(注1)上代、人名に用いられた「王」は、オオキミと訓むのが通説になっていますが、これは皇子同様ミコと訓むのが正しいと思われます。本居宣長は『古事記伝』において「古書にては、王は必ず美古(ミコ)なり、然るを美古と訓まざるは、後の親王(ミコ)諸王(オホキミ)の差別に泥みて、古を知らざる故なり」(二十二之巻)と書き、王・女王をオホキミと訓みならわしたのは奈良時代以降であると言っています。しかし、「親王」の称号が用いられるようになって以後も王をミコと訓んだらしいことは、王を親王と書いたり親王(内親王)を王と書いたりする例が奈良朝の文献史料に少なくないことから推測されます。こうした誤記は、親王も王も同じミコと訓んだことから来るものだと考えられるからです。そもそもオオキミというのは最上級の二人称的な尊称であって、皇子をさしおいて諸王に用いられるはずがありませんし、また人の名前に付けるべき語でもありません。諸王をオオキミと呼ぶようになったのは、上代についての知識が急速に薄れた奈良朝末期から平安時代初め頃ではないかと私は考えます。
(注2)日本書紀に立太子の記事は見えませんが、697(持統11)年2月28日、東宮大傳・春宮大夫任命の記事があり、また『釈日本紀』に引用する私記には2月16日に立太子した旨あります。前年高市皇子が薨じており、これを受けて皇太子に就いたものと思われます。
関連サイト:文武天皇の歌(やまとうた)