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<イスラム国拘束>「私の監禁は…」…元人質の仏記者が語る

毎日新聞 1月24日(土)11時55分配信

 ◇「拉致監禁のプロ集団。計算が緻密」と証言

 【パリ宮川裕章】シリアやイラクの一部を活動範囲とするイスラム過激派組織「イスラム国」に、2013年6月から14年4月まで約10カ月間拘束されたフランス人ジャーナリスト、ニコラ・エナン氏(39)が23日、パリ市内で毎日新聞の取材に応じた。エナン氏は拘束時の状況について「過激派は(拉致監禁の)プロ集団。計算が緻密で、組織立っていた」と証言した。

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 エナン氏はイスラム国支配下のシリア北部ラッカの実情を単身で取材中、拉致された。「路上で車が脇に止まり、武装した黒覆面の男4人に車内に投げ込まれた。手錠をはめられ、コートをかぶせられた。10秒間の出来事だった」と語る。 エナン氏は腕時計などを奪われ、狭い浴室に一人で閉じ込められたが、3日後、窓から脱出。夜通し砂漠を走って逃げたが、明け方たどり着いた村はイスラム国の勢力下にあった。すぐに拘束され、元の場所に戻され罰を受けた。

 その後、アレッポで西洋人の人質約20人が1カ所に集められた。「約20平方メートルの作業場で、部屋の隅に蛇口とトイレがあったのは幸いだった」。ここで、昨年8月に殺害時の動画が公開された米国人記者と出会い、その後、6カ月間、行動をともにした。人質の間では仏語、英語、アラビア語などで会話した。「ストレスから人質同士の口論もあったが、一つのコミュニティーが生まれた」という。

 拘束場所は「主にアレッポ、ラッカ間を転々と移動した」と推測する。部屋では2人1組で手錠でつながれ、食事は1日2食。昼がオリーブ12個とヨーグルト。夜にはカップ1杯のご飯が与えられた。「完全に飢えさせることもなく、逃走する体力を奪うように計算されていた」。概して衛生状態は悪く、トイレのホースをシャワー代わりにした。英語のコーランなどが与えられただけで、時間を持て余した。

 看守は用心深く、「武器を奪われないよう人質の部屋には丸腰で入り、別の看守が部屋の外から銃を構えた」。「看守には米英軍によるイラク侵攻への復讐(ふくしゅう)心があり、米英人の人質の扱いは他の人質よりも悪かった」とみる。一緒に拘束されていたグループでは6人が殺害されたが、1人は公表されていない。「ある人質は突然連れ出され、数日後にパソコンで遺体の画像を見せられた」という。

 同じ場所に拘束されたシリア人囚人の扱いは過酷で、「廊下で看守が叫びながらシリア人を殴る音が聞こえた」。エナン氏は自身への拷問については「語りたくない」と言う。通信は許されず、「外界についてわずかでも情報が入るのは、新しい人質が加わった時だけだった」と回想する。

 希望が膨らんだのは、解放される数週間前に3人のスペイン人記者が解放された時だ。「過激派は支離滅裂な形で身代金や囚人解放の要求を語った」という。エナン氏らフランス人4人はトルコ国境沿いで解放され、トルコの警察に保護された。解放から10カ月後の今も「ストレスが残り、生活を再建するのが難しい」と話す。

エナン氏は拘束中、「日本などアジア系の人質や戦闘員は見たことも、話に聞いたこともない」という。イスラム国にとっての日本は「金をゆすり取る対象」とみる。日本がイスラム国対策として打ち出した避難民支援の2億ドルについては「人道的なものであっても、イスラム国の論理では敵対行為とみなされる」と分析。日本人2人の人質事件について「非常に心配だ」と語った。

 日本人の拘束場所については、ネットで配信された映像の背景が「ラッカ周辺の景色と似ている」と指摘した。

 ◇ニコラ・エナン氏

 フランスのフリージャーナリスト。アラビア語を駆使し、中東、アラブ世界の動向取材を専門としている。2003年のイラク戦争では3月の開戦前から現地入り。11年に起きた中東の民主化要求運動「アラブの春」はエジプト、リビア、シリアから報道した。13年6月、過激派組織「イスラム国」の本拠地シリア北部ラッカで拉致され、10カ月間拘束された。

最終更新:1月24日(土)17時49分

毎日新聞

 

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