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2015年02月02日

「どうか、神様。彼らに安らかなる日々をお与えください」

「くたびれきって: シリアから来た難民の小さな女の子。ヨルダンのアズラク・キャンプに安全な居所を得るために、家族と一緒に何日も歩いてきた」(国連難民高等弁務官事務所UKの写真つきツイート)




私にとってそれは、自分の見ている画面でいつも何らかの言葉を発している英語圏のジャーナリストたちが、一斉に「後藤健二」という名前をローマ字表記したものをツイートしだすという形で現れた(湯川さんのニュースのときは、映像ではなく真偽不明の静止写真だったこと、ニュースの「メイン」になるのが音声でのメッセージだったことから、名前が出るより多くone of the Japanese hostagesというような表現が多く見られた。Haruna Yukawaという名前が出て私が衝撃を受けたのは、なにより、米大統領声明だった)。

ニュースが出たときの人々の言葉は、アーカイヴしてある。

後藤健二さんまでも、黒旗を掲げる首切り集団に殺された。
http://matome.naver.jp/odai/2142274369058242301


Kenji Goto, または #KenjiGoto という文字列が現れるツイートが、今回後藤さんが残忍な形で殺害された地域について取材し書いているジャーナリストたちに限られていた間は、平常でいられたと自分では思う。「あの地域のニュース」だからだ。あるいは日本特派員や元日本特派員の人々が言及するのも、驚きはもたらさなかった。

しかし、これを見たとき、私の中の何かが崩れた。




マーク・デヴェンポートさん。BBC Northern Irelandの政治ニュース記者。グッドフライデー合意前の交渉の現場にもいたし、その後、ストーモントの自治議会が再起動され、ものすごい紆余曲折を経ながらなんとか軌道に乗って行政府としての体を為しつつある様子を観察し、取材し、分析して言葉にしてきた記者だ。私はこの人の報道にたいへん多くを負っている。私だけではあるまい。北アイルランドについてのニュースを追っている多くの人がそうであるはずだ。

そのデヴェンポートさんが、日本語をローマ字化したものを書くことはめったにない。JapanやTokyoという地名が出てきたことはあったかもしれないし、日本の首相の名前や北アイルランドに工場・RD拠点を作っている日本企業の名前も書かれたことはあったかもしれない。しかし。

「北アイルランドのリスト」でこれを見たのだ。ベルファスト北部での銃撃事件(ちょっと深刻)などのニュースのフィードの中で。

先ほど「私の中で何かが崩れた」と書いた。崩れたのは何より「日常性」だ。

ああいうことが起きるということは、こういうふうになるということなのだ。北アイルランドの政治ジャーナリストまでもが、守備範囲には無関係であるはずの日本人ジャーナリストの名前を書く、ということになるということ。




後藤さんが自分で設立した会社のサイトのブログの最後のエントリ(2014年7月28日付け)のコメント欄。
http://ipgoto.com/archives/1846#comments

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私の朝は目玉焼きひとつとフルーツとブラックコーヒーで始まります。
そして各地の仲間からが送ってくるメールに目を通します。
通りを歩けば、子どもたちの無邪気な笑顔になごみます。
そんな平和な毎日が世界中の人たちの上にあることを願っています。
後藤健二










「ISISの殺人の中には大きく報道されるものもあれば、そうでないものもある。しかしどのケースも、シリアとイラクに対する邪悪な侮蔑を示している」



ラッカの民主化活動家のアカウントから、後藤さんのお写真3点。「彼はシリア人を助けるために来た。安らかに」。




It means “Lost Age” really. これこそ本当に「失われた世代」だ
投稿日:2014年7月11日 作成者: Kenji Goto
http://ipgoto.com/archives/1829

なぜ、彼らは死ななくてはならなかったのか?希望の光射す未来と無限の才能を持っていたのに。これから好きな女性ができて、結婚して、子どもを産み、家族を持てる十分な機会があったはずなのに。戦いに疲れ果てた人たちは口々に言う。「死んだ者は幸いだ。もう苦しむ必要はなく、安らかに眠れる。生きている方がよっぽど悲惨で苦しい」と。皮肉だが、本音だ。彼らは兵士でも戦場を取材するジャーナリストでもなかった。外国人と交流して異文化を味わうことを楽しみ、すべての時間を市民のために自分のできることに費やし、自分で思考錯誤しながら技術と得意分野を真っすぐに成長させて行った。

オマールはあの時何歳だったか?革命を信じたお子ちゃまカメラ少年は、いつの間にか生き生きした映像を録る勇敢なカメラマンになっていた。ISISに殺された。

そして、ハムザ。戦争孤児や貧しい家庭1,000世帯に、毎朝パンを届ける慈善団体を切り盛りする天才肌の若者だった。7月10日、空爆の犠牲になった。

彼らは、いつも笑顔でこちらの頼みを聞いてくれた。一緒にお茶を飲み、甘いお菓子を食べた。感謝のしるしに日本製の時計を、コンデジを、プレゼントした。戦時下では、プレゼントできること自体が嬉しいものだ。

世界各地の紛争地帯で、私の仕事を手伝ってくれた人たちが、もう何人亡くなっただろうか?

でも、私はまだ生きている。生きて自国に戻り、「伝える」仕事に集中することができる。

彼らが死ぬなどと真にイメージしたことは正直なかった。

鮮烈に蘇る彼らの優しい笑顔。

ボー然としたところで、「なぜ?」と考えたところで、彼らはもう戻って来ない。

どうか、神様。彼らに安らかなる日々をお与えください。


本当は今日のブログには、ISIS Media Blackoutのことを書くつもりだった。けれども、そこまで到底たどりつけていない。
posted by nofrills at 23:50 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war
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記事を読んでくださってありがとうございます。
個別のご挨拶は控えさせていただいておりますが、
おひとりおひとりに感謝申し上げます。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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EXPOSING WAR CRIMES IS NOT A CRIME!


詳細はてなダイアリでも少し。