2月11日、窮問使が長屋王邸に乗り込む
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平城宮の朱雀門 |
■ 神亀5年(729)2月11日の朝は重苦しい雰囲気の中に明けた。出勤のため日の出前に朱雀門前の広場に参集してきた官人たちの顔は一様に緊張していた。詳しい事情は分からなかったが、昨夜の内に重大な事件が起きたことを各自は肌で感じ取っていた。朝堂院に入ると、左大臣に重大な容疑が掛けられたため、政府高官を補充する3名の「参議」が新たに任命されたことを知らされた。太宰大弐の多治比県守(たじひのあがたもり)、左大弁の石川石足(いしかわのいしたり)、および弾正尹の大伴道足(おおとものみちたり)である。
■ 午前10時、政府の高官が窮問使(きゅうもんし)として輿で長屋王邸に乗り込んできた。天皇家の長老で一品の舎人親王(とねりしんのう、676 - 735)と新田部親王(にいたべしんのう、? - 735)の両名、さらに大納言の多治比池守、中納言の藤原武智麻呂、右中弁の小野牛養(おののうしかい)、少納言の巨勢宿奈麻呂(こせのすくなまろ)の6人である。一行は、藤原宇合が警護する長屋王邸の北門から邸内に入った。
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長屋王邸の正殿跡復元イメージ |
■ 長屋王は窮問使の一行を邸宅の正殿に迎えると、上座への着席を進めた。長屋王自身は下座の席の前に立つと、
「お役目、ご苦労でござる」
と、舎人親王と新田部親王に向かって慇懃に叩頭した。他の4人は長屋王の眼中にはなかった。朝堂でいつも顔を合わせている部下たちである。
■ 家令の赤染豊嶋(あかぞめのとよしま)はすでに昨夜の内に、長屋王に謀反の容疑がかけられ窮問使の来訪があることを告げていた。身に覚えのないことである。自分が天皇を呪詛する人間でないことぐらいは、日頃朝堂で一緒に政治を行っている彼らが一番良く分かっているはずだ。したがって形式的な窮問で容疑はすぐに氷塊すると思われ、長屋王の仕草にゆとりを与えた。
■ 「吾が左道で国家を傾けようとしているとの”誣告”があったそうだが、その詳しい内容をまず拝聴いたしたい」
長屋王は、正面に座った藤原武智麻呂に向かって微笑むと、自らこう切り出した。6人の窮問使が派遣されてきたが、皇族で高齢の舎人親王と新田部親王は飾りにすぎない。実質的な窮問使は、藤原不比等亡き後藤原一族の中心的存在となった40歳の中納言・武智麻呂であることを見抜いての問いかけだった。彼は”密告”ではなく”誣告"という言葉を使った。この手の訴えが、特定の人物を陥れようとする虚偽の訴えであることぐらいは、とっくに見抜いておられるであろう、と言外に匂わせた。
■ 「されば・・・」と、武智麻呂も軽く一礼すると、口元に微笑を浮かべながら、左京の住人二人が昨日左京識に出頭してきた経緯を淡々と話した。その微笑は、取るに足らぬ訴えでご心労遊ばすなと言っているようにも、長屋王を意識的に油断させようとする演技にもとれた。
武智麻呂の話を聞き終わると、長屋王は腹を抱えて笑いながらいった。
「なるほど、なるほど。二人の訴状によると、吾は呪詛によって帝に危害を加えようとした謀反(むへん)の罪を犯したことになりますかな。謀反は国家や社会の秩序を揺るがす重罪の中でも第一とされるもの。この長屋も大変な罪を背負うことになったものだ」
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元興寺極楽坊 |
■ だが、武智麻呂は厳しい目を長屋王に向けた。そして、聞いた。
「親王どのは2日前、元興寺の大法会で沙弥(しゃみ、在家の仏教信仰者)を笏で打たれましたかな?」
話の矛先が急に変わって、その意図が見えなかったのか、長屋王はしばし言葉に詰まった。
「ああ、その日は吾が大法会の司となり、衆僧に食事を供える役目を担っていた。食事の準備の様子を見ようと配膳所に行くと、見苦しい姿の沙弥が施しを受けていた。それで、その場を立ち去るように叱責して手にした笏で頭を打った。打ち所が悪かったのか、頭が切れて血が噴き出し、沙弥は恨めしげに涙を流しながらその場を立ち去った。それがどうかしたというのか?」
「それはまずかったですな。実は、その沙弥は親王を訴え出た二人とは昵懇の間柄でした。沙弥の話を聞いた二人は、これはひどいと親王の仕打ちに義憤を感じ、親王の悪事をさらけ出そうと心に決めたそうです」
■ 「それで、その二人は吾が呪詛によって天皇の命を縮めようとしたと訴え出たというのか?」
「いいえ、彼らは親王どのが今上帝を亡きものにしようとなされたと訴えたのではありません」
「ン?」
「彼らは、親王どのが厭魅(えんみ) によって次期天皇を亡き者にされたと訴え出たのです」
厭魅とは、呪いをかける相手に見立てた人形を作り、その人形の急所にあたる部分を責めることによって、相手を病気にさせたり、命を奪ったりする呪術のことをいう。
「何と・・・ 吾が厭魅の術で皇太子を呪い殺したと言われるのか?」
長屋王は唖然として、開いた口が塞がらなかった。
「左様。彼らはそのように訴え出たのです。そして、これは立派な国家転覆罪にあたるのではないかと・・・」
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光明皇后をモデルにしたと伝えられる 法華寺の本尊十一面観世音菩薩立像 |
■ かっての右大臣・藤原不比等の邸宅で夫人(ぶにん)の光明子が男子を出産したのは、1昨年の閏月の9月末である。聖武天皇と光明子の間には、養老2年(718)に阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が生まれていた。だが、皇子にはなかなか恵まれなかった。やっと待望の男子が出産したのである。天皇の喜びは尋常なものではなかった。10月5日、天皇は中宮に出御し皇子誕生を祝って大赦を行なった。翌日には親王以下、下級の女官に至るまで身分に応じて物を賜った。
■ 10月に入るとすぐに、長屋王も不比等邸を訪れて皇子の無事出産を祝っている。その直後である。長屋王は天皇に呼び出されて、ある相談を持ちかけられた。基(もとい)皇子と名付けられたその赤子を皇太子に立てたいが、左大臣としての意見はどうか、というのである。乳飲み子の立太子など聞いたことはない、もう少し皇子の成長を待ってからでもよいのでは・・・、と長屋王は思った。と言うのも、立太子を急ぐ背景には藤原四兄弟の思惑があることは、うすうす感じられたからである。だが、天皇の喜ぶ姿を目の当たりにすると、むげに反対する訳にはいかなかった。
■ 皇子誕生から1ケ月が過ぎたばかりの11月2日、聖武天皇は基皇子を皇太子に立てることを天下に宣した。しかし、明けて神亀5年(728)8月、皇太子が病気になり、病は日を重ねても治らなかった。8月21日、天皇は仏法の力を借りて我が子の病気を治そうと、観世音菩薩像177体を作り、観音経177部を写して、一日行道を行なうことを命じた。また大赦を行ない、病気平癒を祈願した。8月23日には皇祖の諸陵に平癒祈願の幣帛を奉らせた。しかし、そうした甲斐もなく、皇太子は9月13日に薨じた。
■ 天皇という最高権威者の立場をなぐり捨て、一人の親として我が子の病気平癒に狂奔する姿を間近に見て、長屋王も聖武天皇に深い同情を抱いていた。だが、皇太子病没の原因は己の厭魅によると世情で噂されていようとは・・・。まったく予期せぬ言いがかりだった。
「武智麻呂どの、言って良い冗談と悪い冗談がござる。吾が呪術で皇太子のお命を縮めたとは聞き捨てならぬ。事と次第によっては、こちらも許しませんぞ。何を証拠にそのような風評を信じられる?」
長屋王は、いままでの余裕あるポーズから一転して、厳しい視線を武智麻呂をはじめ窮問使の一人一人に向けた。
「証拠ならござる。訴人たちは、その証拠となる品をもって左京識に訴え出てまいった。それが何かとお思いか?」
「・・・・・」
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平城京出土の人形代と斎串(いぐし) |
■「お分かりにならないようなら、お教えしよう。木製の人形代(ひとかたしろ)でござる。心の臓の部分に釘穴があり、裏側に「基」と判読できる墨書がござった。訴人たちは、その形代をこの邸宅のゴミ捨て場で偶然見つけたと申しております。邸宅内で皇太子を呪い殺す呪術が行われた何よりの証拠でござる」
「たかが坊主の頭一つを叩いたくらいで、この左大臣を逆恨みして讒言しようとは、不届きな。確かに吾は道教に惹かれてはいるが、厭魅で人を呪い殺したなどとは、濡れ衣もよいところだ。この上は、帝にお目にかかって身の潔白を証明いたす」
「いや、それはなりませぬ。帝のご命令は、われら6人で親王どのの嫌疑を確認した上で断罪せよとのことでござった。親王どの嫌疑が晴れぬなら、この屋敷から一歩も出ることは許されませぬ」
■ 藤原武智麻呂を中心とする窮問使の厳しい詮議は、こうした調子でおそらく夜半まで続いたであろう。事件の背後には長屋王の失脚を狙う藤原一族の策謀があったことは否めない。左京の住人二人の密告内容の詮議という建前を取りながら、その目的は、藤原氏の進出を阻止しようとする左大臣の失脚である。密告があったことは単なるとっかかりに過ぎず、藤原氏にとっては願ってもない好機だったにちがいない。あるいは、歴史の深読みが許されるなら、密告自体も藤原氏が後ろで糸をひく策略だったかもしれない。
■ 基皇子の突然の病死は、多くの人々から不審を抱かれたようだ。単なる病魔による死亡ではなく、他に何か原因があるのでは・・・との疑心を世間に植え付けていた。藤原一族はそうした世情を巧く利用した。当時、長屋王には吉備内親王所生の4人の男子がいた。従四位下の膳夫(かしわで)王、無位の桑田王、葛木(かづらき)王、鉤取(かぎとり)王である。
元明天皇によって吉備内親王が生んだ子供はすべて皇孫として扱うとされていて、天皇の直系ではないけれど皇位継承権を有していた。それだけに、長屋王家の存在は微妙だった。
■ こうした皇位継承の先行きを見越して、藤原一族はすでに次の手を打ち始めていた。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、天皇の即位とともに夫人(ぶにん)の待遇を得た光明子は、上記のように神亀4年に基皇子を産んだが、翌年夭折してしまった。これを期に藤原一族は光明子を皇后に冊立するよう盛んに運動を展開しだした。天武天皇の後を継いだ持統天皇の前例もあり、光明子を皇后に冊立できれば、今後皇子を出産できなくても、聖武天皇が薨去したとき皇后が次期天皇として登極することが可能になり、藤原一族は安泰である。
■ 長屋王は皇親政治家の立場から、当然こうした藤原一族の野望に正面から反対した。藤原一族から見れば、長屋王は不倶戴天の存在であり、なんとしても失脚させなければならない。そう決めた以上、舎人親王と新田部親王を除く他の3人の窮問使(きゅうもんし)を抱き込むことは、武智麻呂にとって容易だった。見方によっては、窮問使が長屋王邸に到着した時点で、王家の運命はすでに定まったと言って良い。
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