/09/27 朝日新聞 来月中にも共闘会議結成 南ア黒人解放3団体
◆1991/10/04 毎日新聞 ノーベル文学賞に南アのゴ女史  女流作家受賞は25年ぶり
◆1991/10/04 毎日新聞 熱い「人間への想い」 ノーベル文学賞 ナディン・ゴーディマの文学 アパルトヘイト一貫して告発
◆1991/10/05 日本経済新聞 南ア、憲法改正で国民投票へ
◆1991/10/08 朝日新聞 「謝罪」に内外で反響 単独会見の南ア大統領 保守派にも配慮
◆1991/10/08 日本経済新聞 黒人グループ衝突、18人死亡 南ア
◆1991/10/10 日本経済新聞 ノーベル平和賞候補に米大統領
◆1991/10/12 日本経済新聞 ソ連のプラチナ売却
◆1991/10/12 日本経済新聞 南アから黒人研修生 JICA 農業・建築など4部門20人
◆1991/10/14 日本経済新聞 IMF融資望む 南ア蔵相会見 数日中に訪日
◆1991/10/16 日本経済新聞 南ア企業に24%出資 マツダが権利獲得
◆1991/10/17 日本経済新聞 南ア制裁解除 25日にも閣議決定
◆1991/10/19 朝日新聞 マンデラ氏が英連邦案同意 南ア経済制裁解除
◆1991/10/19 朝日新聞 南アの鉄鉱石輸入へ新契約 新日鉄など六社
◆1991/10/19 日本経済新聞 対南ア制裁を解除 英連邦首脳会議が決定
◆1991/10/19 日本経済新聞 鉄鉱石輸入南アと再契約 鉄鋼大手6社 5年間、年400万トン 月末の制裁解除にらむ
◆1991/10/20 朝日新聞 「核兵器開発南アは放棄」 原子力公社総裁
◆1991/10/22 日本経済新聞 南ア制裁きょう解除 政府
◆1991/10/22 日本経済新聞 南ア制裁解除決定 政府
◆1991/10/23 朝日新聞 ANC、制裁解除に「遺憾」
◆1991/10/23 朝日新聞 連合も解除反対の談話
◆1991/10/23 日本経済新聞 南ア制裁解除 財界は「歓迎」資源貿易に期待
◆1991/10/24 日本経済新聞 南ア経済再建へ日本資本がカギ デュプレシ蔵相会見
◆1991/10/25 朝日新聞 南アフリカ 92五輪参加めざし来月、初の合同会議 競技団体統一など協議
◆1991/10/25 日本経済新聞 南アを初訪問 シンガポール首相
◆1991/10/26 朝日新聞 解除後の国際交流も白人中心 「本当の改革まだ」黒人系反発 南ア
◆1991/10/26 読売新聞 南ア・黒人居住区ソウェト 主導権巡り緊張続く 階層分化が進行 警官不法発砲も後を絶たず
◆1991/10/26 読売新聞 「反政府」で共闘 「愛国戦線」大会始まる
◆1991/10/28 朝日新聞 南アはいま 92五輪を前に 上 門戸開放 黒人参加不可欠に
◆1991/10/28 朝日新聞 南ア・ウンデベーレ族の写真展 壁画の腕競い合う妻たち 一夫多妻の抑圧をぶつける
◆1991/10/29 朝日新聞 南アはいま 92五輪を前に 中 門前払い 白人に偏重する諸施設
◆1991/10/30 朝日新聞 南アはいま 92五輪を前に 下 闘争 組織の一本化なお難航
◆1991/10/30 日本経済新聞 金貨市場 栄華再び バブルはじけ堅実性に的  各国売り込み活発 <クルーガーランド>南アも復帰ねらう
◆1991/11/01 日本経済新聞 燃えぬ南ア・ビジネス 経済制裁解除にも産業界クール 「政情不安定」に二の足
◆1991/11/02 朝日新聞 南ア外相非公式訪ソへ
◆1991/11/02 日本経済新聞 南ア大統領が14日から訪台
◆1991/11/04 朝日新聞 旧黒人居住区で警官ら7人死ぬ 南アで暴動
◆1991/11/05 朝日新聞 労働者が衝突15人が死亡 南アでゼネスト巡り
◆1991/11/05 日本経済新聞 南アで大規模ゼネスト
◆1991/11/06 日本経済新聞 NY金、手じまいで反落 南アのスト材料視されず
◆1991/11/07 日本経済新聞 南ア、五輪に復帰 32年ぶり
◆1991/11/08 朝日新聞 実現にはなお課題 国旗や競技団体の統一
◆1991/11/09 朝日新聞 「第九の代用」非難 南ア大統領が演説
◆1991/11/09 朝日新聞 国連の対南ア武器禁輸制裁 「日本含む38社違反」 南ア紙報道
◆1991/11/09 朝日新聞 丸紅のは特殊繊維 輸出規制の対象外 日本総領事館が見解
◆1991/11/09 日本経済新聞 日本企業などが南アと武器取引 地元紙報道
◆1991/11/12 朝日新聞 イスラエルを公式訪問
◆1991/11/12 日本経済新聞 再び労働者衝突52人死亡
◆1991/11/13 日本経済新聞 対南ア武器輸出を否定
◆1991/11/14 朝日新聞 和平結ぶ方法は対話だけ さすが経験者の確信 イスラエル訪問の南ア大統領が助言
◆1991/11/14 日本経済新聞 高級車南アで生産 日産、「マキシマ」月500台
◆1991/11/15 日本経済新聞 今年のプラチナ6.5トン供給過剰に 英社が中間報告
◆1991/11/15 日本経済新聞 南ア大統領、台湾を訪問
◆1991/11/16 朝日新聞 南アを重点市場に 英貿易相講演
◆1991/11/18 毎日新聞 白人進歩派が新憲法でANC同調
◆1991/11/22 朝日新聞 初の制憲協議会来月20日に開催 南アの3者合意
◆1991/11/23 朝日新聞 南アとルーマニア国交
◆1991/11/27 日本経済新聞 南ア・キューバも参加 バルセロナ五輪申し込み 19ヵ国は未回答
◆1991/11/29 朝日新聞 ダンピングで初の調査
◆1991/11/30 朝日新聞 南ア、新憲法へ一歩
◆1991/12/04 日本経済新聞 「南ア制裁解除徐々に進めて」 マンデラ氏が国連演説
◆1991/12/06 毎日新聞 南ア第2の企業会長が貿易相に
◆1991/12/06 毎日新聞 米大統領、マンデラ議長と会談
◆1991/12/06 日本経済新聞 米大統領、マンデラ氏と会談
◆1991/12/07 日本経済新聞 南ア大統領13日訪ソ
◆1991/12/12 毎日新聞 南アに「対話」の時代
◆1991/12/12 毎日新聞 南ア政治犯120人が帰国
◆1991/12/18 毎日新聞 PAC、全政党会議をボイコット
◆1991/12/20 朝日新聞 中国・南ア、相互に事務所
◆1991/12/20 毎日新聞 きょう開催の南ア会議 「インカタ」は不参加 内戦への懸念も
◆1991/12/21 朝日新聞 暫定政府へ改憲も民主南ア会議開幕 大統領、演説で提案
◆1991/12/21 日本経済新聞 黒人参政権 受け入れ表明 南ア大統領
◆1991/12/22 朝日新聞 住む家を持たない南ア黒人を救おう カレンダー販売で支援 アフリカ行動委員会
◆1991/12/24 毎日新聞 新憲法制定来年末にも
◆1992.1.8 朝日新聞 ポール・サイモン南ア公演 「反対」「歓迎」で論議 制裁解除の是非からみ
◆1992.1.11 毎日新聞 南アに新天地 東欧技術者
◆1992.1.14 朝日新聞 南アで全人種参加の投票提案
◆1992.1.22 朝日新聞 中国外相、南ア入り ボタ外相と会談
◆1992.1.25 朝日新聞 南ア大統領 国民参加暫定政府めざし 国民投票を提案
◆1992.1.25 朝日新聞 即時樹立を要求しデモ ANC
◆1992.1.25 朝日新聞 南アの日本総領事館 来月1日、大使館に
◆1992.1.25 日本経済新聞 南ア大統領「黒人参加の暫定政権を」
◆1992.1.27 日本経済新聞 政治的暴力による死者3割減
◆1992.2.6 日本経済新聞 南ア亡命者が事故死
◆1992.2.21 日本経済新聞 ロシア、南アと外交関係改善へ
◆1992.2.28 日本経済新聞 南アの五輪参加承認へ
◆1992.3.5 日本経済新聞 南ア 暫定政府を樹立へ 作業部会合意 黒人閣僚含む
◆1992.3.6 日本経済新聞 NZ・南ア産 羊毛上げ足急
◆1992.3.6 日本経済新聞 駐南ア初代大使に太田氏 大阪担当に谷口氏
◆1992.3.12 朝日新聞 海外在住者の投票始まる
◆1992.3.14 日本経済新聞 改革不支持なら混乱招くと警告 国民投票でANC議長
◆1992.3.16 朝日新聞 南ア大統領次男とカラード女性 「人種を超えた恋」実らず
◆1992.3.16 朝日新聞 政治暴力の死者増える 南ア
◆1992.3.17 朝日新聞 改革問い「白人投票」 南ア きょう実施 国民党優位動かず 反対派も追い上げ
◆1992.3.18 朝日新聞 南ア白人投票、1400カ所で実施
◆1992.3.19 朝日新聞 南ア白人投票 改革信任が7割弱 大統領が勝利宣言 黒人参政権へ前進
◆1992.3.29 朝日新聞 南ア旧黒人居住区で銃撃
◆1992.3.30 朝日新聞 暫定政府樹立など南ア大統領案ANCが拒杏
◆1992.3.30 読売新聞 南ア新体制 少数派も参加させて 新しい差別生まないために
◆1992.3.30 日本経済新聞 国営シンガポール航空のシンガポール ー ヨハネスブルク間の定期便運航が二十九日開始された。運航回数は週二便。
◆1992.4.1 朝日新聞 制憲議会選挙に黒人の参加同意 南ア政府
◆1992.4.1 朝日新聞 南ア 暫定政府と制憲議会成立 来月合意の見通し
◆1992.4.1 朝日新聞 南ア・ナイジェリア首脳会談
◆1992.4.3 朝日新聞 ラグビー大国南ア、復帰へ 来月に欧州へ遠征8年ぶり国際舞台
◆1992.4.4 朝日新聞 南ア・ユーゴ、国交樹立
◆1992.4.6 読売新聞 マンデラ氏ついに夫人と別居 新たな暗殺計画疑惑浮上 英紙報道
◆1992.4.7 朝日新聞 南ア大統領が近くナイジェリア訪問
◆1992.4.7 朝日新聞 カナダ外相、南ア訪問
◆1992.4.8 朝日新聞 対南ア制裁 石油も解除
◆1992.4.12 朝日新聞 南アフリカ 「海外旅行大国」日本に期待 改革でイメージ向上「ビザ不要」呼び込み
◆1992.4.12 朝日新聞 非白人地区で初の政治集会 南ア大統領
◆1992.6.16 朝日新聞 黒人を直撃する干魃被害 南ア・オレンジ自由州 農場解雇、都市部に流入
◆1992.6.30 朝日新聞 ガリ国連総長近く南ア訪問
◆1992.7.17 朝日新聞 特別代表を南アに派遣 安保理決議
◆1992.8.8 朝日新聞 ガリ事務総長、南アへの監視団派遣を提案
◆1992.8.8 朝日新聞 南ア現職閣僚が暗殺に関与か
◆1992.8.8 朝日新聞 南ア勢がマラソンに 3人 復帰で実現国際舞台
◆1992.8.18 朝日新聞 南ア監視団派遣を決議
◆1992.8.23 朝日新聞 国民投票、新憲法を承認
◆1992.8.23 朝日新聞 南アとナミビア共同管理


○楠原彰 日本の反アパルトヘイト運動小史とその問題点

【参考図書】
南アフリカの土地改革
佐藤千鶴子著 日本経済評論社 3800円+税 A5判 252p 2009年2月 [amazon]

序章 土地改革の意義
第1章 アフリカ人農村社会研究
第2章 土地問題の歴史的形成と農村の抵抗運動
第3章 政治的移行と土地改革
第4章 新生南アフリカの土地改革政策
第5章 民衆闘争と土地返還
第6章 土地闘争と和解の力学
第7章 土地改革と農村開発
終章 総括と展望

ジンバブエの土地問題を考える上でも参考になりそうです。

南アフリカ経済論 企業研究からの視座
西浦昭雄著 日本評論社 5400円+税 A5判 325p 2008年11月 [amazon]

南ア企業の歴史、経済活動、アフリカ諸国への進出、国際経済との関係に注目した研究。経済発展が注目される南アを知る貴重な視点が提示される。

国家の仮面が剥がされるとき―南アフリカ「真実和解委員会」の記録
アレックス ボレイン著 下村則夫訳 第三書館 2625円 四六判 285p 2008年12月 [amazon]

真実和解委員会副委員長だった著者が、真実和解委員会設立・活動の意義と現在にもつながる課題について体験を踏まえて記述している。真実和解委員会と法廷および法曹界との関係、証言を拒んだボタ元大統領の裁判めぐる記録がことに重要と感じた。真実を語り記録する動きと、被害者への補償を行い和解につながる道筋をさらに大きくしていく取り組みをスタートさせる出発点としての真実和解委員会の意味を考える必要があるとも感じている。


真実委員会という選択―紛争後社会の再生のために
阿部 利洋著 岩波書店 2310円 216p 2008年4月 [amazon]

紛争後社会と向き合う―南アフリカ真実和解委員会
阿部 利洋著 京都大学学術出版会 4620円 366p 2007年12月 [amazon]



 
 
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1991.2.22

南ア 加速する民主化 アパルトヘイト「終りの始まり」

日本経済新聞

ロンドン 村松記者/国際一部 横田記者 日経新聞1991.2.23

(上)

 マンデラ氏の釈放などを公約した90年2月の議会演説から一年、次々と民主化を打ち出してきた南アフリカ共和国のデクラーク大統領が差別法全廃の方針を発表した。次の照準は「一人一票」制を原則とする完全自由選挙を保証する改憲に定まっている。しかし、枠ぐみは変わっても、差別の根を根絶することは難しい。南アとの関係修復に動く国々は、改革がアパルトヘイト(人種隔離)体制の「終りの始まり」でしかないことを認識しなくてはならない。

 3法撤廃方針で波紋

 89年に改革派のデクラーク大統領が登場して以来、アパルトヘイト体制の変貌は目覚しい。無期懲役で服役していた黒人解放運動家ネルソン・マンデラ氏の釈放から、同氏の指導するアフリカ民族会議(ANC)との対話。そして非常事態宣言の解除や政治犯の釈放など、改憲への地盤固めは着々と進んでいる。この二月には「人種別集団地域法」など残る差別根幹三法も撤廃へと方向が定まった。

 しかし、同大統領が三法撤廃の方針を発表した議会から保守党の議員が退場した場面は、白人社会に根強く残る差別意識を証明した。既得権の喪失にも危機感が募る。極右の白人農家では差別法の一つである原住民土地法の撤廃によって黒人が白人専用農地へ流入するとの懸念が台頭している。プレトリアではトラクターなどで道路を封鎖しアパルトヘイト改革に抗議、警官隊と衝突し逮捕者が出る騒ぎが発生した。

 改憲の手続きで対立

 白人社会で意見の対立が際立つ一方、黒人社会も武力衝突が続く。ANCとインカタ自由党の対立だ。86年からこれまで約五千人の死者を出した両勢力は、一月の首脳会談で和解に合意したが、その晩にはまた衝突で八人が死亡した。体制内改革をめざすインカタと社会主義を掲げるANCは政策が食い違っているだけでなく、背景にはそれぞれの支持基盤である部族同士の反目がある。

 加速する民主化と根強い反感が共存する中で、改革は改憲本交渉という新たな局面に入る。白人政府とANCは90年5月からの予備交渉で、本交渉開始への条件整備で合意。政府はANCが設定した四月末の期限までに政治犯の釈放などを実現する見込みだ。

 しかし、改憲の手続きでは意見が対立している。自由選挙で選出した議員による制憲議会を求めるANCに、白人政府は難色を示す。数の上では小数派である白人の既得権が損なわれかねないからだ。白人政府は全政党参加による憲法制定会議を提唱しているが、開催のめどはまだついていない。 

 全政党会議が実現しても極右の保守党からリベラルな民主党までそろう白人層、ANCとインカタが対立する黒人層が入り交われば容易に結論は出そうにない。さらに少数勢力でしかも権利を制限されているカラード(混血)やインド系住民の立場が微妙に絡む。

 改革は時間との戦い

 改革派のデクラーク大統領率いる国民党が議会で過半数を制している限り、改革路線は継続するだろう。原則的には次期総選挙のある94年まで安泰のはずだ。ただ、改憲の結論がでるまでどれほど時間がかかるのかは予想がつかない。保守党が反改革の機運をあおり、デクラーク大統領を政権の座から引きずり下ろすための繰り上げ選挙を求める可能性もある。

 マンデラ氏の健康も気がかりだ。27年の獄中生活、さらに釈放後の激務は72歳の身体に重くのしかかっているはずだ。万一、志半ばにしてANCが同氏を失えば、黒人勢力は空中分解する危険がある。改革は時間との戦いでもある。

 アパルトヘイト全廃がもはや後戻りできない流れであることは間違いない。ただ、差別法の撤廃などは改憲本交渉への前提であって、「一人一票」制への歩みは始まったばかりだ。そして、制度化された差別なき後に残る心の中の差別を除くにはさらに多くの試練が待ち受けている。

       (下)

 アパルトヘイト(人種隔離)改革は南アフリカ共和国への経済制裁を緩和する機運を高めている。差別法の撤廃方針が国際社会との関係修復の動きを加速することは確実だ。ただ、制裁緩和で直ちに南ア経済が再建されるほど、事態は単純ではない。特に政治・社会的な立場が建前のうえで同格になったとしても依然として残る黒人と白人の経済格差を解消するのは容易なことではない。

 5年間で160億ドル失う

 民主化の急速な進展には、制裁措置による南ア経済の悪化が深刻化したという背景があった。南ア信託銀行の調査によると、この5年間で制裁措置の影響で失った外貨は約四百億ランド(約160億ドル)にのぼる。

 88年の国民総生産(GNP)の20%を超える額だ。経済成長率も85年-89年の平均で年率2%と半減した。

 90年12月に米国を訪問した南ア国会議員団は「経済の停滞は政治より重要な問題になっている」ともらした。アパルトヘイト体制への固執が南ア経済を窮地に追い込むとあっては、もはや改革は避けられないとの意識が白人社会で、特に財界を中心に広がったことは想像に難くない。

 米国も態度を軟化

 国際社会の反応も上々だ。90年12月、すでに対南ア新規投資の禁止を解除した欧州共同体(EC)は、差別法撤廃の議案が南ア国会に提出された段階でさらに金・外貨輸入禁止措置などを解除することを決めた。制裁緩和をリードしてきた英国は「今こそ先進国はデクラーク大統領の政策を支持すべきだ」(メージャー首相)と、とりわけ積極的だ。

 慎重な米国も態度を軟化させつつある。差別法撤廃は「歴史的決断」(ブッシュ大統領)と歓迎。86年に成立した米国の反アパルトヘイト法では、制裁解除の条件として政治犯の釈放などを挙げているが、白人政府がアフリカ民族会議(ANC)の設定した期限を順守すれば四月末までに条件を満たすことになる。

 アフリカ諸国も本音ではアフリカ最大の経済大国である南アへの期待感が見え隠れする。アフリカ統一機構(OAU )の南部アフリカ問題特別委員会では制裁継続を求めたが、昨年来マラウイ、コートジボワールとの国交正常化、ケニアとの渡航禁止解除など、政治的な距離は次第に縮まっている。

 経済的にもこの九カ月間で南アと他のアフリカ諸国との貿易取引額が40%も拡大するなど交流が活発化している。対南ア経済依存度の低減をめざして周辺九ヶ国で結成していた南部アフリカ開発協力会議(SADCC)が、南アに会議参加を呼びかけたことは、アフリカ諸国の態度軟化を象徴する出来事だった。

 しかし、制裁の影響は解除後も尾を引いて、南ア経済に響きそうだ。世界の対南ア投資残高の三分の二を占めるECが新規投資禁止を解除したにもかかわらず、対南ア投資はいまのところ活性化の兆候がなく、むしろ鉱物資源の南ア依存から脱却するためジンバブエやボツワナへ投資が向かう傾向が続いている。日本企業は「制裁が解除されても国内の黒人同士の衝突など不安材料が多すぎる」(大手商社)と、ビジネス拡大に及び腰だ。

 同居の実情変わらず

 制裁期間中に欧米などで失った輸出市場も大きい。南ア・ネッド銀行の幹部は「制裁により石炭などの輸出先はECから利益の少ない中東やアジアへシフトした。制裁解除後もECで失った市場を取り戻すことはできない」と分析する。湾岸戦争や米国のリセッション(景気後退)の影響も無視できない。

 制裁解除が経済再建の決め手にならなければ、改革を断行した意味を問われかねない。「南ア経済全体の発展は黒人の生活水準を引き上げ、白人との格差を是正する」のが白人側のシナリオだ。しかし、白人の平均賃金が黒人の約四倍で「白人の先進国」と「黒人の途上国」が同居する南アの実情は変わらない恐れもある。

 経済格差は人種間対立の重要な要素になっており、政治改革を果たしても経済での「もう一つの差別」が残る。経済関係の修復を急ぐ国際社会は、格差なき南ア社会を実現する一助としてどのような協力をすべきか検討する必要があろう。

 
 


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Chris Hani: My Life

Mail&Guardian

February 1991

Chris Hani
My Life
An autobiography written in 1991

Chris Hani, born on 28 June 1942, in Cofimvaba, Transkei. General-Secretary of the SACP since December 1991 and ANC NEC member since 1974. Matriculated at Lovedale, 1958; Universities Rhodes and Fort Hare - 1959/61, BA Latin and English. Joined ANC Youth League 1957. Active in Eastern and Western Cape ANC before leaving SA in 1962. Commissar in the Luthuli Detachment joint ANC/ZAPU military campaign 1967, escaped to Botswana, returned from Botswana to Zambia 1968, infiltrated SA in 1973 and then based in Lesotho. Left Maseru for Lusaka in 1982 after several unsuccessful assassination attempts. Commissar and Deputy Commander of Umkhonto we Sizwe, armed wing of ANC. Chief of Staff, MK 1987.

The following brief autobiographical account was written by comrade Chris Hani in February 1991:

I was born in a small rural town in the Transkei called Cofimvaba. This town is almost 200 kilometres from East London. I am the fifth child in a family of six. Only three of us are still surviving, the other three died in their infancy. My mother is completely illiterate and my father semi-literate. My father was a migrant worker in the mines in the Transvaal, but he subsequently became an unskilled worker in the building industry.

Life was quite harsh for us and we went through some hard times as our mother had to supplement the family budget through subsistence farming; had to bring us up with very little assistance from my father who was always away working for the white capitalists.

I had to walk twenty kilometres to school every five days and then walk the same distance to church every Sunday. At the age of eight I was already an altar boy in the Catholic church and was quite devout.

After finishing my primary school education I had a burning desire to become a priest but this was vetoed by my father.

In 1954, while I was doing my secondary education, the apartheid regime introduced Bantu Educaiton which was desighend to indoctrinate Black pupils to accept and recognise the supremacy of the white man over the blacks in all spheres. This angered and outraged us and paved the way for my involvement in the struggle.

The arraignment for Treason of the ANC leaders in 1956 convinced me to join the ANC and participate in the struggle for freedom. In 1957 I made up my mind and joined the ANC Youth League. I was fifteen then, and since politics was proscribed at African schools our activities were clandestine. In 1959 I went over to university at Fort Hare where I became openly involved in the struggle, as Fort Hare was a liberal campus. It was here that I got exposed to Marxist ideas and the scope and nature of the racist capitalist system. My conversion to Marxism also deepended my non-racial perspective.

My early Catholicism led to my fascination with Latin studies and English literature. These studies in these two course were gobbled up by me and I became an ardent lover of English, Latin and Greek literature, both modern and classical. My studies of literature futher strengthened my hatred of all forms of oppression, persecution and obscurantism. The action of tyrants as portrayed in various literary works also made me hate tyranny and institutionalised oppression.

In 1961 I joined the underground South African Communist Party as I realised that national liberation, though essential, would not bring about total economic liberation. My decision to join the Party was influenced by such greats of our struggle like Govan Mbeki, Braam Fischer, JB Marks, Moses Kotane, Ray Simons, etc.

In 1962, having recognised the intranisgence of the racist regime, I joined the fledgling MK. This was the beginning of my long road in the armed struggle in which there have been three abortive assassination attempts against me personally. The armed struggle, which we never regarded as exclusive, as we combined it with other forms of struggle, has brought about the present crisis of apartheid.

In 1967 I fought together with Zipra forces in Zimbabwe as political commissar. In 1974 I went back to South Africa to build the underground and I subsequently left for Lesotho where I operated underground and contributed in the building of the ANC underground inside our country.

The four pillars underpinning our struggle have brought about the present crisis of the apartheid regime. The racist regime has reluctantly recognised the legitimacy of our struggle by agreeing to sit down with us to discuss how to begin the negotiations process.

In the current political situation, the decision by our organisation to suspend armed action is correct and is an important contribution in maintaining the momentum of negotiation.

Chris Hani, February 1991

Chris Hani; My Life: An autobiography written in 1991 on "rebel youth"



 
 
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1991.3.13

土地差別廃止法を提案 南ア、アパルトヘイト崩壊

日本経済新聞

ヨハネスブルク12日共同

南アフリカ政府は12日、国土の87%の土地の白人所有を定めた土地法と、人種別の居住・営業地域を義務付けた集団地域法を根幹とする土地差別諸法の廃止法案を含む五つの土地改革法案を白人、カラード(混血)、インド人から成る三人種議会(国会)に提案した。

 土地法、集団地域法など土地差別廃止法案は、今会期の6月までに可決される見込み。両法の廃止は人種別の統治を可能にしていたアパルトヘイト(人種隔離)体制の崩壊を意味し、今後の焦点は黒人の国政参政権付与を目指した新南ア体制のあり方をめぐる交渉へと移ることになろう。

 土地法、集団地域法の撤廃は国際社会が対南ア制裁解除の条件としており、南ア政府の廃止法上程で、解除に向けた動きが一層活発になると予想される。

 両法の廃止に伴い、約180の土地差別関連法も撤廃されるとともに、数千に及ぶ布告を廃止する権限が大統領に付与される。



 
 
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1991.5.2

英外相 南アの連邦復帰支持 経済再建テコ入れ狙う

日本経済新聞

ロンドン一日=影井記者

ハード英外相は一日、議会に提出した報告書のなかで「南アフリカ共和国が英連邦に復帰申請すれば全面的に支持する」と述べた。連邦復帰によって連邦加盟国による対南ア技術協力、資金援助を再開し、南アの経済再建をテコ入れするのが狙い。国際社会復帰という象徴的な意味も持っている。

 同外相は復帰支持の条件として、デクラーク南ア政権がアパルトヘイト(人種隔離)政策を撤廃することを指摘した。同政権は今国会(会期は六月末まで)中にアパルトヘイト関連法の撤廃を表明しているうえ、英国は英連邦の盟主であるため、南アの再加盟はほぼ確実とみられている。

 南アは六一年、アパルトヘイト政策に対する連邦各国からの非難に反発し、連邦を脱退した。連邦には技術協力基金、援助基金などがあって相互に支援しているが、南アは脱退に伴い対象からはずれていた。

 英国は世界に先駆けて対南ア新規投資を解除するなど、制裁解除に最も積極的に取り組んでいる。この動きに欧州共同体(EC)を巻き込むことに成功し、金貨や鉄鉱石などの輸入解禁を実現した。今後は英連邦に加盟しているカナダ、オーストラリアなど欧州域外の有力国も巻き込もうという狙いもあるようだ。



 
 
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1991.5.8

欧州の銀行 南アとの取引拡大 ランド建て債券販売も

日本経済新聞

チューリヒ七日=太田記者

 南アフリカのデクラーク政権がアパルトヘイト(人種隔離)廃止に動いているのを受け、欧州の銀行界に同国との金融取引を拡大する動きが出てきた。対南ア金融取引が社会通念に反しているとの見方が薄れてきたためで、スイスやドイツの銀行は、南ア通貨のランド建ての債券を投資家に販売し始めた。欧州共同体(EC)の対南ア経済制裁緩和で、欧州と南アとの金融取引は今後膨らむと見られ、金融面でも南アとの関係は正常化に向かい始めた格好だ。

 クレディ・スイス銀行は顧客に勧める債券投資リストに、五月分からランド建て債券七銘柄を盛り込んだ。ランド建ての債券を、一般投資家の目に触れる投資リストに掲載するのはこれが初めて。同行のほかにも、スイス、ドイツの有力行に、表立ったリストには載せないが、ランド建て債券取引に力を入れる動きが出ており、「九○年の欧州投資家のランド債投資は、二十億ランド(約八億ドル)に達した」(スイスの銀行アナリスト)との見方も出ている。



 
 
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1991.5.8

欧州の銀行 南アとの取引拡大 ランド建て債券販売も

日本経済新聞

チューリヒ七日=太田記者

南アフリカのデクラーク政権がアパルトヘイト(人種隔離)廃止に動いているのを受け、欧州の銀行界に同国との金融取引を拡大する動きが出てきた。対南ア金融取引が社会通念に反しているとの見方が薄れてきたためで、スイスやドイツの銀行は、南ア通貨のランド建ての債券を投資家に販売し始めた。欧州共同体(EC)の対南ア経済制裁緩和で、欧州と南アとの金融取引は今後膨らむと見られ、金融面でも南アとの関係は正常化に向かい始めた格好だ。

 クレディ・スイス銀行は顧客に勧める債券投資リストに、五月分からランド建て債券七銘柄を盛り込んだ。ランド建ての債券を、一般投資家の目に触れる投資リストに掲載するのはこれが初めて。同行のほかにも、スイス、ドイツの有力行に、表立ったリストには載せないが、ランド建て債券取引に力を入れる動きが出ており、「九○年の欧州投資家のランド債投資は、二十億ランド(約八億ドル)に達した」(スイスの銀行アナリスト)との見方も出ている。



 
 
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1991.5.10

南ア制裁解除検討 外相表明

日本経済新聞

 中山外相は十日の閣議後の記者会見で、人種隔離政策(アパルトヘイト)撤廃に動く南アフリカ共和国への制裁解除問題について、早ければ六月下旬にも解除する方向で検討していく考えを明らかにした。六月下旬に人種ごとの居住地域などを指定している集団地域法や土地法、人口登録法など三法が廃止される見通しが強まっているためで、外相は「それも(解除の)大きな契機になるだろう」と述べた。

 また坂本官房長官も同日の記者会見で「南アフリカは人種差別の悪法が存在しているが、六月中にも撤廃したいとの話を聞いている。国際的にも人種差別撤廃が明確になれば、日本政府としても制裁解除を検討することになろうかと思う」と述べた。

 日本は現在・スポーツ、文化、教育交流制限・投融資規制・観光査証の発給停止 ー などの制裁措置を取っているが、経済界などからは、南アの動向や欧州諸国の動きをにらみ、政府に制裁解除を求める声が強まっている。



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1991.5.13

南ア制裁解除早期実施に慎重論浮上 政治犯の釈放問題が未解決 政府内の意見割れる

日本経済新聞

 政府が対南ア制裁措置解除の時期をめぐり、調整に苦慮している。人種隔離政策(アパルトヘイト)の関連法の土地法、集団地域法、人口登録法は6月末までに廃止される見通しが強く、それを機械に解除に踏み切ろうという見解が有力になってきている。ただ制裁の理由の一つとしてきた政治犯問題が未解決なうえ、国連安全保障理事会非常任理事国選挙を控えアジア・アフリカ諸国の反発を心配する声もあり、解除の時期をめぐり政府内でも意見が分れているのが現状だ。

 政府は現在、・外交関係を持たない(領事関係のみ)・直接投資を認めず、融資は自粛要請する投融資規制・スポーツ・文化・教育交流規制・観光の自粛要請・南ア国民への観光査証発給停止 ー などの制裁措置を取っている。

 しかし、1989年に就任したデクラーク大統領がアパルトヘイト撤廃への改革を進めたことで、今年四月に欧州共同体(EC)が経済制裁措置解除を事実上決定、米国も全政治犯釈放とアパルトヘイト関連法廃止を条件に解除を決めており、西側諸国の動きが活発化してきた。

 日本でも財界からの要請が強まり、「経済的にも重要な南アとの関係で乗り遅れたくない」(外務省筋)として検討を急ぐことになった。

 外務省は関連法廃止で人的交流面の制裁を、その後、情勢を見極め経済制裁を順次解除することを検討している。ただ省内には国連局を中心に早急な解除に慎重論もある。その一つが政治犯の釈放問題。南ア政府とANCとの間で4月末までの釈放で合意していたが、政治犯の数などで食い違いがあり、いまだに解決しておらず、完全釈放にはなお不透明さが残っている。

 日本は今秋の国連総会で安保理非常任理事国に立候補を予定しており、拙速で解除に踏み切った結果、アジア・アフリカ諸国の反発を招くことを警戒している。南アとの貿易額が多く各国から批判を浴びた86年に立候補した際、当選順位は最下位だったこともあり、神経質になっている。



 
 
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1991.5.17

南ア経済制裁 日本は早期解除を ボタ外相表明 継続は黒人に打撃 企業の投資再開に期待

日本経済新聞

ケープタウン16日=影井記者

南アフリカ共和国のボタ外相は16日、日本経済新聞記者との電話インタビューで、「日米欧各国の経済制裁で失業者が増加し、黒人が最大の打撃を受けた」と指摘し、各国の制裁解除と投資再開が南ア黒人社会の向上と安定にもつながることを強調した。日本政府の対応については「制裁解除の動きが欧州に比べて遅れているのは残念だ」と述べると共に、機械・ハイテク分野などでの日本企業の投資再開に期待を表明した。

 南ア政府のアパルトヘイト(人種隔離)政策に反対して各国が86年ごろから実施した経済制裁の影響として、同外相は「特に新規投資が止まったことで雇用創出力が衰え、多くの黒人が失業した」と述べ、「失業者の増加が犯罪の増加にもつながっている」と指摘した。南アと経済関係の強い近隣諸国の経済にも打撃は及んでいる、とも語った。

 黒人運動指導者、マンデラ・アフリカ民族会議(ANC)副議長が各国に経済制裁の継続を訴えていることに対しては「同副議長が一方で、仕事の増加や経済成長が必要とも述べており、昭かに矛盾している」と批判、「各種調査でも、黒人層の過半数が経済制裁の継続に反対している」と語った。

 黒人同士の相次ぐ武力衝突が海外からの投資再開に悪影響を与える恐れがあることを率直に認めたうえで「今すぐ南アにパラダイスが実現するわけではない。各勢力は互いに理解し合わなければならない」と黒人勢力に自重を求めた。今後の南ア政局の見通しについては「肌の色で勢力を分ける時代ではない。(与党である)国民党はすべての南ア市民に開かれており、個人の財産を守り、市場経済を発展させることなどで一致している。黒人の支持も得られると確信している」と、長期的な政権維持に自信を見せた。

 経済制裁の解除をめぐる日本政府の姿勢については「日本と米国は同じように行動している」と、米追随の姿勢を暗に批判したが、「南アにとって日本は非常に重要な国であり、日本政府の招待があれば喜んで訪問したい」とも語った。



 
 
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1991.5.20

中心街で連続爆破事件 南ア 対外投資に悪影響も

日本経済新聞

ヨハネスブルク19日影井記者

黒人居住区での黒人同士の武力衝突が続く南アフリカ共和国で、今度はヨハネスブルク市の中心街で連続爆破事件が起き、緊張が高まっている。通りがかりの一般市民に負傷者が出ており、無差別テロの様相を見せている。今のところ犯人はわかっていない。南アの民主化や海外からの投資再開に悪影響を及ぼす懸念がある。

 爆破事件が起きたのは、16、17の両日。市中心部からやや北にはずれた白人・非白人混住地区のレストランと、市中心部にある市庁舎近くのショッピングセンターで爆発が起き、婦女子を含む計十数人がけがをした。他にも市内二カ所で爆弾を発見、未然に処理した。



 
 
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1991.5.23

黒人暴動の陰に経済悪化 南アの2居住区ルポ 失業者急増、不満根強く 「制裁」がしわ寄せ

日本経済新聞

ヨハネスブルクで、影井記者

 南アフリカ共和国の黒人居住区で多発する武力衝突・殺傷事件は、政治的意見の対立だけでは説明しきれない。アパルトヘイト(人種隔離)政策廃棄の動きにもかかわらず、向上するきざしが見えない生活。その失望と怒りが暴力の形をとって噴出している。ヨハネスブルク近郊にある二つの黒人居住区、ソウェトとアレクサンドラで、そんな声を耳にした。

 緑が美しいヨハネスブルク市街から約10キロのアレクサンドラ地区に入った途端、風景は一変する。数百軒の密集する粗末なトタンの家。電気、水道ばかりでなく、その多くはトイレもない。「先日何人も殺された場所です」と案内人が指差したあたりには、所在なくぶらつく男の姿が目立つ。同地区の人口は仕事を求める黒人の流入で5年間に2倍の20万人に増えた。失業率は50%を超すという。

 未登録者を含めて約450万人が住む最大の黒人居住区ソウェトにも、同様のバラックが多い。ただ「南アのビバリーヒルズ」と呼ばれる超高級住宅区域があるのもここだ。ヨハネスブルク市内の主要ホテルから毎日「ソウェト見学ツアー」が出ており、黒人運動の指導者、マンデラ・アフリカ民族会議(ANC)副議長宅(通称「マンデラ御殿」)も外からうかがえる。

 ソウェトの住人の一人が「あの家はBMWディーラーの黒人の所有で大変繁盛している」と言っていた。売るのも買うのも黒人である。民主化の進展とともに、裕福な黒人、職を失い犯罪に走る白人、という新しいパターンも生まれている。

 もちろん、南アでは今でも「貧困層」と「黒人層」はほぼ重なっている。アレクサンドラ・ヘルス・クリニックのティム・ウィルソン博士は黒人居住区で暴動が多発する背景として、すぐに新生南アが誕生するという幻想が崩れ、失望感が広がっている点と、景気後退による失業者の増加、住環境の悪化を強調する。

 先進各国は南ア政府にアパルトヘイト廃棄の圧力をかけるために経済制裁を実施したが、制裁による南ア経済の悪化によって最も深刻な打撃を受けたのが経済的弱者、つまり黒人層だったのは皮肉である。「外国企業は南アに投資を」という南ア政府の要望と、「われわれに仕事を」という黒人層の声は、実は同じことを意味している。



 
 
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1991.6.18

アパルトヘイト終結宣言 南ア 人種登録法廃止を可決(一面トップ)

日本経済新聞

ロンドン17日=影井記者

 南アフリカ共和国のデクラーク大統領は17日午後、ケープタウンの同国議会で演説し、1948年以来続けていたアパルトヘイト(人種隔離)政策の終結を正式に宣言した。これに先立ち議会は同日、同政策の根幹として最後まで残っていた「人種登録法」の廃止法案を賛成多数で可決した。同法を含むアパルトヘイト関連の法律はすべて6月末で廃止されることになる。大統領の終結宣言を受け、日本など先進各国による新規投資や文化・スポーツ交流の禁止といった制裁措置の解除の動きが加速されるのは確実で、南アの国際社会復帰に道が開かれる見通しとなった。

 デクラーク大統領は議会演説のなかで「一九九一年は法制上の差別を南アの体制から最終的に一掃した年として歴史に名をとどめよう」と述べた。

 89年9月に就任したデクラーク大統領は黒人解放運動指導者、マンデラ・アフリカ民族会議(ANC)議長の28年ぶりの釈放、非常事態宣言の解除などを実現し、アパルトヘイト関連の法律を相次ぎ廃止してきた。94年の次期大統領選挙までには、黒人を含む「一人一票」制の実現など全国民に平等の権利を保証する新憲法を制定すると表明している。

 欧州共同体(EC)各国はこれらの民主化の動きを受けてすでに新規投資を解禁、アパルトヘイト法の全面廃止後には鉄鉱石などの輸入禁止措置を解除することも決めている。

 ただ南ア国内には、アパルトヘイト廃止に反対する保守党や極右政党などの白人勢力が根強く存在する。また黒人勢力内には、性急な民主化を求める武力闘争集団もあり、政治・社会情勢は決して安定していない。黒人の参政権を認める新憲法の制定に向けて、デクラーク政権は引き続き苦しい立場が続きそうだ。

 アパルトヘイトは1910年の南ア共和国発足当時から制度化され始め、48年の国民党(現与党)政権誕生で確立された。黒人参政権否定、人種登録、居住地指定などからなっている。アフリカ諸国だけでなく日米欧の先進国も同政策を非難、新規投資や文化・スポーツ交流の禁止といった制裁措置を八六年以降、本格的に実施していた。

 日本、制裁解除へ

 政府は南アのアパルトヘイト終結宣言を受け、対南ア制裁解除について本格的な検討に入る。政治犯の釈放など南アには依然未解決の問題も残るが、米国や欧州共同体(EC)の動向を見極めながら、制裁解除の時機を探っていくことになる。また、黒人の参政権問題など政治的な不安定要因も多いことからしんちょうに対応を進める。

 一方、経済界はアパルトヘイト三法の撤廃が決まったことで、南ア貿易の本格再開など経済交流の活発化を期待している。経団連は近く、対南ア経済制裁の早期撤廃を改めて政府に求める見通しだ。



 
 
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1991.6.18

〈解説〉 混乱の火ダネ残る アパルトヘイト南アが完全撤廃 黒人勢力衝突続く

日本経済新聞

 南アフリカ共和国議会が十七日、最後まで残っていたアパルトヘイト(人種隔離)法、「人種登録法」の廃止を決議したことで、南アの民主化の流れは決定的になった。周辺アフリカ諸国や先進各国はこの動きを歓迎しており、外国企業からの投資が今後本格化しそうだ。ただ一人一票制という新生・南アの誕生までにはまだまだ混乱と対立が予想される。投資や貿易の拡大によって南ア経済が浮上することが、民主化進展の支援材料にもなり得ると言えよう。

 デクラーク大統領は就任以来、一貫してアパルトヘイト政策廃止の方針を取っていたため、この日の到来はだれもが予想していたことといえる。ここ二、三年は大都市を中心に白人と黒人の混住も進み、アパルトヘイト法は実際には急速に形骸化していた。ただ、現実に同法が廃止される象徴的な意味はきわめて大きい。

 米国政府が制裁解除のために設けていた条件は、今回の措置ですべて満たされた。日本政府もアパルトヘイト法の全面廃止を目安にしている。時期の違いはあるにせよ、日米欧の先進各国が制裁を全面解除する日は間近い。

 制裁解除で先行した欧州、特に英国とドイツの企業は昨年末以降、対南ア戦略を強化しており、新規投資が始まっている。南アの資金の流れは、昨年第四四半期から約五年ぶりに入超に転じた。

 今後は、かつて最大の勢力だった米企業や新興勢力の台湾企業が投資を拡大しよう。日本企業はまだ慎重だが、南アはマーケットとしても原材料供給基地としても極めて重要であることは疑いない。横にらみで投資を拡大する可能性がある。

 問題は、黒人勢力同士の武力衝突といった政治・社会不安。一時のように連日の殺傷はなくなったが、解決の兆しはない。南ア政府は「政情不安の原因は、経済不振で失業者が増えたため」(ボタ外相)と説明する。

 アパルトヘイト法の廃止は・経済制裁が解除される・アパルトヘイト体制の維持に必要なばく大な経費が節約できるーーという経済的効果を持つ。これにより経済が浮上すれば、武力衝突も緩和されるというのが南ア政府の読みだ。

 投資拡大と政情安定という好循環に入るか、政情不安による投資警戒という悪循環に入るか、これからが正念場だ。(ロンドン=影井記者)

(注)一九五〇年に制定された人種登録法は国民を出生の段階で白人、カラード、インド人、黒人に大別する内容で、同国の全差別立法の基礎になっていた。南ア議会は今月五日、国土の八七%の土地の白人所有を定めた土地法、人種別に居住地域などを制限した集団地域法の廃止もそれぞれ可決済みだった。(時事)

南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)の歴史

▽1913年=土地法成立

▽48年=国民党が政権奪取

▽50年=人種差別法、集団地域法など成立

▽53年=施設隔離法成立

▽60年=シャープビル虐殺事件発生。アフリカ民族会議(ANC)など非合法化

▽61年=南ア、共和制に移行し、英連邦から脱退。ANC、武力闘争開始

▽62年=ネルソン・マンデラ氏、逮捕

▽84年=白人、カラード(混血)、インド人から成る三人種議会誕生

▽86年=南ア全土に非常事態宣言を布告

▽89年9月=デクラーク大統領就任

▽90年2月=ANCなどの合法化。ネルソン・マンデラ副議長の釈放

▽90年10月=非常事態宣言の全廃。施設隔離法が失効

▽91年6月=土地法、集団地域法、人種登録法が廃止



 
 
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1991.6.19

南アは招待せず アフリカ競技大会組織委

日本経済新聞

カイロ17日AP

南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)を法制上全廃したが、9月にエジプトで開かれるアフリカ協議会の組織委員会は17日、同大会に南アを招待しないことを明らかにした。

 同組織委によると、アフリカ統一機構(OAU)が永年にわたり南アを排斥してきたことに従い南アを招待しないとしている。



 
 
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1991.6.21

南ア制裁、部分解除 政府 人的交流の3項目

日本経済新聞

 政府は21日の閣議で、人種隔離(アパルトヘイト)政策の撤廃を求めて実施してきた南アフリカ共和国に対する制裁措置のうち、・文化・教育交流規制・南ア観光の自粛要請と南ア国民への観光査証発給停止・国家公務員の南ア航空機使用禁止 などの人的交流制限を解除することを正式に決めた。即日実施される。また、人種別に組織されていない競技団体との交流は認めるスポーツ交流規制の緩和も決定した。中山外相は「日本はアパルトヘイトの問題が平和的に解決されることを強く希望する」との談話を発表した。

 これに関連して坂本官房長官は同日の閣議後の記者会見で、投融資規制や銑鉄・鋼材の輸入禁止などの経済制裁解除について・政治犯の釈放・憲法改正などの国内改革 の進展が必要との認識を示した。



 
 
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1991.6.24

南ア、和平で共同委設置合意

日本経済新聞

ロンドン22日 影井記者

南アフリカ共和国の白人政府と黒人勢力のアフリカ民族会議(ANC)、インカタ自由党の三者は22日、武力衝突を解決するための和平案を作る共同委員会を8月中に設置することで合意した。



 
 
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1991.7.2

南ア便開設ラッシュ 航空各社 人権政策転換で

日本経済新聞

ロンドン1日=影井記者

南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離)法が全廃されたのを受け、各国航空会社が相次いでヨハネスブルグ路線の開設に動き始めた。直行便の有無でビジネスのしやすさは大きく異なるだけに、これからまだまだ増えそうだ。

 香港のキャセイ・パシフィック航空とオーストリア航空はそれぞれ香港、ウィーンからの定期便を今週開設する。台湾の中華航空は9月1日から週1、2便を設ける計画だ。エジプト航空は先週末に直行便第一便を飛ばしたばかり。各国からの便がヨハネスブルグに乗り入れると、南アフリカ航空も各国に定期便を飛ばすことになる。欧州の主要航空会社も今後、便数を増やす可能性がある。

 日本航空も視察のため現地に職員を派遣するなど南ア直行便に関心を示し始めている。



 
 
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1991.7.6

(フォーカス) ANC議長に就任するネルソン・マンデラ氏

日本経済新聞

ロンドン 影井記者

 南アフリカ共和国最大の黒人運動組織、アフリカ民族会議(ANC)が今月二日から同国の港湾都市、ダーバンで開催中の年次総会は、二つの点で歴史的な会合になった。ひとつは、非合法時代の続いたANCが三十一年ぶりに南ア国内で総会を開いたこと。もうひとつは、すでに事実上の指導者であるネルソン・マンデラ副議長(72)が、病気療養中のタンボ議長に代わって新議長に選出され、六日の正式就任が決まったことだ。

 マンデラ氏は一九六二年から昨年二月までの約二十七年間、獄中にあった。この間、同氏は黒人勢力の変わらぬ、支持を受け続けたが、南アの政治・社会情勢は大きく変わった。  政府は六月末でアパルトヘイト(人種隔離)法を全廃し、黒人を含めた一人一票制の実現に動き始めている。まだ差別の実態は根強く残っているとはいえ、周辺の黒人国家もこの変化を評価し、制裁を解除し始めた。

 そこにマンデラ氏のジレンマがある。かつてはテロも辞さない過激派として鳴らしたマンデラ氏も釈放後は武力闘争路線を放棄せざるを得なくなった。しかし、反政府色を明確にしなければANCに対する黒人の支持は得にくい。ANCの重要な協力団体であり、強硬路線を貫く南アフリカ共産党の意向を無視することもできない。

 デクラーク大統領とは毎週のように電話で打ち合わせをしながらも、公式には「政府とはこれ以上交渉はしない」と、言わざるを得ないのはそのためだ。現地では「マンデラ氏が交渉しなければならない相手はANC内の強硬派だ」という声をよく聞く。

 黒人勢力のなかで、マンデラ氏ほど知名度と指導力を備えた人物はいないと言われる。議長就任は順当と言えよう。だからといって、これから順風満帆で組織運営できるというわけではない。



 
 
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1991.7.6

南ア旅行に熱い視線 第一弾はブルトレの旅 五年ぶりに観光再開

日本経済新聞

 アパルトヘイト(人種隔離)政策への規制措置として実施されてきた観光渡航自粛が五年ぶりに解除された南アフリカ共和国に旅行業者の熱い視線が集まっており、七月下旬には団体旅行第一弾として鉄道マニアあこがれの同国のブルートレインの旅を目玉にしたツアーが出発する。 料金は一人九十八万円と高めだが、豪華な設備とサービスを誇る列車の旅に加え、野生動物をはじめとする豊かな自然が満喫できるとあって、このツアーには計九人の申し込みがあったという。南半球の本格的な観光シーズンとなる今秋以降には各旅行社のツアーもお目見えする予定だ。 第一弾となるのは、東京都新宿区の旅行代理店が企画した七月二十三日出発の十三日間ツアーで、クルーガー国立公園や喜望峰などの名所観光だけでなく"走る豪華ホテル"の異名を取るブルートレインの旅が組み込まれているのが売り物。 ブルートレインは首都プレトリアからヨハネスブルクを経由、ケープタウンまでの千六百キロを二十六時間で走る。設備、サービスに加え、車窓から野生動物など大自然が楽しめるとあって人気が高く、予約もなかなか取れないほど、同社は現地の旅行社とのタイアップで予約を確保、今後もツアーの目玉商品にしていく考えだ。 南アへの観光渡航自粛は昭和六十一年九月、アパルトヘイト政策に対する規制措置として閣議決定された。それまでは、治安も比較的良く年間八百人前後の日本人ツアー客が訪れていた。各旅行社は、五年間の自粛で目新しさが加わったうえ、年間の海外旅行者数が一○○○万人を超え、観光が多様化してきていることなどから、欧米旅行を卒業した熟年層を中心に潜在的需要は高いとみている。



 
 
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1991.7.6

シリル・ラマポーザ 新しいアフリカ民族会議事務局長 交渉の術を知っている人間

Fin.Times

ダーバンにてパッティ・ワルドマイアー

 昨日アフリカ民族会議(ANC)の事務局長に選出されたシリル・ラマポーザ氏は、闘うべき時と我慢すべき時を知っている。そのことで彼はANCの執行部の中では出色の存在である。

 現在全国鉱山労働者組合の事務局長であるこのやさしい語り口の38歳の人物は、間違いなくネルソン・マンデラ氏を除けば南アフリカで最も有能な黒人政治家である。実際、昨日選出されたことで、ラマポーザ氏はANC総裁の潜在的な後継者であることが明らかにされた。

 彼はこれまでの歳月を、鉱山経営者たちの代表と机をはさんで交渉する技術を学ぶために費やしてきた。彼のANCの同僚の多くが闘争をめぐる政治に閉じ込められていた間に、彼は権力の座にある者からどのようにして妥協を引き出すのかを学んできた。

 彼が選出されたことは、ANCがこれまでの交渉過程に不満を持ち、アパルトヘイト後の憲法をめぐる交渉を積極的に進めたいと望んでいることを、明白に示している。ANCの指導者たちは、彼らが主導権をしばしば対立相手であるプレトリア政府に渡してきたことを、認めたのだ。そして、彼らはラマポーザ氏が評判高い明敏さと現実主義で、相手を押し戻すことを期待している。

 ラマポーザ氏は、選出されたことで、一年有余にわたる、広がる金生産縮小と直面した鉱山労働者の闘いを闘いつつも、ANCの政治からは一線を置いていた一種の政治的亡命状態に終止符を打った。このことは、ラマポーザ氏の世代の反アパルトヘイト闘争の国内指導者の多くについても、あてはまることであった。彼らは追放されるよりもタウンシップの街頭での賃金闘争に留まってきた。ANCが17ヵ月前に合法化されると、彼らはほとんど指導権を失っていった。

 しかし、全国鉱山労働者組合の指導者は、彼と昨日総裁に選出されたマンデラ氏との間のウィニー・マンデラ夫人の問題をめぐる緊張に対する、特別な懲罰として孤立を迫られてきたようだ。1989年、ラマポーザ氏は、最近四件の誘拐事件についてと一件の暴行への共犯者として有罪判決を受けたマンデラ夫人の振る舞いについて公的に抗議の声を上げた。昨日の選出によって彼のANCおよび労働組合内での明らかな人気が明確にされたが、それ以来代償を払い続けて来たのだ。

 ラマポーザ氏への賛辞は、全国鉱山労働者組合の力で尊厳と労働者としての生活を勝ち取ってきた鉱山労働者という彼の明白な支持者層からだけでなく、産業界や政府の白人たちからも寄せられている。

 多くのANCの指導者たちに対しては侮蔑以外の何物も表さない産業界の有力者たちが、ラマポーザ氏に対しては彼が社会主義者にもかかわらず最高の敬意を表している。(多くのANCの指導者たちは南アフリカ共産党に加盟していることを隠してはいないが、彼は公的には南ア共産党の党員ではない。)ソウェトの共同体指導者としての彼に出くわしたことのあるヨハネスブルクの地域行政府の白人職員たちは、このNUMの指導者に特別な敬意をいだいているようだ。だれしもが、彼の魅力、彼のタフさそしてマンデラ氏と彼が共有する芯の強さと洗練された丁重さに触れる。

 ソウェトの人民代表団の指導的なメンバーの一人として彼は、ヨハネスブルク地域の黒人と白人の地域行政府を、将来のヨハネスブルクを統治する非人種的な地域公共機関について交渉する「中央ヴィタースランド・メトロポリタン評議会」へと統合する協定をまとめるのに力を尽くした。

 この協定を結んだことでラマポーザ氏は他の反アパルトヘイト活動のリーダーたちから攻撃を受けることになってしまった。彼らはこの構想が、プレトリア政府に協力したということで追放した黒人議員をも含んでいることを理由に反対した。しかしこの評議会はすでにソウェトの住民に大きな利益をもたらしている。

 このソウェトでの交渉が、最近のイーストランド金鉱山と結んだ利益連動の賃金交渉とならんで、ラマポーザ氏の現実主義を世に知らしめている。NUMと鉱山評議会は、全鉱山において利益連動型の賃金協定を結んだと理解されている。将来の協定の前例となりうる重要な協定である。労務関係コンサルタントのダンカン・インネス氏は彼の取った態度を次ぎのようにまとめている。「相手が柔軟であれば、シリルは機会を無駄にすることはない」

 少なくとも重要なことは、ラマポーザ氏はANCのトップ指導者の長老たちが無くしてしまった普通の人々との接触を持っている。彼はソウェトの郊外でも最も貧困な地区であるヤブハニのアパートに住んでいる。彼は鉱山での地下労働の経験は全くない弁護士だが、組合内の人気は非常に高い。インネス氏は、ラマポーザ氏の強い勧めで組合、雇用者そして政府も参加した今後の金産業についての最近のサミットを例に挙げて、新しい事務局長は「高潔さとビジョンの人」だと論証している。ANCはこの上ない人を選んだのだ。



 
 
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1991.7.10

南ア、五輪復帰へ 32年ぶり IOCとの会談で

日本経済新聞

ローザンヌ9日共同

国際オリンピック委員会(IOC)は九日、当地で開かれたIOCアパルトヘイト委員会と南アフリカ暫定オリンピック委員会(INOCSA)代表団との会議を受け、南アの五輪運動への復帰条件が満たされたと発表した。

 IOCは六月の総会で、南ア復帰問題に関する決定権を理事会にゆだねたが、アパルトヘイト委員会にはムバイエ、ゴスパー両副会長ら有力な理事会メンバーが含まれており、これで一九七〇年にIOCを追放された南アの復権が事実上決まった。

 南アは六〇年のローマ五輪を最後に五輪に参加しておらず、来年のアルベールビル冬季、バルセロナ夏季両五輪への参加の道が三十二年ぶりに開かれたことになる。

 IOCは南アの復帰条件として先に・アパルトヘイト関連立法の完全撤廃・人種別、全人種系に分立するスポーツ組織の統一ーーを骨子とする五項目を提示していた。

五輪、国際スポーツ界での南ア関連事件史

1960年 ローマ五輪参加。陸上男子400メートルでマルコム・スペンスが3位に入賞し、五輪での南ア最後のメダル獲得

64年 アパルトヘイト政策が原因で、東京五輪への招待取り消される

68年 メキシコ五輪への招待取り消される

70年 IOCから追放

   米国のテニス選手、アーサー・アッシュの入国を拒否したため、デ杯への参加禁止

76年 国際陸連から資格停止処分

   ニュージーランドのラグビーチーム「オールブラックス」が南ア遠征を強行したため、これに抗議したアフリカ諸国がモントリオール五輪をボイコット

81年 南アのラグビーチーム「スプリングボクス」がニュージーランドへ遠征。南アのラグビーチーム最後の海外遠征

84年 裸足の女子陸上ランナー・ゾーラ・バッドが英国籍を取得してロサンゼルス五輪に出場

89年 IOC、南アでプレーしたテニス選手の五輪出場禁止を決定

91年 IOC、南アの五輪復帰を事実上決定    (共同)



 
 
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1991.7.10

南ア制裁 米、一両日中に解除 ブッシュ大統領見通し

日本経済新聞

トロント9日

ブッシュ米大統領は九日、トロントでマルルーニー加首相と会談後記者会見し、南アフリカ共和国に対する経済制裁の取り扱いについて「最終決定を下す直前の段階にきている」と述べ、米政府が一両日中に制裁解除の正式決定を下すとの見通しを明らかにした。また、ソ連との合意が遅れている戦略兵器削減条約(START)については「私の期待を強調するつもりはない」と語り、最終合意までにはなお時間が必要との見方を示した。

 対南ア制裁について同大統領は、アパルトヘイト(人種隔離政策)の廃止など「米国が求める五条件が満たされることが解除の条件だった」としたうえで、「デクラーク(南ア)大統領は、我々が不可能とさえ思っていたことを成し遂げた。私としては喜んで(解除に)必要な手続きをとりたい」と強調した。

 さらに「かつては米上院で制裁を推進していた議員も、今では、現状のままでは政策を誤るとさえ言うようになった」と語り、議会内の空気も制裁解除に向けて固まってきたことを明らかにした。

 解除の対象となるのは86年包括的反アパルトヘイト法に盛り込まれている金貨、農産物などの禁輸や米国企業の対南ア投資禁止措置。別の法律で禁止している南ア向け武器輸出、核燃料など原子力関連の取引、政府信用供与、国際通貨基金(IMF)融資の供与は、引き続き制裁の対象として規制される見通しだ。

 一方、START交渉に関しては「大きな技術的な問題が未解決のまま残っている」と指摘した。ブッシュ大統領は七月中旬のロンドン先進国首脳会議(サミット)の際にゴルバチョフ・ソ連大統領と会談する予定だが、「それまでに問題が片付くとは思わない」と語った。

 しかし、START最終合意を前提条件としているモスクワでの米ソ首脳会談については「有意義なものであろうし、実現したい」と強調、同交渉の早期決着をめざして米ソ外相会談などの場でソ連側に強く譲歩を求めていく意向を示した。



 
 
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1991.7.11

米、南ア制裁を解除 大統領発表 人種政策前進を評価

日本経済新聞

ワシントン10日=春原記者

ブッシュ米大統領は10日、懸案になっていた南アフリカ共和国に対する経済制裁を解除すると発表した。米政府はこれまで、1986年の包括的反アパルトヘイト(人種隔離)法に基づいて、南アとの貿易、直接投資、航空機の相互乗り入れ、クルーガー金貨輸入などを一切禁止していたが、南ア政府が人種隔離政策の廃止を宣言したのに続き、米政府が問題視していた政治犯の釈放問題でも一定の前進があったと判断、5年ぶりに解除に踏み切る。ただ、大統領は対南ア武器禁輸と南アの国際通貨基金(IMF)加盟阻止の二方針は不変と強調するとともに、核関連技術の禁輸措置、輸出入銀行による融資凍結なども当面、継続すると述べた。

 ブッシュ大統領は10日正午に開いた記者会見で、制裁解除の理由として、米政府が挙げていた五つの前提条件を南ア政府が「明らかにすべて満たした」と指摘し、デクラーク南ア大統領の政治手腕に一定の評価を与えた。米国には黒人議員を中心に制裁解除に反対する動きもあったが、南アの民主化、近代化を促すためにも制裁を解除する方が得策と判断した。

 包括的反アパルトヘイト法は、米政府の制裁解除の条件として・戒厳令の解除・人種隔離政策の廃止・反政府政党の容認・黒人社会との民主的対話・政治・思想犯の釈放ーーの五項目を挙げている。米政府はデクラーク大統領が人種隔離政策の廃止を宣言した段階で、四条件が満たされたと指摘、政治犯の問題について調査を進めていた。

 国務省は先週末、ベーカー国務長官を通じて大統領に政治犯問題の調査報告書を提出しており、大統領はこれを分析した上で、解除を決めた。タトワイラー国務省報道官は9日の記者会見で、「1990年からこれまでに約1050人が南ア政府によって釈放された」と述べたが、このうちの何人が政治・思想犯かについては言及を避けた。

日本も月末にも解除

 政府は10日、南アフリカ共和国に対する・投融資規制・クルーガーランド金貨などの南ア産金貨の購入自粛・銑鉄・鋼材の輸入禁止・航空機の相互乗り入れ停止ーーの四点の経済制裁措置を早ければ先進国首脳会議(ロンドン・サミット)後の今月末にも解除する方針を固めた。六月に決めた人的交流規制の解除に続くもので、米政府が経済制裁解除を決定したことから、日本としても機は熟したと判断した。これにより南アへの制裁は全面解除に近い状態となり、今後はデクラーク南ア大統領の訪日招請、仕上げとなる大使館の相互設置に向けて最終的な調整を進める。

 政府は南アが人種隔離(アパルトヘイト)の根幹をなしていた人種登録法など三法を廃止したのを評価、手始めとして6月に南ア国民への観光査証の発給停止などの人的交流制限の解除に踏み切った。サミットでも南アの民主化を評価する見通しで、政府としてはサミットでの議論を見極めたうえで、今月末か来月初めにも制裁解除を閣議決定する。



 
 
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1991.7.11

米の制裁解除 南ア、投資呼び込みに全力

日本経済新聞

ロンドン10日=影井記者

 ブッシュ米大統領が南アフリカ共和国に対する制裁解除を決めたことで、南アの国際社会復帰が一層近づいてきた。すでに制裁を解除している欧州共同体(EC)に加え、日本も近く解除する方針で、南ア政府は海外からの投資拡大による経済浮上に全力をあげることになろう。政府は投資を呼び込むために、多発する国内武力衝突の解決や、利益の海外移転規制の緩和といった制度改革に取り組む見通しだ。

 黒人抗争解決や規制緩和めざす

 デクラーク南ア大統領は十日、ブッシュ大統領の発表を受け、「制裁解除は、南ア経済を回復させ、すべての南ア国民の利益につながる」との声明を発表した。ボタ外相も「米政府の今回の措置で、世界の他の国々による制裁解除も加速されるだろう」と語り、南ア向け直接投資を禁止している日本の今後の対応に関心を示した。

 一方、最大の黒人運動勢力であるアフリカ民族会議(ANC)は「制裁解除は時機尚早だ」との声明を出したが、反政府姿勢を明確にするための政治的発言と受け止める向きが多く、黒人を含め南ア国民の大勢は制裁解除を歓迎している。

 昨年末にECが直接投資を解除して以降、欧州の企業、金融機関を中心に海外からの南ア投資は拡大している。これに加え、制裁実施に伴い約三百社から百社前後に減っていた米国資本が再び南アに進出することによる経済てこ入れ効果への期待は大きい。

 今後は黒人同士の武力衝突や改憲交渉に伴う政治・社会不安の克服が焦点となる。政府やANC、インカタ自由党などはようやく交渉のテーブルにつき始めており、政府は「平和にあと少しで手が届く」(ボタ外相)と自身を深めている。

 経済面でも、利益移転の簡素化や、国内で生産した工業製品の輸出振興など、外国企業の南ア進出を加速する政策を検討しているという。



 
 
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1991.7.12

ビジネス急拡大望み薄 南ア経済制裁解除、産業界の反響 経済悪化が足カセ 長期的な視点で準備も

日本経済新聞

 南アフリカ共和国に対する経済制裁を日米両政府が解除することで、日本の産業界と同国との交流が強まりそうだ。南アの経済情勢の悪化もあって当面は両国間の輸出入が急拡大する公算は少ないが、長期的な取引拡大をめざして準備を急ぐ動きも目立っている。主要業界の動きを追った。

まずは情報収集に力

【商社】大手商社には「制裁解除が実現しても急激に対南ア貿易が拡大するとは思えない」(欧州・アフリカ担当者)と慎重な見方も少なくない。

 制裁解除への期待が強まり始めた今年初めから、各社のプラント部門は南ア市場の情報収集を進めていたが、日本がプラント輸出をほぼ全面的にストップしている間に、かなりの商談が欧州ぜいなどにさらわれたという。例えば製鉄会社、イスコール社の商談でも、表面処理施設や圧延機などの大型案件はほとんど欧州メーカーの受注が決まっている。

 ただ制裁解除を機に経済建て直しを目指す南アからはエレクトロニクス、食品など加工・組み立て産業分野での協力要請も出ており、情報収集に力を入れている。

供給拡大に道開く

【自動車】日本車メーカーは昨年、南アの現地会社に年間十七万五千四百台の組み立て(KD)生産を委託し、約一万四千六百台の完成車を輸出した。その半分を占めているトヨタ自動車では「南ア事業はこれまでは必要以上に拡大しないという方針を続けてきた。しかし、今後は市場動向に合わせた供給が出来る」と歓迎している。

 ただ南アの自動車市場はかつて年間四十万台あった国内販売が昨年は三十万台規模まで落ち込んでいる。このため「一本調子で輸出が回復することはなさそう」(トヨタ)との見方が強い。

石炭輸入拡大へ

【金属・エネルギー】非鉄金属業界は鉄鋼やステンレス鋼の副材料として使うクロム、マンガン鉱などの希少金属を南アから輸入している。これらの鉱石は南アに偏在しているため、経済制裁の取引禁止品目から除外されていた。このため制裁が解除されても当面はほとんど影響がないと見ている。

 一方、投融資規制の解除で、南ア鉱山に対する開発投資や資本参加の可能性が出てくる。「長期的には合弁の鉱山開発も考えられる」(青柳守城住友金属鉱山常務)など業界は一様に歓迎している。エネルギー業界にとって魅力は石炭。九○年の南ア炭輸入量は四百七十万トンで、日本の全輸入量の四%強にとどまっているが、豪州炭に比べて南アの一般炭は一トン当たり八ドル安い。九〇年度に南アから二十五万トン輸入した電源開発は制裁解除を受けて、九一年度は四十万トンに増量する。北海道炭鉱汽船は今年から新たに五万トンを輸入、数年以内に百万トン程度に増やす意向だ。

受注促進に二の足

【機械】重工業、プラント各社は南アに対する経済制裁が解除されても「事業的にはあまり期待していない」(各社)としている。現地の政情が必ずしも安定とは言えないうえ、製品輸出では輸送コストがかかり、欧米に比べて価格面で不利なため。

 半面、産業機械では経済制裁解除に期待を寄せている。JUKIは工業用ミシンの輸出についてはこれまで年二億円程度出荷すると現地代理店からの注文を断っていた。「南アには大型の縫製工場が数多くあり、制裁が解除されれば今後有望な市場となり可能性がある」としている。

旅行各社は積極的

【航空・旅行】国内航空会社は南アフリカへの直接乗り入れについて「今のところ需要が少なすぎる」(日本航空、全日本空輸)と消極的。

 半面、東南アジアの航空会社は路線開設に意欲を示している。香港のキャセイ・パシフィク航空が香港ーヨハネスブルク定期便を就航したのに続き、台湾の中華航空も九月から定期便を設ける計画だ。

 一方、旅行業界は南ア向け観光ツアーの企画に積極的に乗り出している。まず、JTB(日本交通公社)グループのディスカバーワールド(本社東京、社長永盛雄一郎氏)が七月二十三日出発の十三日間の団体旅行を実施する予定。さらに近畿日本ツーリストも八月に十一日間のツアーを二回計画している。



 
 
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1991.7.12

対南ア経済制裁解除、商品市況への影響は 需給、急変はなさそう 相場低迷 復帰インパクト薄める

日本経済新聞

 米国が南アフリカ共和国経の経済制裁を解除すると発表、月末には解除に踏み切る日本、先に解除を決めているECと合わせ西側の南ア制裁は五年ぶりに全面解除となる。南ア産品の輸入制限・自粛などが外れ、取引の選択肢が広がる意味で南アの輸出業者にはプラスだが、制裁期間中・南アが先進国外の市場を開拓してきた・厳格な制裁実施国以外のルートで、主要な産品は西側に一定量が流入していた ーー などいわば抜け道があったため、制裁解除がにわかに国際商品市況への変動要因として働くことは考えられない。

 西側の制裁期間を通じ、石炭などが西側大口市場から閉め出された結果、東南アジア市場などに国際価格に対して"政治的ディスカウント"付きで輸出されてきた例がある。こうした商品が国際価格に戻る一方、安定度の高い西側先進国との自由取引の場が広がることは南アの生産者(輸出業者)にとって明らかにプラスである。

 だが多くの国際商品に関しては東南アジア、最近では東欧市場などとの取引が拡大したほか、制裁基準の緩い国から厳しい国へとう回して輸入されるなど実質的には市場シェアが落ちるケースは少なかった。

 今回の経済制裁解除措置は国際商品の足元の需給関係を大きく変えることは考えられない。

 米国の制裁解除には南アの国際通貨基金(IMF)加盟阻止と輸出入銀行による融資凍結などは除外されている。このため鉱山物中心に再投資意欲をそぎ、南アの供給力の先細り傾向が続き、国際商品にとっては強材料に働いていく可能性がある。金鉱山の縮小、プラチナ鉱山の拡張計画延期などが相次いでいるが、公的資金を呼び水に西側民間資金の流入を誘い復調を目ざそうという流れにストップをかけるからである。

 国際商品全般は世界的な需給不足と資金不足下に低迷を続けている。この一年、南アの主要産品である金の減産傾向、干ばつによる南ア産トウモロコシ、砂糖の供給力低下も、下支え材料として働いている程度だ。国際商品市況低迷は南アの復帰のインパクトを薄めている。

 南ア制裁のシンボル格だった南ア法定金貨クルーガーランド金貨は西側の輸入禁止措置により、国際流通市場では金地金価格への三%プレミアム(上乗せ価格)が消え、ほぼ金地金並みで取り引きされてきた。南ア鉱山会議所は既にクルーガーランドの再発行、再流通方針を決めているが、・世界の投資家の手中に約千三百トンが退蔵されており、南アサイドが地金へのプレミアム付きで買い戻すのかどうか・新たにデザイン、品位を変える場合、旧発行分をどう扱うかーーなど再デビューには難関も控えている。

当面、プラチナ価格低迷が増産にひび

ジョンソン・マッケイ社 J・S・クームズ企画部長

 西側の対南ア経済制裁解除は中長期的には南ア鉱山にとってプラスだが、当面はプラチナ価格の低迷と資金不足が増産計画にひびを入れ始めている。既に一部後発鉱山は資金不足のため拡張計画を棚上げしたほか、身売り話も飛び出している。先発鉱山にとっても副産物のロジウム価格の頭打ち、プラチナ価格自体の一トロイオンス四〇〇ドル以下の低迷を踏まえ、増産計画の練り直しの動きがある。

 南アのインフレ率は十五%前後、従来インフレ率以上の賃上げに応じてきたプラチナ鉱山経営者に賃上げ余力がなくなっており、労働争議が生じやすい環境になっている。インパラ鉱山での先のストは決して特別なケースではない。

 プラチナの低迷にはスイスの機関投資家による米国先物市場でのショート(値下がり差益追求のカラ売り)が重しとなっているが、需要そのものは日本の宝飾用のプラス成長のほか、底堅いものがある。四〇〇ドルを固め、年内四五〇ドルをめざすという我々のかねての予想は需給面から変える必要はない。



 
 
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1991.7.12

南アへ投融資調査団 金融機関ミッション 制裁解除をにらむ

日本経済新聞

 大蔵省OBを代表とする日本の金融機関の役員クラス約四十人が南アフリカ共和国を訪問、アパルトヘイト(人種隔離)体制の変化を受けた投融資の再開について調査を開始した。南アへは四月に経団連が使節団を派遣したが、金融機関が主体の調査ミッションは今回が初めて。欧米の対南ア制裁が解除される中、今回の調査は日本の投融資規制の撤廃をにらんだ布石といえる。

 一行は平沢貞昭元大蔵事務次官を団長に、銀行、生保、損保、証券系シンクタンクなどの役員クラスが参加している。山口光秀日本輸出入銀行総裁も顧問として同行している。

 七日に現地入りし、十三日まで滞在の予定。最大の黒人居住区ソウェトの訪問のほか、黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANC)や大蔵省、南ア準備銀行(中央銀行)の関係者と会談した。

 南アに対しては人種差別に抗議して各国が制裁措置を実施、日本も国際社会に歩調を合わせ投融資などを規制していた。しかしデクラーク南ア大統領が民主化を推進、人種隔離政策の廃止を宣言したのに伴い、欧州共同体(EC)に続いて米国も制裁緩和を発表した。日本でも今月末をめどに制裁解除が確実視されている。

 ただ、米国は南アの国際通貨基金(IMF)加盟阻止の方針を堅持するなど、金融制裁の一部はまだ残している。



 
 
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1991.7.14

一ヵ月以内に代表団派遣 南ア復帰問題でITF

日本経済新聞

ハンブルク(ドイツ)12日 ロイター=共同

国際テニス連盟(ITF)は十二日、当地で開いた総会で、アパルトヘイト(人種隔離)政策をとるため追放された南アフリカ共和国の復帰問題について協議、ITF代表団を一ヵ月以内に南アに派遣し、復帰条件であるテニス組織の統一を助けることを決めた。

 ITFは五月の総務委員会で、復帰を認める条件として・現在三つある組織の統一・国際オリンピック委員会(IOC)による南アの復権ーを提示。・については既に満たされたため、組織の統一が待たれる形となっている。また南アがこの条件を満たしたかどうかの判断を下す権限は今後、理事会にゆだねることも承認、復帰への環境づくりはさらに一歩進められた。



 
 
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1991.7.18

外務政務次官、南アへ 政治犯釈放迫る 22年ぶり高官交流

日本経済新聞

 アフリカ諸国を訪問中の鈴木外務政務次官が急きょ、南アフリカ共和国を訪れることになった。日本時間の十八日夜にザンビアを出発、十九日未明に南アのヨハネスブルクに到着する。政府は南アの人種隔離(アパルトヘイト)政策に対する制裁として、実質的に高官の訪問を抑制してきた。しかし鈴木政務次官を会談したアフリカ諸国首脳がデクラーク政権の改革政策を評価し対南ア関係の再検討に入っていることから、人種に基づかない民主的政治体制を作るための憲法制定作業や政治犯釈放などを南ア側に促すため訪問を決めた。

 鈴木政務次官は十九日にベッセルズ外務次官と会談するほか、アフリカ民族会議(ANC)指導者との意見交換も予定している。帰国は二十一日となる。次官クラスの南ア訪問は一九六九年の田中六助外務政務次官(当時)以来二十二年ぶり。



 
 
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1991.7.20

黒人保守派に資金 南ア警察

日本経済新聞

ロンドン19日=影井記者

南アフリカ共和国のフロック法・秩序相は十九日、南ア警察当局が一九八九、九〇年に保守派黒人勢力の「インカタ自由党」に資金援助していたことを認めた。同相は政治的な意図を否定しているが、インカタはアフリカ民族会議(ANC)と武力抗争を繰り広げている組織のため、ANC弱体化をねらったものだとANC側は政府批判を強めている。

 関係筋によると、警察当局はインカタが八九年十一月と九〇年三月に開いた反暴力、反経済制裁を訴える集会の資金として二十五万ランド(約一千二百万円)を供与した。

外交関係を求める

南ア副外相

 外務省に二十日、入った連絡によると、南アフリカ共和国を訪問中の鈴木外務政務次官は十九日に同国のベッセルズ副外相と会談し、政治犯釈放などで一層の民主化への努力を要請した。これに対し副外相はアフリカ民族会議(ANC)との準備が整い次第、民主的な新憲法制定の交渉に入る方針を表明。日本には・貿易・投資規制の見直し・外交関係の樹立・デクラーク大統領の訪日・航空路線の開設ーーなどを求めた。鈴木政務次官は民主化の進展を見ながら検討することを約束した。



 
 
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1991.7.21

(サンデートピックス) 南ア共和国 金貨王国、復活の道険し クルーガーランド 「制裁」でシェア急減

日本経済新聞

 南アフリカ共和国がクルーガーランド金貨の輸出再開に向けて動き出した。六月のアパルトヘイト(人種隔離)政策の終結宣言を受け、米国、日本など各国が金貨の輸入禁止を含む南ア経済制裁を解除し始めた。世界の地金型金貨市場を切り開いたクルーガーランド金貨だが、制裁期間中にカナダやオーストラリアに主役の座を奪われた。市場に本格的に返り咲くまでの道のりは平坦ではない。

 六月末から七月初めにかけて、南ア鉱山会議所の委託を受けた調査員が、日本の商社や貴金属商を訪れた。「日本がクルーガーランド金貨の輸入を中止した八五年以降、金貨市場はどう変わったのか」「輸出を再開する場合の販売政策への助言を求めたい」ーー。日本の関係者は南アが市場復帰に並々ならぬ意欲をみせていると受け取った。

 日本政府は七月中にも経済制裁の全面解除に踏み切る方針。ところが市場関係者の間には「クルーガーランド金貨が日本に再登場するまでには時間がかかる」との見方が多い。八一年には日本の金貨輸入量の九六%を占めたクルーガーランド金貨だが、「五年間のブランクはあまりに大きい」というのだ。

 最大の問題点は金貨の品位。クルーガーランド金貨は流通性や換金性を重視したため、銅や銀を混ぜて傷や磨耗に強くした二二金(純度九一・一%)。カナダのメイプルリーフやオーストラリアのカンガルー金貨は二四金(純金、純度九九・九九%)を売り物にシェアを伸ばした。

 同じ一トロイオンス金貨なら含まれる金の量はともに約三十一・一グラムだが、二四金が金独特の山吹色なのに、二二金はやや赤みがかっている。二二金の方が金の含有量が少ないと誤解している消費者が多いこともあって、「最近五年間で日本は二四金金貨が圧倒的に優位な市場に変わった」(渡辺衞ゴールド・マーケティング・ジャパン社長)。

 品位を二四金に上げ、デザインや名称を変えればこの問題は解決するが、それでは、かつて発行した二二金の魅力は低下し、地金と同じ価値しかなくなってしまう。「プレミアムを払って買った消費者や流通業者に決定的な不信感が生まれる」(大村和秀・住友商事貴金属宝飾品部宝飾品チームリーダー)。

 同じ重量の新貨と旧貨を一対一で交換に応じるという解決策を唱える関係者もいる。しかし、南アが七○年以降に世界に輸出した金貨の総量は千三百トン以上に達し、同国の年間産金量の二倍を超える。「交換希望者が殺到したらとても応じきれず、非現実的」(殿木誠田中貴金属工業地金部副部長)という。

 五年間で販売網も弱体化している。南ア鉱山会議所の下で金貨の販売・宣伝を担当していたインターゴールド社は八七年、世界全体の金の調査・公報活動に携わるワールド・ゴールド・カウンシル(本部スイス・ジュネーブ)に統合された。インターゴールド社の社長だったドン・マッコイコギル氏が現在はライバルのオーストラリアの金貨販売に携わるなど、国際市場に通じた人材の流出も深刻だ。

 「南アが潤沢な資金を投入して宣伝すれば、金貨市場に消費者を呼び戻すことができる」(カナダ王室造幣局駐日事務所)との期待を込めた指摘もある。

 とはいえ、品位の問題ひとつとっても「シェア優先か消費者の信頼維持か、一方を取るしかない」(豊島逸夫ワールド・ゴールド・カウンシル極東地区投資事業本部長)のが実情。金貨王国を再興するには課題が山積みしており、「日本市場再登場には一〜二年かかる」(風間信一・三菱商事貴金属・メタル市場部長)ことになりそうだ。



 
 
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1991.7.25

世界陸上への南ア招待を承認 国際陸連の評議員会

日本経済新聞

シェフィールド(英国)23日共同

国際陸連(IAAF)は二十三日、IAAF評議員会が二十二日に南アフリカを臨時加盟メンバーとし、世界選手権(八月二十三日開会式・東京)に三十人の選手団を招待することを承認した、と発表した。



 
 
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1991.7.25

南ア・ハンガリー、外交樹立

日本経済新聞

ロンドン24日=影井記者

南アフリカ共和国とハンガリーは二十四日、従来の領事関係を大使級関係に格上げし、外交関係を樹立することで合意した。南アのボタ外相は、「中欧と南ア双方の変化のあらわれだ」との声明を発表した。



 
 
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1991.7.25

南ア産レモン、5年ぶり輸入 来月に日本到着

日本経済新聞

 南アフリカ共和国に対する経済制裁解除の動きを受けて、八六年以降、五年間途絶えていた同国産レモンの輸入再開第一船が八月に日本に到着する。十月にはオレンジも上陸する。

 今回のレモン、オレンジなど南ア産かんきつ類の輸入はゴールドリーフ・ジャパン(本社東京)が窓口。レモンの第一船は八月十五日に大阪に到着、続いて十七日に東京に入港する。合計輸入量は六百八十トン。十月五日にはネーブルオレンジ千四百トンが大阪、東京に入着する。

 青果物は対南ア経済制裁の対象品目ではないが、政情混乱による治安の乱れを理由に、日本政府が植物検疫官の派遣を拒んだため、実質的に輸入制限の状態にあった。



 
 
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1991.7.27

W杯サッカー2006年は南アで FIFA副会長意向

日本経済新聞

ロイター=共同

 アフリカ・サッカー連盟(CAF)のイサ・ハヤトウ会長はこのほど、南アフリカは2006年のワールドカップ(W杯)決勝大会の有力な開催候補国と語った。

 国際サッカー連盟(FIFA)副会長でもある同会長はFIFA復帰への南ア・サッカー界の調査などのために南アを訪れたもので、南アの施設、サッカーのレベル、国内におけるサッカーの一般的状況などを見た上で開催候補とした。南ア通信が伝えた同会長発言によればFIFAは2006年W杯のアフリカ開催を進める方向。



 
 
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1991.7.27

南ア政権苦境に 秘密資金供与問題 制裁解除に影響

日本経済新聞

ロンドン26日=影井記者

 南アフリカ共和国のデクラーク政権が国内の保守派黒人勢力や隣国ナミビアの反政府勢力に秘密資金を供与していたことが相次いで明るみに出て、同国最大級の政治スキャンダルに発展してきた。政府側は資金供与の正当性を主張しているが、アフリカ民族会議(ANC)などの対抗勢力は激しく政府を攻撃している。世界各国がしばらく対南ア制裁解除を見合わせるといった動きが生じる可能性も出てきた。

 デクラーク大統領は三十日に政府の対応策を発表するが、これまでは疑惑を完全否定し続けていただけに、信用失墜は避けられない。

 六月末にアパルトヘイト(人種隔離)政策が全廃されたのを受け、欧米各国は対南ア経済制裁を相次いで解除、日本政府も近く追随する。しかし「インタゲート事件」と地元紙に名づけられた今回のスキャンダルを機に、解除見直しの機運が盛り上がるとの見方も出ている。



 
 
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1991.7.28

世界陸上 南ア不参加決定

日本経済新聞

プレトリア(南アフリカ)27日共同

 南ア陸上競技連盟(SAAAA)は二十七日、当地での会合で、国際陸連(IAAF)から招待を受けている世界陸上選手権(八月二十三日開会式・東京)の参加問題を協議し、IAAFの招待を拒否することで一致した。

 アパルトヘイト(人種隔離)政策を理由に国際スポーツ界の"孤児"となっていた南アだが、今年六月のアパルトヘイト関連立法撤廃を転機に国際オリンピック委員会(IOC)をはじめ、各種スポーツ団体での復権が進み、陸上での世界選手権は南アの国際スポーツ舞台"初復帰"の場になるとの見方が強まっていた。

 しかし、この日の邂逅では、「国内の選考会を開いていない状況で、南ア代表としての選手は派遣できない」とする意見が大勢を占め、最終的に投票の結果、9対5でIAAFの招待を拒否することでまとまった。



 
 
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1991.7.31

南ア、2閣僚解任

日本経済新聞

ロンドン30日=影井記者

南アフリカのデクラーク大統領は三十日、アフリカ民族会議(ANC)から解任要求が出ていた二閣僚の解任と、初の非白人の次官登用を含む内閣改造を発表した。黒人保守派「インカタ自由党」への秘密資金供与問題で混乱の度を増している政局を乗りきるため、政府外の最大勢力であるANCの要求を入れ、事態の正常化の協力をあおぐねらいだ。解任されたのは、フロック法・秩序相とマラン国防相。



 
 
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1991.8.1

SOUTH AFRICA'S ANC CHOSES ITS NEW LEADERS (on Cyril)

New Africa

ANC's TOP MEN President Nelson Mandela
National Chairman Oliver Tambo
Deputy President Walter Sisulu
Secretary General Cyril Ramaphosa
Deputy Sec Gen Jacob Zuma
Treasurer Thomas Nkobi

AT FIRST glance there were few dramatic changes at the African National Congress at its first conference held on home soil for 33 years. It took place at Durban at the beginning of July. Despite the talk of a need for a new, younger generation to take over, and despite the adoption of a new democratic, secret voting system, much of the old leadership is still in place.

Nelson Mandela has eased out his ailing friend Oliver Tambo (who has been wheeled upstairs to a new post of Chairman), Mandela has achieved the title that many assumed wrongly was already his. He moves up from Deputy President to become President, the confirmed supreme leader. Attempts by the militants to bind Mandela as a mandated representative and to restrict his future private negotiations with de Klerk failed.

In order to prevent a dog-fight for the deputy presidency between two aspiring successors Thabo Mbeki (darling of the moderates) and Chris Hani (hero of the militants) the ageing, 78-year-old Walter Sisulu has assumed the post where he can support his old colleague as leader. Both Mbeki and Hani voluntarily pulled out of the running for the deputy presidency.

The ANC elections this time were more democratic then ever before. Unlike the last election when Oliver Tambo drew up a President slate and secured the return of most of his buddies in the old guard, the new elections reflected the wind of democratic change that has been sweeping Africa.

Really democratic

It was an excellent advertisement for the democratic process. There were 2.000 delegates. 300 people were nominated by the branches and 140 names were listed on the ballot paper for the national executive. Unlike last time there was no presidential slate. Final choices depended on lobbying and arm twisting on the spot. An independent, outside mediating service was hired to make sure the ballots were secret and properly counted.

But in the upshot most of the old guard were swept from power. Most members of the former National Executive Committee were dropped and this was on the votes of the membership not the leadership. The NEC was increased in size from 35 to 50.

Perhaps most significant was the election of Cyril Ramaphosa, the mineworker's leader, to the number three spot as Secretary General. His triumph was overwhelming. He defeated the intelligence chief Jacob Zuma by 1.156 votes to 450, with the former secretary general Alfred Nzo trailing in third place.

Ramaphosa (39), the General Secretary of the National Union of Mineworkers symbolises a new generation. He as not spent decades in exile, or in detention ( only 11 months) but has risen to the top by representing South Africans most important union, throughout the turbulent 1980s when the unions had to take the vanguard in the political struggle. In 1984 he organised the first ever legal strike of black mineworkers in South Africa.

Critics disparagingly point to the fact that Ramaphosa is a member of the Communist Party as well as the ANC, like Chris Hani and Harry Gwala. Gwala , who had said that Stalin had killed fewer people than had died under apartheid, was rejected from high office. But the Communist connection is becoming increasingly meaningless in modern South Africa. Commitment to African nationalism is far more important than to a discredited foreign ideology.

In the election to the NEC the popularity of various candidates was clearly reflected. Chris Hani, the communist, came top of the poll with 94.7% of the votes cast. Thabo Mbeki the pragmatist second with 93%. Jo Slovo the white CP leader came third with 1,761 votes (89.8%). In fourth place was Patrick "Terror" Lekota who is seen as the rising star of a younger generation.

18 `non-black` seats

In all 18 seats out of the 50 on the NEC, went to "non-blacks", with eight Indians, seven whites and three coloureds. One of the whites was Albie Sachs who waged to delegates with the stump of his arm which had been blown off in a bomb explosion in Mozambique by South African government agents.

Winnie Mandela got less votes than three other women being placed only 26th but she got more votes than Gertrude Shope (also elected to the NEC) who had beaten her for elections to the Women's League earlier in the year. But overall only nine women got seats not the 30% that they had demanded before the conference.

Alan Rake

1991.8.1

南アフリカ、ANC 新しい指導部を選出す(on Cyril)

ニューアフリカ

総裁 ネルソン・マンデラ
名誉議長 オリバー・タンボ
副総裁 ウォルター・シスル
事務局長 シリル・ラマポーザ
事務局次長 ジェイコブ・ズマ
財務担当 トーマス・ンコビ

一見すると、33年目にして初めて故国の地で開かれたアフリカ民族会議の大会で、ほとんどドラマチックな変化はなかった。大会は、7月の初め、ダーバンで開かれた。新しい若い世代の登場の必要性が語られたにもかかわらず、また新しく民主的な秘密投票方式が採用されたにもかかわらず、古い指導部の多くが地位を保ている。

 ネルソン・マンデラは病気静養中の友人オリバー・タンボを引退させた(彼は新しく設けられた議長職につけられた)、そしてマンデラは多くの人々がすでに彼のものと誤解していた地位についた。彼は副議長から議長になり、文字通り最高指導者になったのである。武闘派たちのマンデラを代理代表の位置に押し込め、彼がこれ以上デクラークと密かに交渉を続けることを封じ込めようとした試みは失敗した。

 二人の熱心な後継者であるターボ・ムベキ(穏健派が支持する)とチリ・ハニ(武闘派の英雄)の間の副議長をめぐる激闘を防ぐために、高齢の78歳になるウォルター・シスルが古くからの同僚を指導者として支えることのできる地位についた。ムベキもハニも副議長をめぐる争いから自発的に引いた。

 今回のANCの選挙はこれまでになかったくらい民主的であった。オリバー・タンボが議長指名で彼の取り巻きたちを以前の地位に付けた前回の選挙とは違って、新しい選挙はアフリカに吹き続けている民主的改革の風を反映したものだった。

真に民主的な

 それは民主的プロセスの優れた広告であった。2000人の代議員がいた。300人が各支部によって指名され140の名前が全国執行委の選出用紙に載せられた。前回とは違い、議長指名はなかった。最終決定はロビーイングとその場での乱闘に委ねられた。独立の第三者機関が選挙の秘密と公正さを守るために雇われた。

 しかし結果として古くからの指導者たちの多くは権力の座から掃き出された。前の全国執行委員会の多くのメンバーが落選した、そしてこれは参加者の投票によるもので指導者の判断によるものではなかった。全国執行委は35人から50人へと増員された。

 多分最も重要なのは鉱山労働者の指導者であるシリル・ラマポーザが事務局長としてナンバースリーに選出されたことだろう。彼の勝利は圧倒的だった。彼は情報局長のジェイコブ・ズマを1156対450で破った。前任事務局長のアルフレッド・ンゾは三番手についた。

 全国鉱山労働者組合の事務局長であるラマポーザ(39)は新しい世代のシンボルと言える。彼は亡命や獄中(11ヵ月を過ごした)で何十年をも過ごしていない、彼は、労働組合が政治闘争の最前線に立たざるをえなかった厳しい80年代を通して、南アフリカの最も重要な労働組合を代表することでトップに登ってきた。1984年、彼は南アフリカで初めての黒人鉱山労働者による合法的なストライキを組織した。

 評論家たちは、ラマポーザが、クリス・ハニやハリー・グワラのように、ANCだけではなく共産党のメンバーであることを不審をいだく要素して指摘している。アパルトヘイトの下で死んだ人々の数に比べればスターリンはたいして人を殺してないと言っているグワラは、幹部の地位から追われた。しかし、共産党とのつながりは今日の南アフリカではますます意味の無いものとなりつつある。アフリカ民族主義への関わりが信頼を失った外国のイデオロギーとの関わり以上に重要なのだ。

 全国執行委の選挙には、さまざまな候補者の人気が明確に反映した。共産主義者のクリス・ハニが、投票数の94.7%でトップ当選した。現実主義者のサーボ・ムベキが93%で続いた。共産党の白人党首であるジョー・スロボは1761票(89.8%)を得て三番手になった。そして四番手は、若い世代の登りつつあるスターと見られているパトリック・テラー・レカタである。

18の非黒人議席

 全国執行委の50のうち18の議席は、8人のインド人、7人の白人そして3人のカラードからなる非黒人議席に割り当てられた。白人の一人は、モザンビークで南アフリカ共和国政府の手先の爆弾で吹き飛ばされた腕のあとをかざしながら指名に応えたアルビー・ザッハである。

 ウィニー・マンデラは他の3人の女性より得票が少なく26番目にしかなれなかったが、今年の初めに女性同盟の選挙では彼女に勝った、同時に全国執行委に選出されたガートルード・ショウプよりは得票が多かった。しかし結局、大会の前に女性たちが要求していた30%ではなくわずか9人の女性が議席についただけだった。



 
 
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1991.8.7

アフリカ援助、日本に期待 世銀副総裁会見 周辺国への「南ア効果」も

日本経済新聞

ワシントン6日=松井記者

 世界銀行のジェイコックス副総裁(アフリカ地区担当)は日本経済新聞記者と会見し、ことし十月に東京でアフリカ援助のための特別援助プログラム(SPA)の国際会議を開くことを明らかにした。また南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)政策の見直しにより、「南アが再び海外からの投資と関心を集めるようになれば、その他の南部アフリカ諸国にも非常に大きな影響を及ぼすだろう」と述べ、周辺国への「南ア効果」に強い期待を示した。

 同副総裁は現在アフリカでは三十近い国々が国営企業の民営化をはじめとする国内経済の構造調整に熱心に取り組んでいると発言。さらに「いまではアフリカ諸国の半数を超える国が人口増加率を上回る人口増加率を達成した」と効果を強調した。

 日本のアフリカ諸国への援助について「この六、七年の間に金融支援は二倍以上に拡大した」と述べるとともに、一件当たりの援助金額は大きなものではないが、重要な事業に分散して配分することで援助の効果を上げていると評価した。

 さらにジェイコックス氏は「南アのアパルトヘイト見直しによって南アを窓口に外国投資が他のアフリカ諸国にも戻ってくることが期待できる」との見通しを示した。



 
 
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1991.8.10

南アで衝突 40人が死傷

日本経済新聞

ロンドン9日=影井記者

南アフリカ共和国からの報道によると、ヨハネスブルク郊外のベンテルスドーブで九日、アパルトヘイト(人種隔離)政策の復活を訴える極右団体AWBが警官隊と衝突し、AWB会員三人とAWBの攻撃を受けた黒人一人の計四人が死亡、三十六人が重軽傷を負った。



 
 
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1991.8.14

OES 南アから開発輸入 高級皮革製品、10月から

日本経済新聞

 ユニークな商品の開発と輸入・販売を手掛けるオー・イー・エス インターナショナル(略称OES、本社東京、社長熊崎道夫氏)は、南アフリカ共和国の皮革加工メーカーであるイヴァサン社(本社ヨハネスブルク)と業務提携し、オーストリッチ、クロコダイルなどの高級皮革製品を十月から開発輸入する。OESが商品企画とデザインを日本から持ち込み、イヴァサン社が製造する。

 開発輸入するのはオーストリッチ、クロコダイル、水牛、シカの四種類の皮革製品。ショルダーバッグ、セカンドバッグ、ポーチのカバン類やサイフ、ベルトなどを輸入する。統一ブランドをつけて、今秋は十品目を輸入する計画。価格はクロコダイルのショルダーバッグが五十ー六十万円、オーストリッチが同四十ー五十万円になる見通し。

 百貨店、専門店の店舗ルートと通信販売を組み合わせて初年度五千万ー一億円の売上を目指す。

 南アは比較的安く皮革が調達でき、同品質の製品なら従来品よりも一ー二割安く生産できるという。米国の経済制裁解除とそれに続く日本政府の制裁解除をにらみ、南ア企業は日本との経済交流に力を入れており、イヴァンサン社も対日輸出を狙っていた。



 
 
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1991.8.14

南ア経済制裁、月内解除 政府方針 EC最終決定待たずに

日本経済新聞

 政府は懸案となっている南アフリカ共和国への経済制裁解除を八月中に実施する方針だ。当初は先進国首脳会議(ロンドン・サミット)直後の七月末を予定していたが、欧州共同体(EC)の正式決定が遅れていることなどから、ずれ込んだ。国内にはなお慎重いけんもあるものの「これ以上、遅らせると日本だけ出遅れる可能性が大きい」(外務省幹部)と判断、ECの最終決定を待たずに解除に踏み切ることにした。

 今回解除するのは・投融資規制・クルーガーランド金貨などの南ア産金貨の購入自粛・銑鉄・鋼材の輸入禁止・航空機の相互乗り入れ禁止 ーー の四点。軍隊、警察へのコンピューターなどの輸出禁止措置は継続する。

 政府は南アが人種隔離(アパルトヘイト)政策の根幹となっていた人種登録法などを撤廃したことを評価。六月に人的交流を解禁し、次いで米国が七月に経済制裁解除決定したことを受け、サミット後に経済制裁を解除する方向で準備していた。

 その後、EC諸国のうちデンマークが野党の反対で国内手続きに手間取り、EC規則の改正が難航していることや、南アのデクラーク政権が国内の保守派黒人勢力や隣国ナミビアの反政府勢力に秘密資金を供与していた事実が明るみに出たこともあって、実施を見合わせていた。

 しかし、・サミットの政治宣言でも「南アにおける前向きな進展を歓迎する」と明記された・EC諸国でも解除に踏み切っている国がある・経済界からも解除を求める声が出ている ーー などの理由から、月内の解除が適当との判断を固めた。



 
 
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1991.8.16

南ア・ファンド上場 英大手証券 来月、世界で初めて

日本経済新聞

ロンドン15日=後藤記者

英国の大手証券会社スミス・ニューコートは、南アフリカ共和国を対象としたカントリーファンドを来月、世界で初めてロンドン証券取引所に上場する。南アのデクラーク政権がアパルトヘイト(人種隔離)関連法案を相次ぎ廃止したことを受け、日本、米国、欧州が対南ア経済制裁の解除に動いていることから、南アに大きな投資機会が生まれると判断した。

 ファンドは「ジ・オールド・ミューチュアル・サウス・アフリカ・ファンド」と名付けられ「会社型投資信託」の形で運営する。スミス・ニューコートが引き受け、募集にあたり、南ア最大の保険会社、南ア・ミューチュアル生命保険が運用する。運用対象はヨハネスブルク証券取引所に上場された鉱業、製造業、金融の優良株で、中小株も幅広く取り入れていく。一株十ドルで売り出し、五百万株以上の発行を目指す。

 ヨハネスブルク証取には、ダイヤモンドのデ・ビアス、金、石炭採掘のアングロ・アメリカなど世界的な優良企業を含む七百七十社が上場されており、時価総額は約千三百億ドル(十七兆八千億円)にのぼる。しかし、日米欧が厳しい投融資制限を敷いてきとことから「潜在成長力と比較して株価が低位にとどまっている」との見方が強い。



 
 
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1991.8.16

南ア2黒人組織闘争終結へ

日本経済新聞

ヨハネスブルク15日共同

対立抗争を続けていたアフリカ民族会議(ANC)とズールー族主体のインカタ自由党に南ア政府を加えた三者は15日、抗争終結に向けた五項目の和平協定案に合意したと発表した。和平協定調印は、1984年以降続いてきた両黒人組織の抗争に終止符を打つと同時に、制憲交渉開始の最大の障害を取り除くことを意味する。



 
 
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1991.8.17

ANCが歓迎表明

日本経済新聞

ロンドン16日=影井記者

南アフリカ政府と国連が南アからの亡命者に恩赦を与えることで合意したことについて、同国最大の黒人勢力アフリカ民族会議(ANC、ネルソン・マンデラ議長)は十六日、政府の措置を歓迎すると表明した。



 
 
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1991.8.17

亡命者に恩赦 南ア、国連と合意

日本経済新聞

ジュネーブ16日=高橋記者

南アフリカ政府は十六日、南アからの亡命者に恩赦を与えることで国連と合意した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がジュネーブで明らかにした。

 恩赦問題はネルソン・マンデラ氏の率いるアフリカ民族会議(ANC)が南ア政府と憲法制定交渉に入る前に実施するよう要求していた。

 UNHCRによると、ジュネーブ駐在のマンリー南ア大使との間で恩赦に関する合意が十六日午前(現地時間)成立し、同日午後(同)に公式の合意文書を作成した。数日以内に調印の見通し。



 
 
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1991.8.17

対アフリカ投資拡大 欧州石油資本、対南ア再開

日本経済新聞

ロンドン16日=高橋記者

 欧州石油資本が対アフリカ投資の拡大に動き出す。英ブリティシュ・ペトロリアム(BP)と英蘭系のロイヤル・ダッチ・シェルは経済制裁の解除が進む南アフリカ共和国への投資再開を決めた。四億五千万ランド(一ランドは〇・三四ドル)を共同投資し、南アの石油精製事業を拡大する。仏トタール石油は米エクソンのアフリカ統括会社の石油小売り部門を買収した。各社とも拠点国を軸にアフリカ経済が徐々に活性化すると予測、日米に先行する形で投資を始める。

 南アはアパルトヘイト(人種隔離)政策の終結以降、先進主要国が相次いで経済制裁の解除を決めているが、産業資本による投資再開の動きは予想したより鈍い。BP、シェルの投資が本格再開の事実上の第一号となる。

 両社はインド洋に面する産業港湾都市ダーバンの石油精製基地を大幅に拡充する。先進国との貿易再開で船舶用燃料の需要が急増していることに加え、南ア政府が計画中の自動車の排ガス規制に向けて品質の高いガソリンが重要視されているためだ。南アだけでなく周辺国への進出も考えている。

 トタールが買収したのはセネガルやコートジボワールなどを統括しているエクソンのアフリカ事業。コートジボワールなどはもともと仏と政治的な関係が深いが、ここにきて産業資本同士の交流も活発化する気配をみせている。エクソンも手間のかかる小売り部門は仏資本にゆだねる方が経営の効率を上げられる、と判断したようだ。



 
 
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若者が学校闘争で殺される 南アフリカ Youth killed in S African schools protest

1991/8/21

Fin.Times

 南アフリカ警察が、黒人の生徒たちが黒人教育の水準に抗議して学校の建物を占拠しようと試みたのに対し発砲し、一人を殺し五人を負傷させた。

 月曜日の衝突は、数千人の黒人生徒たちが三つの現在使われていない白人学校を占拠し、アパルトヘイト教育に対するデモンストレーションを行なおうとしているところで起きた。学校のうちの一つはすでに5年間使われていない、しかし、プレトリア政府は黒人学校が手のつけられない位に生徒であふれているにもかかわらず、黒人学校へ転用することを拒んできた。

 ANCともつながりを持つ民族教育調整委員会のアモン・ムサメ氏は、この占拠闘争は全国で200もの白人学校が生徒の減少のために使われていないことを明らかにし、それらの学校がすべての人種に開かれべきであることを訴えるために、計画されたと語る。

 警察は、発砲はスタンデルトンに新しく黒人のために建設されたサキレ高校の校舎をを警備してる警官が黒人たちが校舎を占拠しようとしたのにぶつかって起きたと、言った。



 
 
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1991.8.24

国際資本市場復帰へ 南ア、近く2億マルクを起債

日本経済新聞

チューリヒ23日=太田記者

国際金融筋が明らかにしたところによると、南アフリカ共和国は近く、八五年以来中断していた国際資本市場での公募債起債による資金調達を再開する。主要先進国が南アのアパルトヘイト(人種隔離)政策終結を評価し対南ア経済制裁を解除したためだ。政府の起債に続いて南ア企業も起債を再開する見通し。国内の産業基盤整備など資金需要が強いため、南ア政府、企業は国際資本市場の有力な起債者になる見通しだ。

 起債はマルク建てで、二億マルク程度。ドイツ銀行が主幹事になる模様で、チューリヒなどで説明会を始めた。ドイツ、スイスは南アとの取引が多く、投資家が南アの債券を購入していた経緯があるため、今回も両国での販売に力を入れる。南アは旧黒人居住区の下水、住宅整備や長期債務の返済など資金需要が大きい。その資金調達手段として債券発行を位置付けており、今後も継続的に起債があると見られる。また、主幹事をめぐりドイツ、スイスの銀行による主幹事獲得競争も激化しそうだ。



 
 
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1991.8.26

ズームイン 日本の国連安保理復帰 南ア問題が踏み絵に

日本経済新聞

 企業の進路を決めるのが取締役会だとすれば、国連の進路を決めるのは十五カ国で構成される安全保障理事会。今秋の国連総会では、改選となるこの国際社会の役員ポストにアジア諸国の後押しで日本が立候補する。総会で三分の二以上の支持を得れば、三年ぶりに同ポストへ復帰できる。ところがここにきて、復帰シナリオに不安が生じてきた。経済界が念願する南アフリカへの制裁解除問題が台風の目だ。「国連中心外交」を目指す日本にとって、ビジネスの論理とのバランスは、難しい問題となっている。

経済界は制裁解除望むが・・・アフリカ諸国の支持失う恐れも

 国連代表部の瀬崎克己次席大使はここのところ大忙しだ。ザイール、ジンバブエなどアフリカの十一ヵ国を駆け足で回ってきたばかりだというのに、今度はケニア、モザンビークなど十五カ国の国連大使と日本への招待の打ち合わせに追われている。

 この招待は表向きは「九三年五月に日本で開催するアフリカ開発会議などについて意見交換するのが狙い」だが、京都観光をセットするなど「日本ファンづくり」に最大の狙いを置いていることは明白だ。

 この至れり尽くせりの対応はもちろんウラがある。九月中旬に始まる国連総会での安保理非常任理事国選では、投票用紙にアジア地域の代表国として日本の名を書いてもらわなくてはならない。すでにアジア・グループ(四十五カ国)の統一候補に決まり、票固めのターゲットはラテン・アメリカ(三十三カ国)とともにアフリカ(五十三カ国)に移っている。国連加盟百六十三カ国の三分の二を得るには、どうしてもアフリカ勢の支持は落とせないところだ。

 「三十五票の悪夢だけはもう見たくない」 外務省関係者が振り返るのは、八六年十月の出来事だ。この年の国連総会での安保理選に立候補していた日本の国連代表部員は、開票状況を聞いて真っ青になった。「インド」「インド」「インド」 。支持を取り付けたはずのアフリカ諸国のうち三十五カ国が、立候補もしていないインドの名を投票用紙に記入したのだ。

 このときはラテン・アメリカ諸国の支持で必要得票数を二票だけ上回り、七八年十一月の敗北事件の再来は避けることができた。しかしそれにしても、薄氷を踏む勝利だった。三十五カ国もの大量造反劇は、国連総会の直前、しかもジンバブエで非同盟諸国首脳会議を開催している最中に日本政府が南アのボタ外相を招待したのがきっかけだった。

 「今回も同じことが起きるかもしれない」というのが外務省・国連代表部の心配だ。というのは、米国が南アに対する制裁解除を決定、欧州共同体(EC)の大半の国が同調姿勢を示すなかで、日本でも経済界中心に南ア制裁解除を求める声が高まっているからだ。

 経済界は「これ以上出遅れると、日本企業は南ア向けビジネスに永久に参入できない「と政府に制裁の解除を訴える。「国家安全保障という観点から南アと関係を深めて希少金属を確保することも重要」との見方もある。

 外務省・国連代表部がこのことに神経を使っているのは、日本の国連外交が「アフリカとラテン・アメリカ諸国の支持に支えられたもの」(国連筋)であるからだ。米国や英仏など安保理の常任国になっている各国にとっては、今さら総会での一票に拘泥する理由は薄い。第二次世界大戦の敗戦国で安保理入りを目指す立場の日本にとっては、総会での一票の意味が果てしなく重い。

 特に「浮動票」的な要素が強いアフリカを味方に引き込むことは、国連での日本の政治的な立場を強くする。逆にいえば、「アフリカの支持がなければ、国連憲章を改正して安保理常任理事国になったり、旧敵国条項を外したりすることは永久に無理」(国連代表部)。それだけに今後、ビジネスの論理と国際政治の論理がぶつかることも考えられる。



 
 
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1991.8.30

対南ア経済制裁解除 「暫定政府樹立時に」 ムベキANC国際局長と会見

朝日新聞

 来日中の南アフリカ共和国の黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANC)のムベキ国際局長は29日、東京都内のホテルで朝日新聞のインタビューに答え、国際的な対南ア経済制裁の解除時期は、白人政権や黒人解放勢力による暫定政府が樹立された段階が望ましい、との考えを表明した。ANCは7月の全国大会で、制裁解除に三段階の条件を決めたが、第三段階の「新民主憲法採択と一人一票制の総選挙実施」にこだわらず、解除時期を第二段階に前倒してもよい、との姿勢に転じたものだ。

 ムベキ氏は、日本政府が近く対南ア経済制裁を解除する方針を決めていることについて、「全黒人政治犯が釈放されていない段階での解除は尚早だ」と指摘した。さらに「アパルトヘイト(人種隔離)撤廃後の新生南アに移行するために、暫定政府を樹立しなければならない。この実現に向けて国際的な圧力を緩めないことが重要だが、暫定政府ができれば、国際社会と南アは前向きの関係を結ぶことができる」と語った。

 暫定政府樹立までの期間は「向こう数ヵ月」との見通しを示した。具体的な日程として、9月14日に黒人居住区での暴力問題を解決するための和平会議を開き、一週間後に黒人解放組織間の「愛国戦線」を結成、さらに全政党会議を招集して暫定政府の構成を決め、憲法制定交渉を進める、と説明した。

 政権掌握後の経済政策では、「国有化は状況に応じて採用する政策手段に過ぎず、イデオロギー的な立場から進めることはしない」と指摘。金鉱山も「金の国際価格が低迷している時に、鉱山産業を国有化しても意味がない」と述べるなど、国有化を中心に据えた経済運営には固執しない方針を示した。

 ムベキ氏はANCの穏健派指導者で、黒人多数政権樹立に備えてANCに設けられた「影の内閣」の首相に就任したばかり。



 
 
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1991.8.30

「制裁破り」と独銀批判 南ア起債で国連特別委

日本経済新聞

ニューヨーク29日=守田記者

国連のアパルトヘイト問題特別委員会(イブラヒム・ガンバリ委員長)は二十八日、南アフリカ共和国による国際資金市場からの資金調達再開の計画について緊急声明を発表し、マルク建て公募債の主幹事に予定されているドイツ銀行を「南ア制裁破り」として激しく非難した。国連が声明の形で個別金融機関を名指しで非難するのは極めて異例。

 同委は「報道によると、ドイツ銀は南アにとって八五年の債務危機以来初めての公募債の発行をアレンジしようとしている」とし、「これが認められると南アの国際資本市場復帰が実現し、人種差別撲滅に向けて顕著な効果を上げていた金融上の制裁が骨抜きになる」と強調した。

 国際金融筋によると、今回の起債は発行額二億マルク。ドイツ銀が主幹事に内定、チューリヒなどで説明会を始めている。欧州共同体(EC)が昨年十二月に南アへの新規投資の禁止を解除、米国もことし七月に全般的な制裁解除に踏み切る中で、南ア政府や企業は今後有力な起債者になるとして、ドイツやスイスの銀行などは一斉に主幹事獲得競争に乗り出している。



 
 
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1991.9.5

黒人初の投票権 南ア新憲法概要を発表 大統領廃止も盛る

朝日新聞

ヨハネスブルク

 南アフリカ共和国のデクラーク大統領は、4日、ブルーフォンテーンで開かれた与党・国民党の全国大会で、政府側の新憲法案の概要を発表した。約3千万人の黒人に初めて選挙権を与える一人一票制のほか、大統領を廃止して議会から選出された複数の指導者の集団指導制へ移行、二院制議会の第二院が白人など少数派の権益擁護に当たる―などが盛り込まれている。各周の党大会で検討後、政府側草案の基本線となる。

 概要によると、議会は比例代表制で選出された第一院と、各行政地域から同数ずつ選ぶ第二院で構成。法案の成立には両院の可決が必要とされ、約500万人と数で劣る白人側の意向も強く反映される仕組みとなっている。

 大統領を廃止し、第一院から選ばれた有力政党の指導者3-5人が集団で指導。また、現行の四州を9地域に細分化。地方行政府に大きな権限を与える。

 いずれも黒人解放勢力の中心「アフリカ民族会議」(ANC)が議会第一党となることを前提に、最大政党に権限が集中するのを制限する措置といえる。

 一方、市町村レベルの選挙では、納税や住宅の所有による選挙権の制限が盛り込まれ、黒人に不利な条件となっている。

 同大統領は演説の中で、新憲法の理念を「共同型民主主義」とし、「政治権力はいかなる個人、政党、団体によっても独占されるべきではない」と述べた。しかし、これまで国民党が最大勢力として権力を一手に握り、アパルトヘイト(人種隔離)体制を作り上げてきたことに関しては言及しなかった。

 また、この概要はあくまで基本線であり、今後、党内外の話し合いで変更の余地がある、と強調。ANCなどの意向に配慮した。

 ANCは同日、声明を発表。一人一票制や第一院の比例代表制には同意したものの、「権力の分散は、真の自由化を妨げ、南アのレバノン化をもたらす」と批判した。

 ANCは現在、暴力問題などを理由に新憲法に関する対政府交渉を中止している。しかし、今月半ばには政府、抗争の中心の保守派黒人政党「インカタ自由党」(ブテレジ議長)と暴力問題和平案に調印の予定。ANCは暫定政府、政権議会での新憲法制定を要求し政府側と対立するが、その前段階としての全政党会議早期開催では政府と一致しており。今秋にも全政党会議の条件が整うとの見方が強い。

 政府は、92年の現行憲法による総選挙前に新憲法の成立を図っている。



 
 
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1991.9.13

南ア新憲法構想

毎日新聞

大統領制を議会選出の集団指導制としたうえ、地方議会の選挙権に所有資産や納税額を考慮するとして、「白人の独占が認められないと同様、黒人の独占も認められない」(同大統領-デクラーク)との基本方針を打ち出したもの。

ANC(アフリカ民族会議)=白人の特権と「アパルトヘイト維持が狙い」と激しく反発。

同構想によると、新憲法での国会は二院制で、

第一院、得票の割合で各政党に議席が配分される。

第二院、国内を9地域に区割りした選挙区から選出された議員に比例配分される。

地方議会選挙では、投票権に、資産所有や納税額の要素が加味され、南アの土地資産の大半が白人所有であることから、地方議会の実権は白人が握ることは確実。

地方議会の構成が、国政選挙にも影響を与えることから、白人層の声は国会の第二院にも強く反映さえれるとみられる。

ANCはこれに対し、「構想は形を変えたアパルトヘイトで、少数白人に拒否権を与えるもの」と強く反発。

総選挙で多数を占めた政党が内閣を構成し、国政運営に当たるべきと、ANCが発表済みの基本構想実現を主張している。



 
 
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1991.9.15

南ア 黒人組織と和平協定 抗争完全終結は流動的

日本経済新聞

ヨハネスブルク14日共同

南アフリカ政府と黒人組織、アフリカ民族会議(ANC)、ズールー族主体のインカタ自由党など三十余りの団体の代表は十四日、旧黒人居住区での抗争終結を目指した和平協定に調印した。

 治安部隊や政党の行動規範、協定の実施・監視に当たる全国和平委員会の設置を柱とした今回の多角的な和平協定の調印で、南アの新憲法制定に向けた交渉プロセスを揺るがしてきた抗争の終結への期待が高まっている。

 しかし、制憲交渉参加を拒否している保守党など白人右派は和平代表者会議をボイコットし、パンアフリカニスト会議(PAC)など黒人左派も会議には出席するものの、調印を拒否するなど、抗争の完全終結には流動的要素が残されている。

 今回の和平協定は、南アの宗教、経済界の代表が調停役になって作成され、治安部隊、政党の行動規範と全国和平委員会の設置のほか、政治集会での凶器と武器の携行の禁止や抗争地区の復興対策なども盛り込まれている。



 
 
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1991.9.17

南ア、核査察受け入れへ

日本経済新聞

ウィーン16日=小林(省)

 国際原子力機関(IAEA)の第三十五回総会が十六日、ウィーンのホーフブルク宮殿で始まった。総会は冒頭、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国とイエメンのIAEA加盟を承認、加盟国はこれで百十六カ国になった。

 また、南アフリカは開会前、核拡散防止条約に基づく核査察(保障措置)協定に調印、IAEAは十月中に同国に対する第一回査察を実施する方針を明らかにした。



 
 
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1991.9.20

南ア、7年ぶり国際市場で起債

日本経済新聞

ハンブルク19日時事

南アフリカ共和国は、十九日、先進各国による対アパルトヘイト(人種隔離)経済制裁一部撤廃を受けて、七年ぶりに国際金融市場て国債を発行した。

 ドイツ銀行を主幹事とする銀行団を通じてこの日フランクフルト市場で発行されたのは期間五年の国債。規模は当初三億マルクだったが、需要がおう盛なため四億マルクに増額された。表面金利は一〇・五%で額面発行。南アはこれまで起債ができなかったことから資金需要が高まっており、金融筋は同国は年間四十億ドル程度の資金調達をするのではないかとみている。

 南アの当局者によると、今回の国債の一部(二億ドル)は今年十二月に満期を迎える既発債の借り換えとなるが、これを除いた分は同国の開発資金に充てられる。



 
 
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1991.9.27

来月中にも共闘会議結成 南ア黒人解放3団体

朝日新聞

ナイロビ

南アフリカ共和国の黒人解放運動の中心「アフリカ民族会議」(ANC)と強硬派解放組織「パンアフリカニスト会議」(PAC)、「アザニア人民機構」(AZAPO)は25日、政憲議会での新憲法制定を求める共闘組織「愛国戦線」の結成大会を開催することで合意。来日中にも、結成の見通し。



 
 
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1991.10.4

ノーベル文学賞に南アのゴ女史  女流作家受賞は25年ぶり

毎日新聞サービス

ストックホルム3日共同

スウェーデン王立アカデミーは三日、一九九一年のノーベル文学賞を南アフリカの白人女流作家ナディン・ゴーディマ女史(67)に授与すると発表した。南アフリカ人のノーベル文学賞受賞は初めてだが、ノーベル賞受賞は六〇年のA・ルツリ氏、八四年のデズモンド・ツツ主教(いずれも平和賞)に次いで三人目。女性の文学賞受賞は一九六六年の西ドイツ(当※時)の女流作家ザクス女史以来二十五年ぶり。        

 賞金は六百万クローナ(約一億三千三百万円)。授賞式は十二月十日。 ゴーディマ女史はアパルトヘイト(人種隔離)政策がもたらす不毛性を作品の中で描き続けたが、王立アカデミーは授賞理由について「非常に複雑な個人的事情や社会との関係を直截的(ちょくせつてき)な手法で描き、人間性に対して多大な貢献をした」と評した。

 リトアニア出身のユダヤ系宝石商の父とユダヤ系英国人の母との間にヨハネスブルク近郊の鉱山町スプリングスで生まれた女史は、育った環境から少女期からアパルトヘイト政策に強い疑念を持ち、十五歳から小説を書き始め、その後もアパルトヘイトがもたらす人間の心の陰や不毛さをテーマとして追い続けた。

 代表作は「ブルジョア世界の末期」(六六年)、「保護管理人」(七四年)、「ジュライの一族」(八一年)など。いずれも白人と黒人が鋭く対立する南アフリカの社会情勢を色濃くにじませた作品。

 南アフリカでは出版物の検閲制度があるが、検閲制度にもかかわらず文学と表現の自由のために努力してきた女史の姿勢もアカデミーから高い評価を受けた。

 日本に翻訳紹介されている作品は、小説「戦士の抱擁」(晶文社)、解説書「現代アフリカの文学」(岩波書店)のほか、「現代アフリカ文学短編集」(鷹書房)に短編小説が収録されている。

[1991-10-04-08:02]



 
 
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1991.10.4

熱い「人間への想い」 ノーベル文学賞 ナディン・ゴーディマの文学 アパルトヘイト一貫して告発

毎日新聞

竹内泰宏(作家)

 ナディン・ゴディマは、1923年に南アフリカのヨハネスブルクに生まれた白人女性作家である。16歳で処女作を発表して以来、一貫して、白人でありながら人種差別にもとづくアパルトヘイト(人種隔離政策)の非人間性を批判する作品を書いてきた。また作品によってばかりでなく、実際の行動や生活においても反アパルトヘイトの運動に献身的に加わり、証言台に立ったり、自分の家をアフリカ黒人に解放したりして、南アの解放運動側の黒人たちからも絶大な信頼を寄せられている、数少ない白人作家の一人である。彼女の文学の特質は、すでに1950年代はじめに発表された初期の短編「こんな出会いをするなんて」や「へびのやさしいささやき」などにも、はっきりと示されている。前者は白人の少女が生まれてはじめて黒人と出会ったときの恐怖を、少女の感性と身体の反応をつうじて微細に描き出した小説で、差別者が差別されるものに対して抱く「抽象化された恐怖」をリアルに克明に描くなかに、この作家のもつ熱い人間への想いをひそませている作品である。

 また後者は、車椅子にお乗った幻肢症をもつ身体障害者の夫とそれを押す妻が、片脚のないバッタと出会う一場面を描いた短編で、バッタが急に空へ飛んでいってしまうことで、夫婦が二人の心理の葛藤を越えた現実を、昆虫(自然)の思わぬ飛翔によって知る結末はすばらしい。以上はいずれも、冷酷なリアリズム作家のもつ繊細な感性と、差別を嫌悪する優しさや冷静な観察力が如実に示されている短編である。

 ゴーディマの小説は、50年代、60年代、70年代、80年代に発刊された5冊の小説集からえらばれた短編をおさめた土屋哲訳『戦士の抱擁』(晶文社)などが邦訳されているが、この本のなかに反政府運動に加わる黒人労働者の少年の家族の話や白人リベラリズムの瓦解を暗示する小説や南ア共和国の周辺諸国の独立にともない、。アフリカ人共同体に対しての白人軍隊のなりふりかまわぬ破壊工作を鋭くカットしてみせる小説や、最近の南ア国内の白人親子による解放運動支援の一挿話を扱った小説など、南アの政情の変化する時代々々に応じて(作品のかかれた時期に応じて)、南アフリカの様子が白人の側からアフリカ人の側からと、ほとんど交互に描き出されているのを読むことができる。彼女の作風は、文体は自然や人間の内面・外面への詳細かつ冷静な観察による記録性ともいえるものにもとづいており(最近はそれに象徴的表現も加わっていると言われている)、作品の枠組みや人間を表現する際の遠近法のとり方は、彼女の傾倒するバルザック、スタンダール、トルストイなどの19世紀リアリズム風の手がたい構造のうちにある。そしてそのテーマは、人間性を圧殺する南アの社会への告発をふくんだ、骨太でがっちりした社会性を踏まえている。

 彼女の評論活動については、日本では土屋哲訳『現代アフリカの文学』(岩波新書)がよく知られているが。そのなかでゴーディマは、20世紀のヨーロッパやアメリカの小説とアフリカの小説を比較し、欧米の作家がますます肉体・精神面での異常さの極限を小説で追求するようになっていること、しかし「これら白人固有のテーマは、アフリカ人作家の方がはまったく無縁のものである」こと、そしてアフリカ人作家の方が欧米作家の作品より正常で、健全で、創造性と未来の可能性を秘めていると述べている。

 ゴーディマの創作活動は最新の長編小説『わが息子の物語』の発刊など、現在も旺盛に続けており、最近は南ア最大の文学賞CNA賞も受賞している。

 南アの悪名高い人種隔離政策が少なくとも法律上は廃止となり、新しい節目とそれにともなう新しい困難にも出会っているとき、この半世紀にわたって人種差別反対と人権のために闘ってきた作家にノーベル賞が受賞されたことは、当然であるとともにまことに意義深い。



 
 
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1991.10.5

南ア、憲法改正で国民投票へ

日本経済新聞

ヨハネスブルク4日共同

南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)体制の改革を進めるデクラーク大統領は四日、共同通信との会見に応じ、新憲法制定の協議会でアフリカ民族会議(ANC)など黒人組織と一定の合意が得られた場合、必要に応じて現憲法の一部を改正する国民投票を実施する考えを初めて表明した。改革の最大課題である新憲法の制定を待たずに段階的に改革を進めていく方針を打ち出したもので、アパルトヘイトからの完全脱却を目指した南アの交渉プロセスは合意形成に向けて一層加速することになる。



 
 
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1991.10.8

「謝罪」に内外で反響 単独会見の南ア大統領 保守派にも配慮

朝日新聞

ヨハネスブルク7日=五十嵐浩司

 南アフリカ共和国のデクラーク大統領が四日、朝日新聞の単独会見で、アパルトヘイト(人種隔離)政策に関して初めて公に謝罪したことが、南アの内外で大きな反響を呼んでいる。「黒人側との精神的和解をもたらし、話し合いによる新憲法制定を推進する」と歓迎する声が多いが、アパルトヘイト維持を図る白人右派の保守党は強く反発。大統領周辺は、白人保守層の国民党離れを懸念して「謝罪というより、遺憾の意の表明」と一歩、後退の姿勢を示している。

 大統領はアパルトヘイトの否定的側面に対し、罪の意識を持つか、との質問に、「我々の歴史のその(アパルトヘイトの)時代がもたらした苦しみに対し、とてもとても申し訳なく思う」と率直に述べた。

 これを受け、六日の南ア紙サンデー・トリビューン、サンデー・スターなどは、一面に「ついに謝罪」と大きな見出しを掲げ、「画期的」「歴史的」インタビューとして、今回の謝罪が新憲法制定の話し合い促進に大きく貢献する、と評価。またアーガス紙が、街角に「大統領謝罪」の張り出し広告を出したほか、南ア国内や欧州のラジオなども謝罪発言を大きく取り上げた。

 トリビューン紙によると白人リベラル派・民主党のデビア党首は「これは我が党が一年以上にわたり求め続けていた謝罪だ。この謝罪で、来るべき全政党会議で、黒人側が大統領と建設的な話し合いを持つことが容易になった」と歓迎。また、黒人解放勢力の中心「アフリカ民族会議」(ANC)のマルカス広報担当(全国執行委員)は、謝罪を歓迎しながらも「アパルトヘイトの遺制はまだまだ存在し、過去のものとはなっていない」と述べた。

 しかし七日の政府系英字紙シチズンは、「大統領はアパルトヘイトの罪に対して謝罪したのではなく、苦しみに対して申し訳ないと述べた」との大統領スポークスマン談話を一面に掲載。謝罪から一歩、退く姿勢を見せた。

 フェンダー大統領報道官は朝日新聞に対し「質問に対する自然な反応として出た言葉で、謝罪というより遺憾の意の表明」と述べた。

 統治の西側外交筋は、「新憲法制定の対話推進には謝罪が不可欠だが、国内で正面切って謝れば反発が強い。外国のメディアを通じ、謝罪の意を持つことを実質的に広め、国内ではこれをトーンダウンさせて白人層に配慮する戦術ではないか」と見ている。



 
 
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1991.10.8

黒人グループ衝突、18人死亡 南ア

日本経済新聞

プレトリア7日=影井記者

南アフリカ共和国で七日、黒人グループ同士の衝突事件が起こり、現地警察の発表によると少なくとも十八人が死亡した。南アフリカで黒人グループの大規模な抗争事件が発生したのは、南アフリカ政府と主要黒人グループが抗争中止の協定を結んだ九月十四日以来のこと。

 警察の発表によると、ヨハネスブルクの近郊にあるトコザで反アパルトヘイト(人種隔離政策)運動家の葬儀が開かれた後、約一万五千人の参列者に対し、けん銃やナイフを持った黒人グループが襲いかかった。葬儀の参加者のほとんどはアフリカ民族会議(ANC)の支持者で、ANCの路線に反発するズールー人グループなどの犯行と見られている。

写真説明)7日、ヨハネスブルク市近郊の黒人居住区トコゼで、有力者の葬儀を終えて帰途に着くアフリカ民族会議(ANC)のメンバー



 
 
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1991.10.10

ノーベル平和賞候補に米大統領

日本経済新聞

ロンドン9日共同

ノルウェー紙ダーグブラデットがこのほど報じたところによると、十四日に発表予定の一九九一年度ノーベル平和賞受賞者候補にブッシュ米大統領をはじめ個人約八十人、団体約二十が挙がっている。候補者には米大統領のほか、リトアニアのランズベルギス最高会議議長、ローマ法皇ヨハネ・パウロ二世、南アフリカの黒人解放運動指導者ネルソン・マンデラ氏、ハベル・チェコスロバキア大統領らが含まれているが、ミャンマーの野党指導者、アウン・サン・スー・チー女史が最有力候補とみられるという。



 
 
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1991.10.12

ソ連のプラチナ売却

日本経済新聞

ヨハネスブルク11日=吉村記者

南アフリカ共和国最大の白金(プラチナ)鉱山会社、ルステンブルグ・プラチナ・マインズ社のB・ディビソン社長は日本経済新聞記者と会見し、現在のプラチナ価格低迷の主因はソ連の売却であると指摘、ソ連の一ー五月の売却量は三十トンに達したと述べた。ただ、ソ連による売却は今後、徐々に鎮静化し、景気の回復や自動車触媒用の需要の盛り上がりなどで価格は上昇に向かうとの見通しを明らかにした。会見内容は以下の通り。

 一、プラチナの需要は世界的に堅調だが、現在の価格水準は満足のいくものではない。米国を中心に景気回復が遅れていることに加え、ソ連が外貨獲得を狙って売却を加速させていることが響いている。90年のソ連の売却量は二十二トンだったが、九一年には一ー五月だけで三十トンに達している。

 一、ソ連の売却は西側金融機関に担保として預け、必要な外貨を得るといるスワップ形態をとっている。外貨の返済が不可能になった場合に担保分が市場に出てくる仕組みだが、現在の価格はこうした事態をすでに織り込み済みだ。また同国の生産動向や在庫水準から見て売却量は今後次第に減っていくだろう。

 一、遅れている景気回復が実現すれば価格は間違いなく上昇に転じよう。EC(欧州共同体)では九三年から排ガス規制の強化が実施される。これを見越して九二年末にかけて駆け込み需要の盛り上がりも予想される。将来的に需要が拡大するのは確実で、南アの鉱山各社が進めている増産計画に何ら変更はない。



 
 
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1991.10.12

南アから黒人研修生 JICA 農業・建築など4部門20人

日本経済新聞

発展途上国への技術協力などを進めている外務省の外郭団体、国際協力事業団(JICA)が来年一月から南アフリカ共和国の黒人研修生を受け入れる。アパルトヘイト(人種隔離)体制を支えていた人種登録法が六月に撤廃されるなど民主化に向けて動き始めた南アの黒人の社会的、経済的な地位向上を支援するのが目的だ。農業、熔接、建築、工業技術の四部門で計二十人の研修生を受け入れ、黒人労働者の技術力向上に役立てる。

 黒人研修生は部門別に分かれ、名古屋市や茨城県つくば市、北九州市などで二ヵ月半の技術研修を受ける。南アでは永年にわたる人種差別政策のためさまざまな面で人種間の格差が大きく、十分な教育が行われてこなかったこともあって人口の約七割を占める黒人の技術者不足が深刻化してる。黒人研修生たちは研修を終了して帰国後は、現地の職業訓練センターなどで技術指導にあたることになっている。

 今回の研修生たちは、国連南部アフリカ教育訓練計画(UNETPSA)を通じてJICAが受け入れる。昨年来日したマンデラ・アフリカ民族会議(ANC)副議長と海部首相との会談を機に実現したもので、今年春には黒人団体の代表者ら六人が来日し準備を進めてきた。欧米など先進各国が相次いで南アの黒人への支援を打ち出していることもにらみ、当初の計画を上回る本格的な研修生受け入れとなった。

 研修生二十人の受け入れは欧米各国の受け入れ計画などに比べると規模は小さいものの、今年度約六百万ドルの南ア支援を決めている外務省では「今後も研修生の受け入れ枠を順次拡大していきたい」(アフリカ二課)としている。



 
 
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1991.10.14

IMF融資望む 南ア蔵相会見 数日中に訪日

日本経済新聞

プレトリア13日=影井記者

南アフリカのバレンド・デュプレシ蔵相は日本経済新聞記者と会見し、「南アは資金不足という問題を抱えており、海外からの資金流入が不可欠だ」と述べ国際通貨基金(IMF)が対南ア融資を再開するとともに、日本を含む先進各国が早急に直接投資に乗り出してほしいと訴えた。また数日中に日本を非公式訪問して産業界関係者らと会い、南ア投資を呼びかけることを明らかにした。

 ディプレシ蔵相はデクラーク政権の有力閣僚で、デクラーク大統領の後を狙う次世代リーダーの最右翼。

 同蔵相は「対外債務は約百七十億ドルあるが、年間輸出額(約二百三十億ドル)からみれば問題ない」と述べる一方で、「諸外国による経済制裁によって流動資金が枯渇したため、ここ数年は政府支出の抑制政策を取るなど経済成長を犠牲にしてキャッシュを確保しなければならなかった」と、ここ二年以上続く景気低迷の背景を分析した。

 「景気刺激型の経済政策を取ることを、来年四月ごろまでに決断しなければならない」とも表明、それによって生じる債務を埋めるためには、IMFの対南ア融資再開が不可欠だと訴えた。



 
 
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1991.10.16

南ア企業に24%出資 マツダが権利獲得

日本経済新聞

ロンドン15日=影井記者

マツダは南アフリカの有力自動車メーカー、サムコール社の株式二四%を購入する権利を獲得した。日本政府が南アに対する経済制裁を解除した後に、投資効果などの調査を実施して、実際に投資するかどうかを決める。出資が実現すれば、日本企業による南ア投資再開の第一号になりそうだ。

 サムコール社は一九六三年以来、マツダから主要部品の供給を受けてファミリア、カペラ、プロシード(ピックアップトラック)などを現地組み立て(KD)生産している。

 同社株式の七六%は南ア最大のコングマリット、アングロ・アメリカン(AA)が保有し、残る二四%を従業員持ち株会が持っている。同社は経営安定化の一環として従業員保有分の二四%を外資企業に売却することを検討、KD生産の受託で最も関係の深いマツダに買い取りを打診していた。

 南アの自動車販売市場は一時年間四十万台あったが、現在は三十万台程度まで落ち込んでいる。日本企業ではトヨタ自動車を筆頭に日産自動車、マツダなどがいずれもKD生産し、日本車シェアは五〇%強に達する。ただ日本政府の経済制裁によって投資が禁止されているため相手先企業には出資していない。



 
 
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1991.10.17

南ア制裁解除 25日にも閣議決定

日本経済新聞

 政府は南アフリカ共和国に対する経済制裁を月内にも解除する方針を決めた。解除するのは、一、投融資規制、二、クルーガーランド金貨などの購入自粛、三、銑鉄・鋼材の輸入禁止、四、航空機の相互乗り入れ停止ーーの四項目で、早ければ二十五日の閣議で決定する。

 政府は南アがアパルトヘイト(人種隔離)政策の根幹となっていた人種登録法などを撤廃したことを評価し、六月に人的交流を解禁。次いで七月の米国の制裁解除決定後、経済制裁についても解除する方向で検討していた。

 しかし、日本が立候補した国連安全保障理事会の非常任理事国選挙を控え「制裁を解除するとブラック・アフリカ諸国の反発を招き、選挙に影響が出かねない」との判断から、実施を先送りにしていた。十六日に選挙が終わったため、解除に踏み切る。



 
 
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1991.10.19

マンデラ氏が英連邦案同意 南ア経済制裁解除

朝日新聞

ハラレ(ジンバブエ)18日=五十嵐浩司

英連邦首脳会議にオブザーバー参加中の南アフリカ共和国の黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANC)のマンデラ議長は17日夜、記者会見し、「英連邦の三段階制裁解除案は、ANCの解除案とそうかけ離れてはいない」と同意の姿勢を示した。



 
 
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1991.10.19

南アの鉄鉱石輸入へ新契約 新日鉄など六社

朝日新聞

 新日本製鉄は十八日、同社を含む高炉六社が、南アフリカ共和国の鉱山会社、イスコールと鉄鉱石の輸入について長期契約を結んだ、と発表した。今後、一九九六年三月までの約五年間、六社で年間四百万トンの鉄鉱石を輸入する。

 イスコールとは七六ー八八年まで、毎年七百万トンの鉄鉱石を輸入する契約を結んでいた。しかし、八六年に欧米各国の南ア政府への経済制裁に合わせ、通産省から南アとの取引自粛を要請された。この時点で約千五百万トンの取引が未消化となっていた。

 ただ、八八年以降も未消化分を消化する形で年間四百万トン程度の輸入を継続した。それが終了することから、新たな契約を結んだ。



 
 
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1991.10.19

対南ア制裁を解除 英連邦首脳会議が決定

日本経済新聞

ロンドン18日=後藤記者

ジンバブエの首都ハラレで開いている英連邦首脳会議は十八日、南アフリカ共和国に対する制裁措置の段階的解除を決議、第一段階として人的交流をすみやかに再開することを決めた。南アのデクラーク政権が今年にはいってアパルトヘイト(人種隔離)政策を相次ぎ廃止、民主化を推進していることを評価した。決議は参加国五十カ国が満場一致で合意した。

 制裁解除に伴い、まず、外交、民間レベルでの往来、接触が全面自由化される。続いて、観光、文化、学術面での交流制限が撤廃され、英連邦諸国と南ア間の航空路が相次ぎ解説される見通し。

 インドのラオ外相は会議後の記者会見で「永年、反アパルトヘイトの先頭に立ってきた英連邦諸国首脳は、南アの変化を歓迎、評価している。こうした変化を(制裁解除によって)後押しする必要がある」と述べた。



 
 
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1991.10.19

鉄鉱石輸入南アと再契約 鉄鋼大手6社 5年間、年400万トン 月末の制裁解除にらむ

日本経済新聞

 新日本製鉄など鉄鋼大手六社は、南アフリカ共和国の鉱山会社、イスコール社との間で、九一年度から五年間にわたって南ア産鉄鋼石を購入する契約を結んだ。購入量は年間四百万トン。日本の鉄鋼各社は前回南アと結んだ長期契約が切れた八八年以降、米国などの経済制裁に配慮して、新規契約を見合わせていた。今月末にも政府が南ア経済制裁を解除する見通しとなり「政治的情勢が良くなった」(斎藤裕新日鉄社長)ため、新規契約を結ぶことにした。

 契約は、今月十四日以降、各社が個別に調印する。内訳は、新日鉄が百八十万八千トン、NKKが六十四万八千トン、住友金属工業が五十五万二千トン、川崎製鉄が五十六万八千トン、神戸製鋼所が三十万四千トン、日新製鋼が十二万トン。いずれも数量契約で、価格は国際相場に従って毎年決める。

 鉄鋼六社は七六年度から八七年度までの十二年間、年間七百万トンのペースで南ア産鉄鋼石を購入する長期契約を結んでいた。鉄鋼石は日本政府による南ア経済制裁の中の輸入禁止品目となっていないが、通産省が八八年以降は、貿易総額を前年実績以下に抑えるよう要請した経緯がある。このため各社は長期契約が切れた八八年三月時点で、自主規制の形で新規契約の締結を見合わせた。

 八八年度から九〇年度までの間は、前回の長期契約で引き取っていなかった分約千五百万トンを、単年度契約の形で年間四百万トン程度ずつ引き取り、実質的な取引は続けてきた。長期契約の引き取り分が残り少なくなってきたこともあり、鉄鋼各社幹部が南アを訪れ、実情の把握や契約条件の詳細な爪を進めてきた。契約では今年四月にさかのぼって購入する。



 
 
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1991.10.20

「核兵器開発南アは放棄」 原子力公社総裁

朝日新聞

ワシントン18日=時事

南アフリカ共和国のワルド・スタンプ原子力公社総裁は十八日付の米紙ワシントン・ポストとのインタヴューで、同国が核兵器開発計画を放棄したことを明らかにした。



 
 
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1991.10.22

南ア制裁きょう解除 政府

日本経済新聞

 政府は二十二日の閣議で、南アフリカ共和国への経済制裁の解除を決定する。解除するのは、一、投融資規制、二、銑鉄・鋼材の輸入禁止、三、クルーガーランド金貨などの輸入自粛、四、航空機の相互乗り入れ停止ーーの四項目。政府は今後、デクラーク南ア大統領の訪日実現に取り組むとともに、領事関係しかない南アとの外交関係樹立と大使館設置についても前向きに検討する方針。



 
 
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1991.10.22

南ア制裁解除決定 政府

日本経済新聞

 政府は二十二日の閣議で、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策に対する経済制裁の解除を正式に決めた。席上、外相臨時代理の坂本官房長官はアパルトヘイト廃止をめぐる南アのデクラーク政権の改革努力に関して「人種差別のない民主的な体制の樹立に向けて引き続き積極的な進展が見られ、南アの改革は不可逆的なものと評価する」と発言。その上で「南アの経済成長回復が黒人多数を含む国民全体の福祉の向上と、現在の(民主化に向けた)交渉課程の前進を図っていく上で重要」として経済制裁の解除方針を表明、了承された。

 坂本長官はこの後の記者会見で南アに対する経済的規制措置の解除について_

談話を発表、日本がこれまでとってきた、一、投融資規制、二、銑鉄・鋼材の輸入禁止、三、クルーガーランド金貨などの輸入自粛、四、航空機の相互乗り入れ停止ーーの規制解除を表明した。



 
 
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1991.10.23

ANC、制裁解除に「遺憾」

朝日新聞

ヨハネスブルク22日=共同

南アフリカの黒人組織、アフリカ民族会議(ANC)は二十二日、声明を発表し、アパルトヘイト(人種隔離)廃絶に向けた動きは後退もあり得るとして、日本政府の対南ア経済制裁の解除決定に遺憾の意を表明した。

 ANCは、現時点での経済制裁の全面解除は真の民主主義への樹立にはつながらない、と批判した。

 一方、南ア政府のボタ外相は、日本の決定は「デクラーク政権の大胆な改革が認識されたことの表れ」と歓迎、制裁解除は南アだけではなく、南部アフリカの利益になると述べた。



 
 
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1991.10.23

連合も解除反対の談話

朝日新聞

 日本労働組合総連合会(連合)は二十二日、政府が南アフリカ共和国への経済制裁の解除を決めたことについて「南アに民主的な新憲法が成立し、民主化が逆戻りしないことが確実になるまで、経済制裁を継続するよう強く求める」との山田清吾事務局長の談話を発表した。



 
 
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1991.10.23

南ア制裁解除 財界は「歓迎」資源貿易に期待

日本経済新聞

 政府が南アフリカに対する経済制裁を解除したことについて、財界首脳は「世界の平和と安定のためにきわめて重要で、まことに喜ばしい」(石川六郎日商会頭)、「決定を高く評価したい」(平岩外四経団連会長)と歓迎の意向を表明。「政策転換を定着させるためにも、南アの経済的回復にできるだけ協力したい」(速水優経済同友会代表幹事)など、積極的な協力が必要との認識で一致している。

 制裁解除後の対南ア関係については「日本との外交、通商関係は一段と深まろう。南アはバナジウム、クロム、レアメタルなど地下資源の宝庫でもあり、産業界としても期待できる面が大きい」(永野健日経連会長)とみており、鉱物資源を中心にした経済交流に期待を寄せている。

金融取引再開 都銀など慎重

 政府が南アフリカ共和国への経済制裁を解除したことを受けて、都市銀行など民間金融界は金融取引の再開を慎重に進めていく構えだ。「民主化策の堅持姿勢や経済体制を見極める必要があり、民間としては動きにくい」(末松全国銀行協会連合会会長)ためで、当面は凍結状態の資金決済(コルレス)取引の再開にとどまる銀行も多そうだ。

 民間銀行では、「南ア国民の経済支援のために、人道的見地からも取引の再開は当然」(都市銀行幹部)としているが、本格的な金融取引を進めるには「同国の経済体制の確立が不可欠」と慎重な姿勢を続け、当面は資金・外国為替取引などにとどめる。



 
 
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1991.10.24

南ア経済再建へ日本資本がカギ デュプレシ蔵相会見

日本経済新聞

 南アフリカ共和国のバレンド・デュプレ蔵相は二十三日、日本経済新聞記者と都内のホテルで会見し、日本の大企業、銀行の進出が経済再建に欠かせないことを強調。同国で合弁事業を設立するよう企業、銀行の幹部に直接働きかけていることを明らかにした。



 
 
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1991.10.25

南アフリカ 92五輪参加めざし来月、初の合同会議 競技団体統一など協議

朝日新聞

ヨハネスブルク24日=的地修

南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)政策の廃絶により国際オリンピック委員会(IOC)へ復帰加盟が実現した南アフリカ五輪委員会(NOCSA)は二十四日、来年のバルセロナ五輪参加に向けて十一月初めにヨハネスブルクで国内競技団体を集めた初の合同会議を開き、参加種目、派遣選手や役員の数、復帰に伴う新しい国旗、国歌の使用などを話し合うことを明らかにした。肌の色で区別されてきたスポーツ組織、競技団体の統一が五輪参加実現の最重要課題になるため、合同会議では白人、黒人、インド系、カラード(混血、インド系以外のアジア人)の主張が対立している陸上などの一本化問題を協議し、年内に五輪参加の基本方針を固めることにしている。

 NOCSAのダニエル・モヨ事務局長によると、現在南アにはアパルトヘイト時代にできた人種ごとの組織が残り、それぞれ独自で競技団体をまだ統括している。IOC復帰を目指してインド系のサム・ラムザミー氏が発足させたNOCSAは、黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANC)の支援を受けて設立された国内オリンピックスポーツ会議(NOSC)と共同で全人種参加の組織統一を呼びかけているが、複雑な組織構成はなかなかまとまらないのが現状だ。

 一九七〇年にIOCから追放された白人だけの五輪委員会(SANOC)、レクリエーションなども含めて140団体を傘下に持つ白人の南アスポーツ連合(COSAS)に加えて、カラードだけの南アスポーツ評議会(SACOS)があり、五輪や国際協議会には全人種による参加の基本方針では意見は一致しても、組織の一本化となると主導権をめぐっての対立など歴史的なしがらみが依然、根強く残って複雑にからんでくるため、これまでの個別交渉は難航している。

 東京の世界陸上をめぐって、白人の組織が単独参加を表明、黒人やカラードから強い反対があり、国際陸連は結局、南アの復帰加盟、世界陸上参加を見合わせたが、バルセロナ五輪も各国際競技連盟(IF)が南アを代表する統一の競技団体の復帰、加盟を認めないかぎり参加の道は開かれない。合同会議では、陸上など別個の組織がある八団体の統一を早急に図ることを協議したうえで、五輪競技の競技団体をNOCSAが統括し、五輪参加の代表選考会も全人種に平等の権利が与えられることを確認する方針。

 もっとも、参加が実現しても南ア選手はすでにサッカーやバレーなど団体競技の予選が始まっているため、出場は極めて困難。バルセロナは個人種目の参加に限られ、選手団も五、六十人になる見込みという。



 
 
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1991.10.25

南アを初訪問 シンガポール首相

日本経済新聞

シンガポール24日=大橋記者

シンガポールのゴー・チョントク首相は二十三日、ジンバブエのハラレで開かれていた英連邦首脳会議からの帰途、南アフリカを訪問した。「私的訪問」だが、外国の首相が同国を訪れるのはこの十年間で初めて。



 
 
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1991.10.26

解除後の国際交流も白人中心 「本当の改革まだ」黒人系反発 南ア

朝日新聞

ヨハネスブルク25日=的地修

 南アフリカ共和国には白人優位の構造がまだ根強く残っている。長い間、南アのスポーツ界に閉ざされていた国際スポーツ界への扉が開き初めたとはいっても、国際競技会に参加し始めたチームは白人選手で占められたり、解除された国際交流も白人中心で再開するなどアパルトヘイト(人種隔離)がもたらした差別の“後遺症”は多く、黒人系の団体からは「本当の改革はまだ」の不満も高まっている。

 国際オリンピック委員会(IOC)が決定した南アの復帰加盟を受けて、体操やレスリングなど各国際競技連盟(IF)は歩調をあわせて南アの競技団体の復帰を認めているが、大半の組織は旧来からの白人組織。「全人種参加」の復帰条件を打ち出してはいるものの、黒人の間では、これまで施設不足や経済的な事情から普及していなかった競技がほとんどだ。

 九月の世界選手権に参加した体操は、七月に国内予選会が行なわれたが、参加選手は白人ばかりだった、という。黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANC)のスポーツリーダーらは「体操など白人の学校や黒人の入会できないプライベートクラブで行なわれてきたスポーツで元々、組織が単一だったから国際体操連盟(FIG)も復帰を認めた。体操だけでなく、お金のかかるスポーツには、黒人は今でも無縁だ」と訴える。

 二十二日、自転車の英国選手五人が二十八年ぶりに南アのロードレースに参加、南アのIOCへの復帰決定後では、初の国際交流となったが、これも白人グループの招待だった。テニスも来月には、ウィンブルドン男子チャンピオンのミヒャエル・シュティヒ(ドイツ)らを招いての国際大会が開かれる予定ながら、ANCや黒人のスポーツ団体関係者は「国際交流とは名ばかり。門戸開放は商業主義スポーツが優先されてエージェントなど一部の白人の懐を潤すだけだ」と非難している。



 
 
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1991.10.26

南ア・黒人居住区ソウェト 主導権巡り緊張続く 階層分化が進行 警官不法発砲も後を絶たず

読売新聞

ヨハネスブルク近郊ソウェトで小沢勝

 南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)の象徴であった南ア最大の黒人居住区ソウェト。南ア政府はアパルトヘイト根幹三法の撤廃を決め、「後戻りのない改革」に踏み出したが、ソウェトでは、新生南アの主導権を争う殺し合いが依然続く、黒人間の階層分化も進み、持てる者、持たざる者、の間で、改革への意識のズレが目立ってもいる。日本政府は南アの改革努力を評価し、経済制裁の解除を決めたが、黒人居住区はなお以前と変わらぬ緊張に満ちていた。 (ヨハネスブルク近郊ソウェトで小沢勝)

階層分化が進行

警官不法発砲も後を絶たず

 平屋建ての質素な黒人住宅が並ぶソウェトのマペトラ地区。黒人同士の暴力事件で今年すでに数十万人が命を落とし、今月13日にも酒場への無差別銃撃で8人が死亡した。ミニバス数台に分乗した襲撃隊が日曜日の夕方でにぎわう店内に向けて窓から銃を乱射した。犠牲となった電気工テボホ・ツクルさん(当時25歳)の父スティーブン・ツクルさん(62)は「息子は政治活動などしておらず、何でこんなことになったのか」と肩を落としていた。

 警察官の不法な発砲で命を落とした、と遺族が主張するケースも後を絶たない。最大の黒人解放組織、アフリカ民族会議(ANC)支持者の多いディープルーフ地区で13日朝、ANCメンバーで南ア共産党(SACP)員のブヤニ・マバカさん(23)が制服の黒人警官に射殺された。南ア警察によると、カバカさんが最初に発砲したため、やむを得ず発砲したという。

 SACPとANCはマバカさんの死を警察官の不当な発砲によるものとし、調査を始めた。黒人抗争終結を目指して政府とANC、ANCと敵対するインカタ自由党(IFP)は和平協定を結んだ。その中には警察官の不当な鎮圧行動を取り締まる条項も含まれ、今後、この射殺事件が和平協定に沿って適切に処理されるか、ANCは注目している。

 一方、劣悪な住環境のソウェトでも階層分化が進み、高級住宅地が生まれている。そのうちの一つ、ブムビル地区は別名「プレステージ・パーク」と呼ばれている高級住宅街。ほとんどの家にガレージがあり、庭は刈り込まれた芝生が美しい。そこにあるヌチャリスチャリ家の車寄せには日本車とドイツ車。ご主人のイスラエルさん(59)は高校の校長。奥さんのオリンピアさん(59)はソウェト教育大で言語学を教える専任講師だ。

 「満足しているわけではないわ。もっと広い庭が欲しいし、プールも欲しい。それが南アの普通の家ではないかしら」とオリピアさん。オリンピアさんによれば同地区の住民は大学教授や会社重役など「学歴のある人たち」。オリンピアさんの夢は今の家を売って、ヨハネスブルク市内に住宅を買うこと「ソウェトは電話のつながりも悪いし、夜は停電が頻繁。市内の方がいい」

 南ア黒人の将来についてオリンピアさんはやや悲観的だ。「私たち黒人が現在、この国を経営していける能力はまだないと思う。教育から始めて、着実に国の経営のノウハウを白人から学んで行かなければならない。急激な変革はよくありません」と白人与党、国民党への支持を表明した。

 この言葉に、ソウェトのズールー族ジャーナリストは「能力が劣るというのならそれは教育の白人、黒人間の格差があるからだ。それを直ちに解消するためには急激な変革もやむをえない」と言い、「プレステージ・パークに住む黒人は、肌は黒くとも気持ちはもはや白人になっているかもしれない」と怒りをあらわにした。

 ソウェト居住区の黒人は現在約250万人。その中で明らかに生活格差や政治意識の分化が急速に進んでいる。



 
 
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1991.10.26

「反政府」で共闘 「愛国戦線」大会始まる

読売新聞

ダーバン〈南アフリカ〉25日=小沢勝

南アフリカの二大黒人解放組織、アフリカ民族会議(ANC)と汎アフリカニスト会議(PAC )が主張する新しい共闘組織、愛国戦線の結成大会が25日、東部の港湾都市、ダーバンで開幕した。大会には二組織の他、75団体が参加した。

 アパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃後の新憲法制定について政府は国内の政治団体、組織の代表による全政党会議で協議したいとしている。しかし、ANC、PACはこれを白人政権の枠組みの中での非民主的な制定方法と批判している。二組織は一人一票制の自由選挙によって選ばれた制憲議会による憲法制定を主張している。さらに、制憲議会選挙を管理、実施するために暫定政府樹立の必要性を強調している。

 ANCは新憲法の基本指針を検討する、という意味では政府が提唱する全政党会議への参加を内諾しているが、PAC は制憲議会選挙実施の確約を取付けるまでは参加は拒否する、としている。また、暫定政府の性格にも両者の間には細かい食い違いがあり、3日間にわたる結成大会ではこれらの意見調整が図られる。ANCより強硬派の立場を取るPACの全政党会議出席受諾が方向づけられれば、他の団体、組織への影響も大きく、同会議の年内開催、新憲法制定作業の加速も期待されそうだ。



 
 
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1991.10.28

南アはいま 92五輪を前に 上 門戸開放 黒人参加不可欠に

朝日新聞

ヨハネスブルク=的地修

 来年のバルセロナ五輪参加をめぐって、南アフリカ共和国のスポーツ界が揺れ動いている。アパルトヘイ卜(人種隔離)政策の廃止を機に国際舞台への復帰が認められたものの、スポーツ界にはまだ人種の”垣根”が根強く残り、全人穐参加の新しい組繊づくりは難航したままだ。半世紀ぶりに扉が開かれた南アのスポーツ事情を現地から報告する。  ヨハネスブルク近郊の丘陵地に広がるワンダーラス地区は、さながら南アのビバリーヒルズだ。手入れの行き届いた広い庭は、青々した芝生が陽光にまばゆく輝き、ジャガランダのうす紫の花が彩る。白人が住むこのワンダラースを下ったところに、大きな黒人集落があった。むきだしの赤土の斜面に、トタン屋根のバラックがはうように延々と続いていた。  白人が足を踏みいれることはめったになかったこのアレクサンドル地区で昨年、ワンダラスにあるクリケット協会のユダヤ系白人の会長が、英国伝統のクリケット教室を初めて開いた。斜面の空き地を利用してフェンスで囲っただけの練習場は、テニスコー卜二面足らずの大きさ。それでも、人口三万人の地区では初めてのスポーツ施設の誕生だった。

 コーチは、ボラシティアの白人大学生が引き受けて週酉画、小、中学生に教え負担。学校の帰り道に集まってくる子供らは、百人を超えることも多い。大学のクリケットクラブに所属し、このボランチィアに参加しているニール・マッコネル君(二〇)は「ここへ来で、黒人の子供たちが置かれている環境を初めて知った。学校にあるグラウンドといっても、サッカーボールをけって遊ぶ程度の広さしかない。白人の僕らの施設は、小学校からプールや体育館が設備され、グラウンドも芝生の大きなものがあった」と話してくれた。

 南アのクリケッ卜は、数年前から、白人とインド系などの非白人人種に分かれたていた組織の一本化に乗り出した。英国系白人の間で人気が高いクリケッ卜をW杯大会など国際競技会に復帰させるには、人種の壁によってできた二つの団体を一本化した上、さらに黒人などにも門戸を開くという条件整傭が必要だった。

 とくに、黒人問題は昨年初め、英国のチームが南アを訪れ、各地で白人チームとの試合を行った際、激しい抗議行動が起きた事情もあって、統一には黒人の参加が不可決の要素になった。南ア・クリケッ卜評議会のインティアス・パテル理事は「アレクサンドルの教室は、競技の普及活動を通じて黒人への理解、協力を求めることから発足した」と説明する。入会が白人に限られていたプライべートクラブには、黒人や非白人にも入会を認めるよろに通達が出され、クリケッ卜は組織統一にこぎつけた。だが、クラブの入会金は千ランド(1ランドー約四十八円)前後。月に二、三百ランドの収入しか手にできない多くの黒人にとっては、とても手が届かない。



 
 
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1991.10.28

南ア・ウンデベーレ族の写真展 壁画の腕競い合う妻たち 一夫多妻の抑圧をぶつける

朝日新聞

 南アフリカ共和国に住むウンデべーレ族の女性たちが自分の家の壁に描き続けてきた伝統的な壁画を紹介するき写具展が、東京・渋谷のin The ROOM九階で開かれている。一夫多妻制の中で、ほかの妻たちと競い合って描いたという色彩豊かな絵は、厳しい生活を生き抜いてきた女性たちの、力強さ、たくましさを伝えている。

 展示されている写具は、赤、育、黄、緑などの塗料で色鮮やかに描かれた壁画や、民族衣装に身を包んだ女性たちを写したものなど四十九点。ほかに、ビーズ細工のべル卜など民族衣装ニ十三点、壁画と同様の模様を描いたカンバス九点が飾られている。また、壁画を描く様子を撮影したビデオも流されている。

 写真やビデオを撮影したのは、イタリア在住のフォトジァーナリス卜、マーガレッ卜・コートニー・クラークさん(四一)。南アの隣国ナミビアで生まれ育ち、南ア、イタリア、米国でフォトジヤーナリズムとグラフィックデザインを学んだ。

 「アー卜、写真、アフリカ。人生でもっとも好きな三つを結ぶ仕事をしたかった。アフリカのアー卜は男性によるものがほとんどで、この壁画のように女性が担ってきたものは少ない。その貴重な文化が次々と失われていくのを見て、記録しておかなくては、と思った」

 一九七九年から八五年にかけて毎年三カ月ほどウンデべーレ族の家に住み込み、年々少なくなる壁画を撮影した。クラークさんによると、ウンデべーレ族の女性は、大人として、十歳を過ざるころ母親から壁画の描き方を習う。結婚すると家の壁を自分の絵で飾るが、粘土と牛のフンで作った壁に描かれた絵は、雨期のたぴに洗い流されてしまうため、毎年描き直す。同じ男性を夫とする妻たちは隣り合う家に住み、お互いに影響し合いながら、それぞれの画風を作り上げる。

「抑庄された女性たちの自己表現の場になっていたのです」

 直線や半円などを組み合わせた抽象的なデザインが主流だが、その中に、カミソリを描き込む女性が多い。カミソリは、結婚するときに髪の毛をそるほか、ビーズ細工や皮細工にも使われ、女性の人生を象徴するとされている。

 二十九日まで。無料。問い合わせは電話○三ー三四七六ー八○四七へ。



 
 
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1991.10.29

南アはいま 92五輪を前に 中 門前払い 白人に偏重する諸施設

朝日新聞

ケープタウン=的地修

 ケープタウン市内の印刷工場に勤める黒人のバイレイ・ホニックさん(二二)は今年六月、市主催の市民テニス大会に初めて参加を申し込んだ。工場にあるテニスサ一クルに所属し、工場対抗や黒人地区の大会で何度も優勝した実績を持つので「さらに自分の力を試してみたかった」のである。人種隔離(アパルトヘイ卜)政策廃止により市が主催する競技会から「人種差別」が姿を消し始めた。黒人にも出場の機会が与えられたわけだが、試合当日、その期待は裏切られた。ホニックさんが白のユニホームを持っていないことを理山に、主催者はその場で参加を取り消したのである。

 ホニックさんは「ユニホームを買いたくても、お金がない。我々の練習や試合はいつも作業衣でやっているんです」と懇願したが、受付の白人には聞き入れられずに追い返された。かつては、白人の経営するスポーツ店に入ることさえ、許されなかったというホニックさんは、汗と手あかでグリップ黒ずんだラケットを大事そうに抱えて「このラケットを買うのにも、三カ月待たされ少しもよくなっていないんですよ」と訴えた。  ヨハネスブルク近郊のソウェトは人口二百万の最大の黒人居住区。だが、スポ一ツ施設はスタンドの付いたサッカー場が一つ、五十メートルの屋外競泳プ一ルが一カ所テニスコートが三面だけ。ソウェ卜にある企業やアフリカ民族会議(ANC)の支援でつくられたが、「住民の要求の一割も満たしていない。なぜなら、黒人のスポーツ普及には、政府の援助が全くなかったからだ」とANCのムンザナ・スポーツ広報担当は説明した。

 ソウェ卜の屋外プールは春先の九月から青少年に開放される。水泳の指導にあ たるデビッドさん(二四)は「毎年、何人もの子供たちが、川や他でおぼれて死だり、汚い水で病気になったりする。泳ぎを教えるのは、事故防止のためで、競泳選手を育てるなん余裕んはここにはない」という。

 水の浄化に経費がかかり、プールはしばしば休業する。「バルセロナ五輪の参加が決まっても、まず黒人の選手は代表になれない。家にプールがあって、子供のときから水泳を楽しんでいる白人にはかないっこないから」とつぶやいた。  南ア政府の年間スポーツ千算は約千二百万ランド(1ランド約四十八円)。白人の競技団体、白人の学校の体育施設へ援助されてきた。非白人メンバ一も加えて新編成された南ア五輪委員会(NOOSA)のダニエル・モヨ事務局長(黒人)は一五輪参加には白人と非白人の組織統一が大前提になる。阻害されてきた黒人が同じテ一ブルにリき、平等の権利を主張出来ないなら改革にはつながらないのだ」と強調した。



 
 
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1991.10.30

南アはいま 92五輪を前に 下 闘争 組織の一本化なお難航

朝日新聞

ヨハネスブルク=的地修

 男子マラソンで2時間9分50秒の国内最高記録を持つデビッド・ツェべ(二四)は、白人の陸上クラブに所属する数少ない黒人選手である。ヨハネスブルク郊外のマンションに住み、クラブから支給される手当てとレースで稼ぐ賞金で母親と兄妹四人の一家の暮らしを支える。

 トランスバール北部の炭鉱労働者の家に生まれ、少年期をずっとはだしで過したツェべは十五歳から陸上を始めた。工場で働くかたわら、ロードレースやクロスカントリーに出て活躍し、初めて出た八八年のポートエリザベス・マラソンで国内最高記録を出し優勝した。一年かかっても稼げない一万ランドの賞金、あこがれの自動車を手にしたでなく、白人のトラッククラブから入会を誘われたのにはなにより驚いた。「家を買い、家具も電気製品もそろえた。この国で貧しい黒人が成功するには、お金のかからないマラソンやサッカーぐらいしかないんだ」と笑った。  ツェべは八月末に東京で開かれた世界選手権の代表にも決まっていた。白人中心の南ア・アマチュア陸上連合(SAAAU)が国際陸連(IAA)に、ツェべら黒人選手も所属していることを理由として「人種差別」ではない、と参加を要望したのだ。が、アフリカ民族会議(ANC)から反対運動が起き、南アの参加は結局、見送られた。

 人種を越えた組織の統一問題はその後も、尾を引きバルセロナ五輪参加を巡って、いまも立ち往生している。八四年ロス五輪では、南ア国籍だったはだしのゾーラ・バッド嬢が、五輪出場の夢をかなえるため、英国籍で出場したため、黒人グループから強い非難が出た。さらに、米国のかってのやり投げ世界記録保持者、ペトラノフが南アでの競技会に出場して米国陸連から追放され、南アに移籍するなどトラブルが絶えず、陸上を牛耳り続けた白人団体への風当たりは根強い。

 SAAAUのある理卑(もちろん白人)は「黒人の主張する組織統一は、政治戦略である。社会的な力、地位を据るために、スポーツをその道具に使っている。我々には伝統があり、黒人選手も迎え入れているのだから、黒人の団体が率先して我々の傘下に入るべきである」と主張する。一方、黒人側は「ツェべのような優秀な黒人選手を抱える白人クラブは、いまやエージェン卜(代理店)そのものであり、ツェべらを刊用して利益をあげている。ひと握りの黒人だけを優遇するやり方には、妥協できない」と厳しく反論する。  陸上競技人口六万のうち、四割が黒人など非白人人種。現状では、五輪参加が実現しても、黒人が代表になるチャンスがあるのはツェべら長距離選手などほんの数人だけだ。黒人団体の代表を務めるバレリー氏は「でも、将来、力は必ず逆転する。世兄の陸上界をみても、圧倒的に黒人優位なのだから、その土壌は南アにもある。白人支配のいまのままでは、発展しない」。五輪へのトビラは開かれたのに、四つの団体による一本化の話し合いは、なお難航したまま。これが南アの現実である。



 
 
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1991.10.30

金貨市場 栄華再び バブルはじけ堅実性に的  各国売り込み活発 <クルーガーランド>南アも復帰ねらう

日本経済新聞

東京商品部 伊藤記者

 低迷していた金貨市場に客足が戻り始めた。「金地金と同じように値上がりしない」と一時は投資熱の冷めた金貨だが、バブル(泡)経済の崩壊で「堅実な投資商品」というイメージが復活しているためだ。外国の造幣局や日本の販売代理店はこの機を逃す手はないとばかりに売り込みに知恵を絞り、競争は熱を帯びている。

 オーストリア造幣局は九月、駐日事務所を開設した。外国の造幣局の事務所としてはカナダに次いで二番目。八九年に発売した地金型(金地金相場に連動して価格が変動する金貨)の「ウィーン金貨」を売り込むためだ。ギフト・宝飾品用に人気が高い十分の一オンス(一オンス=約三一・一グラム)金貨を日本で限定販売するなど、日本市場への期待は大きい。

国のイメージで売る

 地金型金貨は知名度や純度、デザイン、発行国のイメージが売れ行きを左右する。オーストリアは産金国ではないが「安定した政治・経済や文化の象徴である楽器をあしらったデザインを売り物に、日本市場で一〇%のシェアを目指したい」(池田美子代表)という。

 オーストラリア・カンガルー金貨を扱うクレディセゾンは十月から数個の小型金貨を大型金貨に等量交換するサービスを始めた。カンガルー金貨だけでなくメイプルリーフ金貨(カナダ)、イーグル金貨(米国)、ブリタニア金貨(英国)が対象だ。

 ほぼ毎日申し込みがあるほど好評で、同社では「保管などに便利なため、消費者はより大型の金貨を持ちたがっているのでは・・・」とみる。将来は交換対象に人気のある一キログラム金貨を加えることも検討中。消費者の金貨投資への関心を呼び起こすとともに、カンガルー金貨への乗り換えを勧める一石二鳥の作戦のようだ。

政変でソ連製に人気

 収集家向けに発行枚数を限定した記念金貨の売り込みも活発になっている。今年だけでもオーストリア、チェコスロバキアの「モーツァルト没後二百年」、スペインの「バルセロナ五輪」のほか、米国、ソ連、フランス、ドイツなども記念金貨を続々日本で発売した。プレミアム(地金との価格差)が小さく、希少性の高いことが人気を呼ぶための条件らしい。「政変などで注目されたソ連金貨は特に引き合いが多い」(泰星スタンプコイン=本社東京)という。

 地金型でも中国のパンダ金貨とオーストラリアのカンガルー金貨は毎年変わるデザインが人気の的。「変化を楽しむ収集家が買っている」(住商ゴールド=本社東京)といい、投資家だけでなくコレクターにとっても欠かせない金貨になっている。

 8月から復調の兆し

 九〇年の日本の金貨輸入量は約八・三トンで、ブームの頂点だった八六ー八八年に比べ半減した。特に九〇年以降は金価格が下落、湾岸危機では「有事の金」神話が崩壊し,消費者の金貨離れに拍車をかけた。

 しかし「今年八月から復調の兆しが見えている」(田中貴金属工業)という。金地金の価格は現在一グラム当たり千五百五十円強。南アフリカ共和国の鉱山が採算割れ寸前になっていることや、ソ連の金保有量が二百四十トンしかないと伝えられたことで「金価格がこれ以上大きく下がることはないと見る消費者が増えている」(同)ためだ。

 さらに欧米各国に続き日本も南アへの経済制裁を解除した。制裁前には「金貨といえば南ア・クルーガーランド金貨」といわれた。南アは同金貨の再発行を計画、カナダのメイプルリーフに奪われたシェア奪還を虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。ライバルのオーストラリアも「PR上手の南アが復帰することは金貨市場の拡大につながる」(ゴールド・コーポレーションのドン・マッカイコギル社長)と南アの復帰を恐れながらも期待する。

 日本は世界有数の金貨市場。「黄金時代」の復活を目指す各国の売り込み合戦は今後ますます激しくなりそうだ。



 
 
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1991.11.1

燃えぬ南ア・ビジネス 経済制裁解除にも産業界クール 「政情不安定」に二の足

日本経済新聞

 欧州共同体(EC)、米国に続いて、日本が十月二十二日、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策に対する経済制裁を解除した。南アは国際部隊に全面的に復帰、先進各国の同国への投融資活動にも道が開けた。これを機に海外から資金を呼び込んで経済の低迷を打開しようと意気込む南アだが、西側企業は将来性には注目しながらも、国内政治の不安定を理由に投資には慎重な反応を見せている。名実ともに南ア経済が軌道に乗るにはまだしばらく時間がかかりそうだ。

 日本政府の制裁解除決定に合わせるように十月、南アフリカの政府要人や金融・ビジネスマンの来日が相次いだ。解除で再開される対南ア直接投資に備え、日本の関係者と接触、今後の太いパイプを築き上げるためだ。

 「(日本の制裁解除は)喜ばしい。これで日本企業の南ア進出を妨げるものはなくなった。すでに日本の金融期間と投融資の話を進めている」(デュプレシア南ア蔵相)、「日本や諸外国からの最新技術の移転を望む」(セボベ南ア・ビジネス協会会長)と一様に日本との経済関係の拡大に期待を寄せる。

 経済制裁が南アに及ぼした影響は予想以上に大きかった。各国が南アへの経済制裁を強化した八五年以降、南ア経済は低迷。高いインフレ率と失業率、財政赤字を抱え、実質経済成長率はマイナスに陥っていた。

 解除を前にして動いたのは、南ア政府だけではない。日本側も、ECや米国などの動きを受けて経済制裁解除が間違いない状況になった今春以降、財界、産業界の南アへの関心が高まってきた。経団連は四月下旬、山口保東京銀行副頭取を団長とする視察団を南アに送った。南アの経済、社会の現状を視察し、日本企業の南ア進出の可能性を探るためだ。七月には金融機関の視察団が投資環境を調査するために南ア入りした。

 マツダのように解除をにらみ、南アの自動車メーカー、サルコーム社への資本参加交渉を進める企業も現れた。

 だが、日本政府の制裁解除発表後の動きは、思ったほどの盛り上がりに欠けるのが実情。「これから可能性を検討する」(大手商社)、「経済制裁下でも、クロムなど希少金属の輸入は除外されており、今回の制裁解除の影響はない」(非鉄金属業界)と冷静な見方が多い。解除項目の一つである航空機の相互乗り入れについても「現時点では南ア便の需要は少なく、魅力ある途中経由地もない」(日本航空)とつれない。このため、「貿易量が急激に増加することはない」(通産省中東アフリカ室)との見方が支配的だ。

 盛り上がりに欠けるのは日本だけでない。日本に先駆けて制裁を解除した欧米でも、南アへの投融資が南アの期待ほど集まっていない。英国の大手証券、スミス・ニューこーとが南アを対象にしたカントリーファンドを初めてロンドン証券取引所に上場しようとしたが、募集の五千万ドルの半分も応募がなく、十月上旬、上場中止が発表された。

 南ア経済の将来性に魅力を感じているものの、欧米の投資家が慎重なのは、現在の政治状況にいまだ不安感を持っているからだ。

 南アでは、九月にアフリカ民族会議(ANC)やインカタ自由党など主要黒人勢力が和平協定を調印したにもかかわらず、黒人間の抗争がなお続いている。黒人の参政権が焦点となっている憲法改正問題も南ア政府と黒人勢力間の意見の相違が大きく、解決には時間がかかりそうだ。

 ANCは日本の制裁解除決定に対し、時期尚早との否定的な反応を示した。ロンドンの金融街シティーでは「ANCが企業接収や国有化の可能性を口にしている限り投資はできない」との声が一般的だ。

 東銀の山口副頭取は「南アの国内政治が安定するにはあと五年はかかる」と指摘する。それも新憲法の制定と浸透がうまくいっての話だ。投資環境が整うのはさらに先になるかもしれない。南アの政治状況が混乱している理由の一つに南ア経済の低迷がある。だが一方で、経済を活性化するため外資を呼び込むには政治の安定が不可欠だ。一連の経済制裁解除も南ア経済浮上の即効薬とはならないようだ。



 
 
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1991.11.2

南ア外相非公式訪ソへ

朝日新聞

モスクワ支局1日

ソ連タス通信は三十一日、ボタ南アフリカ共和国外相が十一月にソ連を非公式訪問したいと希望を表明したと報じた。ソ連政府高官の発言によるもの。

 ボタ外相はモスクワ、サンクトペテルブルク、ウクライナ共和国の首都キエフを十一月の初旬にも訪問する意向。ソ連と外交関係のない南アの外相とクレムリンの公式筋が会見する可能性は強く、今回の非公式訪問が両国間の国交樹立につながるステップとなるかが注目される。



 
 
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1991.11.2

南ア大統領が14日から訪台

日本経済新聞

香港1日=桜井記者

台湾外交部(外務省に相当)は一日、南アフリカ共和国のデクラーク大統領が十一月十四日から十六日まで台湾を訪問すると発表した。ボタ外相らが随行し、台湾の李登輝相当ら当局首脳と国際情勢などについて協議する。



 
 
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1991.11.4

旧黒人居住区で警官ら7人死ぬ 南アで暴動

朝日新聞

ナイロビ5日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国ヨハネスブルク周辺の旧黒人居住区ソウェト、トコザ、アレクサンドラなどで二日夜から三日朝にかけ、民家やバス、警察車両が相次いで銃撃を受け、警官一人を含む七人が死んだ。黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANC)系の南ア労働組合会議は四日から、先月導入された付加価値税に反対してゼネストを計画。保守派黒人政党「インカタ自由党はこのゼネストに強く反対しており、旧黒人居住区を中心に両者の緊張が高まっている。



 
 
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1991.11.5

労働者が衝突15人が死亡 南アでゼネスト巡り

朝日新聞

ナイロビ4日=五十嵐記者

南アフリカ共和国オレンジ自由州のアングロ・アメリカン社所有の金鉱で四日未明、同日から始まるゼネスト参加をめぐり、スト賛成派と反対派の労働者が衝突、十五人が死亡、三十人以上がけがをした。



 
 
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1991.11.5

南アで大規模ゼネスト

日本経済新聞

ロンドン4日=影井記者

南アフリカ史上最大規模のゼネストが四日、同国内の鉱山現場を中心に始まった。十月に導入された付加価値税(VAT)に反対する黒人勢力、アフリカ民族会議(ANC)などの呼び掛けによるもので、鉱山労働者を中心に約三百万人が参加、五日まで続く予定という。ゼネスト突入前夜の三日にはオレンジ自由州のベルコム金鉱山でストに反対する労働者との間で衝突が起き、十五人が死亡、四十三人が負傷した。



 
 
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1991.11.6

NY金、手じまいで反落 南アのスト材料視されず

日本経済新聞

米州総局

 五日のニューヨーク金先物相場は反落し、コメックス(商品取引所)で取引の中心となっている十二月ぎりは前日比二・七ドル安の一トロイオンス三五五・四ドルで取引を終えた。

 金は朝方は欧州市場の水準を受け継いで小幅高で始まった。一部のトレーダーがケイ線を手掛かりに買いを先行させたが、追随する向きは少なく、手じまい売りに転じると相場は反落。商品ファンドや地場投機筋の売りをきっかけに、「十二月ぎり下値支持線だった三五八ドル台半ばを割り込むと、下げが大きくなった」(シェアソン・リーマン・ブラザーズ)。前日の相場反発の材料になった南アの鉱山労働者ストライキについて、下支え要因とみる向きはほとんどなくなった。



 
 
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1991.11.7

南ア、五輪に復帰 32年ぶり

日本経済新聞

ロンドン6日=影井記者

南アフリカ共和国が三十二年ぶりにオリンピックに復帰することが決まった。南ア・オリンピック委員会(NOCSA)は六日の会合で、国際オリンピック委員会(IOC)の招請に応じ来年夏のバルセロナ五輪に選手団を派遣することを正式決定した。アパルトヘイト(人種隔離)政策に対する制裁の一環として、一九六〇年のローマ五輪に白人選手団を派遣したのを最後にスポーツの祭典から追放されていた南アは、バルセロナ五輪には黒人選手も含む統一選手団を派遣することになる。

 IOCは今年七月に開いたNOCSAとの合同会議で、一、アパルトヘイト法の完全撤廃、二、人種別スポーツ組織の統一ーーといった五輪復帰の条件が満たされたと発表していた。南アでは黒人勢力を中心に「五輪復帰は時期尚早」との反対論も根強いが、非白人メンバーも加えて再編成されたNOCSAの実行委員会は全会一致で決定した。



 
 
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1991.11.8

実現にはなお課題 国旗や競技団体の統一

朝日新聞

バルセロナ7日=伊藤千尋

 南アフリカ共和国オリンピック委貫会が来年のバルセロナ五輪に選手の派遣を決定したが、同国では使用する国旗をめぐって論争が起きたり、陸上競技団体が統一されていないなど、なお問題を残している。

 選手派遣の決定に対して、アパルトヘイ卜(人種隔離)に反対する人権団体は、「まだ差別が完全に撤廃されたわけではない。オリンピック憲章を満たす状態ではない」として、同国チームの五輪復帰を不当と批判した。

 一方で、スポーツ担当のピナール国民教育.環境相は、同国の国旗と国歌がオリンピックで使用されず、べートーベンの第九「歓喜の歌」が「統一歌」の代わりになるとの決定について「統一国民の顔をひっぱたくようなものだ」と、不満を表明した。

 国論の分裂だけではない。陸上競技団体は依然として人種別に分かれている。南ア五輪委は来年一月までに統一するよう求めているが、亀裂は深く、統一の見通しは厳しい。

 こうしたさまざまな問題を抱えてはいるが、選手たちは五輪委の決足を歓迎している。



 
 
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1991.11.9

「第九の代用」非難 南ア大統領が演説

朝日新聞

ナイロビ8日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国のデクラーク大統領は七日、与党・国民党のトランスバール州大会で演説し、南アオリンピック委貝会(NOCSA)が来年のバルセロナ五輪参加の際に現行の国旗、国歌の使用を見直し、べートーベンの交響曲第九番「歓喜の歌」を使うとしたことを「誇るべき伝統を踏みにじるもの」と非難。「同委員会には国旗、国歌の使用を決める権限はない」と述べた。

 また同委員会が、今世紀初めから南アの象徴となっているスプリングボック(カモシカの一種)に代わるシンボルマークを公募する方針であることにも、強く反対した。



 
 
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1991.11.9

国連の対南ア武器禁輸制裁 「日本含む38社違反」 南ア紙報道

朝日新聞

ナイロビ8日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国の有力週刊紙ウイークリー・メールは八日、国連による対南ア武器禁輪制裁にもかかわらず、日本企業を含む三十八企業が南アに武器輸出を行っていた、と報じた。同紙が入手した政府文書に基づくものだ。

 同紙によると、国連制裁に違反したのは日本のほか、米、独、英、仏、スイス、イタリア、オーストリア、豪、オランダ、スペイン、ブラジルの企業で、南ア武器公社(ARMSCOR)などに、大規模な武器、、部品、軍用品の売却を行っていた、という。

 日本企業ではハイマウント社軍事用双眼鏡六百十五個を輸出したとされるほか、モリ・セイキ(英文の音読み)、丸紅の名前が挙がっている。輸入は、公社関連会社や一般企業を通じて行われ、公社や南ア軍の名前は表面に出ないよう工作。その一例として、丸紅がナタール州の衣料会社を通じて輸出した例が示されている。

 丸紅ヨハネスブルク支店は、「古い話のようで、現時点では事実関係はよくわからない。ハイマウン卜社、モリ・セイキという名前にも、心当たりはない」と話している。また、同公社は八○年代半ぱに欧州、南米、アフリカ諸国などに武器、軍備品を売却。特にイラクへは、七千六百キロ分の爆弾、地雷、魚雷、手投げ弾とミサイルなどを輸出した、としている。 制裁実施後は全く輪出なし 森精機社長が否定  工作機械メーカー森精機製作所(本社・奈良県大和郡山市)の森幸男社長はアパル卜ヘイ卜(人種隔離)政策による経済制裁が始まる前までは、ヨハネスブルクに代理店や駐在員を置き、マシニシグセンターと旋盤を輸出していた。輸出時は通産省に届け出ていたし、制裁には協力して、以後全く出していない。納入先ははっきりとは覚えていないが、軍需関係のところはないはずだ。モリ・セイキとあればおそらくウチのことだろうが、工作機械を輸出していただけで、何が武器輪出に関連するのか、全く見当がつかない」と当惑している。 丸紅も否定 丸紅の秋山厚・広報担当取締役は「これだけでは確認のしようがないが、武器輸出などはとても考えられない」と強く否定している。



 
 
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1991.11.9

丸紅のは特殊繊維 輸出規制の対象外 日本総領事館が見解

朝日新聞

ヨハネスブルク8日=共同

ヨハネスブルクの日本総領事館は八日、南アフリカの週刊誌ウイークリー・メールが日本の丸紅などの外国企業が武器の密輸に関与していたと伝えたことについて、丸紅が輸出したのは消防服などに使用される特殊な繊維で、通産省の輸出規制の対象外との見解を示した。

 総領事館によると、丸紅側はナタール州の繊維会社に繊維を輸出したことを認めたものの、「南ア武器公社に納入されるとは知らなかった」と説明した。



 
 
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1991.11.9

日本企業などが南アと武器取引 地元紙報道

日本経済新聞

ロンドン8日=影井記者

南アフリカ「ウィークリー・メール」紙は八日、八〇年代に世界の少なくとも三十八社が南アの軍需メーカーとの取引に携わっていたと報じた。取引内容によっては、国連による対南ア武器禁輸決議に反する恐れもある。同紙によると、このなかには日本の丸紅、森精機製作所、ハイマウント社の三社が含まれている。

 同紙は、世界で十指に入ると言われる軍需メーカー、南ア・アームスコール社の内部資料を入手したと述べている。同紙が報じた取引企業は、日本のほか米国、英国、ドイツ、フランス、スイス、イタリア、オランダ、オーストリア、スペイン、ブラジルと多岐にわたる。

 一部欧米企業の場合は兵器そのものや兵器部品を取引したと指摘しているが、日本の三企業による取引が軍需物資取引にあたるかどうかは不明だ。

 秋田厚・丸紅取締役社長室長の話 当社が武器を輸出することはあり得ない話だ。報道された内容について詳細がわからないので何とも言えないが、仮に取引をしていたとしても、武器ではないはずだ。なぜ当社の名前が出たのか調査したい。

 森精機製作所森幸男社長の話 武器輸出は、どんな角度から見ても、絶対ありえない。工作機械に関しては大型のマニシングセンター、NC旋盤を七〜八年前まで輸出していた。多い時は年十四、十五台だった。ヨハネスブルクに駐在員を一人置いていた。アパルトヘイト問題が表面化した八年前に駐在員は引き上げ、輸出は完全にストップしていた。工作機械の使用目的については完全には把握できない面もあるが、アームスコール社という社名にはまったく聞き覚えがない。



 
 
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1991.11.12

イスラエルを公式訪問

朝日新聞

ナイロビ支局11日

 南アフリカ共和国のデクラーク大統領は10日、3日間の予定でイスラエルを公式訪問。ヘルツォグ大統領との会見で、「民主南アの誕生によっても、両国の友好関係は変わらない」と強調した。

 イスラエルは南アと緊密な関係を持っていたが、87年に経済、文化交流などの対南ア制裁に参加、今年7月に解除した。これを受け両国は経済関係の再強化を図る意向で、11月にはソ連訪問を終えた南アのボタ外相とイスラエルのレビ外相が、経済、文化、科学などの分野での協力合意文書に署名の予定になっている。



 
 
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1991.11.12

再び労働者衝突52人死亡

日本経済新聞

ヨハネスブルク11日ロイター

南アフリカの警察当局が11日明らかにしたところによると、南ア・オレンジ自由州にある大手鉱山会社アングロ・アメリカン社の金鉱山で10日夜(日本時間11日未明)、鉱山労働者間の新たな衝突が発生、黒人労働者52人が死亡した。同鉱山で3日以来繰り返されてきた衝突の死者は、これで計89人になった。



 
 
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1991.11.13

対南ア武器輸出を否定

日本経済新聞

 南アフリカ共和国の有力週刊誌が丸紅を含む三十八企業が国連の対南ア武器輸出禁止制裁に反して、南アに武器輸出をしていたと報じたことについて、丸紅は十二日、社内調査の結果、武器輸出の事実はなかった、と発表した。



 
 
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1991.11.14

和平結ぶ方法は対話だけ さすが経験者の確信 イスラエル訪問の南ア大統領が助言

朝日新聞

カイロ13日=六分一真史

イスラエル訪問中のデクラーク南アフリカ大統領は十二日、テルアビブで記者会見し、中東和平を成し遂げる方法について「相手がだれでも和平を結ぶ方法は一つしかない。対話を始めることだ」と語った。中東和平会議は、本格的な二国間交渉の開催地などをめぐって、アラブ側とイスラエル側の意見が対立したまま中断している。国内の黒人勢力との対話によって和解への道を順調に進める同大統領は、記者の質問に確信をもって答えた。

 デクラーク大統領はまた、イスラエル国営放送を通じて、南アフリカとイスラエルがともに「運命にかかわる重要な歩み」を踏み出している、と語った。そのうえで、両国民がともに「公正な体制の中で、正義を抱いて、平和にやすらかに暮らせる時代が来るよう望む」と期待を述べた。

 南アが六月、人種差別法の中で最後に残っていた人口登録法を撤廃した後、イスラエルは米国などの決定に追随して七月に、対南ア経済制裁を中止した。また、制裁中、南アがイスラエルから核兵器を含む軍事技術を提供されている、との疑いが持たれていたが、同大統領は、南アが核不拡散条約に署名したことを強調し、「すべての施設は、査察を受けられる」として、うわさを否定した。



 
 
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1991.11.14

高級車南アで生産 日産、「マキシマ」月500台

日本経済新聞

 日産自動車は南アフリカ共和国の現地工場で新たに中型高級車「マキシマ」(排気量三千cc級)の生産を始めた。日本から部品を輸出、現地で組み立てる方式。当面月産五百台を目指す。南アではトヨタ自動車なども乗用車をKD(ノックダウン)生産しているが、マキシマ級の中型高級車の生産に踏み切るのは日系メーカーでは初めて。

 南ア政府の人種隔離(アパルトヘイト)政策の廃止決定に伴う西側各国の経済制裁解除で今後自動車市場の拡大が予想され、日産は車種ぞろえの強化で需要拡大に備える。 日産は現地資本一〇〇%の日産サウスアフリカ社(本社プレトリア市)で現在、乗用車はスカイライン、サニーの小型二車種を組み立て生産している。商用車を含めた生産台数は現在月産約三千五百台。新たに生産を始めたマキシマは当初月産百二十台でスタートした。

 現地生産車種にマキシマを追加したのは南アでも高級車の需要が徐々に拡大し始めたため。トヨタなど他メーカーに先行するかたちで中型高級車の生産を決めた。現地での販売価格は円換算で五百万円前後とした。日産は南ア国内の二百二十カ所に販売店を持つ。マキシマについても従来の販売網を通じて販売する。



 
 
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1991.11.15

今年のプラチナ6.5トン供給過剰に 英社が中間報告

日本経済新聞

 英国ジョンソン・マッセイ社(本社ロンドン)は十四日、「九一年プラチナ中間調査報告書」を発表した。九一年の西側世界の需要量は前年に比べ五%増え過去最高の百二十・七トンに達する一方、供給量は九・七%増加し百二十七・二トンになると予測している。このため六・五トンの供給過剰になるとしており、過剰分は前年の一・一トンを五・四トン上回ることになる。

 需要の伸びを支えるのは日本を中心とした宝飾品需要と投資需要。宝飾品向けは七・五%増の四十五・七トンが見込まれ、世界全体の消費量の三八%を占める。一方、供給面では南アフリカ共和国の供給が九十・二トンと前年実績を上回るほか、ソ連の売却が六・五トン増え二十八・九トンに達し供給過剰に拍車をかけるとみている。



 
 
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1991.11.15

南ア大統領、台湾を訪問

日本経済新聞

台北14日=奥村記者

南アフリカ共和国のデクラーク大統領が十四日、台北に到着した。南アフリカと台湾は公式外交関係を持つが、大統領が台湾を訪問したのはこれが初めて。三日間の滞在中に李登輝総統や台湾経済人と会談する。



 
 
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1991.11.16

南アを重点市場に 英貿易相講演

朝日新聞

ロンドン14日=時事

南アフリカ共和国を訪問中のセインズベリ英貿易産業担当相は十四日、ヨハネスブルクでの講演で、今後、南アを英国の重点市場と位置付け、貿易促進策を講じていく方針を明らかにした。

 同相は、南アの政治改革進展を歓迎すべき状況と評価。政治的障害が取り除かれたことで、南ア市場への各国の関心が高まっており、英国としても貿易、投資両面のシェア拡大を目指す積極的な戦略を展開していくと強調した。

 同相の南ア訪問には、ロールスロイス、ブリティッシュ・エアロスペースなど英有力企業の幹部が同行している。昨年の英国の対南ア輸出総額は十億ポンド(役二千三百億円)近くに達している。



 
 
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1991.11.18

白人進歩派が新憲法でANC同調

毎日新聞

 南アフリカの白人進歩派、民主党は16日までに、新憲法草案について、従来の基本姿勢を転換し、アフリカ民族会議(ANC)など黒人勢力に譲歩、1人1票に基づいて選挙を経て新設する制憲議会が草案策定に当たるべきだとする新方針を打ち出した。今月末にも開催される制憲協議会で正式に提起する。



 
 
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1991.11.22

初の制憲協議会来月20日に開催 南アの3者合意

朝日新聞

ヨハネスブルク21日=共同

南アフリカの国民党政府と黒人組織、アフリカ民族会議(ANC)とインカタ自由党の三者は二十一日、新憲法制定問題を話し合う第一回制憲協議会を来月二十、二十一日の両日に開催することで合意した。

 制憲協議会では、新憲法制定までの暫定統治問題が最優先議題として協議されることが確実視されており、南アは制憲交渉開始でアパルトヘイト(人種隔離)の完全撤廃に向けた新局面を迎えることになる。



 
 
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1991.11.23

南アとルーマニア国交

朝日新聞

ナイロビ支局22日

南アフリカ共和国を訪問中のナスタゼ・ルーマニア外相と南アのボタ外相は二十二日、正式な国交樹立の合意書に署名、近く大使を交換する運びとなった。両国は今年三月、すでに領事館レベルでの外交関係を始めている。



 
 
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1991.11.27

南ア・キューバも参加 バルセロナ五輪申し込み 19ヵ国は未回答

日本経済新聞

バルセロナ26日共同

九二年バルセロナ夏季五輪の国別参加申し込みが二十五日締め切られ、先に国際オリンピック委員会(IOC)に復帰した南アフリカ、一九八四年ロサンゼルス、八八年ソウル両夏季五輪をともにボイコットしたキューバと朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)など百五十一の国と地域がIOCに対して正式に参加を回答してきたことが明かになった。

 五輪憲章では参加招請状の発送から四カ月以内に国別参加申し込みを完了しなければならないとしている。しかし、実際には締め切り後の申し込みも有効で、IOCに復帰したばかりでまだ回答していないエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国などが今後参加を伝えるものとみられる。

 ボイコットのない"平和の祭典"を目指すバルセロナ五輪組織委員会(COOB)は、IOCの承認する百七十の国内オリンピック委員会(NOC)すべての参加を希望。大きな政治問題を抱えていない今回は、前回ソウル五輪の百六十カ国(地域を含む)を超す史上最大規模だけでなく、全NOCの参加の実現も可能とみている。

 参加を回答した中には、内戦にゆれるユーゴスラビアや湾岸戦争の当事国であるイラク、クウェートなども含まれている。

 まだ回答を寄せていないのは、バルト三国のほかアフガニスタン、ブルネイ、ニカラグア、パナマなど十九カ国。



 
 
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1991.11.29

ダンピングで初の調査

朝日新聞

 政府は、中国、ノルウェー、南アフリカから輸入された製鋼用副原料「フェロシリコマンガン」の不当廉売で、二十九日ダンピング調査に入る。ダンピングの事実があればダンピング関税をかける。日本ダンピング調査開始は初めて。

 フェロシリコマンガンの国内メーカーは日本重化学工業、中央電気工業など四社。業界団体の日本フェロアロイ協会(会長・小林和三日本電工社長)が今年十月八日、大蔵省に対し、輸入フェロシリコマンガンにダンピング関税をかけるよう求める提訴をしていた。



 
 
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1991.11.30

南ア、新憲法へ一歩

朝日新聞

アディスアベバ29日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国の新憲法制定交渉の第一歩となる全政党(複数政党)会議の予備会議が二十九日、ヨハネスブルク郊外で始まった。会議は来月二十日開会の予定となっている全政党会議の細目を決める。新憲法制定に向けた交渉は、旧黒人居住区での暴力問題などで足踏み状態が続いていたが、交渉開始に向け大きく動き出した。

 会議には白人政権、「アフリカ民族会議」(ANC)など約二十政党・組織が参加した。



 
 
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1991.12.4

「南ア制裁解除徐々に進めて」 マンデラ氏が国連演説

日本経済新聞

ニューヨーク3日=守田記者

アフリカ民族会議(ANC)のネルソン・マンデラ議長は三日、国連総会で演説し、「南アフリカは少数の白人が支配層を占めるアパルトヘイト(人種隔離)体制下にある」と強調、一、暫定政府の設置、二、民主的選挙による新政府の誕生ーーという民主化スケジュールに合わせて、徐々に南アに対する制裁解除を進めるべきだと主張した。



 
 
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1991.12.6

南ア第2の企業会長が貿易相に

毎日新聞

 南アフリカデクラーク大統領は4日、同国第2の企業ジェンコー社のデレク・キーズ会長を貿易・産業・経済調整相に任命した。新憲法制定に向けて、「南アには健全な経済発展を企画・調整できる体制が不可欠」としており、南ア財界に改革路線支援を訴えている。



 
 
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1991.12.6

米大統領、マンデラ議長と会談

毎日新聞

 ブッシュ米大統領は5日ホワイトハウスで、南アフリカ共和国のマンデラ・アフリカ民族会議(ANC)議長と会談した。マンデラ議長は席上、米国がデクラーク政権に対し、アパルトヘイト(人種隔離)政策完全撤廃と民主化をさらに促進するよう今後も圧力をかkれ続けるよう必要性を訴えた。



 
 
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1991.12.6

米大統領、マンデラ氏と会談

日本経済新聞

ワシントン5日=春原記者

 ブッシュベイ大統領は日、南アフリカ共和国の黒人運動組織、アフリカ民族会議(ANC)の最高指導者、ネルソン・マンデラ氏と会談し、アパルトヘイト(人種隔離)政策廃止後の南ア情勢について意見を交換した。

 会談後の講演でマンデラ氏は、米政府が今後も南アのデクラーク政権に人権問題で圧力をかけていくことを確約したと述べるとともに、南アへの直接投資を確保するため、開発銀行の設立にブッシュ米大統領が前向きの反応を見せたと語った。



 
 
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1991.12.7

南ア大統領13日訪ソ

日本経済新聞

モスクワ6日=為定記者

 ソ連外務省のチュルキン報道官は6日の会見で、デクラーク・南アフリカ大統領が13日からモスクワを訪問することを明らかにした。南アからの申し入れに基づくもので、56年以来の国交断絶状態に終止符を打つ訪問となる。



 
 
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1991.12.12

南アに「対話」の時代

毎日新聞

(海外コラムニストの目)ジム・ホーグランド(米・ジャーナリスト)

 私がちょうどネルドン・マンデラ・アフリカ民族会議(ANC)議長とインタビューしている時に、テレビ速報が、ベイルートで米人人質、テリー・アンダーソン氏の解放を報じた。長期拘禁といえば、マンデラ氏は27年間、政治犯として服役した。獄中の年月が、自分をどう変化させたかをたずねてみた。

 答えはこうだった。「私が刑務所へ送られた当時、アパルトヘイト(人種隔離政策)の南アで、白いご主人と黒い召使の間の対話は皆無だった。だが、少なくとも服役中は、対話しないわけにはいかない。警官、裁判官、看守とじかに接するからだ。その結果、彼らも我々も、元のままでいられなくなる。彼らは正義が黒人側にあることに気付く。我々もまた、白人の中に『彼らは人間だ。このように扱ってはならない。こんなことしていると、立場が逆になる日が来る』と説く人がいることに気付く」

転換点のマンデラ氏

 南アの黒人多数派に対する白人の専制が終わる日が、これほどの早さで近づこうとは、21か月前にマンデラ氏が釈放された当時には、考えも及ばなかった。いま、マンデラ氏が米国の四都市を、あまり目立たずに、急ぎ足で訪問していることは、南アの紛争が新局面に入りつつあることの重要な兆候である。

 同氏はニューヨークの国連総会で、南アに民主的で人種差別のない新政権ができるまで、デクラーク大統領の政権に経済的、外交的圧力をかけ続けるよう訴えた。ワシントンではブッシュ大統領と会談した。

 だが、その後のピッツバーグとヒューストンへの訪問こそ、南アがいかに大きく変わったかを示すものだ。この二つの経済都市で、マンデラ氏は企業と財団の代表者たちと精力的に会い、アパルトヘイトは廃止後の南ア投資について協議した。

 彼は国連演説の中で、国際的経済制裁の段階的な解除を認め、オール・オア・ナッシングの姿勢を微妙に変えた。そして各地の企業グループに対して、新規の南ア投資計画(今すぐ投資せよというのではないが)を勧めている。

 マンデラ氏の発言は、重大な心理的転換点が過ぎた事を示している。ANCの指導部は、デクラーク大統領が誠意を持って南アの白人専制を終わらせようとしている。との結論に達したのである。

交渉の成果近い

 この20日に始まる憲法制定への全政党予備会議について語る時、マンデラ氏は「情勢は好転している」と、誇らしげに述べた。自分とデクラーク大統領は、相思相愛とまではいかないが、世界で最も長引いた、爆発的な人種対立に幕を引くための、共通の基盤を持っている、と強調した。

 「デクラークと彼の国民党の仲間たちは、少なくとも言葉とイデオロギーの面で、アパルトヘイトを放棄した。ANCとは交渉しない、と言い続けていた彼らが、いまやANCの和平イニシアチブに沿って、話あっている」

 個々の問題ではまだ多くの不信や相互批判が残っている。だが、マンデラ氏の米国での言動は、交渉の成果が実る時が遠くないことを示している。

 デクラーク大統領は、あからさまに認めてはいないが、20日からの予備会議を、国民党、ANC、インカタの連立政権に向けて動かそうとしている。彼は政権の放棄ではなく、分担を望み、そのために交渉しようとしている。

 1990年6月の訪米時、マンデラ氏はまだ、デクラーク大統領の意図を疑い、自分の自由を試していた。今回、彼の言葉は、驚くほど自信に満ちている。

 デクラーク大統領が自分を釈放したことについて、マンデラ氏は「彼は変革を求める内外の圧力に、もはや抵抗できなかったのだ。彼は正直な人間だ。彼はいくつかの重要な改革を実行した。だが、なすべきことはまだ多く、いま国際社会からの関与をやめることはできない」と語る。

 米議会内にも、制裁の段階的解除を求める動きが出ている。マンデラ氏が看守との間ではじめ、デクラーク大統領との間ではじめ、デクラーク大統領との間で続けてきた「対話」は、時代の主流になりつつある。



 
 
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1991.12.12

南ア政治犯120人が帰国

毎日新聞

南アフリカからの報道によると、政治犯として追われ、タンザニアに逃げて難民となっていたアフリカ民族会議(ANC)活動家か120人が11日、ダルエスラームからの直行便でヨハネスブルクの空港に到着した。マンデラANC議長夫人らが出迎えた。国外にいる南ア政治犯は約3万人で、これまでに7000人が帰国している。



 
 
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1991.12.18

PAC、全政党会議をボイコット

毎日新聞

 南アフリカ共和国の黒人左派組織、パンアフリカニスト会議(PAC)は16日、今月20、21の両日に開かれる南ア新憲法制定を協議する初の全政党会議「民主南ア会議(CODESA)をボイコットすることを決めた。PACは、「CODESAは、黒人多数派への権力の移譲を保証する民主的な会議ではない」として、会議への不参加を公式に表明した。



 
 
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1991.12.20

中国・南ア、相互に事務所

朝日新聞

北京支局19日

中国外務省は十九日、中国と南アフリカが「民間団体」の事務所を近く相互に開設することを明らかにした。中国が南アに設置するのは研究機関の「南アフリカ研究センター」。南アは韓国と並んで、台湾が国交を結んでいる有力国の一つ。



 
 
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1991.12.20

きょう開催の南ア会議 「インカタ」は不参加 内戦への懸念も

毎日新聞

ヨハネスブルク

南アフリカの人種差別350年の歴史に終止符を打ち、黒人への参政権付与を含む新憲法制定問題を話し合う「民主的な南アを目指す会議」が20日、ヨハネスブルクで国内20以上の政党が参加して開かれる。アパルトヘイト(人種隔離)後に向け、黒人代表も含めた初の歴史的な正式交渉で、、新憲法草案作成や黒人を含めた議会構成を討議するが、黒人保守派有力組織「インカタ自由党」(IFP)のブテレジ議長が18日、出席取りやめを表明し、会議の基盤自体がゆらぎ兼ねない状況だ。

IFPが出席取りやめを表明したのは、同日の準備会議が、IFPの支持基盤ズールー族の元首、ズウェリシニ王が独自の代表団を率いて出席することを拒否したため。ブテレジ議長は18日の決定を「ズールー族の権威を侮辱するもの」と非難した。ズールー族は600万人を擁する国内最大の部族で、参加拒否の場合は会議の決定が拘束力を持たない恐れがでてくる。2日間の討議で単純明快な「一人一票制」が実現すれば南アの歴史的転換点となるが、失敗した場合は内戦になりかねない。



 
 
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1991.12.21

暫定政府へ改憲も民主南ア会議開幕 大統領、演説で提案

朝日新聞

ヨハネスブルク20日=五十嵐浩司

一人一票制の新憲法制定に向け南アフリカ共和国の白人、黒人団体が初めて正式に話し合う、全政党会議「民主南ア会議」(CODESA)が二十日、ヨハネスブルク郊外の世界貿易センターで始まった。南ア政府を代表して同日夕演説したデクラーク大統領は、新毛憲法検討期間の移行措置として、黒人勢力をも含む暫定政府の樹立と全人種参加の議会の設置を初めて公式に提案。この目的に沿って即刻、憲法の一部改正の話し合いを始める用意があることを明らかにした。

 今回の会議は二日間の予定で、政府や黒人解放勢力の中心「アフリカ民族会議(ANC)など十九政党・団体が参加。新憲法の基本理念や制定の方法、暫定政府など移行措置を討議する。南ア民主化は、新憲法制定の最も重要な局面を迎えた。

 デクラーク提案によると、暫定政府は「全国民を広く代表するもの」とし、憲法改正、新憲法制定を推進する役割を果たす。全人種による議会は、ANCが主張する制憲議会にもなるうる、としている。

 参加政党・団体代表演説の中で、マンデラANC議長は、同会議の開催によって南ア民主化の動きが「後戻りできないものになる」と評価した。ANCはこれまで、デクラーク大統領の「民主化はすでに後戻りできない」との発言に反発、「後戻りもありうる」と国際社会に制裁の継続、関係改善の見合せを要求していた。同議長の評価は、ANCと政府の距離がさらに狭まったことを示している。



 
 
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1991.12.21

黒人参政権 受け入れ表明 南ア大統領

日本経済新聞

ロンドン20日=後藤記者

南アフリカ共和国のデクラーク大統領は二十日、同日開幕した民主南ア会議(CODESA)で、「議会に黒人の進出を認める用意がある」と述べ、黒人参政権を全面的に受け入れる考えを公式に表明した。同大統領は「政府をあらゆる人種の代表で構成することが、南アの最大の利益になることを確信している」と述べ、黒人参政権を中心とする憲法改正を早急に進める考えを表明した。



 
 
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1991.12.22

住む家を持たない南ア黒人を救おう カレンダー販売で支援 アフリカ行動委員会

朝日新聞

 南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)に反対する市民グループ、アフリカ行動委員会が、来年のカレンダーを作製した。売り上げの一部を、南アのホームレスの黒人の福祉活動に寄付する。

 カレンダーは、縦八十五センチ横五十五センチ。ホームレスの男の子が夜風に吹かれている版画の横に、「ANTI-APARTHEID」(反アパルトヘイト)の文字が印刷されている。版画は、同委員会のカレンダー作製に毎年協力している画家、降矢洋子さんの作品だ。

 同委員会によると、南アのアパルトヘイト体制を支えてきた、最後の人種差別基本三法は六月で失効したが、強制移住で黒人から収用した土地は返還されず、都市周辺の空き地にバラックを建てて住んだり、住む家を持てない黒人が多い、という。「法律は失効しても、実態としてのアパルトヘイトは残っているんです」  売り上げの一部は、こうした人たちを支援する活動に充てる。

 一部千円、送料別。十部以上は二割引きで送料無料。カレンダーの申し込み・問い合わせは、東京都渋谷区恵比寿四の五の二三の三〇六、アフリカ行動委員会(電話〇三ー三四四三ー九七七五)



 
 
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1991.12.24

新憲法制定来年末にも

マンデラ議長

毎日新聞

ヨハネスブルク22日

南アフリカ最大の黒人組織「アフリカ民族会議」(ANC)のマンデラ議長は21日、2日間の「民主的な南アを目指す会議」を終えて会見。「新憲法は来年のクリスマスまでに制定できると確信している」と述べ、全人種に開かれた参政権導入など、南ア政府の速やかな対応を促した。



 
 
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1992.1.8

ポール・サイモン南ア公演 「反対」「歓迎」で論議 制裁解除の是非からみ

朝日新聞

ナイロビ7日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国への文化交流制裁解除を受け11日から始まる米歌手ポール・サイモンの南ア公演が、南ア国内で論議を呼んでいる。アフリカ主義の強硬派「パンアフリカニスト会議」(PAC)は4日声明を発表し、民主政府樹立まで制裁は継続すべきだとして「何らかの行動を取る」と警告。一方、南ア政府、「アフリカ民族会議」(ANC)、インカタなどは公演歓迎で論陣を張る。大物芸能人としては制裁解除後、初の南ア入りとなるため、公演の行方が注目されている。

 PACは、去年11月、南アで開くかれたプロテニスの国際大会に反対し、コートに石や鉄片を投げ入れた。また最近、武力闘争を激化させている。

 PACの警告に対し、ボタ外相は同日、「もし何かが起きたら、南アの不名誉となるだろろ」とPACを非難。ANCのムベキ国際局長も同日、公演の招へい元に書面を送り「民主南ア実現の目的理解に役立つ」と改めて支持を表明した。ポール.サイモンは数年前、南ア入りし、地元音楽家とアルバムを作製。米国の音楽界の一部から「制裁破り」と非難を受けた。本人にはアパルトヘイト(人種隔離)反対の意図が曲解された、との思いがあるといわれる。



 
 
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1992.1.11

南アに新天地 東欧技術者

暮らし、ずっと楽に「左うちわ」は幻想だったが

毎日新聞

ヨハネスブルク福井聡

東欧の変革にともなって、技術者不足に悩む南アフリカが、専門職を持った移民を大量に受け入れたといわれる。国内で黒人の技術者を育てる代わりに、東欧から白人技術者を受け入れる「新たな白人優位主義製作」として、黒人側から猛反発を受けた。東欧の技術者はどういう経緯で南アに入り、その後どういう暮らしに落ち着いたのか――。

「祖国の経済は破綻状態。若く有能な人々は次々に国を出ている。ブルガリアにとっては多大な損失だが、私も自身と家族の将来を考えざるを得なかった」。内科医、ガンチェフさん(35)が、妻と共に首都ソフィアの東500キロにある故郷ドブレッチを出たのは昨年9月初め、ある病院から採用通知を受けていた。

ブルガリア国内は経済、社会が混乱していた。医師の月給1400レバ(約9000円)に対し、バス運転手は3000レバ。共産党員でなければ博士号を取得したり、出世したりするのは難しく、外国旅行の規制は異常に厳しい。第一、病院で薬や機材が極端に不足しており、寒い冬に三時間おきに停電し、暑い夏には断水が続いた。

出国先を南アと決めたのは、医師の免許が受け入れられたからだった。西欧各国はまったく無理で、米国、カナダは資格再認定が非常に厳しかった。ヨハネスブルク市内で見つけた公立病院の職は、当初5か月のインターン中は月収1500ランド(約7万5千円)だが、その後倍増予定で、家具付きのアパートが貸与された。

公立病院のため黒人の黒人の患者が多いが、ガンチェフさんは「医師にとっては肌の色など無関係。これまでの祖国での暮らしが経済的に異常で、ここでやっと落ち着け、研究や家族との団欒が楽しめます。」と笑顔を見せた。

やはりブルガリアは黒海沿いのバルナ出身の電気技師、デネフさん(34)=仮名=は今も希望の職探しに悪戦苦闘中。バルナ市のトローリーバス管理極次長のポストにいたが、共産党員でなく、党員の対抗馬が現われ、職を脅かされ始めた。三年間休みなく働いた分、二か月休暇を取ってヨハネスブルクに出た。

バルナでは、南アについて「白人幻想」というべきうわさが流れていた。アパルトヘイト(人種隔離)政策の中で、「白人技術者には国が家、車を与え、左うちわの暮らしができる」と。来てみてすぐに、それが幻想だと分かった。医師とコンピューター技師を除いて南アでの職探しは容易ではなく、市民権を取る前にまず労働許可証、さらに居住許可証を取らなければならなかった。

デネフさんは電気技師の職が見つかるまでのつなぎで、タクシー運転手となった。

労働許可証は知人に金を借り、専門のヤミ市場で500ランド(約2万5千円)で買った。毎日12時間、週7日の勤務で月収三千ランド。物価が違って正確に比較できないが、バルナ当時の20か月分になる。月900ランドのホテル住まいで、好きな服を買い、好きなものを食べて暮らしていける。

「あと一、二か月で居住許可証を得て職をみつけたら、バルナに残した妻子を呼ぶ。私にとってここは三、四十年前の米国のようだ」とデネフさんは目を輝かせる。

ブルガリア、あるいは東欧全体からの南アへの正確な移住数統計はないが、一説にはブルガリアの約150人を筆頭にポーランド、ハンガリー、旧東独が上位に並んでいるといわれる。ただ南ア側から組織的に技術者を引き抜いたというより、経済力の低い地域から高い地域へと自然に流れたようで。白人専門職の海外流出に頭を悩ます南ア政権には願ってもない機会となった。



 
 
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1992.1.14

南アで全人種参加の投票提案

朝日新聞

 南アフリカ共和国のデクラーク大統領は24日、人種別3院制議会(白人、カラード、インド系)の開会演説で、新憲法制定に向けた移行措置として、黒人を含む暫定政府設立、議会の全人種への開放を提案。この実現に向け、参政権のない黒人を含む全人種による国民投票の実施を呼びかけた。しかし、移行措置はあくまで一部手直しを含む現行憲法に沿って行われるべきだと強調、黒人勢力の主張する現行憲法の停止、制憲議会設置に反対した。



 
 
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1992.1.22

中国外相、南ア入り ボタ外相と会談

朝日新聞

北京21日=和気靖

21日の新華社電によると、アフリカ諸国歴訪中の中国の銭其 (きたん)外相が20日、ナミビアへ向かう途中に南アフリカのヨハネスブルクに立ち寄り、空港内でボタ外相と会談した。中国の外相が、南ア入りして、政府首脳と会ったのは初めて。



 
 
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1992.1.25

南ア大統領 国民参加暫定政府めざし 国民投票を提案

朝日新聞

ケープタウン24日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国のデクラーク大統領は二十四日、人種別三院制議会(白人、カラード、インド系)の開会演説で、新憲法制定に向けた移行措置として、黒人も参加する暫定政府設立と議会を黒人にも開放することを提案。その是非を問うため、参政権のない黒人を含む国民投票の実施を呼びかけた。一人一票制の新憲法制定前に、黒人に初めて政治参加の道が開かれることになる。しかし、移行措置一般はあくまで一部手直しを含む「現行憲法に沿って行なわれるべきだ」と強調、黒人勢力の主張する現行憲法の停止、制憲議会設置に反対した。

 黒人勢力を含む暫定政府樹立、議会の全人種への開放は、同大統領が昨年十二月に開幕した全政党会議「民主南ア会議」で示したものだが、その時点では、現行憲法で規定されている有権者による国民投票の意向を示していた。

 黒人解放勢力の中心「アフリカ民族会議」(ANC)は、現行憲法の改正による暫定政府を長期間続けることは、「白人権益の擁護につながる」と批判しているが、同大統領は「移行措置の期間の長さは、暫定政府、議会の意向による」と期間の特定を避けた。また、全人種による国民投票には黒人有権者名簿の作成などが必要で相当の時間がかかると見られ、実施時期についても言及を避けた。

 新憲法制定や暫定政府樹立、議会開放などの移行措置では、民主南ア会議が決定の実権を持っており、国民投票を実施するかや、詳しい内容も同会議で検討される。議会の討議も同会議の進行を踏まえつつ行なわれることになるが、移行期間中も現行憲法の順守が前提になるとして「民主南ア会議は合意の場。決定は議会による」と強調。このためにも、全人種参加による民主的な議会の設立が必要、と述べた。



 
 
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1992.1.25

即時樹立を要求しデモ ANC

朝日新聞

ケープタウン24日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国の黒人解放勢力「アフリカ民族会議」(ANC)は、黒人を除く人種別三院制議会初日に二十四日、議会のあるケープタウンで集会「人民議会」を開き、ウォルター・シスル副議長が「白人政府は、民主化に関する複雑な言葉遊びを続け、権力の維持を図ろうとしている」と批判。民主的な暫定政府の即時樹立で、新憲法制定の動きを促進するよう要求し、集会後数千人が市内をデモ行進した。

 また強硬派黒人解放組織「パンアフリカニスト会議」(PAC)は、ANCの民主南ア会議参加などを不満として、独自に集会を開いた。マクエツ議長が「民主南ア会議は野合の暫定政府に向かいつつある」として、制憲議会賛成、反対両派に分かれて討議する新会議の創設を提案した。



 
 
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1992.1.25

南アの日本総領事館 来月1日、大使館に

朝日新聞

 政府は二十四日の閣議で、南アフリカのプレトリアにある日本総領事館を二月一日付で大使館に格上げする施行令を決めた。



 
 
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1992.1.25

南ア大統領、ANC議長が来月欧州訪問

日本経済新聞

ロンドン24日=影井記者

南アフリカのデクラーク大統領と黒人運動指導者のマンデラ・アフリカ民族会議(ANC)議長は二月上旬、それぞれ欧州を訪問する。両氏は国連教育文化機関(ユネスコ)平和賞の受賞が決まっており、三日にパリで開かれる同賞受賞式に出席するのが主目的。デクラーク大統領は英国、スイスも訪問、マンデラ氏はスイス、デンマークなどを訪れ、それぞれの立場から各国の協力を訴えるとみられる。



 
 
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1992.1.25

南ア大統領「黒人参加の暫定政権を」

日本経済新聞

ロンドン24日=影井記者

南アフリカのデクラーク大統領は二十四日、九二年度白人議会の開幕にあたり演説し、「黒人の投票権を認め、黒人の参加する暫定政権を設立する用意がある」と述べるとともに、「暫定政権下で黒人が議会の議席を持つことを歓迎する」と表明した。初の黒人投票権は、新憲法制定のための国民投票で実行することになる見通し。ただ国民投票や暫定政権樹立の時期や具体的な方法については触れなかった。黒人運動組織のアフリカ民族会議(ANC)は年央には暫定政権を設立するよう求めている。

 一方でデクラーク大統領は、国民投票の結果については白人に拒否権があるとしており、黒人の政治進出に根強く反対している白人保守層にも配慮した。



 
 
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1992.1.27

南アのデ・ビアス社 モスクワに事務所

日本経済新聞

ロンドン26日=欧州総局

世界のダイヤモンド原石の八〇%を供給する南アフリカのデ・ビアス社の海外事業部門の子会社デ・ビアス・センティナリはモスクワに駐在事務所を開設する。ロシアのダイヤモンド産業との結び付きを一層固め、同産業の長期的な安定に一役買う意向だ。

 同社の中央販売機構(CSO)は、旧ソ連とこれまでも三十年以上にわたって直接、または間接的にダイヤモンド原石を取引している。同地域のダイヤモンドの生産量は公表されていないが、年間一千四百万ー一千五百万カラット程度といわれている。そのうち同社との取引額は年間約十億ドル。

 九〇年七月に同社は旧ソ連のダイヤモンド組織グラバルマツォロト(現在のロスアルマツォロト)と五年間の販売協定を結んだ。

 協定にはロシアのダイヤモンド産業の発展を援助する十億ドルの融資が含まれている。担保はロンドンのCSOに保管されているダイヤモンド原石。



 
 
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1992.1.31

政治的暴力による死者3割減

朝日新聞

ナイロビ支局

91年の政治的暴力による死者数は、前年より3割減ーー南アフリカ共和国の中立機関「人種関係研究所」が29日に発表したところによると、デモ規制、テロ、組織間衝突等による南ア国内での昨年の死者数が、前年を大幅に下回っていることが分かった。死者数は2672人で、昨年末から減少傾向が続いており、「今年の死者はさらに半減する」との予想を示している。



 
 
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1992.2.6

南ア大統領が東欧3国歴訪

日本経済新聞

ウィーン5日=小林(省)記者

 南アフリカのデクラーク大統領が5日、ハンガリーを訪問した。同大統領は続いてチェコスロバキア、ポーランドも訪れ、二国間の経済関係強化などについて各国首脳と協議する。東欧三国は自らの民主化と南アの改革を受け91年までに南アと外交関係を結んだが、大統領を迎えるのは今回が初めて。



 
 
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1992.2.8

南ア亡命者が事故死

朝日新聞

ナイロビ支局7日

ヨハネスブルクの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、タンザニアで6日、UNHCRによる帰国便に乗るためダルエスサラーム空港に向かっていた南アからの亡命者14人が、交通事故で死亡した。



 
 
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1992.2.21

民主化の是非問う国民投票

日本経済新聞

ロンドン20日=影井記者

南アフリカのデクラーク大統領は二十日、同大統領が進めている民主化路線の是非を問うための国民投票(白人が対象)を近く実施すると表明した。「国民投票で支持が得られなければ、内閣は総辞職する」とも述べた、来週初めに正式な日程を発表する。



 
 
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1992.2.25

ロシア、南アと外交関係改善へ

日本経済新聞

モスクワ=24日池田(元)記者

ロシア外務省のチュルキン情報局長は二十四日、記者会見し、コズイレフ外相が二月二十六日から三月一日までアンゴラ、南アフリカ、エジプトの三国を歴訪すると発表した。特に南ア訪問の際には、外交関係正常化や経済協力を中心とする二国間関係の発展問題を協議するとしている。



 
 
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1992.2.28

ロシア、南アと外交関係樹立

日本経済新聞

ロンドン27日=影井記者

南アフリカとロシアは二十八日、外交関係を樹立する。南ア訪問中のコズイレフ・ロシア外相とボタ南ア外相が同日、大使交換の合意文書に調印する。南アと旧ソ連は一九五六年に断交したが、南アの民主化を受けて昨年十一月に利益代表部の設置に合意、互いに領事を派遣していた。



 
 
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1992.3.3

南アの五輪参加承認へ

読売新聞

国際陸連(IAAF)の幹部が1日、ジェノバで語ったところによると、IAAFのネビオロ会長を含む代表団が四月に南アフリカ共和国を訪れ、南アの陸上三団体の統合を確認したうえで、バルセロナ五輪参加を承認する見通しという。(ロイター)



 
 
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1992.3.5

南ア 暫定政府を樹立へ 作業部会合意 黒人閣僚含む

日本経済新聞

ヨハネスブルク4日共同

南アフリカのデュプレシ蔵相は四日、各人種、党派間で新憲法制定問題を協議する「民主的な南アを目指す大会」(CODESA)の作業部会が、新憲法制定までの移行期間の政治形態について、CODESAが任命した閣僚で編成する暫定政府を樹立することで合意したこと明らかにした。

 南ア政府は従来、暫定政府は選挙で選出された暫定国会を母体として編成されるべきだと主張してきたが、この作業部会での合意は、黒人組織、アフリカ民族会議(ANCの主張に大幅に歩み寄ったものになっている。

 この結果、黒人閣僚を含む暫定政府が早ければ今年前半にも成立する見通しが出てきた。

 暫定政府問題の作業部会に政府代表として出席している蔵相は、この合意は参加政党本部の承認を経たうえで、四月初めとみられる第二回CODESA会合で正式決定されると述べた。  蔵相はまた、黒人を閣僚に任命するため、現行憲法と法律の改正が必要だ述べるとともに、 現在の大統領制度の変更もあり得るとの見解を示した。



 
 
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1992.3.6

NZ・南ア産 羊毛上げ足急

日本経済新聞

 オーストラリア羊毛相場の一段高を受けて、ニュージーランド(NZ)、南アフリカ共和国産羊毛の競売価格も上昇してきた。NZ羊毛の市場指標価格(MI)は一キロ四九四NZセント(一NZセント=約〇・七二円)と年明けの競売再開時に比べて七一セント(一六・七%)、南ア産も同一、四七六南アセント(一南アセント=約〇・四五円)と二一四セント(一七%)高く、ともに上げ足を速めている。

 NZ羊毛は豪州産と違って雑種の太番手が中心。主にニット糸やカーペット原料に用いられる。昨年二月のフロアプライス(最低支持価格)制度の崩壊後に競売価格は急落。それに伴って牧羊家の生産意欲が減退し、特に成育に手間のかかるラム(子羊)の供給が大幅に減った。昨年秋ごろから紡毛糸を使った手編み調セーターなどの人気が高まってラムの引き合いが増え、価格が急伸している。



 
 
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1992.3.6

駐南ア初代大使に太田氏 大阪担当に谷口氏

日本経済新聞

 政府は六日の閣議で、駐南アフリカ初代大使に太田駐プレトリア総領事、大阪担当大使に谷口駐イスラエル大使を充てること決め、同日付けで発令した。太田氏は人種隔離(アパルトヘイト)政策への制裁の一環として領事関係にとどめていた南アと一月に正式な外交関係を樹立したことから、プレトリアの総領事館を大使館に格上げしたのに伴い、昇格する。



 
 
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1992.3.12

海外在住者の投票始まる

朝日新聞

ナイロビ支局11日

南アフリカ共和国の改革路線への賛否を問う白人有権者信任投票の海外在住者投票が11日、各国の南ア大使館、利益代表部などに設置された63投票所で始まった。



 
 
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1992.3.14

改革不支持なら混乱招くと警告 国民投票でANC議長

日本経済新聞

ヨハネスブルク13日共同

南アフリカの黒人組織、アフリカ民族会議(ANC)のマンデラ議長は十三日、外国報道陣を前に記者会見し、デクラーク政権の改革を是非を問う十七日の白人国民投票で「反対」の結果が出た場合は、南アはかつてない混乱と対立へ向かうと強く警告した。  議長は、アパルトヘイト(人種隔離)体制は既に破壊され、南アには国民全員が民主的な権利を享受しうる新国家の道しか残されていないと強調。目標に向かって前進するか、後退するのかの選択だと述べ、白人有権者に賛成票を投じるよう求めた。



 
 
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1992.3.16

南ア大統領次男とカラード女性 「人種を超えた恋」実らず

朝日新聞

ヨハネスブルク15日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国で人種隔離政策改革の象徴ともてはやされていたデクラーク大統領の次男ウィレムさん(二五)と、非白人女性エリカ・アダムスさん(二五)の婚約は破綻したーー十五日の南ア紙サンデー・タイムズは、エリカさん自身の話としてそう伝えた。友人らの話から大統領夫妻、とりわけマリケ夫人の反対が破綻の原因になったとしている。

 二人は八九年、ケープタウンの技術系準大学で知り合った。ウィレムさんはその後、英国に留学、エリカさんも後を追って一緒に暮らし始め「人種を超えた恋」が発覚した。

 エリカさんは、カラード(混血、インド系を除くアジア人)政治家の娘で、カラード美人コンテストの女王に選ばれたこともある。

 エリカさんが友人に明かした話として、九〇年末には大統領夫妻が、昨年八月には大統領が、二人を呼び「この関係がだれの利益にもならない」と、”忠告”した、と同紙は報道。大統領自身は、この関係が大統領の政治的な経歴を傷つけると懸念した、ともいう。

 エリカさんによると、ウィレムさんは両親からの「圧力」に悩み、先月婚約を解消し別れることで合意したらしい。



 
 
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1992.3.16

政治暴力の死者増える 南ア

朝日新聞

ケープタウン15日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国で十五日、旧黒人居住区で暴力事件が続き、ヨハネスブルク南のカトレホンでは五人が後ろ手に縛られ殺害されているのが見つかった。同日朝には、他に三人の死体が発見された。

 またヨハネスブルク北郊のアレクサンドラでは十四日、保守派黒人政党「インカタ自由党」系住民の葬儀に参列したインカタ支持者と警官隊が銃撃戦となり、その後インカタ支持者の住む単身出稼ぎ者用住宅付近で、四人の遺体が見つかった。



 
 
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1992.3.17

改革問い「白人投票」 南ア きょう実施 国民党優位動かず 反対派も追い上げ

朝日新聞

ケープタウン16日=五十嵐浩司

アパルトヘイト(人種隔離)体制の改革続行にイエスかノーかーー南アフリカ共和国の白人有権者信任投票は十七日、行われる。改革推進の与党・国民党優位は動かないが、反対する保守党・極右勢力も、白人浮動層の「アフリカ民族会議」(ANC)や社会主義に対する反感を取り込み、後半で追い上げてきた。ANCのマンデラ議長は、改革が否定されれば闘争を激化させ「内戦になる」と警告、白人有権者に賛成投票を求めている。

 南アの政治、経済、文化、スポーツなど各分野の多くの団体が、賛成投票支持を表明。各新聞も「なぜ賛成すべきか」を説く。それでも、キャンペーン後半で改革反対勢力が支持を伸ばしているのは、白人側に「黒人支配」への不安が高いことを示す。

 大統領は当初、「暫定政府樹立後に、その賛否を問う白人投票を」と考えていた。しかし、情報省の世論調査の結果、白人の六八%が「民主南ア会議」での話し合いによる改革を支持しているにもかかわらず、黒人勢力を含む暫定政府樹立については、半数以上が反対を表明した。

 政府とANCは、すでに四月に予定される第二回民主南ア会議全体会議で暫定政府を樹立することで内々に合意しており、暫定政府樹立後の信任投票は不利と判断、補欠選挙の大敗を受けて、一気に白人信任投票に打って出たのだった。

 国民党は白人五百万人の四割を占める英国系の多くと、本来の地盤であるオランダ系アフリカーナーの半数近くの支持を集めると見られ、「賛成投票は六割弱」との見方が強い。

 信任を得られれば政府は、新憲法制定へ一気に進むことが出来る。

 逆に「改革反対」となれば大統領、内閣は辞任、総選挙に追い込まれる。



 
 
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1992.3.18

南ア白人投票、1400カ所で実施

朝日新聞

ケープタウン17日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国の白人有権者三百三十万人が、アパルトヘイト(人種隔離)体制改革の続行か否かを決める信任投票が十七日、全国約千四百投票所で行なわれた。投票は午後九時に締め切られ、十八日朝から開票、最終結果は同日午後一時(日本時間午後八時)ごろに判明の見込み。



 
 
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1992.3.19

南ア白人投票 改革信任が7割弱 大統領が勝利宣言 黒人参政権へ前進

朝日新聞

ケープタウン18日=五十嵐

南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)体制改革続行の是非を問う白人有権者の信任投票は18日開票され、改革賛成が68.7%を占めた。デクラーク大統領は同日午後、「地滑り的大勝」を宣言。改革反対の保守党は敗北を認めた。白人社会は、人種差別の完全解消以外、南アが生き残る道はないと改めて選択したことになる。現政権が改革推進への正式な信任を得たことで、全政党会議「民主南ア会議」を舞台とした黒人参政権を認める新憲法制定作業の進展が期待される。

 賛成投票は192万4186票、反対派87万5619票。15投票地区のうち保守派の牙城トランスバール州北部のピータースプルグ地区で反対票が57%を占めたほかは、賛成投票が過半数を占め、特にヨハネスブルク、ケープタウン、ダーバンなど大都市で賛成票が八割前後を占めた。

 デクラーク大統領は同日午後、ケープタウンの議会前で「南アの歴史上、最も重要な転回点。アパルトヘイトの最終章が閉じられる」と勝利を宣言した。当初の予想を上回る支持率で、デクラーク政権の改革路線は地盤固めに成功した、といえる。

 保守党は賛成投票を求めるマスコミの「偏向報道」などを理由に投票方法に不満を表明。今後の対応が注目される。

 最終投票率は85.7%で、有権者の高い関心を示した。



 
 
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1992.3.29

南ア旧黒人居住区で銃撃

朝日新聞

ナイロビ支局28日

南アフリカ共和国ヨハネスブルク北郊の旧黒人居住区アレクサンドラで28日、マイクロバスに乗った男が無差別に銃撃。少なくとも住民2人が死亡した。



 
 
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1992.3.30

暫定政府樹立など南ア大統領案ANCが拒杏

朝日新聞

ナイロビ29日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国の黒人解放勢力の中心「アフリカ民族会議」(ANC)のマンデラ議長は、二十九日付日曜紙サンデー・スターに対し、デクラーク大統領が先の全政党会議「民主南ア会議」で明らかにした暫定政府、全人種議会設置の提案を拒杏すると述べた。反対の理由として同議長は「大統領案は、黒人側との権力分担で暫定政府を十年ほども続けようとしている」とし、ANCとしては十八カ月以上の暫定政府は考えていないとした。



 
 
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1992.3.30

南ア新体制 少数派も参加させて 新しい差別生まないために

読売新聞

「エコノミス卜」誌3月21日号特約 西田和也訳

 今月十七日に行われた南アの国民投票で、白人はアパル卜へイトのない社会をめざす改革に庄倒的な支持を示した。今後の改革論議には可能な限りの勢力が参加するよう働きかけるべきだと英誌は指摘する。

 白人たちがついに発した言葉は、大多数の南ア黒人だけでなく、世界が聞きたがっていたものだ。「イエス」ということにより、そして、あれほど多数がそういうことにより、白人は、彼らだけが南アを代弁する人間ではないと確約した。彼らは、デクラーク大統領に対し、輝かしい勝利とともに、人種差別のない民主主義の創設に向かってまい進するよう一点のまぎれもない信任を与えた。しかし、白人が政冶の舞台から身を引いたわけではない。改革への道のりに横たわる障害を一掃したわけではない。大きな障害ではあるが、数ある障害のうちの一つを取り除いたにすぎないのだ。

 次の任務は、暫定政府の樹立と新憲法の起草である。アフリカ民族会議(ANC)のマンデラ議長が獄を出て以来早くも、経済的衰退と政治的不安定、黒人居住区での暴力の二年間が過ぎた。黒人には、いまだに参政権がない。彼らが何らかの政治権力を今すぐ望むのは理解できる。しかし、速度だけがすべてではあり得ない。交渉は公正で、肌の色や政治的立場にかかわらず、将来にわたり、すべての南ア国民にとって有益な合意に至るものであるべきだ。それゆえ、即効を求める誘惑は避けなけれぽならない。

 その誘惑は現に存在する。デクラーク大統領とマンデラ議長は、それぞれ別個に対決よりも対話を選ぶことを決定したが、その決定を正当化するために、二人は互いを必要としている。両氏が率いる国民党とANCは、二人にとってかなり強固な後ろ盾である。それだけに、両氏が南ア国民の多数派の名の下に働いて取引し、それを少数派グループにいやおうなく認めさせるのは、実際いともたやすいことだろう。

 最近流された文書を含め、ANCと国民党の連立に向けた暫定政権と官法制度の青写真がすでに存在しているという兆候もある。この連立こそ、黒人と白人を問わず、他の勢力が最も恐れるものだ。この連立政権は、南アを際限なく支配することになりかねない。

 そして、支持者の黒人と白人のために、国民党が長い間アフリカーナー(南ア生まれの白人)のためにしてきたような誘惑にかられるかもしれない。

 ANCも国民党も、非の打ち所がないといえる民主的な過去をもっているわけではない。他の勢力に対し、そういった連立など考えていないとすすんで確約すべきだ。早けれぽ六月には、現在の議会が、新議会のための自由選挙を準備する「スーパー内閣」を指名するかもしれない。いくつかの党派と何人かの政治家が、これまで交渉をボイコッ卜しており、この特別内閣の外に置かれたままになる恐れもある。その中には、白人右派と黒人左派のメンバー、そしてインカ夕自由党のブテレジ議長が含まれる。これまでの交渉が依然として順調な軌道に乗っていることを国民投票が示した今、できるだけ多くのグループに参加するよう働きかけるべきだ。

 いまのところ交渉の外にいる者の間に、改革を止めるほどの力を持つ者はない。国民投票の結果、「ノー」という立場で共闘してきた保守派たちも分裂すると思われる。白人だけの州を主張するため、話し合いに参加するだろうが、その一部の恐らく最後まで抵抗するボーア人(初期のオランダ系移民)たちが、不満を抱く警官や軍将校に支持を呼びかけるかもしれない。黒人左派も、交渉失敗を望んでいるようだ。パンアフリカニス卜会議とアザニア人民機構は、ANCの「妥協的な」戦術に対する不満感の増大を待ち受けている。

 右でも、左でも、新秩序形成に参加しない者は、後になってその正統性に挑戦することに、何も気がとがめることがない。まさにそれが、可能な限り多くの少数派グループを交渉に参加させることが不可欠である理由だ。(そうすれば)最終的には、ブテレジ議長もボーア人農民も、新憲法が中央政府から地方に権力を分散させ、一定の地方自冶を可能にするものだと確信するにちがいない。

 南アは多くのアフリカ諸国同様、少数民族.部族からなる国家であり、その全員が互いに好意を抱いているわけではない。新体制の成功に対する一定の利害関係を各グループに持たせることが、一つにまとめ上げる唯一の方法かもしれない。



 
 
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1992.3.30

国営シンガポール航空のシンガポール ー ヨハネスブルク間の定期便運航が二十九日開始された。運航回数は週二便。

日本経済新聞

シンガポール29日=ロイター

 両国間の国交は樹立されていないが、シンガポールのゴー首相、南アのボタ外相が最近、相互訪問し、シンガポール側が石油など南アへの禁輸措置を解除するなど接近を強めている。



 
 
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1992.4.1

制憲議会選挙に黒人の参加同意 南ア政府

朝日新聞

ナイロビ31日=小沢勝

南アフリカのヘリト・フィリューン憲法開発相は三十日、アパルトヘイト(人種隔離政策)体制終結後の南ア新憲法制定について、初めて黒人が参加する選挙による制憲議会設立に政府も同意する、と発表した。



 
 
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1992.4.1

南ア 暫定政府と制憲議会成立 来月合意の見通し

朝日新聞

ケ一ブタウン31日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国の新憲法制定に向けた全政党会議「民主南ア会議」の作業部会は三十日、第二回全体会議を五月十五、十六両日、ヨハネスブルクで開くことを決めた。第二回全体会議では、暫定政府樹立、制憲議会の形態や選出時期などで合意する見通しで、一人一票制の新憲法実現への大きな転回点となる。

 全体会議は当初、三月末に予定されていたが、白人有権者信任投票の実施や、各作業部会で続く暫定政府などの細部の詰めのため五月開催となつた。

 制憲機関について政府は、一人一票制による下院、地域代表の上院の二院制による「暫定議会」の設置を提案。黒人解放勢力の中心「アフリカ民族会議」(ANC)は、「上院が白人や反ANCのホームランド(黒人部族別居住地域)代表に強い権限を与える」と反対。一院制の「制憲議会」の設置を求めている。

 しかし、暫定政府に関しては、その選出方抵、設置期間などを巡り、政府とANCの間で妥協点が模索されており、暫定政府の形態を含め「政府、ANCの距離は、確実に縮まっている」(モコズマANC広報担当.全国執行委貞)。このため、各作業部会が原案作りにこぎ着け、第二回全体会議で承認されるのは間違いない。会議では同時に、ホームランドの南アへの再統合でも結論を出すと期待されている。



 
 
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1992.4.1

南ア・ナイジェリア首脳会談

朝日新聞

ナイロビ支局31日

南アフリカ共和国大統領として初めてナイジェリア入りしたデクラーク大統領は10日、同国のババンギダ大統領と会談。記者会見で「外交関係を、早い段階で樹立できることを望む」と述べた。



 
 
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1992.4.3

ラグビー大国南ア、復帰へ 来月に欧州へ遠征8年ぶり国際舞台

朝日新聞

 世界のラグビー関係者の目は南アフリカへ注がれている。三月二十日に人種に関係ない新統合組織、南アフリカラグビーフットボールユニオン(SARFU)が誕生。アパルトヘイ卜(人種隔離)政策反対のため、各国が自粛していた交流を復活するからだ。八年ぶりに「ラグビーの巨人」が国際舞台へ帰ってくる。

 本格的国際交流は一九八四年、イングランドが南アを訪れたのが最後。昨年いわゆる人種差別三法が撤廃され、ラグビーでも分立してきた組織の協議が進展。白人系組織の南アフリカラグビーボードと非白人系組織の南アフリカラグビーユニオンが統合し、復帰を実現する。

 南アのラグビーはW杯第二回大会優勝のオーストラリアに過去21勝7敗、第一回チャンピオン、ニュージーランド(NZ)には20勝15敗2分けをはじめ、イングランド、ウェ一ルズ、スコットランド、アイルランド、フランスの強豪を含め、同国代表同士のテストマッチすべてに勝ち越している。交流自粛のために力は落ちているといわれるが、依然トップクラスの力。

 AP、AFP、ロイターの外電によると、六月か七月にニュージーランドが南アへ遠征。テストマッチを含め、4、5試合が行われる予定。八月に世界チャンピオン豪州が南アを訪れ、4試合(テストマッチ1)を行う。

 両国を迎える準備として南アは五月にルーマニア、イタリアへ。南アの代表チームが海外へ出るのは八一年のNZ、アメリカ遠征以来。秋には十月から十一月にかけてフランス、イングランドを訪れる。



 
 
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1992.4.4

南ア・ユーゴ、国交樹立

朝日新聞

ナイロビ支局3日

南アフリカ共和国外務省は2日、南アとユーゴスラビアが外交関係樹立で合意したと発表した。当面、利益代表部を設置、正式な文書を交換後、全面的な外交関係を結ぶ、という。



 
 
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1992.4.6

マンデラ氏ついに夫人と別居 新たな暗殺計画疑惑浮上 英紙報道

読売新聞

ロンドン5日=本池滋夫

英紙サンデー・タイムズは5日、ヨハネスブルク特電として、マンデラANC(アフリカ民族会議)議長が、ついにウィニー夫人と正式別居することになった、と伝えた。殺人、誘拐、暴行などの容疑で、現在保釈中のウィニー夫人にANC幹部暗殺計画など、新たな嫌疑がかけられているためで、夫人は今後、ANCとの関係をはじめすべての政治活動からも身を引くものとみられている。

 反アパルトヘイト(人種隔離)闘争にてい身するマンデラ議長にとって、ウィニー夫人との関係はかねてからの悩みの種。現在、係争中の事件に関しても頭を痛めてきたが、夫人の側近が新たな嫌疑を暴露したため、ついに意を決したものと、サンデー・タイムズ紙は伝えている。

 「ウィニー夫人は完全な精神分裂症だ。これまでは何とか彼女を守ろうとしてきたが、自分の命までねらわれ、もう我慢できない」と言う側近の証言によると、夫人は今でも「暗殺部隊」を組織しているという。



 
 
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1992.4.7

南ア大統領が近くナイジェリア訪問

朝日新聞

ナイロビ6日=五十嵐浩司

ナイジェリアの大統領府は6日、南アフリ力共和国のデクラーク大統領が9日、2日間の公式訪問のためナイジェリア入りすると発表した。ナイジェリアはアパルトヘイト(人種隔離)に反対するアフリカ諸国のリーダーの一つで、南ア首脳の訪問は初めて。首都アブジヤで、アフリカ統一機構(OAU)の議長を務めるババンギダ大統領と会談する予定。



 
 
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1992.4.7

カナダ外相、南ア訪問

朝日新聞

ナイロビ支局6日

カナダのマクドーガル外相は5日、公式訪問のため南アフリカ共和国入りした。地元の報道によると、カナダから外相クラスの高官が南ア訪問するのは約30年ぶり。



 
 
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1992.4.8

対南ア制裁 石油も解除 ECが決定

朝日新聞

ルクセンブルク7日

欧州共同体(EC)は6日間開いた理事会で、85年から続けてきた南アフリカ共和国に対する石油禁輸措置の解除を決めた。

ECの決定は南アの国民投票でデクラーク政権の人種隔離(アパルトヘイト)政策廃止に向けた動きが支持されたことを受けたもの。

ECはすでに経済制裁のうち、新規投資の禁止や鉄鋼、金貨の輸入禁止措置は解除しており、これで対南ア経済制裁は武器などの禁輸だけとなった。



 
 
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1992.4.12

南アフリカ 「海外旅行大国」日本に期待 改革でイメージ向上「ビザ不要」呼び込み

朝日新聞

ワールドビュー ヨハネスブルク=五十嵐浩司

 南アフリカ共和国が、ちよっとした観光ブームに沸いている。政治の民主化、各種制裁の解除で、海外かららの観光客が増加。ホテルやレジャー施設の建設が盛んだ。政府、業界はさらに誘致、受け入れ態勢整備に熱を入れる。特に極東の「海外旅行大国」日本へのまなざしが熱い。

 南アは雄大な自然と、西欧並みに整った施設で、これまでも西欧や台湾から観光客を集めていた。しかし、アパルトヘイト(人種隔離)体制が障害になって、観光資源の豊かさの割には訪れる人は少なかった。ところが、90年2月のデクラ一ク大統領演説に始まった改革の進展で、各種制裁の多くは取り払われ、南アのイメージも向上した。この結果、昨年1月〜10月の観光客は115万人と、前年同期に比べて約六割増。昨年12月には、クリスマス旅行客の増加で前年の2.5倍にもなった。

 90年の観光収入は25億ランド(約1200億円)で、国民総生産の1%に過ぎない。南ア観光協会はこれを「世界平均の5.5%まで高めたい」としており、2000年までに、年300万人を目指す。

 この最大の標的が、年約900万〜1000万人が観光で海外に出る日本だ。

 日本政府の対南ア渡航自粛要請は、昨年6月に解除された。昨年、南ア入りした日本人はビジネス、観光を合わせ約7500人。大手を含む観光業者は以前から要請を無視して南アヘ団体客を送りこんでいたが、解除後も「微増」にとどまっている、という。

 しかし、南ア観光の将来性には日本側も注目、すでに数年前から大手業者の南ア進出の動きがある。現地に邦人が経営する日本人用の旅行代理店も出来た。

 南ア政府は昨年四月、一方的に日本人はビザ不要とし、日本からの呼び込みを図った。観光協会も英国が作った日本人客接待の手引きを焼き直して、ホテルなどに配っている。

 だが、依然残る障害は、旧黒人居住区の暴力事件や犯罪の多発。また、日本の反アパルトヘイト団体は「白人地区だけ見る槻光では」と強く反対を続けている。

 しかし、数年内には黒人も参加する「民主政府」が出来るのは確実。ある業者は「これまでの金、ダイヤなどの地下資源に代わって、21世紀には自然の『美しさ』が南アを潤すでしょう」と話している。



 
 
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1992.4.12

非白人地区で初の政治集会 南ア大統領

朝日新聞

ナイロビ11日=五十嵐浩司

南アフリカ共和国のデクラーク大統領は11日、将来の全人種選挙に備え非白人層の与党・国民党への支持を高めるキャンペーンを開始、ケープタウン東部のカラード(混血、インド系以外のアジア人)地区を訪問して集会を開いた。南ア大統領が、非白人地区で政治集会を開くのは初めて。カラードでは国民党支持率が高く、同大統領は支持者の歓迎を受けたが、一部反対派が演壇に投石、演説は中止となった。

 このキャンペーンは、3月の白人信任投票で国民党の改革路線が支持されたのを受けて計画されたもの。



 
 
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1992.6.16

黒人を直撃する干魃被害 南ア・オレンジ自由州 農場解雇、都市部に流入

朝日新聞

特派員報告 五十嵐浩司

アフリカ東部、南部で日照りによる被害が深刻化しているが、南アフリカ共和国でも「今世紀最悪」といわれる干魃が、底辺の貧しい黒人を直撃している。白人農場での仕事を失い、都市周辺に流れ込む黒人労働者が後を絶たない。民主化の波も、この人々までは届かない。干魃が最もひどく、保守的なアフリカーナ(オランダ系白人)農民の牙城でもあるオレンジ自由州に、被害の実態を見た。

「これで1ランド(約50円)にはなるね」。マリ・テナさん(74)は、今日の「収穫」を地べたに広げ、満足そうに言った。なべのふた、たきつけ用の木切れ、水のプラスチックボトル……。

そばで息子の妻が幼児をあやしながらうなずく。これから2人で、これを売りに行く。これはオレンジ自由州の州都ブルームフォンテーン南郊のごみ捨て場。500メートル四方ほどの荒れ地に、清掃車が次々とごみを運び込む。



 
 
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1992.6.30

ガリ国連総長近く南ア訪問

朝日新聞

ナイロビ支局29日

南アフリカ共和国の外務省は28日、ガリ国連事務総長が近く南アを訪問する、と発表した。ヨハネスブルク南の不法居住者地区で起きた襲撃事件と、これを理由とした黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANC)の新憲法制定拒否問題で、打開策を検討するため。



 
 
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1992.7.17

特別代表を南アに派遣 安保理決議

朝日新聞

ニューヨーク16日=村野英一

国連安全保障理事会(15カ国)は16日、南アフリカ共和国の暴力問題について公式協議を開き、住民虐殺事件で途絶えた「アフリカ民族会議」(ANC)と南ア政府との対話を再開させるために、国連事務総長に特別代表の南ア派遣を求める決議を全会一致で採択した。ボタ南ア外相は同日、バンス元米国務長官に内定している特別代表を受け入れる考えを示した。



 
 
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1992.8.8

ガリ事務総長、南アへの監視団派遣を提案

朝日新聞

ニューヨーク7日=外岡秀俊

国連のガリ事務総長は七日、安全保障理事会に対し、南アフリカ共和国での抗争終結と和平協定の実施を図るため、三十人規模の監視団を同国に派遣するよう提案した。

 ガリ事務総長は提案の中で、昨年九月に三十余の団体が調印した抗争終結のための和平協定の実施を図ることが、現段階では最も賢明であると協調。和平協定の実施機構を強化するため、和平協定事務局と密接に協力しながら、和平プロセスの監視にあたる国連要員を送るよう提案した。監視団の規模は約三十人としているが、必要があれば欧州共同体(EC)など他の国際的機関がさらに人員を送るよう求めている。



 
 
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1992.8.8

南ア現職閣僚が暗殺に関与か

朝日新聞

ナイロビ支局7日

南アフリカ共和国の中立系スター紙は7日、フロック矯正相が法秩序省と国防省の次官だった1985年、東ケープ州の活動家マッテュー・ゴニウェ氏ら4人の活動家暗殺事件に関与した疑いがある、と伝えた。

 スター紙は、東ケープ州の検事長がフロック矯正相の関与を示唆する文書を入手したとしている。



 
 
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1992.8.8

南ア勢がマラソンに 3人 復帰で実現国際舞台

朝日新聞

バルセロナ7日=武藤いずみ

アパルトヘイト政策への制裁のため、南アフリカ国内でしか走ることのなかった三人の黒人ランナーが、九日に行われるバルセロナ五輪男子マラソンで「未知の力」として注目されている。南アチームは、一九六〇年のローマ五輪以来三十二年ぶりに参加を認められた。

 三人の中で一番若いアベル・モキベ選手(二七)は、五輪が二回目のマラソンとなる。一回目の国内選考レースで、いきなり2時間11分7秒の記録で優勝した。シトウレ・シンクエ選手(二九)、ヤン・タウ選手(三二)も11分台。「マラソンが好きというわけではなかったが、道具がなくても簡単にできるスポーツが、走ることだった」とモベキ選手はいう。

 電気製品工場の工員として働く。三月の国内選考レースで、年収とほぼ同額の賞金を手に入れた。弟の学費と、腰を骨折した母の治療費に充てたという。「自分がランナーとして走れる時期と、五輪参加が重なったのは幸福だ」  タウ選手は開会式で旗手を務めた。「生きている間に五輪に出られるとは夢のようだ」という。炭鉱のスポーツクラブでトレーナーをしている。

 三人は開会式直前、真冬の南アフリカから太陽が照りつけるバルセロナへ来た。「暑さと、国際レースに慣れた選手たちの駈け引きにどう対処するかが勝負になる」と話ている。



 
 
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1992.8.18

南ア監視団派遣を決議

朝日新聞

ニューヨーク17日=外岡秀俊

国連安全保障理事会(15ヵ国)は17日午後、南アフリカ共和国の抗争終結と和平協定の実施を図るため、緊急に監視団を派遣するというガリ事務総長の提案を認める決議案を、全会一致で採択した。



 
 
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1992.8.23

国民投票、新憲法を承認

朝日新聞

ナイロビ支局22日

アフリカ南部の島国マダガスカルからの報道によると、19日に行われた国民投票で、圧倒的多数が新憲法制定を承認した。新憲法は大統領権限を縮小し、本格的な複数政党制に道を開くもので、ラチラカ大統領の実権支配に国民が反発を示したといえる。



 
 
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1992.8.23

南アとナミビア共同管理

朝日新聞

ナイロビ支局22日

ナミビアからの報道によると、同国と南アフリカ共和国は21日、領有権を争っていたナミビア内の港湾都市ウォルビスベイを共同管理することで正式に合意。ウォルビスベイはナミビア内で唯一の良港とされ、英国から領有権を譲り受けたと主張していた。



*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)の成果/のための資料の一部でもあります。
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm

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