ボンK日報

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日本の地方都市は韓国に学べ

 韓国南西部の全羅南道にある「宝城旅館」。1935年に建てられ、2012年に本来の姿に復元された。瓦屋根の木造建築の中、畳部屋が広がる光景には我々も親近感を覚えてしまう。

 この旅館は韓国の戦後動乱期を描いた国民的小説「太白山脈」の舞台の1つとしても知られている。しかし、その後旅館としては廃業し、近年ではなんとブティックなどの入る雑居ビルとして用いられていた。

 

 韓国では日本統治時代の建物は植民地時代の苦い記憶を背負った「日帝残滓」として否定され解体される一方だった。1995年に取り壊された朝鮮総督府は代表例だ。

 しかし2000年代後半からは、戦後60年を超える中で過去のとらえ方が変わるようになってきている。支配体制としての「日帝」は許すことはなくても、文化については別だという考えが広まっているのである。

 

 かくして、残存する日本統治時代の建物を観光資源として活用したり、失った和風の街並みを復元する動きが広まっている。仁川、木浦、群山などの地方都市の事例が分かりやすい。群山の大正時代に建てられた旧朝鮮銀行はキャバレーの廃墟として最近まで野ざらし状態だったというから宝城旅館よりもすごい。

 前回の記事では日本の地方都市はフランスを見習えという主張を展開し、これが話題になった。

 ただ、フランスと日本では距離があまりに遠すぎて、地理条件や社会環境が違うという考えもできそうだ。確かにそれは一理ある。

 

 だとすれば、日本の地方都市は韓国を手本にしてみてはどうだろうかと思う。

 豊かさではすでに韓国に抜かれているわけで、ここは潔く身の程を認め、進んだ韓国から謙虚に学ぶべきものを学ぶ必要があるのだ。

 東京とソウルはどちらがレベルが高いかといえば、それは文句なしに東京である。しかしそれは、首都で人口最大都市で、大抵の大企業本社があるなど国力が集中しているおかげである。地方部分だけ見れば韓国の方が日本よりずっと上にあるのが現状だ。今はまだいいが、このまま日本の家電企業が各社にっちもさっちも行かなくなっている状態を打破できずにサムソン電子などが飛躍していけば、いずれ東京も危ういかもしれない。

 日本の地方都市がこの体たらくに陥った理由はもうわかり切っている。

 戦後一貫して「大型開発に夢を見すぎる病」にかかっていて、抜け出せなくなっているからだ。

 人口も産業発展も右肩上がりの高度成長期ならまだよい。しかし、最後まで残っていた炭鉱が一斉に閉山したのが1980年代のこと。1990年代以降は工場が地方で成り立たなくなり、生産拠点の途上国移転で工業開発は見込めなくなった。にもかかわらず地方は間抜けな人間が間抜けな代議士を選ぶ「農耕民族型衆愚制民主主義」が蝕み続けた。高速道路や新幹線の新規開発がやめられず、できた沿線には進出企業がろくにないような工業団地が整備され続けた。県知事や市長はそれらの推進役として旗を振っていたのである。平成日本をダメにした元凶は明らかに、地方だ。

 根拠もなく「オラが村の発展」を煽る政治家がいて、それに騙されるバカな有権者がいくらでもいて、一票の格差構造で彼らばかり優遇されることで、大学を出て、マトモな企業に勤める大多数の正常な都市住民の賢い考えが政治に反映されずにいる。成功した事例が唯一あるなら横須賀出身で昭和自民の脱却に取り組もうとした小泉首相くらいだろうか。でも、小泉首相肝いりの郵政改革は国民新党を味方につけた民主党政権がもとに戻してしまい、その後の安倍首相は小泉改革の成果を尽く否定して古い業界団体を活用し、痴呆創生のバラマキを繰り広げる「逆コース」を展開している。みんなの党は自滅し、維新も低迷し、自民でも民主でもない政権担当能力のある第三の政党はどこにもなく、日本が「亡国の田舎者」たちに蝕まれる構造は変わりそうにない。しかし確実に高齢者は死んでいく一方である。毎年春になると相変わらず平成生まれの地方の若者が「戦後の出稼ぎ集団就職」の精神で上京一極集中を繰り広げ、地方都市は過疎化が深刻だ。

 私が見る限り、地方とは「小さな国」である。

 たとえば岩手なら県民みんなが県域新聞の岩手日報を読んでいて、盛岡に一極集中をしている構造がある。それはまるで、岩手がひとつの「ミニ中央集権国家」だ。

 もっと言うと、青森の右半分は八戸に、左半分は弘前を軸としたミニミニ国家のようだ。そして、それぞれの地区にデーリー東北とか陸奥新報というように、県より小さい範囲のローカル新聞がある。こんなものがマトリョーシカ人形のように何層も繰り返されていて、それらすべてにおいて社会秩序が戦後昭和より一貫して何も変わらない野が地方の体たらくではないか。

 東京から人間がやってこない。ましてや外国とのつながりなんてない。外部からかき乱されることが何もなくなると、そこには「ムラ社会の常識」が凝り固まるようになる。既得権政治家が都合よく行うばら撒きのような「天から降ってくる発展要因」があると、そのときだけ、買い物の中心が駅前のローカルデパートから新しいバイパス沿いのイオンモールに移るような「上っ面の発展」を遂げるものの、しかし社会の質とか住民のモチベーションは全くと言っていいほど進歩していないのだ。極端言えば江戸時代譲りの封建体制から何も進歩していないのではないだろうか?

 

 日本の地方都市は次元があまりに低いのである。

 韓国では民主化運動は全羅南道などの地方ほど沸き上がったという。軍事政権時代は開発独裁による「漢江の奇跡」と呼ばれる右肩上がりの発展はあったが、それに満足していたわけではなかったのだ。「世の中の仕組みのおかしさ」に住民たちは気づいたのである。言論の自由がなく、もし手荒なことをすると政権側にツブされかねないと言うリスクも承知で(実際光州事件などでは多くの市民の命が犠牲となった)それでも立ち上がった勇敢な市民がいくらでもいた結果が、民主化の実現であり、今の民主国家としての韓国の発展だ。

 日本は独裁国家ではなく民主主義がある。ならば「オラが村に利権をばら撒く」ような自民党民主党の古い金権世襲政治家ではなく、国益の広いビジョンがあって、地域の本当の未来を考える人間を出馬させたり、そういう人間が市議・県議や首長や代議士やらに選ぶために主義主張を吟味した投票をするべきなのだ。だが、そういうことを全くせずに、昭和の大昔(もしかすると江戸時代から)変わらぬ「今の地元の秩序」を守りつつ、利権の分配による「上っ面の発展」のできる人間だけを相変わらず選び続ける民主主義をナメきった有権者が地方にあまりに多すぎなのだ。お里が知れているのである。

 日本の地方都市は、街のかなり外れまで4車線バイパスや6車線バイパスだらけだが、韓国はそうではない。整備の良い対面通行が主流だ。ガードレールがあって、必要最低限の照明があって狭苦しくて橋が落っこちるような「酷道」でなければそれでいいという感じである。

 勝ち取った民主主義の一票の重みや有難さを有権者がしっかりと自覚しており、道路を引っ張り、地権者や土建屋に利権を分配する田舎者の親分を選ぶのではなく、地域の質を向上させると言う政治が根付いているのだと思う。下手すりゃソウルの政治家の方が独裁政権由来の利権構造を引きずっていて、余計なハコモノを作ったり昭和の日本みたいな金権スキャンダルにまみれているくらいだ。

 公共事業をするにしても、町はずれに必要のないバイパスを作るのではなく、それよりはるかに安上がりで中心街を「広場化」することで、そこにモダンなテナントも集まって、若者を含めた多くの人でにぎわっていたりするのである。この市街地の広場化と言う政策はヨーロッパで取り入れられている「脱クルマ社会化」の流れをくんでいるものである。

 

 日本では世界で先端的な都市政策が地方はおろか東京すら取り入れられていない。舛添都知事をはじめとする東京の古い政治家の大半は、都民の多数派とは異なる「特殊な古びた下層既得権」世界に生きる「東京都民の田舎者」が支援しているからだ。これが日本の現状なのだから、あまりに情けないのだ。