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日本書紀では、白村江で惨敗した中大兄皇子や大海皇子達は急遽近畿大和に逃げ帰ったことになっています。
「逃げ帰る」のと「逃げる」のとでは全く意味が違います。 中大兄皇子が九州筑紫の人間とするならば、これは、逃げ帰ったのではなく、「逃げてきた」という事になります。 では、中大兄皇子と葛城皇子が別人だと言う仮説に従えば、この時、葛城皇子はどこで何をしていたのでしょう? 実は、葛城皇子は、母斉明天皇の崩御後、大和において天皇として即位していたのではないかと考えられるのです。 葛城天皇? そう、葛城天皇です。 しかし、日本書紀には、斉明(皇極)天皇が崩御した年(661年)に、中大兄皇子が「称制(ショウセイ)」(摂政)として政務を執り始めたとあります。 そして、この年が「天智元年」とされています。 葛城の「か」の字も書かれていません。 ① 斉明天皇の崩御後、中大兄皇子が摂政となった。 ② 斉明天皇の崩御後、葛城皇子が天皇となった。[ さあ、どっちが正しいのでしょうか? もちろん、今回の仮説は、「葛城皇子が天皇となった。」です。 そんな頃、中大兄皇子が九州軍と百済の残兵を引き連れ、近畿方面に逃げのびて来ました。 もちろん、大和には「天皇・葛城皇子」がいます。 葛城皇子(天皇)が、中大兄皇子の軍と多くの百済の残兵を、すんなり近畿に、ましてや大和に迎え入れるとは考えられません。 当然、何らかの軋轢があったと思われます。 そして、7年後、中大兄皇子は天皇(天智天皇)となり、新王朝を立てるのです。 ということは・・・・。 そうです、やっぱり、葛城皇子は中大兄皇子に殺害されたのです。 そう考えることによって辻褄が合うのです。 葛城天皇の寿命は「7年!」でした。 中大兄皇子は葛城皇子を排除したものの、葛城皇子派の人間が多く残っている大和に新王朝を立てるのはさすがに危険過ぎます。 そして、斉明天皇崩御の「7年後」、中大兄皇子は滋賀の大津に宮殿を造営し、天智天皇として即位したのです。 日本書紀は、天智は多くの百済人を要職に就けたと記しています (続く) ■
[PR] by web-gorilla5 | 2006-04-17 21:44
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