2. ポール・クローデル―詩人と大使
フランスの劇作家・詩人ポール・クローデル(1868-1955)が駐日大使として着任したのは、大正10(1921)年11月のことであった。クローデルは、外交官試験に首席で合格し、後には駐米大使まで務めた有能な外交官であったが、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の弟子として有名な姉カミーユ(1864-1943)の影響で、幼い頃から日本への憧れをもっていた。外交官になることは、日本へ行くための近道と考えたという。昭和2(1927)年4月に駐米大使に転出するまで、休暇帰国を挟んで約4年半滞日し、政財界の要人や文化人らと交遊した。その間、関東大震災を経験、日仏会館の開設に尽力し、代表作となる戯曲『繻子の靴』を書き上げている。カトリック詩人として知られるクローデルであるが、日本人の感性を深く理解し、俳句や都都逸風の短詩作品や日本文化を主題とした随筆集(邦題は『朝日(=日本)の中の黒い鳥(=くろうどり=クローデル)』)を残している。
ポオル・クロオデル(高橋邦太郎訳)『千九百十四年降誕祭の夜』文泉社[ほか],大正10(1921)【501-183】
クローデルの戯曲で最初に邦訳された作品である。訳者序には、「このたび、駐日大使として来朝されることとなつた」とあり、来日に合わせて出版社が翻訳刊行を依頼したもののようである。第一次世界大戦中の1915年に執筆されており、カトリック的、愛国的色彩が強い作品である。訳者の高橋邦太郎(1898-1984)は、後にNHK記者・アナウンサーとなり、その傍ら仏文学研究を続けた。西園寺公望がフランス滞在中に古今和歌集を抄訳した『蜻蛉集』を初めて紹介するなど、日仏交流史研究の草分けとして知られる。
Paul Claudel [著]『百扇帖』[コシバ社],1927【YR12-107】
クローデル離日の昭和2(1927)年、置き土産のように200部刊行された短詩集。経本仕立ての3冊本に連句的に172篇を記す。仏文はクローデル自身の、題字及び各篇に付された漢字は有島生馬(1882-1974)の筆である。「Bruit de l’eau sur de l’eau/ ombre d’une feuille/ sur une autre feuille(水上の水音葉に映る葉陰)」など、俳句的と言える簡潔さで自然のイメージが詠み込まれている。ある講演の中でクローデルは、自然の神秘が開示される瞬間の詠嘆・感動の表現である「もののあはれ」が日本文化を理解する鍵であると述べているが、彼の見た日本の自然は、よそよそしく対峙するものではなく、潤いを含んだ親しげなものであった。はかなく透きとおるような羽虫、親密な共感を抱かせる小さな動植物、これらの生命を運動のうちに見事にとらえた芸術。クローデルにとって日本は、潤んだ縮小鏡のような装置であった。
Paul Claudel (peintures de Rihakou Harada), Dodoitzu. nrf, c1945【KR153-A54】
クローデル翻案の日本俚謡集。日本敗戦の年にパリで出版された。江戸から明治の俗謡(いわゆる都々逸)だけでなく、幅広い時代の26首を仏訳し、在仏の画家ハラダ・リハク(1890-1954)の挿画とともに収録。内容は、ほとんどがくだけた恋唄である。翻訳に当たっては、日本学者ジョルジュ・ボノー(1897-1972)の『日本詩歌選』(Anthologie de la poésie japonaise【KH8-8】)を参考にしている。
クローデルは滞日中、公私の用件で各地を旅行し、多くの要人・文化人らと親交を結んだ。アリスティド・ブリアン(1862-1932)外相の進めた国際協調路線を基調に、積極的な対日接近を図り、その努力は日仏会館の設立等に結実した。しかし、クローデルの離日後、日本は国際的に孤立を深め、彼が本国宛ての外交書簡で警戒を示していた軍部の台頭を招いて破滅への道を歩むこととなる。日本の敗戦の報に接したクローデルは、「Adieu, Japon!(日本よ、さようなら)」と題する一文で古い日本を惜別した。