蘇我倉山田石川麻呂(旧山田寺の仏頭の主)の話
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)も、旧山田寺の仏頭に勝るとも劣らない、数奇の運命を辿りました。
彼は、葛城皇子(中大兄皇子)、中臣鎌足らと共に、乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を誅した立役者として、知られています。
この話は、628年4月15日、推古天皇が、後継を指名することなく崩御したことから始まります。
その時、有力な皇位継承者は、二人いました。
蘇我馬子の弟の蘇我摩理勢(そがのまりせ)が後押しする山背大兄王(聖徳太子の子で、母は蘇我馬子の子)と蘇我馬子の後継者の蘇我蝦夷(そがえみし)が押す田村皇子(敏達天皇の皇子)でした。
飛鳥の勢力は真っ二つに割れました。
しかし、蘇我蝦夷は強硬手段に出て、叔父の蘇我摩理勢を滅ぼし、田村皇子を即位させ、舒明天皇とします。
643年、蘇我蝦夷の息子の入鹿は、皇極天皇(舒明天皇の皇后で中大兄皇子の母)の即位に伴い、父に代わって国政を掌握し、大和朝廷の最高権力者なりました。
朝廷の中にこれを危惧し、国政を天皇中心に改革しようという機運が高まりました。
この動きを抑える為に、入鹿は有力な皇位継承の山背大兄王を廃し、蘇我氏に縁の深い古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子)を皇極天皇の後継者にしようと諮ります。
そこで、斑鳩宮を襲撃し、山背大兄王を上宮王家の人々と共に自殺に追い込みました。
事ここに至り、かねてより蘇我氏打倒と国政改革を胸に秘めていた中臣鎌足は行動を起こし、蘇我氏との姻戚関係の無い純皇室系の王統の葛城皇子(中大兄皇子)と近づきます。
また、軍事面から蘇我氏の宗家である蝦夷・入鹿に批判的であった蘇我氏傍系の蘇我倉石川麻呂も味方に引き入れるために、葛城皇子に蘇我倉石川麻呂の娘との結婚を勧めます。
蘇我倉石川麻呂は、このような状況下で突然、歴史の表舞台に登場します。
その婚約の夜に事件は起こりました。
なんと、その長女が、自分の異母弟の蘇我日向(そがひむか)に盗まれてしまいます。
石川麻呂は憂い恐縮して、うな垂れているところへ、次女が心配して訪ねて来て、事情を知り、自分が代わりに結婚する事にします。こうして、なんとか結束は図られました。
その次女の名を遠智娘(おちのいらつめ)といいます。
645年6月12日、雨の中、乙巳の変(いっしのへん)が起こります。
飛鳥板蓋宮にて、蘇我倉石川麻呂・葛城皇子・中臣鎌足等は、蘇我入鹿を誅殺します。
翌日には、蘇我蝦夷が自ら邸宅に火を放ち自殺し、蘇我体制は終止符が打たれました。
この功績により、石川麻呂は改新政府において、右大臣に任命され、陽の当る場所を歩き始めます。
しかし、僅か4年後の649年、婚礼の日に長女を奪われた蘇我日向に、謀反を起こそうとしていると密告されて、孝徳天皇により兵が派遣された為、妻子と共に、造営中の山田寺で自害します。
これにより、蘇我氏の勢力は一掃され、葛城皇子と中臣鎌足による乙巳の変は完結します。
蘇我倉石川麻呂は、蘇我一族が造ってきた古代国家の流れを、律令国家の流れへと、大きく転換させた立役者の一人ですが、自ら造った大河の中に没してしまいました。
これを聞いた葛城皇子の妃の遠智娘(おちのいらつめ)は、三児までもうけた夫に父を殺され、悲しみのあまり亡くなってしまいました。
ところが、石川麻呂の血筋は、遠智娘の娘の鸕遠讃良(うのさらら)皇女に受け継がれ、やがて、彼女が天武天皇の皇后となり、持統天皇となって、天皇家系図に生き続けます。
石川麻呂は、後に謀反の疑いがはれ、密告した蘇我日向は大宰府に左遷され、中断されていた山田寺造営は孫の鸕遠讃良の援助ににより、自害後36年を経た685年に完成しました。
こうして、一度は歴史の大河に飲み込まれてしまった蘇我倉山田石川麻呂の名は、山田寺の仏頭(国宝)により歴史に深く刻まれています。
参考文献:日本書紀
|