書道の四方山話
2013年3月31日日曜日
書の鑑賞や、より良い作品づくりに『画の六法』
中国絵画の批評基準『画の六法(りくほう/ろっぽう)』は、現存最古のまとまった中国画論です。南斉の謝赫(しゃかく)が系統立てした、鑑賞技法・鑑賞基準・格付け基準と考えてよいでしょう。
中国画では、現在でも大きな影響がある考え方ですが、「書」にも通ずるところがあります。
一、気韻生動:迫真的な気品(生命の流れとリズム)が感じられるか。(→書品)
二、骨法用筆:明確な描線で対象を的確にあらわすこと。(→用筆)
三、応物象形:形体を的確にあらわすこと。(→結構)
四、随類賦彩:色彩感を的確にあらわすこと。(→墨色)
五、経営位置:画面の構成力。コンポジション。(→章法)
六、伝移模写:古画を模写すること。最良の伝統を身につけたか。(→臨模・臨書)
一から六までの段階で、「気韻生動(書品)」が一番上にあります。
鑑賞者の時に「なんか気持ちいい」とか、美しさを感じる時にはこれが達成せれている作品ということになります。
一方、作者の場合は、初学者は「伝移模写(臨模・臨書)」の段階から入ります。途中の順序は人それぞれに異なるかとも思いますが、最終目標は、鑑賞者の心を動かす「気韻生動」になります。
これに至るまでに、臨書を繰り返し、画面の構成をつくり、墨色、結構、用筆を吟味し、ひとつの完成された作品となっていくわけです。
作品制作で行き詰まった場合などでも、制作者のひとつの「ものさし」になるようにも思えます。「一生懸命努力して書いたが、何かひとつ足りない…」といったことを思うことは、多々あるかと思います。...わたしなどは、上手くいかないのを筆のせいにしたり…と乱暴なことをしてしまうのですが(汗;)、この六法を「ものさし」として当ててみると、例えば、「用筆にこだわり過ぎて、結構がおろそかになっている」といったことに気づくのが早いかもしれません。
多くの場合、鑑賞者に一番訴えかけるものは、「経営位置(章法)」にあるように思えます。作品全体を構成してる文字の大小・配置・墨の潤渇、落款の位置などが一番最初に鑑賞者の目に入るものです。作者の注力した部分を見てくれるといいのですが、なかなかそういうわけにはいかないものです。自分の作品を半年とか数年後に見直してみると、書いてる時の気持ちと、作品が訴えかける気持ちが全然違うという経験からもわかるかと思います。
名作を鑑賞するにも、他人の作品を鑑賞・評価するにも、自身の到達度を認識するにも、この「六法」はなかなか使い勝手が良いように思います。
「みんなが良いというから...」とかではない、「自分のものさし」で作品を鑑賞し、制作できるとよいですね(^^)
2013年2月27日水曜日
『千字文』について
『千字文(せんじもん)』は、四字一句の250句からなり、一文字も重複もない1000字で構成された韻文です。梁の時代の周興嗣(しゅうこうし)が作ったとされています。
千字文の内容は、天文・地理・政治・経済・社会・歴史・倫理などついて述べられていて、王子達が書を学ぶために作られたものと云われています。
雲海堂のTwitterでは、この『千字文』をBotにして、定期的につぶやくようにしています。
今のところ、1時間おきに「2句と口語訳」をつぶやいています。
...夜中はお肌に悪いので、0時~7時はつぶやかないようにしています。
底本としているのは、『千字文』(小川環樹・木田章義著、岩波文庫)です。
「天地玄黄 宇宙洪荒」(千字文 1,2)は、口語訳では「天の色は黒く、地の色は黄色であり、空間や時間は広大で、茫漠としてる。」となります。
書籍には、和読(多くが文選読み)が掲載されていて、「テンチのあめつちは クヱンクワウとくろく・きなり。ウチウのおほぞらは コウクワウとおほいににおほきなり。」という読み方になっています。この文選読みは、まず漢語を音読し、次に訓読する読み方で、奈良時代末期から平安時代頃の僧侶らによって始められたものではないかと云われています。
現代では、ほとんど見られない可笑しな試みとも言えないことはないですが、慣れるとなかなか面白く読めたりします。
『千字文』の成立については諸説あり、諸説についてもこの本に書かれています。語にについての解説や出典などもわかりやすく、読み飽きない本です。
千字文の内容は、天文・地理・政治・経済・社会・歴史・倫理などついて述べられていて、王子達が書を学ぶために作られたものと云われています。
雲海堂のTwitterでは、この『千字文』をBotにして、定期的につぶやくようにしています。
今のところ、1時間おきに「2句と口語訳」をつぶやいています。
...夜中はお肌に悪いので、0時~7時はつぶやかないようにしています。
底本としているのは、『千字文』(小川環樹・木田章義著、岩波文庫)です。
「天地玄黄 宇宙洪荒」(千字文 1,2)は、口語訳では「天の色は黒く、地の色は黄色であり、空間や時間は広大で、茫漠としてる。」となります。
書籍には、和読(多くが文選読み)が掲載されていて、「テンチのあめつちは クヱンクワウとくろく・きなり。ウチウのおほぞらは コウクワウとおほいににおほきなり。」という読み方になっています。この文選読みは、まず漢語を音読し、次に訓読する読み方で、奈良時代末期から平安時代頃の僧侶らによって始められたものではないかと云われています。
現代では、ほとんど見られない可笑しな試みとも言えないことはないですが、慣れるとなかなか面白く読めたりします。
『千字文』の成立については諸説あり、諸説についてもこの本に書かれています。語にについての解説や出典などもわかりやすく、読み飽きない本です。
著者らの若かりし頃の思い出話しなどもあり、単なる解説書ではなく、著者らの「人となり」までうかがえる良書と思います。
巻末には、智永の『真草千字文』(国宝)も掲載さています。
座右に是非!
巻末には、智永の『真草千字文』(国宝)も掲載さています。
座右に是非!
2013年2月13日水曜日
自由で素朴で大胆な『木簡』
もっかん
木簡 |
時代:秦、漢から晋代頃(約2000年前頃)
筆者:不詳(多数)
書体:木簡隷など
20世紀初頭に、スウェン・ヘディン、オーレル・スタインらによって中央アジア地方から、漢代から魏晋にいたる大量の肉筆資料が発見されました。
西域地方探検で、新疆ウイグル自治区の楼蘭・尼雅、甘粛省敦煌などで発見された木簡は、前・後漢、晋のもので、900点以上(竹簡もあり)。その後も発掘が行われ、20世紀後半にもさらに多くの木簡が発見され、100万点を超えるともいわれています。
西域(甘粛省から新疆ウイグル自治区の天山南路に通ずる地方)は、交通の要所でした。木簡・竹簡は、当時の軍事、政治、社会状況などをうかがえる資料であるとともに、書道では、漢代の人の肉筆として、文字・書体・書風の研究に貴重な資料となっています。
漢代の一般的な簡牘は長さ約23cm、皇帝用の簡牘は約25cmと、写経用には約55cmと、用途に応じた定型で作られいて、文章が長くなるときには、つづりあわせて冊(編綴簡)にしていたようです。
書風も様々な木簡 |
波磔らしきものも見られます |
2013年2月11日月曜日
素朴な趣の漢代の古隷『魯孝王刻石』
ろこうおうこくせき
魯孝王刻石 |
書者:不詳
書体:古隷
現存:山東省曲阜 孔子廟
五鳳二年刻石(ごほうにねんこくせき)とも呼ばれ、木簡などが発見されるまで、この刻石は前漢の最も古いものとして有名でした。
前漢の宣帝時代、五鳳2年(B.C.56)に、魯の霊光殿内部の建築竣成を記念して刻したもので、「五鳳二年 魯丗四年 六月四日成」と3行、13字が刻されています。
金の明昌2年(1191)に魯国の旧郡、山東省曲阜縣靈光殿址で出土した石刻で、現在は曲阜の孔子廟に現存しています。
書風は、波磔を極力おさえた素朴な「古隷」の代表挌と称され、古来より篆書体から隷書体への過渡期にある書といわれてきましたが、木簡をはじめとする数多くの新出土の肉筆資料が発見されている現代では、当時の実用通行書体を少し格式ばって権威性をあらわした書とされています。「年」の縦画を長くのばしている書法は、漢代によく見られ、居延漢簡、石門頌、張景造土牛碑、李孟初碑、などにもみられ、この碑は早期の例としても注目できます。
【関連リンク】
・孔子廟の魯孝王刻石(好古斎さんのサイト)
孔子廟の魯孝王刻石の写真が見られます。
・清・楊峴「隸書魯孝王五鳳刻石」臨書(國立故宮博物院のサイト)
臨書作品が故宮博物院のサイトで見られます。
・山東省曲阜の地図(旅情中国のサイト)
面白いです。
【関連書籍】
天来書院
「郙閣頌」の他、「魯孝王刻石」「莱子候刻石」「子游残碑」「楊陽神道闕」が掲載されています。
2013年2月4日月曜日
初唐の三大家、欧陽詢・虞世南・褚遂良
【時代背景】
李世民(太宗) |
唐は618年に起こり907年に滅びたので、約290年ほど続きました。日本では飛鳥時代から平安時代の半ば頃になります。遣唐使などの往来もあり、日本とも関わりの深い時代です。
唐は文学史では、4つの時代に分かれていて、「初唐」「盛唐」「中東」「晩唐」と別れます。(初唐、盛唐、晩唐の3つにわけることもありますが、ここでは4つの区分にしたがいます。)
- 初唐(しょとう) 618~712年
- 盛唐(せいとう) 713~765年
- 中唐(ちゅうとう) 766~826年
- 晩唐(ばんとう) 827~907年
【初唐の三大家】
唐の二代目皇帝、太宗は、中国史上最高の名君の一人と云われ、また能筆家としても知られ、王羲之の書を好みました。書にすぐれた臣下も多く、その中で最も有名なのが、欧陽詢、虞世南、褚遂良の三人です。この3人を「初唐の三大家」といいます。
太子率更令(養育係)として書法を教授する。『九成宮醴泉銘』、『皇甫誕碑』などがある。
容貌すこぶる醜かったと伝えられている。
・虞世南(ぐ せいなん、558-638)
太宗のブレーンとして仕えた。代表作に『孔子廟堂碑』がある。書は智永を師とした。
太宗より信任が厚く、尚書右僕射まで栄達。『雁塔聖教序』、『孟法師碑』などがある。
太宗(598-649)と三大家の年齢を見ると、太宗と褚遂良は2つ違いで、この二人より欧陽詢と虞世南は40ほど年上になります。太宗は宮中に弘文館を設け書を重んじました。弘文館では、欧陽詢と虞世南が書法を教授し、ここから多くの能書を輩出しました。
【参考書籍】
【関連書籍】
角井 博 鶴田 一雄 横田 恭三 大橋 修一 大野 修作 石田 肇 澤田 雅弘 中村 伸夫 菅野 智明
芸術新聞社
芸術新聞社
2013年1月29日火曜日
三蔵法師を讃えた『雁塔聖教序』
雁塔聖教序
がんとうしょうぎょうじょ
作者:褚遂良(ちょ すいりょう)
撰文:序碑・太宗、序記碑・高宗
建碑:唐・永徽4年(653)
書体:楷書
現存:西安 慈恩寺大雁塔
「雁塔聖教序」は、同大同型の二つ黒大理石の碑で、「大唐三蔵聖教之序」と「大唐三蔵聖教序記」からなり、この二碑を合わせての総称です。また、「慈恩寺聖教序」ともいわれています。
この二碑は、建碑当初より左右対称に並べて置くことが意図されています。一つは太宗の撰文による「大唐三蔵聖教序」(序碑)で、八分額「大唐三蔵聖教之序」の8字が右から2行に配され、21行、毎行42字、全821字。もう一つは高宗の撰文による「大唐皇帝述三蔵聖教記」(序記碑)で、篆額「大唐三蔵聖教序記」の8字は左から2行に配され20行、毎行40字、全642字が刻されています。
序碑には、太宗が撰文した仏教の伝来や、三蔵法師こと玄奘三蔵の功徳について述べられ、序記碑には、皇太子(後の高宗)が父太宗への理解と、玄奘の事業の意味とを述べています。褚遂良の傑作と云われる筆になり、万文韶(まん ぶんしょう)が刻した碑です。
永徽3年(652)、大慈恩寺に五層の雁塔が建てられ、玄奘がインドから持ち帰った教典が保存され、その翌年、塔の最上階にこの二碑が置かれた。しかし、雁塔は崩壊し、則天武后の長安年中(701-704)、新たに七層の塔を建立し、初層南面入口の東に序碑、西に序記碑を置きました。
清代に文中の、「治」の末画の欠字を補刻し、同時に「玄」の末点を削ったことから、この2字から拓本の新旧がを区別している。
がんとうしょうぎょうじょ
「大唐三蔵聖教之序」
|
撰文:序碑・太宗、序記碑・高宗
建碑:唐・永徽4年(653)
書体:楷書
現存:西安 慈恩寺大雁塔
「雁塔聖教序」は、同大同型の二つ黒大理石の碑で、「大唐三蔵聖教之序」と「大唐三蔵聖教序記」からなり、この二碑を合わせての総称です。また、「慈恩寺聖教序」ともいわれています。
この二碑は、建碑当初より左右対称に並べて置くことが意図されています。一つは太宗の撰文による「大唐三蔵聖教序」(序碑)で、八分額「大唐三蔵聖教之序」の8字が右から2行に配され、21行、毎行42字、全821字。もう一つは高宗の撰文による「大唐皇帝述三蔵聖教記」(序記碑)で、篆額「大唐三蔵聖教序記」の8字は左から2行に配され20行、毎行40字、全642字が刻されています。
序碑には、太宗が撰文した仏教の伝来や、三蔵法師こと玄奘三蔵の功徳について述べられ、序記碑には、皇太子(後の高宗)が父太宗への理解と、玄奘の事業の意味とを述べています。褚遂良の傑作と云われる筆になり、万文韶(まん ぶんしょう)が刻した碑です。
「大唐三蔵聖教序記」 |
清代に文中の、「治」の末画の欠字を補刻し、同時に「玄」の末点を削ったことから、この2字から拓本の新旧がを区別している。
【参考書籍】
褚 遂良
二玄社
宋拓(高島コレクション)で構成されています
二玄社
宋拓(高島コレクション)で構成されています
【関連書籍】
褚遂良の「褚」という字は、SHIFT JISコードでは入っていない字なので、ネット上では、「チョ遂良」とか「〓遂良」になっていることがあります。Unicode(UTF-8)には入っている文字です。
褚遂良の「褚」という字は、SHIFT JISコードでは入っていない字なので、ネット上では、「チョ遂良」とか「〓遂良」になっていることがあります。Unicode(UTF-8)には入っている文字です。
2013年1月23日水曜日
唐代第一といわれる『孔子廟堂碑』
孔子廟堂碑
こうしびょうどうひ
孔子廟堂碑(唐拓孤本) |
建碑:唐・貞観3年(629)前後
書体:楷書
現存:拓本のみ
「孔子廟堂碑」は、唐の太宗が、儒教宣揚のため武徳9年(626)、長安(現在の陝西省西安)の国子監の孔子廟を再建した記念碑。初唐の三大家の一人である虞世南が書丹したもので、品格において唐碑第一とされる作品です。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」とならび、古来、多くの人に愛されている名品です。
太宗の命を奉じた虞世南が、聖廟の重修の由来を撰文し、自ら書いた碑で、虞世南の楷書碑として(拓本が現存する)唯一のものです。建碑の年代は定かではないですが、孔子廟が完成した貞観2年(628)から貞観4年(630)の間とされています。虞世南が70歳の頃になります。
碑は建立後間もなく貞観年中に火災に遭って破壊され(唐末か五代の頃に戦乱で破壊されたとも云われている)、現存はしていません。拓本は、原石拓が唯一本、唐代の旧拓が三井聴氷閣蔵となっているが、これも不完全なもので、失われた約1/3は覆刻(ふっこく)で補ったり、あるいは塗って作字したもので埋めてある。
現在見られる他の拓本もすべて履刻本で、唐拓本の欠字の補充に用いられている「陝西本」と、「城武本」が有名です。
・陝西本(せんせいぼん)
宋初に、原本(唐の原石の拓本)から王彦超が覆刻したもの。西安碑林に現存するが、石は3つに割れている。
・城武本(じょうぶぼん)
元の至正年間(1341年 - 1367年)に、山東省の定陶県で黄河が決壊したときに出土した碑である。陝西本とは行数や空格(空欄)が異なっている。
拓本の冒頭に見られる「孔子廟堂碑」の五字も、書風からみて虞世南の書ではないとされています。かなりの字数が虞世南のものでないにも関わらず、唐代第一とされているわけは、学ぶにしたがって、より鮮明になってくることと思います。
【関連書籍】
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