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2010年6月 9日 (水)

高杉晋作流奇兵隊が菅直人の手法

KeiheitaiKan001_2菅首相、この 政局を明治維新の混乱期と見て、「奇兵隊内閣」と「私の趣味ですが」といって、ネーミングした。高杉晋作は、第二次長州征伐の幕府軍に対して、奇兵隊を率いて関門海峡を越えて奇襲して小倉藩を占領、幕府軍九州方面指令官小笠原壱岐守長行を遁走させた。これが、彼の最高の演出だった。

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Takasugi1 Imagescajck371_2 高杉晋作が出てきたころの長州藩は最悪の状態だった。文久3(1864)年、下関(馬関)で攘夷実行とばかりに、長州藩は米仏商船に砲弾を浴びせて、逆に米仏軍艦に逆襲されて、馬関砲台は壊滅させられた。高杉晋作を演じて、印象に残っているのは、中村雅俊だった。

310pxshimonoseki 長州の意気軒昂の攘夷派は、再び、砲台を築き、海峡封鎖をしてフランス、オランダ、アメリカの商船の妨害をした。すると、翌1864(元治元)年7月仏 蘭 米の三国は、連合艦隊17隻を編成して攻めてきた。馬関(現下関市中心部)と彦島砲台を徹底的に砲撃を加えたのち、各国の陸戦隊が上陸し占拠・破壊した。8月5日に始まり、2日間で、長州側には抵抗できる力は残っていなかった。

この敗戦によって、長州は、外国の実力を肌身で知った。以後、長州(山口県)藩は先頭をきって、政策を180度転換して積極的に欧米から新知識や技術を導入、軍備軍制を近代化してゆく。

馬関海峡での四カ国連合艦隊の報復攻撃に手も足も出ない長州藩正規軍の弱さを痛感し、高杉晋作は、藩内の下級武士・百姓・町人の中から尊王攘夷の志を持つ者を集めて「奇兵隊」を創ろうと申し出た。威信の低下していた藩庁は、これを認めざるを得なかった。(奇兵とは藩の正規兵に対応する呼称)

 高杉晋作は奇兵隊を率いて決起したところから、そして奇襲・強襲を繰り返して僅かの軍勢で短期間の内に尊王派政府を樹立、幕府に対して徹底抗戦を計った。

Imagescazrzoly 思想の根底には、吉田松陰の教えがある。難しい言葉だが、草莽崛起ソウモウクッキを理想とした。幕藩体制を倒幕した草莽の志士のごとく、私たちも、地方議会から「誇りある国づくり」、日本を変革する行動者たらんことをねがって、明治維新志士に準じよう、というわけだ。菅直人の言葉を聞くと、腹の底から何か掻き立てられる。

草莽崛起で展開した明治維新を菅首相も意図している。別の見方すれば、政治においても、ゲリラ作戦、ゲリラ戦法を組織だってやることだ。ゲリラで失敗すれば、するほど、逞しい闘士になる。民主主義は、旧思想との戦いだ、と規定したほうがいい。

高杉は「泰平の世で堕落した武士」よりも「志をもった農民や町民」が戦力になると考えていたとされる。失敗しないエリートより、たくさんの挫折した青年のほうが強く、役立つ人間になる。菅首相のデビューは、そういう檄でもある。考えてみれば、二代目、三代目の人が首相二なってきた日本の政治においては、市民運動出身の菅直人は画期的な存在だ。その彼が期待を外したら、もう代わりがしばらくは出て来ないだろう。

「奇兵隊内閣」という時の「奇兵隊」の戦いは市民運動であり、戦闘である。戦争というには政体を降伏させるまで叩く大掛かりなもの。菅直人の攻撃は市民運動形態の戦いで、局地戦は強いが内閣を持った今は「奇兵隊」的なゲリラ戦思想ではまかに切れない。全体の構想が必要であるが、相変わらず、評論家にボロクソに言われている。

草莽崛起の隊士らは、西洋式の兵法をよく吸収し、当時最新の兵器を取り扱い、戦果を上げた。百姓や町人から選抜された非武士、志の高い人材を鍛えれば、勇敢で強い兵士になった。それに比べれば、二代目、三代目代議士のひ弱なこと、「唐様に売家とかく三代目」と江戸川柳にヤユされたように、勉強はできるが、遊びで身代を潰してしまう。多くはひ弱で、政治家になっても、モノなる二代目、三代目は滅多いない。渡辺喜美がそれに該当するか、どうか、だ。

Sikyousensoukankeizu  そして幕府の第二次長州征伐軍を迎え、彼は奇兵隊を率いて関門海峡を越えて幕府海軍を奇襲して威勢を高め、小倉藩を占領、幕府軍の九州方面指令官小笠原壱岐守長行を遁走させた。しかし、華々しい戦いをし彼の人生のピークが来てようだ。この戦いの後、持病の労咳(結核)が悪化、短い闘病生活の後、ひっそりとこの世を去った。辞世の句は「面白く無き世の中を 面白く住みなすものは 心なりけり」であった。芸達者でおもしろい人物だったようで、菅直人に似ていたのかもしれない、と思う。

Kihei15 国内戦闘では、負けない戦いをした。長州藩内では正規軍より、草莽の軍は強かったし、作戦が上手いから、戦う場もチャンスを掴むのもうまく、連勝した。特に、幕府の二次長州征伐軍が攻めてきたが、高杉に見出された大村益次郎〈村田蔵六)に率いられた長州軍は、武器も揃っていたし、志気も高かったから、幕府軍は逃げるばかりだった。大村益次郎

Photo_3 特に、石州口の戦いは、大村益次郎が庄屋の大屋根の上で望遠鏡で覗いて、距離と方角を指示すると、砲弾が幕府軍の陣地へ正確に落ちるから、たちまち幕府軍は逃げ出した。それは、司馬遼太郎原作のNHK大河ドラマで描いていた。昭和52年「花神」で中村梅之助が村田蔵六を演じていた。ぴったしのイメージをつくってくれた。

(人物エピソード)高杉晋作 桂小五郎とは対象的な人物で、異人切り、焼き討ちなど実戦指揮で活躍した。藩政府からその行動をとがめられ、ほとぼりが冷めるまで密出国で上海視察に向かった。ここで植民地の実態を掴み、開国が急務である事を悟った。 
 文久年間には上京し、将軍徳川家茂の暗殺を企てたが、桂に制止され中止。その代わり、将軍の行列に向かって「いよっ!征夷大将軍!」とかけ大声を掛けて嘲笑した。再びその行動を藩政府から危険視、国元に召還された。

致人隊 兵数 15 隊士  狙撃の上手な足軽を集めた狙撃部隊。長州藩諸隊の一つ。選抜方法は、青銅銭を糸で釣り下げて回転させ、表を向いた時に数十間〈約40~50メートル)先から撃って弾を当てた者のみを採用する試験であった。

維新団(肝煎 吉田稔麿)兵数 150名(4個小隊)は、長州藩熊毛郡の被差別部落の中から品行方正、強壮勇敢、健歩才気の科目に応じて採用した。その選抜は、1村100軒に5名。編成上は地光隊(25名、地雷火・火箭製造)と共に遊撃隊本隊に付属する。

(人物説明)吉田稔麿 長州藩士。吉田松陰の弟子で、松下村塾で最も優れた秀才として知られていた。 池田屋事件に際しては、一旦は包囲網を切り抜けて長州藩邸に逃げ延びたが、藩邸が援軍を出さないと知るや手槍を持って引き返し、加賀藩邸前で多数の敵に囲まれて斬り死した。

200pxtakayoshi_kido_suit 明治維新に至る「薩長同盟」を結んで、奇兵隊が活躍するまでに、長州の人材は不慮の死、戦闘での死で多くが失われてしまった。先頭で戦ったもので残って方が少ない。明治維新以後、表に出てきた人材は、二番手だ。伊藤博文にしろ、松陰学校では一番下級生だ。木戸孝允しか残っていないというほど、人材が払底していたといわれている。長州は明治維新で磨り減ってしまったといえるが、それだけ明治維新の功臣が多かったともいえる。

(人物説明)桂小五郎(15歳以降)、木戸貫冶(33歳)、木戸準一郎(33歳以降)、木戸孝允(36歳以降。年齢はいずれも満年齢)である。

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コメント

高杉は「泰平の世で堕落した武士」よりも「志をもった農民や町民」が戦力になると考えていたとされる。失敗しないエリートより、たくさんの挫折した青年のほうが強く、役立つ人間になる。菅首相のデビューは、そういう檄でもある。

投稿: | 2010年11月28日 (日) 23時39分

しかし、菅直人総理のゲリラ思想では、国家運営には向かないのではないか。国家構想、ビジョンが明確でないから、場あたりになる。何をやるか、それがほしい。
 そんなことより、政権維持することで、首相の座に長くとどまることだけが目的!と、居直っている気さえする。残念!
 といって、私は菅直人君を嫌いではない。民主党は野党の方がいいのかも、と思われ始めている昨今であるが、、旧自民党に戻るという選択肢はない。政界編成で、小野党の連立では、うまくいくとは思えない。やはり、民主党の中で知恵を絞ってもらいたいが・・・

投稿: | 2010年12月 1日 (水) 11時46分

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