記紀神話
記紀神話から邪馬台国のヒントを得ようとする人がいる。
記紀神話の大部分は太古の話ではなく4,5世紀の話が殆んどである。
記紀神話を以って邪馬台国の痕跡を見つける事は不可能である事を知るべきであろう。
むしろそれは畿内が邪馬台国でなかった証拠になる事の方が多い事を知るべし。
ヤマタノ大蛇伝説
元々出雲には海蛇を神とする土着信仰があった。
これがスサノオによって滅ぼされるのがヤマタノオロチ伝説の可能性がある。
畿内にも大物主のように蛇を信仰対象にする土着信仰があった可能性がある。
いずれも後に外来の神に主役を取って代わられてしまった。
新しい神をもった種族の到来を示唆している。
スサノオを祭った八坂神社を建てたのは高麗氏だ
高麗氏は自分の祖先だと言う認識で八坂神社を建てたのではないか。
それからスサノオは半島から木の種を持って日本に来たとか、
髭を抜いて蒔いたら木になったとか、木に関連した説話がある。
渡来した目的が木であり、鉄であった蓋然性は高いと思われる。
この事はスサノオ伝承は日本で鉄の生産が始まった5世紀の伝承である事を意味する。
八幡神社(天照大神を祀る)などが設立されたのも5世紀で応神天皇が畿内を攻略した頃の
卑弥呼の時代には届かない新しい話である。
紀記を持ち出して邪馬台国の所在地を云々するのは間違い。
紀によればスサノオの子供、ニギハヤヒが先ず畿内に降臨し、国譲りを経て天孫族が機内を支配した。
天照大神を祖神とする勢力とスサノオは同系なので滅ぼすところまではいかず、
天照大神側は国つ神に対してもですが主従の契りさえ結べばそれなりの処遇を与えたのではないか。
天照の優位を認め年貢をだす約束をすれば滅ぼす事はなかった。
八坂神社の社伝によると
「八坂神社は斉明天皇2年(656)高麗(こま)より来朝せる調進副使の伊利之使主が新羅国牛頭山にます
素戔嗚尊(スサノオノミコト)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜ったのに始まる。
伊利之使主来朝の事、又素戔嗚尊が御子、五十猛(イソタケル)神と共に新羅国に降り
曾尸茂梨(そしもり、楽浪郡牛頭山)に降られた事は日本書紀に記すところであり、
新撰姓氏録に八坂造は狛(こま)国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて、
ほぼ妥当な創祀と見てよい。
尚この八坂の地は、華頂山の麓に位置し、牛頭天皇示現の地と伝える瓜生石も現存し、
又神社の南方に八坂塔で知られる法観寺もあり、この一帯は今も清水寺、双林、長楽、安養、知恩院等あり、
当時霊地として信仰の対象であった事を思えば当社創祀は斉明期以前をも想定しうる。」
とある。
高麗人、またはその後裔がスサノオを祭ると言うのはスサノオが高麗人の祖先だと認識していた可能性がある。
外来神では無いかと疑う理由はここにある。
つまりスサノオは朝鮮の神であり、スサノオを祀った高麗氏も朝鮮人である。
スサノオと兄弟である天照大神も当然朝鮮人であり、その子孫の天皇も朝鮮人の子孫と言う事になる。
龍蛇信仰
yahooで調べれば海蛇が出雲にとって重要な神だった証拠が沢山でてくる。
出雲大社のホームページの神在月の記述に
「また、この時期は出雲地方では風波の激しい日が続き、亀甲の班紋のある小さな海蛇が藻に乗って、出雲の海岸に
寄ってく
ると言われ、これを見つけた人は曲物(まげもの)に収め、出雲大社に奉納する事が古例になっています。
海蛇は「龍蛇神」と呼ばれ、大国主大神の御使いをされる神様として信仰され、神在祭の間、
この龍蛇神を特に拝礼する事ができる。」
私はこの記述が元々は出雲の神は「龍蛇神」だったのが大和政権に征服されて大和の神大国神を押し付けられ、
神在月の時にしか 拝礼を許されなくなった事を意味しているのではと推測している。
海蛇といえば海人族の神です。これに対してアマテラス(スサノオ)族は山岳信仰民族。
「神道の逆襲」と言う本によれば「神様はお客様」だそうです。(毎日評)
日本神道の神様は「御もてなしをして帰っていただく存在」なのだ。
よそからきた、即ち外来部族を表している。
問題は出雲が降伏したのがいつか。
荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡で銅鐸、銅剣が埋められた頃、多分、
四隅突出墓を作った一族が古墳時代の初期に祭器である銅鐸、銅剣を埋めさせた。
しかしこれは大和政権ではない。
畿内では銅鐸は打ち壊された。四隅突出墓でなく前方後円墳を作っているから。
しかし似た事をしているので大和政権を作った種族と同類である事は間違いない。
それが名前はともかくアマテラスとスサノオの差だ。
弥生時代は東アジア海岸部から来た龍蛇神や半島南部からきた占いのような信仰などが入り混じっていたのではない
か。
そこへ新たな神を持った別の種族がやってきて自分達の神を拝むように指示した。
倭人の信仰を完全廃棄はさせなくても征服者は自分達の神を上位に置くように命令した。
古い信仰の祭器は壊して埋めさせたと解釈すれば銅鐸の廃棄はうまく理解できる。
それが半島から来たと考えるのが一番理解しやすい。
埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣について刀の作者が「いたて」と読め、
これは五十猛神の事ではないかと主に畿内論の中でいわれている。
しかし
五十猛神が作者と言うことであればこの刀の作成時期は5世紀末か6世紀前半の銘が入っているので
スサノオもその子、五十猛もやはり5、6世紀の人物と言うことになる事を意味するのだろう。
飲酒の話
記紀神話にはヤマタノ大蛇、熊襲等、酒を飲ませて相手が酔っ払っているうちに殺すなど
一般的に卑怯と思われる手段をとって他種族を支配していった事が誇らしげに記載されています。
これも酒を余り飲まない外来民族が酒を好む倭人を支配していった事を意味しているとも考えられます。
降臨伝説
最初に畿内に降臨した饒速日尊は布留御魂と言い「布留」の語源は蒙古語と言う説がある。
新羅から出雲に降臨した父スサノオ(布都斯御魂)と共に祀られてる。
名前が蒙古語と言うことは出自が外国人だったと言う認識だったのだろう。
スサノオが新羅(伽耶)のソシモリ(朝鮮語)から来た事は記にも書いてる。
その子のニギハヤヒが「フル」という蒙古名を持つ?
「フル」がモンゴル語でどのような意味になるのか判らないが蒙古名であるということは何を意味しているのだろう。
そして布留御霊神は天津神がやってくる前の畿内を支配した。
「布留」が新羅名でない事はどういう意味を持つのか?
新羅よりももっと遠い所に祖先がいた事を示唆していないか。
早くから山陰系の土器が半島から出土しているとのことであり, 古代,倭人による半島南部への「侵攻」があった,
という説もあるが侵攻するのに生活用品である土器などは持ち込まない。
女連れで移動するのは移民か流民だ。
現実には商取引で穀類など食品を入れて輸出し、金属器などを代わりに輸入していたと考えるのが素直な考えだろう。
全て外国で起きた事を国内のように偽装したかもしれない。
出雲の大国主命に国譲りを迫りながら九州に降臨するなど矛盾している。
何かを隠そうとしているのだろう。
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/8_J.html
[韓語でフツは、火、赫(かがやく)く物の意味があった。]
[「赤」といえば、紛れもない物部の皇軍だった。彼らの太刀の柄(つか)には赤い丹塗り(にぬり)を施し、刀尻には赤い
布を裁って飾っていた。そこで、物部の宝剣は、「赤」というアイヌ語、「フレ」が語根であるとも考えられる。子音のr音
は、t音に日本語化されるので、フレはフツにもフルにもなるのである。]
と言うのもあった。
これが真実ならば首露王伝承とも関連する可能性もある。
「首露王は赤い布に包まれた金の箱に入って亀旨峰に降臨した。」
「クジフル」は言い古されてるから置いとくとして 「フツ」「火」=赤い。
「金」=輝く。「フル」=「赤」、そして「降臨」など。
「布留御霊、布都御霊」は首露王伝説の投影ではないか。
首露王を包んだ「赤い布」と太刀(物部の象徴)を飾った「赤い布」だから。
単なる神話の借用で皇祖が半島から来た事を意味するのではないと言う話もあるが、日本で誕生した国なら、韓国よ
りはやく
から生まれた国なら他国の神話を借用などしないだろう。
ちょっとした思い付き
高句麗の都する所、丸都に流れる沸流水(鴨緑江の支流)の「沸流」って「フル」とは読めないか?
「沸」だけとれば「布都」とも。
ニギハヤヒ「布留」もスサノオ「布都」も沸流水に関係しそうな気がする。
高麗を「コマ」と呼ぶのはその故地「蓋馬」を指すようにニギハヤヒの故地に流れる沸流水をとって
布留御霊としたのではないか。
「赤」を意味する「フレ」とかアイヌ語の「丘」より直接的でこちらの方が可能性が強い。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/2251.html
故内藤湖南は京都大学の史学教授となった人
によれば高句麗に沸流(ふる)王という王が居たそうである。
布留御霊は沸流王の子孫であると言うことを意味しているのではあるまいか。
句麗は元々は「フル」だった可能性もある。
保食神
紀記神話ははっきりと朝鮮神話の借用であったと言う証拠のあるものもある。
保食神の神話は朝鮮にあった神話の借用ではないか?
少なくとも朝鮮語を常用している人間にしか判らない遊びだから、
借用でないとすると日本書紀は朝鮮人が書いた事になるの。
【死んだ保食神(うけもちのかみ)の頭頂部には牛馬が、額の上には粟が、眉の上には蚕が、眼の中には稗が、
腹の中には稲が、陰(ほと)には麦と大豆、小豆が生じた。】
というのは日本語で解釈すると訳が判りませんが中世朝鮮語では「頭」と「馬」、「額」と「粟」、「眉」と「蚕」の
音韻が近いことで駄洒落みたいな話としてよく理解できるそうだ。
頭(mara)と馬(ma)、 額(cha)と粟(choh)、 目(nun)と稗(nui)、 腹(pai)と稲(pyo)、 陰部(pochi)と小豆(pat)。
のように。
保食神の神話は朝鮮にあった神話の借用ではないか?
少なくとも朝鮮語を常用している人間にしか判らない遊びだから、借用でないとすると
日本書紀は朝鮮人が書いた事になる。
箸墓伝承
でも、半島に
ある村の娘が知らない男と恋をし身ごもってしまう。
相手の素性がわからないので母親が男の足に 糸を結びつけるように指示、
朝その糸を追って行くと海に続いていた。
男は魚の王様だったと言うのがある。
相手が魚か蛇かの違いである。
http://enkan.fc2web.com/kantan/kr/kr_03.html
【高句麗〜天孫降臨と国譲り 】
紀元前五十九年の四月八日、天から不思議な一行が降りてきました。
白鳥に乗って羽衣を翻した百人あまりの天人が、天空を駆ける五龍車につき従っています。清らかな楽の音が高らか
に響き、鮮やかな雲の間をかきわけて、まずは熊心山に降りました。そこで十日あまり過ごし、ついに地上の訖升骨
(フルスンコル)という城に降臨しました。
五龍車に乗っていたのは天帝の太子で、解慕漱(ヘ モソ)と言います。
頭には鳥羽冠をかぶり、腰には龍光の剣をさしていました。慕漱はそこを 都に決めて自分のことを王だと名乗り、国の
名前を北扶餘と名づけます。
やがて解夫婁(ヘ ブル)という王子も産まれ、彼が成長すると国を継が せたのでした。
解(ヘ)という姓は「日(ヘ)」に、夫婁(ブル)という名前は「火(ブル)」 にひっかけたものだと言われます。つまり、「太
陽・炎」という名前です。
天から降りてきた一族は、太陽にちなんだ名前を持っているのでした。
こうして夫婁が王として北扶餘を治めていたとき、大臣の阿蘭弗 (ア ランブル)は不思議な夢を見ました。
天帝が夢枕に現れて、 遷都せよと命じるのです。
「この地は、今まさに余の子孫が国を建てるべき場所である。よって 汝らは遠慮して立ち退くのじゃ。 東海の沿岸に
迦葉原(カソヴォル)というよく肥えた地がある。そこが お前たちに向いておるであろう」】
上記の「迦葉原」が金官伽耶の降臨伝説「亀旨峰」や、日本書紀の「久士布流岳」、そして「久住」、田川の「香春山」、
神武の即位した奈良の「橿原」と繋がって行くのだ。
「カソボル」→「クジフル」「カシハラ」「カハラ」は同じ地名である。
高木神により葦原中国を治めるように命令されたニニギの命はクジフル岳に降臨する。
高句麗に降臨した天帝に追われた夫婁は国を譲ってカソボルに行く。
日本では、神武が「カシハラ宮」に遷都し、「奈良」から『国譲り』をしたニギハヤヒ(布留御霊)がいた。
高句麗神話からの地名の借用は何故起きたのか?
日本では「橿原」から出雲に『国譲り』をした大国主がいた。
私は大国主は先に渡来した高句麗族と見ている。
大国主は解夫婁を投影しているのだろうか?
夫婁(ブル)は「布留御霊」と関係あるのではないか?
高句麗神話と日本神話は一繋がりの物語のように見える。
高句麗神話にはもう一つのバージョンがある。
カソボルの隣の沸流国と言う国に松譲と言う王がいて何代にも渡ってその王族が国を治めていた。
そこに朱蒙がやってきて「私は天帝の孫である。国を譲れ。」と言うのであった。
松譲が先祖伝来の宝物を見せて、自分は昔からここに国を営んでいるのだから国は譲れないと言うと、朱蒙はその宝
をこっそり盗み出して、私も同じ宝を持っていると見せる。
松譲はそれを見て、では弓で勝負をしようと言う事になって
多少の諍いがあったものの、勝負に勝って朱蒙が沸流国を手に入れる。
日本神話でも神の子孫を自称する神武が饒速日(布留御霊)に国譲りを迫り、戦いの末大和を手に入れるのである。
(布留と沸流の音に注目)
天孫である証拠に『神器』を見せ合うと言うモチーフも両方にある。
朱蒙は盗み出した物だが、神武は本物というところが違うが。
なぜ大和王朝は中国周王朝の血を引く呉の太伯の子孫と言う伝承を捨て、半島の神話を自分の建国神話に取り入れ
たのか?
高句麗神話の迦葉原(カソヴォル)はどこか?
日本の橿原と関係があると思うが。
三国史記の高句麗の地名で言うと「仇次忽(クジホル)」で、現在の遼寧省撫順市北関山城の事らしい。
撫順市は高句麗の故地通化市と接していて通化市の中心は撫順市側によっているから「仇次忽」は通化市の事だった
かもしれない。
通化市から東の桓仁への東遷と言うのも神武天皇の東遷に似ている。
出雲と大国主命
魏志高句麗伝では『本有五族。有涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本涓奴部爲王、稍微弱、今桂婁部代
之。』『涓奴部本國主、今雖不爲王、適統大人、得稱古雛加、亦得立宗廟、祠靈星、社稷。絶奴部世與王婚、加古雛
之號。』
高句麗には五部族があり、中でも涓奴部が王を出すのが常だったが、その勢力が衰え、桂婁部が代わって王を出す
ようになった。しかし、涓奴部は宗廟を建てる権利を得て、国の祭祀を執り行い、古雛加の称号を得て民から尊敬を集
めていると言うのである。
大国主も後から来た天孫族に国を譲って出雲に隠遁し、宗廟(出雲大社)を建て、祭祀を行う権利を得たのではない
か?
大国主が「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこ
に隠れておりましょう」と述べたと言うのがそれを表していて、全国の神が出雲に集まって祭祀を行うと言う事が大国主
の一族が古雛加の称号を得た事と関係があるのではないか。
高句麗伝には『十月國中大會』と一年に一度、国中から首長たちが集まって盛大な祭祀を行っている様子が描かれて
いる。日本でも11月(旧暦では10月)に全国では神無月となり、出雲は神在り月である。
大和朝廷ではそれ以後、何度か御親政が行われているが、大抵は天皇は政権の座には就かず、国の祭祀を執り行っ
て民から尊敬を集める存在であり続けた。。
高句麗の王を出す部族の交替のシステムが日本のシステムになっているように思える。
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