存命の日本の文芸評論家ですごいのはだれかと問われたら「反文学論」の柄谷行人と「文芸時評というモード―最後の・最初の闘い」のすが(糸へんに圭)秀実と答える。柄谷はどこかよそのほうへ行ってしまった。すが(さだやす圭みたいで迫力でないなあ)のどこがすごいか。昭和(中後期)文学を見通す目の確かさである。
俺が初めてすがのことを知ったのは「別冊宝島」であった。
サヨクの若いおっさん連中(三上、すが、呉智英たち)が、柳田國男、田中角栄、昭和天皇、三島由紀夫ほかウヨク(保守/反動)のみなさんたちからその思想的残滓のしたたかさをいまこそ学ぼうじゃないかという、その筋にとってはまことにケシカラン本である。そのころ俺は民俗学が好きで柳田國男をよく読んでおり、三島ももちろん好きではないが大嫌いでよく読み、視界はいきおい戦争を挟んだ昭和史におよぶ。何か知的興奮を与えてくれる本はないかと大学の生協を眺めていたら本書に首根っこをつかまれた。
(追記:amazonの小谷野敦のレビューは買いかぶりすぎというもの)
圧倒的だったのはやはり呉智英のミもフタもなさ、それに輪をかけてすごかったのがすがの「新潟3区出身」というさりげないプロフィールである(選挙区制は昔のものね)。津村喬のことをアホ呼ばわりしていたのも痛快(これは呉夫子のほうだったか)。夫子の書棚には整然と全集だけが並ぶとか、おもしろそうなおっさんに見えるが本人はいたってマトモであるとか。
ま、何のことかわからないと思うので、もし文芸評論に興味があり、よろしければ次の書物などを手に取っていただけたらと思う。近頃は手にする若者が少ないらしく、安く手に入る。
ここまでが基本書と思う。次の2冊は思想的圓朝もとい延長としてよくわかるが、上の初期~中期の4冊からするとやや味が落ちる。お勧めしたいのはやはり「文芸時評というモード―最後の・最初の闘い」で、各月に数冊を取り上げてXY方向に各回ことなる(!)評価軸をとり、対象の本を配置して辛口で真摯な寸評を捧げるという、すがの腕と技が冴えわたる1冊。奇特にもなんじゃこのおっさんはと思ってくれたのならば、そこには花田と吉本(と角栄と昭和天皇)への入口がぽっかりと口を開けている。
そしてすがの美点として触れておかなければならないのは、はにかみがちな語り口である。傍からみて鋭利に映るものは照れ隠しにすぎないと俺は踏んでいる。だいたい花田清輝を好むという趣味のよさといったらない。ウィキペディアから引用する。
柳美里のエッセイには、文壇バーで会った絓に「あなたの小説はくだらないから読まない」と言われ、柳が「少なくとも私なら、あなたを批判する時あなたの書いた物を読んでからする」と答えた。すると絓が「あんたの顔を見たら読まなくてもくだらないと判る」と言ったため、柳の平手打ちが飛んだと書いてある。絓の眼鏡は飛び、それを拾った絓はこそこそとバーの隅に隠れてぶつぶつ言っていたという。
文芸評論なんてものは、女に罵られたおっさんがバーの隅でこそこそと、ぶつぶつとやる仕事だと、先生は仰っている。かわいい。柳美里の何と器の狭いことよ。
花田のことはもとより、本を読んで考え、自分の言葉にするとはどういうことか、俺は「ルンペン・プロレタリアート」糸圭秀実から実に多くのことを学んだ。柄谷の著作とは90年代半ばに袂を分かったが、いま、時が過ぎて面白さが変わらないのはすがの「本と付き合う」姿勢だとつくづく感じ入る。
実学志向の強いいまの若い人たちは読まずに通り過ぎるのだろう。それでよい。しかし、それだけでは旅も酒も女も闇も、味わいが薄れるのではないかと惜しむのに似た気持ちにも顔も立ててやりたい。すが(あるいは呉)のような、思想的にいろいろいわれるが、けれどおもしろいおっさんたちの若い頃の姿を眺めるのは、スルメのような味わいがある。花田清輝の文体にも、それがある。