いまや、テロに国境はない。欧米、アジア、地域を問わず、人びとの暮らしを脅かす。

 そんな時代に、どんな安全保障政策が有効なのか。とりわけ中東とどう向き合うべきか。

 過激派組織「イスラム国」による今回の人質事件は、日本の外交・安保政策を考え直す重い機会となろう。

 「テロに屈しない」のは当然である。だが一方で、その常套句(じょうとうく)に流され、拙速な結論を導いてはならない。

 米国での9・11事件から十余年、「対テロ戦争」の限界と弊害を世界は目撃してきた。力には力で、と走る危うさを今世紀のイラク戦争とその後の中東の混沌(こんとん)が物語っている。

 日本は事件から、何を教訓とすべきか。少なくとも、軍事的関与に走ることが日本の安全に直結するとは到底思えない。

 むしろ逆だろう。日本はこれまで各国の軍事作戦とは一線を画し、人道的な支援に取り組んできた。その実績には中東一円で高い評価がなされている。

 その親日感情の資産を守りつつ、今後も進めるべきは各国政府や国際組織との連携である。

 穏健な地元政府との協調関係を維持しながら、テロ組織に対する資金源の遮断など包囲網づくりに日本も取り組む。問われるのは地道な外交力である。

 自衛隊による在外邦人の救出といった論議に走るときではない。国際的なテロ対策を進めるうえで、日本が非軍事を掲げる意味を軽視してはならない。

■対米追従の舞台に

 「ハイルル・ウムーリ・アウサトハー」

 安倍首相はエジプトでの演説で、「中庸が最善」というアラビア語で、過激主義への懸念を示した。2億ドルの人道支援を通じ、アラブ世界との信頼関係を深めることは意義深い。

 ただ、「イスラム国と闘う周辺各国に支援する」という首相の表現は適切だったか、綿密に検証されるべきだろう。

 中東の人びとから見れば、日常を襲う戦火は「イスラム国」に限った話ではない。どんな理由であれ、生活を破壊され、傷ついた民衆のそばに、日本国民は立つという普遍のメッセージを送るべきではなかったか。

 そもそも「中庸」を唱えるなら、中東外交の主役だった米国の政策にも目を向けるべきだ。

 イラク戦争が生んだ内戦と荒廃は、過激思想を助長する結果になった。長らくイスラエル寄り一辺倒の米外交は、国連で孤立の色も深めている。

 ところが冷戦後の中東は、日本の対米追従を際立たせる舞台となってきた。

 91年の湾岸戦争で日本は130億ドルを拠出したが、小切手外交と批判され、ペルシャ湾の停戦後の機雷除去のために、自衛隊を初めて海外派遣した。

 その後、小泉政権は陸上自衛隊のイラク派遣に踏み切った。米国に追随する日本のイメージを強めたのは間違いない。

 日本はどんな原則を重んじる国なのか。中東で日本を見つめる民衆の目を考えるべきだ。

■人道支援の結集を

 オバマ米大統領は「イスラム国」への軍事攻撃を強める意向だ。大規模な地上部隊は投入しない考えも強調しているが、将来的には可能性が残る。

 ここで、日本がどんな姿勢をとるかが問われる。

 安倍政権は、集団的自衛権関連の安保法制の成立をめざしている。要件が満たされれば、他国への攻撃でも武力行使が認められ、後方支援の幅も広がる。

 もし軍事支援に踏み込むようであれば、「イスラム国」が宣伝した通り、米英と同列の立場になるだけだろう。

 だが、安倍首相はきのうの国会で、空爆作戦への参加や後方支援は「考えていない」と明言した。「難民の命をつなぐ」ための支援に徹してもらいたい。

 たとえば、中東安定化のための国際会議の開催に、日本がもっと力を貸せないか。難民支援の独自策を打ち出せないか。

 アラブ諸国、イスラエル、イランのいずれとも対話ができる日本には、米国にはない独自の立場をとる余地がある。

 とくに人道支援の分野で、国連を軸にして国際社会の力を結集する。そうした方向での合意形成を後押しすべきだ。

■現地の人々のために

 安倍首相の掲げる積極的平和主義も、その中身を再考してみる時期ではないか。

 後方支援などで自衛隊を海外に展開し、軍事面で日本の存在感を示したい――。これまで安倍政権からは、そんな意図が見え隠れしてきた。それが対米支援の拡大なら、追従外交の延長線でしかない。

 とくに中東では、非軍事こそ日本が進むべき道である。

 戦火に悩む人びとの暮らしをまず考える。あくまでも人間の安全保障を重視する。それが、日本の安全にもつながる。

 人道外交を重んじる平和国家。その理念を旗印に、テロを許さぬ立場を貫きたい。