☆苦悩に沈む人たちへ。功徳の話を書くと、「自慢話」と言う人がおります。
そのような発言を聞くと、「あゝ、この人は、本当に惨めで、本当に苦しい地獄にいたことがない人なんだ」と思います。
藁をも掴む思いで、突破口を見つけたい‥
そのために、私と同じ苦しみを克服した人はいないだろうか?
何としても手掛かりを見つけたい‥
そんな気持ちになったことがないのでしょう。
○体験の重要性.私は体験の重要性を深く知っています。それは、私が絶望と深い悲しみに翻弄され、泣きながら唱題した時代があるからです。
体験談は、絶望の淵に立っている人にとって、最も効果のある薬です。
結論の出ない苦しみの中では信力が揺らぎます。
「私は幸せになれないんじゃないか」
「もう、だめなんじゃないか」
凍えるような心を奮い立たせて、御本尊にすがりつき深夜に唱題する‥
そんな、どん底の人間にとって、同様の悩みを乗り越えた人の話は千金の価値があるのです。
自慢話と揶揄する人など私は相手にしません。
私は、地獄の中で震えている人たちのために語るのですから。
○心の貧富の差.さて、このシリーズは、「境涯」がテーマです。
よく、学会では境涯が高いとか、低いとか言いますね。
あるいは境涯を開くなどとも申します。
私自身、子供のころから、一体、何度、境涯という言葉を聞いたことでしょう。
戸田先生は、「幸せとは心の上に築くもの」と語られました。
私が、心、あるいは境涯というものを初めて認識したのは42歳のころです。
一生成仏抄を読んでいたときに覚醒があり、その後、年々歳々に境涯という世界を強く大きく感じることになります。
勿論、心の変化、もっと分かりやすく言うなら、心の豊かさといったものが、他の人たちと比べてどの程度の違いなのかということは私自身には分かりません。
ただ、比較ができるとするなら、過去の自分の心との相違だけです。
○境涯の変化.私の心はとても貧しいものでした。私はとても惨めでした。
心と申し上げておりますが、私の考え方だったり、喜怒哀楽だったり、あるいは物事の受け止め方、それは感受性に関することなのですが、ともかく、それらが極端に貧しく、愚鈍なものだったのです。
もっと現実的にいえば、私は私の心が不幸であるという認識すらできず、息苦しい狭い空間でやっと息をしているような状況だったのです。
霧がかかったような心の中で、私は大きな不安に悩んでいました。
しかし、今はどうでしょうか。
今の私の心は、不思議なことに晴天のごとく晴れ渡っているのです。
この極端な心の状態の違いは、どうしたことでしょうか。
そのことを、私の幼少期から振り返り、語りたいと思います。
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