2011年6月15日、宇治平等院に向かう。京都駅からJR奈良線に乗り、昼2時過ぎ、宇治駅で降りた。天候は梅雨時のため、どんより曇っていた。今にも雨が降ってくるような天気だ。駅から徒歩で、宇治橋に向かう。宇治川は轟々と流れている。平家物語の橋合戦のイメージが浮かんだ。こんな急流では、一騎当千の名馬でも、たじろいでしまったに違いない。武者たちの戦場としての宇治川での死をも厭わない高揚感と狂気を思った。すると突然、宇治橋の前を、十台ほどの単車に乗った暴走族がけたたましい音を立てて走って行った。ついに京都宇治も無法地帯になってしまったかと、これには少しばかり驚いた。 宇治橋から平等院のある上流を眺める (佐藤弘弥2011年6月15日撮影) 1 頼通の夢「平等院」 宇治平等院は、極楽浄土を想像させる装置のような名刹である。かつて、この地は、あの世界最古の私小説「源氏物語」の主人公光源氏のモデルと言われる藤原道長が、嵯峨天皇の皇子である源融(みなもとのとおる)から、この地を手に入れて、別荘としていたものだった。 その子頼通(992-1074)は、永承7年(1052年)、喜捨(きしゃ)することを決め、天台僧明尊を開山として平等院と号したものである。この年、頼通は、還暦(六十歳)を迎える齢だった。平等院のシンボル鳳凰堂(阿弥陀堂)は、翌年(1053)に完成したものである。 一見するところ、頼通は、父と同じく天皇家を補佐する摂政関白の地位に就き、三代の天皇を補佐するなど、栄耀栄華をわがものとしたように見える。だが、天皇の外祖父にはなれなかったことや、その地位を追われるように退いたことなど、本人にすれば、不本意な面も多くあったはずだ。奇しくも、頼通が発願した1052年は、末法の世に入る年とされ、巷では「末法思想」が流行するようになっていた。たまたまと言うべきか、奥州では、前年(1051)、「前九年の役」という悲惨極まりない戦争が始まった年にあたる。以後40年ほど、奥州では東北全土を巻き込むような戦争が続いていく・・・。極楽浄土に対する憧れのようなものは、このような社会状況の中で自然に醸成されていったものと思われる。 思うに頼通は、父道長の建てた法成寺の構想を先鋭化し、どのようにしたら、この世にいて、極楽浄土という世界を実観できると夢想したのであろうか。そうなると平等院は、「確かに極楽浄土は在る」と、リアルに観想するためのイメージ装置ということになる。 宇治には、大河宇治川がある。この川は琵琶湖を源として、瀬田川となり、この地ではじめて宇治川と呼ばれ、木津川、桂川、淀川と流れによって次々と名を代える大河である。 この地を訪れた旅人が一様に思うのは、宇治川の流れが想像以上に荒々しいことだ。そこから容易に推測できることは、初めて平等院がこの地に出現した時、私たちが今見ている平等院の枯れ切ったような美しさとは違って、極彩色に彩色された極楽浄土のミニチュアが、突如として宇治川の畔に出現したほどの派手な様相ではなかったか。 往時の平等院の景色を想像してみる。すると、そこには宇治川の急流が轟々とけたたましく流れ、ごつい石ころがごろごろと無造作に転がる賽の河原か三途の川のような景色が拡がっていて、河岸の向こうに極彩色の花「極楽鳥」のごとき平等院は、あたかも「極楽とはこのことだ」というように、強烈な自己主張をしながら立っていたように思える。おそらく、この頃の平等院周辺は、あの世とこの世、あるいは、地獄と極楽が共存していたような景色が拡がっていたことを想像してしまった。 それは「平等院」という寺号からも想像できるものだ。そもそも「平等」とは、不平等や差別という言葉の彼岸(対極)にある仏教的方便であるが、この「平等」が阿弥陀如来の別号という意味も含まれる。したがって、平等院とは、阿弥陀如来の座す寺ということになる。 あくまでも、「平等」とは、差別(不平等)との相対の中での把握されるべき言葉だ。現実の世の中は、平等ではあり得ず、「不平等」と「差別」に満ちた世界である。それは丁度、「極楽」と「地獄」の関係に似ている。 この世は、一見極楽のようにも見えるが、去る3月11日の東日本大震災の悲劇を一瞥(いちべつ)すれば分かるように、一転して地獄の様相にも変化しうる不安定な社会である。 私たちが極楽浄土を完璧にイメージするためには、一方で地獄の様を観想することが大事になる。往時の宇治には、極楽浄土の観想するための完璧な仕組みとして、この地獄と極楽のイメージが、陰と陽あるいは正と負という二項対立の構図として厳然としてあったものと考えられる。 そこから、宇治の平等院が、これほど日本人に愛されてきた理由は、鳳凰堂(阿弥陀堂)のデザインが美しいからというような単純なことではないはずだ。やはりこの建物には、日本人の琴線に触れる秘密があるからではないか。少しばかり、そのことを考えてみることにする。 茶店が立ち並ぶ参道 2 平等院の思想 私たちは、たった今「平等院」の本来の意味が、阿弥陀様の座す寺ということを理解した。では、阿弥陀様(阿弥陀仏)とは、どんな仏か。そして阿弥陀信仰と言われるようなこの仏に対する一種の憧れと敬意を、日本人が持つに至ったのだろう。 阿弥陀信仰の源流は、もちろん古代インドに発する。阿は梵語で「無」を、弥陀は「量」を意味し、西方浄土にいるという教主と言われる。この阿弥陀の教えをまとめた経典が、浄土三部経で、「無量寿経」、「観無量寿経」、「阿弥陀経」の三つである。 私たちが、とてつもなく感動した時に使う「観無量」は、ここから来ている。宇治の平等院鳳凰堂の内部の壁面に描かれているものは、九品来迎図と言われるものである。これは「観無量寿経」に書かれている通り、阿弥陀仏が「自分は仏の住む安楽な浄土に生まれたい」と願う死の淵にある人間(凡夫)を、それぞれの前世の報いと、死の淵でどのような感覚をもっているかを、厳しく峻別し、九つの迎え方をもって浄土への導く往生の様子を描写したものとなっている。 この九つの要約すると以下のようになる。カッコ内は、描かれていた場所。
細かな説明は控えるが、ここで興味深いのは、親鸞の悪人正機説の意味合いが、下に下がるほど、強くなることだ。 例えば、第四の中品上生では、父母や僧侶を殺害したり、仏の身体を害したり、教団を分裂させたりしないならば来迎に向かう、となる。 第五の中品中生では、一日一夜でも戒めを守って身を整えていれば、となる。 第六の下品上生では、父母に親孝行をして、世のために、施しをする、となる。 第七の下品上生では、人生で様々な悪行をなし、それでも悔いることなく、人生を終える瞬間、智者によって経典の首題でも耳にする時、「南無阿弥陀仏」と唱えたならば、この者の罪業を除いて来迎に向かう、となる。 更に第八の下品中生では、ひどい悪行を重ね、本来ならば地獄に堕ちるべき者でも、この人間が死の淵にある時、智者が慈悲の心をもって阿弥陀仏の遺徳を説いて、悔いの心をもったならば、生前の罪を除いて、来迎に向かう、となる。 最後の第九の下品下生では、あらゆる悪行に手を染め、間違いなく地獄の責め苦を受けるべき者でも、死の淵にあって、智者の妙法を聞き、極楽に往生したいものだと願い、一度でも仏を念じて「南無阿弥陀仏」と唱えたならば、生前の罪を除いて、来迎に向かうのである。 この九品来迎説の中には、親鸞が歎異抄の中で力説した「善人往生をとぐ、いわんや悪人をや」の思想が生き生きと漲っていることを強く感じる。 阿弥陀仏の教えは、他力本願とか、他力信仰と呼ばれる。そもそも「他力本願」とは、阿弥陀仏が、まず救われないような凡夫と言われる普通の人間(衆生)を、何としても救済してやろうと、強い思いを持ってことから始まっている。 この阿弥陀の教えを具現化したのが、この宇治の平等院ということになる。ただ宇治の平等院の来迎図には、日本化とも言うべき「新たな創造」があるように思われる。それは、観無量寿経では、段階が下がるごとに、来迎する仏の数や位が下がって行くある種のインド的なカースト(序列)を意図的に排除していることだ。ところが、平等院の阿弥陀来迎図では、阿弥陀仏が九品に分類された生前の善行罪障の上下の分け隔てなく、9つの死に行く人に対し平等性を持って来迎してくるように描かれている。これはインドで生まれた阿弥陀の教えが、日本文化の中で、綜合され日本化してることを意味しているのではないだろうか。 この点については、歴史家の家永三郎氏も、その著「日本文化史」(岩波新書 黄色版187)の中で、平等院の来迎図には、宇治周辺の山水を描いており、見事な日本画となっている旨の評価を与えている。 この他に、本堂正面扉の反対に当たる背面扉には、西に日が没する様を観察して西方浄土をイメージする修行である「日想観」の図が描かれていたということだ。 本殿には本朝最高の仏師定朝作になる丈六(2、80mほど)の金箔の阿弥陀仏(寄せ木造り)が、蓮華の台座の上に鎮座し、厳かな面もちで正面を見据えている。背後には、宝相華文様(ほうそうげもんよう)と呼ばれる花を象った後背が添えてある。仏の頭上には、豪華な装飾を施した天蓋(てんがい)がある。それを囲むように九品来迎図が描かれ、僧侶たちは、この周囲を回りながら常行三昧行と呼ばれる修行に励むように想定されている。 また左右の壁には、二十六体ずつ合計五十二体の雲中供養菩薩が様々な楽器を手にして、美しい天上の音楽を奏でる姿で掛けてある。今は、そのいくつかのものは、宝物を納めた鳳翔館に納められ、目の前で拝むことができる。この雲中菩薩も定朝の工房で彫られたものと推定されているが、今にも飛び出さんばかりのリアリティがある。また鳳翔館には、本堂の屋根の南北にそれぞれ置かれていた一対の鳳凰や日本三名鐘に数えられる梵鐘も安置されてある。これらは皆国宝である。 この鳳凰堂には、かつては、寺の僧侶や頼通のような偉い人物しか入れなかったようだ。だが、おそらくは特別拝観のようなことが、行われていたはずだ。現在では一般開放され、三百円を払い、十五分起きに、五十人限定で、本堂の阿弥陀仏に拝礼をすることができるようになっている。 ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、昭和8年(1933)6月16日に、宇治平等院に訪れてこんな感想を漏らしている。 「・・・すべてが控えめで日本的な親しみをもっている。やはり京都だ!東京には、このようなものはひとつもない。」(「ブルーノ・タウト 日本雑記」中公クラシックス 2008年11月刊) 平等院 北大門 3 父道長の影響 宇治の平等院鳳凰堂という建築が、この世に出現した経緯は、ふたつの契機があったと推測できる。その第一の契機は父道長(966ー1027)の影響である。第二は、その道長に極楽往生したいとの思いを抱かせた源信(942-1017)著による「往生要集」の存在である。道長と源信の年齢差は二十四歳の差がある。 もちろんこのふたつは分かちがたく結びついている。その道長は、1020年、鴨川の西方に、藤原時代を代表する巨大な寺を建設し「無量寿院」(後に法成寺と改号、鎌倉末期に廃絶)と号した。この名は、浄土三部集の「観無量寿経」の名、そのまま冠したような寺号だ。当然この寺の一角には、阿弥陀堂を建立されたのだが、この堂内において道長は、劇的とも言える死を迎えることになる。 ここで、道長の晩年を時系列に追ってみる。
逆修とは、生前に死後の菩提を祈ることである。さらに道長は、「観無量寿経」や「往生要集」に描写されている九品来迎図をイメージしながら、口では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、阿弥陀の来迎を待つ死の予行練習のような修行を導師に導かれながら行っていたと考えられる。
道長は見事に亡くなった。道長の死は、道長一代記とも言うべき「栄華物語」に詳しく描かれている。それによれば、自分の死の近きを覚った道長は、かねてからの修行で行ったように、法成寺阿弥陀堂に移り、髪を剃って、阿弥陀如来の手から伸びた糸を握り、北枕に西向きに臥せ、南無阿弥陀仏と唱えながら亡くなったということだ。 この一部始終を、見ていたはずの頼通に影響を与えないはずはない。法成寺という大寺院を建てた父道長には、到底追いつけないにしろ、善行を積んで、阿弥陀如来の信任を得て、来世において極楽浄土に生まれたい、頼通はそんなことを思ったのかもしれない。そして頼通は、ひとつの答えを思いつく。それは往生要集に説かれている極楽浄土のイメージを、誰もが、より直接的に体験できる寺平等院の創建ではなかったか。 平等院を観音堂前から望む 4 源信の「往生要集」を具現化した平等院 平等院鳳凰堂は、実に質素な造りの寺だ。それは極楽浄土を実感するためにのみあるような感じさえ受ける。父道長が建立した法成寺のように法華堂、薬師堂、 阿弥陀堂などが、あたかも大乗仏教の百貨店のごとく、立ち並ぶような大寺院ではない。ただ創建当初、頼通は、この平等院鳳凰堂を建てる一年前に、まず大日 如来を本尊とする本堂を建(1052)ている。このことから、今日の平等院鳳凰堂の簡素な佇まいをもって、頼通が始めからこの地宇治に極楽浄土の盟主たる 阿弥陀仏の御堂を建てようと意図したのではないかと決めつけることはできない。むしろ、極楽往生の考え方が時代の潮流としてあって、頼通自身、その時代の 風のようなものを受けながら、極楽を観想する寺としての存在感がかなりの時間をかけて醸成されていったとみるべきかもしれない。 今見ても、宇治の平等院に凝縮されている極楽浄土の考え方は、非常にシンプルで分かり易い。しかも極楽のイメージとして説得力がある。 その最大の理由は、この平等院鳳凰堂が、源信僧都(942-1017)の著した極楽往生のマニュアルとも言うべき「往生要集」の描く極楽浄土のイメージに 依拠して、この平等院を建設したことにあるためではなかろうか。つまり、平等院鳳凰堂は、「往生要集」が描いた「極楽浄土」の世界を、ここに訪れる人間 に、「確かに極楽浄土はここにある」と観じさせる一点にあったと思わせるものがある。 どれほど、願主藤原頼通が源信という僧侶に敬意の念をいたいたかは分からない。一般に、この寺が無量寿経の九品来迎図とは矛盾するのはある種のナゾとされ ている。これについては「2」のところで、筆者はインドのカースト的解釈を越えた日本的説明したが、もっと言えば、これはナゾでも何でもなく、源信自身 が、阿弥陀の教えを考え抜いた上に、「往生要集」に発表した阿弥陀来迎の思想そのものなのである。 源信は、原典である「観無量寿経」を徹底的に詠み込むことで、これを日本の文化土壌に根付かせるためには、今生の生き様において、上品上生から、下品下生 の区別を付けたとしても、阿弥陀の救いは、無量の大きさがあり、その差別・区別なく、阿弥陀を想い、南無阿弥陀仏と、念仏を口にする者を迎えに来てくれ る、源信はそのようにこの「観無量寿経」を解釈したことになる。これは源信の「観無量寿経」の革命的理解と言っても言い過ぎではない。 頼通は、ただただその源信の教えに従っただけである。 実例として九つある来迎図の内「下品下生」だけを、比較しておくことにしよう。 『観無量寿経』の記述。 「下品下生とは・・・ある者、人生において、不善業の五逆(父母を殺害するような罪)・十悪(殺し、盗み、淫行、盲言、貪欲、邪見など)を作り、他にも 様々な不善を尽くす。このような愚かな悪人は、本来ならばその悪行をもって、地獄(悪道)に落ちて、次々と六道の苦難を経験することになるのは当然であ る。こんな愚かな者でも、その生涯を終える時、周囲から善なる教えを説く仏の妙法を耳にすることがあろう。この者は、地獄の責苦の間近きを知る。この時、 善き友が”君が仏の姿を観ずることができなければ、ただただ無量寿仏(阿弥陀仏)の名を呼びなさい。”と教えを聞く。こうして、どこまでも真心から「南無 阿弥陀仏」と唱えさせることによって、唱える念仏の響きの中に、生前の限りない悪行の数々を除かれて、命終える時に、輝くような黄金の蓮華が、眩しい太陽のように目の前に出現するのを見るであろう。(後略)」(筆者現代語訳) 『往生要集』の記述。 「下品下生とは・・・ある者、人生において、不善業の五逆・十悪を作り、他にも様々な不善を尽くす。このような愚かな悪人は、本来ならばその悪行をもっ て、地獄(悪道)に落ちるのは当然である。こんな愚かな者でも、その生涯を終える時、周囲から善なる知識を説く、仏の妙法を耳にすることであろう。このよ うな者でも、命が終わろうとする時に臨んで、善き教えに出会って、たとえ仏を観想することができなくても、どこまでも真心の底から「南無無量寿仏」を幾度 も唱える念仏によって、生前の限りない悪行の数々を罪科を除いてくれるのである。(後略)」(筆者現代語訳) この二つを比べると一目瞭然である。原典である「観無量寿経」では、「下品下生」の場合、阿弥陀仏が来迎しないが、念仏によって「黄金の蓮華」が現れて、 極楽に往生できると懇切丁寧に語る。一方、「往生要集」では、文章的な装飾もなく、極悪人が往生する原理が非常に分かり易く説かれている。何しろどんな極 悪人も「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、仏のイメージを浮かべることができなくても、念仏によって罪業が除かれると説いている。これは有りがたいこと だ。こここでは、阿弥陀仏が来迎してくれるか、くれないかは語らず、曖昧になっている。これは源信その人の「下品下生」の独自解釈である。 この曖昧さが、平等院の来迎図に昇華することになったのである。そして平等院の来迎図では、見事に「阿弥陀仏」が、悪行の限りを尽くした人間でも、極楽に往生させてくれるという後の法然、親鸞に通じる「悪人往生」の救いが実現することになったと考えられる。 平等院の背後から北の翼廊を望む。遠くに朝日山が見える 5 天才源信が日本化した浄土思想 王朝時代と言われる藤原道長-頼通の時代、明らかに時代には変化の兆しがあった。それには、仏教の性格にも反映した。かつて、仏教の中心的課題は、国家鎮護に重点が置かれた。それが時代の変化と共に、個人の煩悩や罪障からの救済に置かれるようになった。 この時代の変化に即応する形で、次第に存在感を大きくしてきたのが、「浄土教」の教えだった。つまり浄土教の目覚ましい隆盛は、時代の要請によるもので あった。別の言い方をすれば、日本人が、ある意味個に目覚めて、仏教というものに「国家鎮護」というものから「個人の救済」を求める時代になるつつあると 言えるかもしれない。その浄土教の流行に決定的なインパクトになったのが、何と言っても、天台宗の僧侶源信の著した「往生要集」であった。「往生要集」 は、そもそも「往生するための要諦」であり、もっと言えば「往生マニュアル」ともいうべきものだった。 この源信という僧侶の略歴を洗いながら、日本において浄土教の精神文化が日本文化に溶け合って、新しい価値観のようなものを形成するに至ったのか、考えることにしたい。 源信は、奈良県葛城の生まれである。父は卜部(うらべ)氏、母は清原氏の出自であった。父母は、近くにある高尾寺に詣で源信を授かった。七歳で父が他界。九歳で延暦寺に 登り出家する。師は後に天台座主になる名僧「良源」だった。若い頃より、能力に優れ、十三歳で得度。早くも十五歳で、浄土教の教義を天皇の御前で講じ、褒 美を授かった。その品々を実家の母に送ると、気丈な母は、「後の世を渡す橋とぞ思ひしに世渡る僧となるぞ悲しき」と和歌を添えて、送り返したという。母は 「名利」を求め、「世渡り上手」な僧侶になるのではなく、後の世に懸かる橋のような存在になりなさい、と諭したことになる。 源信は母の期待通り、横川に隠棲して鬼のようになって仏道研究に精励した。往生要集を書き始めたのは四十三歳(984)の時だった。そのきっかけは、おそ らく師良源が、病の床に就いたことからしれない。往生の奥義を平明にしかも学問的に説き、これを師に捧げるつもりだったのではないか。ところが、寛和元年 (985)一月、師良源は亡くなってしまう。「往生要集 三巻」の完成はその年の4月だった。 「往生要集」は、天台宗の総本山中国(宋)の天台山にも送られた。その内容は、高く評価され、源信は「「日本小釈迦源信如来」の称号を授かった。また時に、天台宗の教義に対する27の疑問を「台宗二十七疑」としてまとめ、中国(宋) の南湖の知礼法師に送ったこともある。その書を読んだ法師は、すぐに「日本に教義を深く理解している人がいるのだ」と感嘆して、自分の意見を源信に返した ということだ。まさに源信は、国際的な仏教学者というべき存在だった。源信六十三歳の時、太政大臣藤原道長より帰依を受け、「権少僧都」に任ぜられた。し かし母の教えを最後まで守った源信は、この名跡を固辞し、横川に隠棲したまま、著述に専念するのだった。道長は、源信の影響下、無量寿院(阿弥陀堂、後に 法成寺と改号)を造営する。そして源信は、寛仁元年(1017)6月10日、76歳の生涯を終える。元亨釈書(げんこうしゃくしょ=仏教伝来以来1322 年までの僧侶の伝記を漢文体で記した書)によれば、伝聞として、趙という宋の皇帝が、急逝の知らせを聞き、塔廟を建て、源信像を安置したということだ。こ れなど、真偽は定かではないが、源信という人物の国際的名声と、その著「往生要集」が描いた極楽浄土のイメージの国際的拡がりを感じさせる。また日本の仏 教研究のレベルの高さを伺わせるエピソードだ。 さらに日本文学史上の最高傑作紫式部(生没年不詳)の「源氏物語」は、王朝時代の個人意識の目覚めとも言うべき世界最古の長編小説である。奇しくもこの小 説の主人公光源氏は、明らかに往生要集の影響下で自ら阿弥陀堂で見事に往生を遂げた藤原道長と言われる。また小説の最後を飾る「宇治十帖」に「横川の僧 都」という厳しい僧侶が登場するが、このモデルは源信と言われている。 道長は、深く源信に帰依して往生要集が著した極楽浄土をこの世に具現化しようとして、無量寿院(後に法成寺に改号)を建立し、その御堂において、往 生を遂げた。またその子頼通は、さらに往生要集の著述に寄り添って、平等院を建立し、源信の説く「極楽世界」を誰の目にも明らかにしようとした。何しろ、 平等院の九品来迎図では、悪の限りを尽くした極悪人ですら「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽に往生できるのだ。これは私たち凡夫にとって、何と魅惑的な 響きだろう。源信は浄土教の教義を崩さずギリギリのところで、日本文化と融合させた稀有な宗教家と、言えるのではないだろうか。 日が傾き阿字池に照り映えている 6 堂内で行われる修行「常行三昧」とは 6月16日、小雨、午前10時過ぎ、平等院中堂に入る。限定50人の最後のひとりで、最後尾だった。朱色の橋を渡り、翼廊で靴を脱ぎ、傘を畳み、身繕いを整えて、中堂正面より堂内に入った。10mをやや越えるほどの堂内中央には、定朝作の丈六(2m90cmほど)の阿弥陀仏が弥陀定印(上品上生印)を結び、視線を前方下に向けた禅定の形で鎮座している。堂内には、阿弥陀仏が醸し出す空気のようなものが堂内に充満している。そのためか、後背は阿弥陀仏全体から気が発しそれが雲となり、天上に向かって無限のエネルギーが、天蓋というものを越えて宇宙全体に広がっていくのを感じさせる。 往時、堂内では、慈覚大師円仁が中国から持ち帰った修行法として「常行三昧(じょうぎょうざんまい)」が執り行われていたのだろう。往生要集では、この修行法についても、詳しく解説している。 「・・・九十日の間。身体は常に(堂内)を廻り歩いて、けっして休むことなし。口には常に阿弥陀仏の名を唱え、けっして休むことなし。心には阿弥陀仏を念(観)じて、けっして休むことなし。時には「阿弥陀仏」と先に唱えつつ、その姿を想い、俱(とも)に歩く。あるいは、先に阿弥陀仏の姿を想い、後に「阿弥陀仏」と唱える。このように唱え、想いを引き継いで、けっして休むことなし。もし阿弥陀仏を唱えれば、十万の仏を唱えるに等しき功徳を得る。只々、阿弥陀仏を仏の門に入る主と思って、唱えまた唱え、歩きまた歩き、念(観)じまた念じるのみ。後略」(往生要集 大文第六に別時念仏 現代語訳筆者) 常行三昧の修行は、九十日のみではなく短いものは七日でワンセットの修行もあった。もちろん、平等院の中堂には、阿弥陀仏を身(体)と口と心(意)で感じるための装置が充満している。中央壇に丈六の阿弥陀仏、九つの九品来迎図、日観想図、五十二体に及ぶ雲中供養菩薩などが、狭い空間内に、ところ狭しと配置されている。この中で、常行三昧の修行を行うことは、おおよそ阿弥陀仏と一体になる修行に他ならない。 確かに堂内は本尊の周囲を歩くように造作されている。また四面(前後左右)の扉を開放すると、木の格子で細工された板がはめ込まれていて、風が抜けるように出来ている。季節毎に変化する外の景色もうまく取り入れるような造りである。 堂内で、一通り女性の案内人の説明を聞いた。その後、ある人物が、この女性に面白い質問をした。父の道長さんは、法成寺阿弥陀堂内で、阿弥陀様に糸を結びつけて往生したということですが、息子の頼通さんは、この堂内で往生はされなかったのですか?」それに対し、「頼通公のお墓は近くの木幡にありますが、ここで亡くなってはいません」というものだった。確かに、父への劣等意識にさいなまれながら、父にも増して源信の説く「往生要集」の言説に寄り添ってこの平等院を建てた頼通その人が、この堂内で往生をしなかったというのは、不思議に思えた・・・。 阿弥陀様が丸窓からこちらを凝視している 7 平等院の阿字池とユングのマンダラ論 平等院の伽藍配置を想起してみる。拝観者は、北にある表門をくぐり、観音堂を左に見て、藤棚を過ぎ平等院鳳凰堂の右の北翼廊の前に進む。そこには浄土に懸かる橋のように、気持ちだけ反った反橋がふたつ平等院に向かって伸びている。 平等院の拝観をする者は、ここで時間を見て、三百円の拝観券を払って定朝作の阿弥陀如来座像を拝むことが叶うのである。 拝観をしないものは、阿字池を時計回りに、平等院の正面に見るように池を廻ることになる。考えてみれば、阿字池を時計回りに廻る行為は、常行三昧の修行を行う修行僧と同じである。この時、心には中堂正面に見えるとされる阿弥陀仏のお顔を早く拝見したいという気持ちでいっぱいになる。自然と心が阿弥陀仏の世界に吸い寄せられる形だ。 季節毎あるいは池天候によって、だ円形に掘られた阿字池の様相は微妙に変化する。拝観者は、樹木の揺れや色合い、池面に映る鳳凰堂の影を思いながら、平等院の正面に立つ。そして鳳凰が翼を大きく拡げていると言われるイメージを目の当たりにする。中堂格子の円窓から微かに阿弥陀如来と体面することになる。 この時、筆者は思った。一般に鳳凰堂は、極楽浄土に向かって飛び立つ鳳凰のイメージがあるとされる。それよりは、鳳凰に変化した阿弥陀仏が、この世にいて極楽往生を願い「南無阿弥陀仏」と唱えた者を、その翼の内に抱えて、極楽浄土に運んで行く形、つまりは「来迎のイメージ」に近いのでは、と思えた。 かつて池の正面の南寄りの一角に、小さな建物が建っていたという。この小堂では、池の向こうの平等院の背後に沈む夕日を見ながら、極楽浄土のイメージを観想するという「日観想」を行っていたのではないかと推測される。池はこの辺りから、細く抉られていて睡蓮の領域となる。訪れた6月16日という季節柄、小雨の降る中、色とりどりの睡蓮があちことで花を咲かせていた。睡蓮の池の彼方に見る平等院鳳凰堂は、切ないほどに美しい。この美を生んでいるのは、おそらく鶴の足のように細く長く伸びた左右の翼廊の柱の形状にあるのではないだろうか。 睡蓮の池を曲がるとまた景色は、また大きく変化する。鐘楼が南(左方前方)に見え、その奥の高台に平等院の宝物を納めた近代建築「鳳翔館(栗生明設計2001年開館)」がある。さすがに「鳳翔館」は、目立たぬよう木々に囲まれて、その存在感を消されている。丁度この館の入口付近から横に鳳凰堂を眺めた景色も素晴らしい。こぶし大の石を敷き詰めた州浜(すはま)がカーブを描いていて、その内に白浜敷きと呼ばれる白いスペースがあり、その上に繊細な柱の骨組みが強調された鳳凰堂が生きるがごとく存在するのである。 鳳翔館に入らず、鳳凰堂の背後に回り込むと、また景色が大きく違って来る。現在は瓦葺きであるが、創建当時は木瓦葺きであったらしい。これは平泉の金色堂と同じで、見た目には、区別は付かない精工な細工であったと言われている。 鳳凰堂の背後は、やや丘陵になっていて、ふたつの塔頭がある。浄土院(浄土宗)と最勝院(天台宗)だ。浄土院から最勝院に向かう参道は緩やかな坂道になっている。浄土院の前からは、鳳凰堂の屋根に配置された一対の鳳凰が、目に迫ってくる。程よく反り上がった左右の屋根の形状も美しい。浄土院を過ぎ、最勝院(天台宗)に向かうと平家打倒の兵を挙げ、思い叶わずこの平等院で自害した源頼政の塚がある。 平等院の中堂には尾廊と呼ばれる廊下が伸びている。この平等院を模してデザインしたと言われる平泉の無量光院では、この尾廊がない。中堂の九品来迎図から日観想図など、ことごとく模写したとされるのであるが、何故この尾廊を造作しなかったのか、後ほど、ふたつの堂を比較する際に検討してみたい。 尾廊を右に見て、この辺りから鳳凰堂を望むと、宇治川の東岸の背後に聳える仏徳山と朝日山が借景になって美しい山容を見せる。池には鳳凰堂が映り、それがそぼ降る雨によって、点描画のように見えていた。 この阿字池を一周廻った時、これは常行三昧であり、マンダラ体験ではないかと感じた。前に説明したように、常行三昧とは、身体は歩行をし、口では「南無阿弥陀仏」と唱え、心に阿弥陀仏を思い、90日(あるいは7日)、この行為をひたすら繰り返す修行である。 私たちは、平等院のような浄土庭園に訪れると、円形に掘られた池の周りを、ひたすら歩くのである。その一角には、必ず極楽浄土の教主阿弥陀仏が鎮座する阿弥陀堂が存在する。つまりは浄土庭園を廻って歩く行為が、常行三昧の擬似行為そのものなのである。 次にマンダラ体験について説明する。そもそもマンダラとは、サンスクリット語で、「マンダ」(真髄、本質)+「ラ」(得る)がくっついた語で、「本質を得る」という意味になる。一般に円輪の形で表される。禅における悟りの境地とされる円相図(○ 人牛俱忘)も、このマンダラから来ていると考えられる。 マンダラというと筆者は、何故かアンドロメダ大星雲を想起してしまう。私たちの銀河もまた遠くから傍観すれば、同じ形状をしており、銀河の中心には、巨大なエネルギーをもったブラックホールが存在あるという。その中心にあるブラックホールを無数の星々が廻っているのである。 臨床心理学者のユング(1875-1961)は、自己やクライアントの夢の分析や治療過程で描いた絵(図像)の分析などから、この仏教におけるマンダラに着目し、人間の心の象徴としてマンダラを考察した。 ユングによれば、「クライアントが描いたマンダラは、心の総体を意味し、それは意識も無意識も含むものとされる。また円のイメージの厳格な秩序が心の混乱や無秩序状態から均衡を保つ補償作用の役割を担っている。この構造は、中心点が構築され、それを中心にして、秩序だったものも、混乱したものも、対立したもの、結合できないものも、同心円状に整然と配置されている。これは自然の自己治癒の試みである。」(C.G.ユング著 林道義訳「個性化とマンダラ」みずず書房 1991年刊を筆者が要約) ユングの言いたいことを分かり易く言えば、人がマンダラ構造の絵を描いたり、夢を見ることは、自分の心の均衡を保つための補償行為ということになる。様々な悩みを抱え、自分の思いと矛盾した行為を為しながら、人はマンダラを心に描く事で、心の均衡をどうにか保っているのである。 平等院のような浄土庭園の周囲を廻り、心が穏やかになる意味が分かったような気がした。 礫(つぶて)ほどの小石の上に平等院は立っている。この石は人間の魂を象徴する?! 8 作庭記と平等院 平等院の阿字池を廻りながら、思ったことがある。それは池の造りが、思いの外あっさり造られていることである。まず、第一に池の中に立石が置かれていない。次に荒磯(ありそ)や遣り水といった嗜好もない。この事実は、日本庭園史の中で考えるとよく分かる。つまり、この平等院の庭園は、平安時代の寝殿建築の流れを汲む庭園であるが、「作庭記」の成立以前に造られた庭園であるということになる。 また作庭記という日本庭園の標準形が確立した後も、その基本形が一切デザイン変更されることなく、そのままの姿で、950年間引き継がれていることが素晴らしい。 作庭記は、日本初の作庭の秘伝書であり、今では世界最古の作庭書とも言われている。作庭記の筆者は、奇しくも平等院を造った藤原頼通の実子で、橘家の養子となった橘俊綱(1028-1094)という説が有力である。 考えてみれば、俊綱は頼通の子という立場柄、物心がついた頃から、父の建てた平等院周辺を歩いて育ったに違いない。その俊綱が、作庭の基本に、石を立てるということを置いているのは、様々なことを想像させる。 きっと、俊綱は、父の造った平等院を見ながら成長する中で、この池には、何かが足りない、あるいは池の中に石を立てたら、もっと面白い庭になるというインスピレーションがある時期湧いたのではあるまいか。 人間というもの、特に若い頃、極めてレベルの高い造けいや信じがたいほどに「気」を発する何モノかに出会った時、時にヌミノース体験(至高体験)と言える体験をすることがある。これは、ドイツの神学者ルドルフ・オットー(1869-1937)が、その著「聖なるもの」で唱えた概念である。オットーは、この例として、宗教改革者マルティン・ルター(1483-1548)が、もの凄い激しい雷雨を体験し、自分の命さえ危ない中で、助かったらならば、自分は宗教に一生を捧げると誓った霊的体験を挙げた。 この概念を更に宗教学者のミルチャ・エリアーデ(1907-1986)は、深化させて、「聖体示現(ヒエロファニエ=ギリシャ語の聖なる現れ)」という概念を提案した。エリアーデは、「聖と俗」という著作の中で次のように言う。 「宗教的体験をもつ人間にとって・・・いかなる建設も、いかなる製作も・・・宇宙創造を範としている。・・・聖なる小屋の創建は宇宙創造を再現する。というのはこの小さな建築は世界を具現するからである。・・・寺院は世界の模型である。・・・寺院は新たに神を浄める。というのも寺院は世界を代表すると同時に包括するからである。世界が全体として新たに浄められるのは寺院の力による。世界がどれほど不浄であろうとも、それは絶えず聖殿の神聖性によって浄められる。」(風間敏夫訳「聖と俗」法政大学出版会1969年刊) 何らかのヌミノースな体験を経て、俊綱は、目の前にある平等院が、浄土世界という阿弥陀の理想郷に見えたかもしれない。同時に、そこから更に自分における極楽世界が浮かんだのではないか。 作庭記では、最初から「石を立てる事、まずその趣旨を心得るべきだ」と始まる。また「立石口伝」の章などもある、作庭記の中心概念は石を立てることに主眼が置かれている。このことは、俊綱の平等院での体験の中で、この池の中に立石がないことが、終生気になって、気になって仕方がない体験を経て、作庭の基本に、これを置いたのではないかと推測する。 寺院を造り、庭園を掘ることは、エリアーデの言を待つまでもなく、新たな宇宙を、自分の生存している領域に再現することである。作庭記の十七章に、弘法大師高野山創建のエピソードが記されている。 この中に、こんな下りがある。 「山水を模して庭を造り石を立てる事は、深い心持ちをもって行うべきだ。この時、土(山)をもって帝王とし、水をもって臣下とする。それ故に、水は土(山)の許する時に流れ、土(山)が塞ぐ時には止まる。したがって(作庭の要諦は)土(山)をもって帝王とし、水をもって臣下とし、石をもって帝王の補佐官とする。だからこそ、臣下である水は帝王である土(山)に従うものである。・・・これ故、山水を模して庭を造る時には、必ず山(帝王)を補佐する石を立てるべきである。」(現代語訳筆者) この俊綱の石への固執はどこから来るのであろう。筆者は、池の中に立石のない平等院の池の周りを歩きながら、作庭記を書いた「橘俊綱」は、平等院の池の中に石を立てなければという強烈な思いを、ある時期に持ったのではないかと考えるに至った。 筆者は、平等院の池を廻りながら、日本の庭園史のエポックとなった「作庭記」誕生の秘話に触れた気持ちがした。 中堂の屋根の鳳凰はこの寺のシンボルだ
源頼政を弔う五輪塔越しに平等院を望む
埋もれ木の花さくこともなかりしに身のなるはてぞ悲しかりける この後、平家軍は、勢いに任せて、三井寺攻めて寺を焼き払い、さらに奈良に攻め入って、興福寺、東大寺を灰燼と化してしまうことになる。まさに平家の横暴も極まれり、である。 頼政が旗印とした以仁王も、宇治川の先で馬に乗って奈良に入るところを流れ矢に当たり首を取られてしまう。本来なら、平等院での弔いは、この悲劇の皇子を最優先にすべきはずである。だが、何故か、高貴な皇子ではなく、武将で従三位という身分の低い人物が、この平等院境内に、「扇の芝(記念碑)」や「塚(最勝院にある)」などの足跡を残すことになった。実に不思議な感じがする。 あえてその意味を考えるならば、その後、日本の政治の実権を握っていく武家政権が、道長、頼通親子のような貴族たちがから、政治権力を握る魁けを創った人物として、頼政の顕彰碑を平等院内に置いたということかもしれない。もっと言えば、政治の大転換に大きな役割を果たした人物を永遠に顕彰することである。その後、武家政権の世は、ほぼ七百年の間、明治維新(1867)まで、続くことになる。このように考えてくると、宇治の平等院の一角に、源頼政の記念碑があるのは、自然なものに思えてくる。 ところで、平家物語を読むと、頼政が自害した後に、頼政のエピソードが、取って付けたように挿入されている。有名な「鵺(ぬえ)」退治の章である。この章では、頼政の出自や人となりが語られる。要旨は、頼政は、要領が悪く、出世が遅かった。生涯でひとつ評判をとったことを上げれば、夜な夜な天皇を悩ます鵺という怪鳥を退治したこと。何しろ、頭はサル、胴はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラのようだという。ともかくこの怪物を弓で射て退治して、その当時、宇治の左大臣と呼ばれた藤原頼長(1120-1156 保元の乱を起こして敗死)より褒美の剣を賜ったとある。 またこの時、宇治の左大臣が、”ほととぎす名をも雲井にあぐるかな”と上の句を詠むと、 頼政は、”弓はり月のいるにまかせて”と応えたという。 歌の大意は、「君は鵺を退治したことで、ホトトギスのようにその名を宮中にまで自らで広めたな。・・・何の、私は時がくれば弓張月が地平線に入るように、弓を張ってただ射ただけでございます。」これによって、世間では、頼政という人物が、弓をとっても素晴らしいが歌の道でもなかなかの者と評判になったということだ。 確かに源頼政は、歌の道でも、かなりの人物だったようだ。辞世の「埋もれ木・・・」の歌でも、それは証明されている。 さて、平家物語の作者は、頼政という人物の鵺退治という、およそあり得ないような創作的なエピソードを入れることで、何を言いたかったのか。そもそも鵺に象徴されるものはとは何か。筆者が想像するに、鵺とは、平家一門である。つまり、平家物語で、平家の専横と滅びを語る作者は、頼政のように要領が悪く愚鈍な人物でも、権力を掌握して夜な夜な天皇を悩まし続ける姿を平家一門(鵺)を倒すきっかけを作った頼政という人物を讃えているように思えた。 それでも平家物語の作者は冷静に歴史的事実を見つめている。鵺の章で作者は、この頼政のあっけないクーデター失敗を次のように結んでいる。 「(頼政は)理由もない謀反を起こして以仁王も亡き者にしてしまい、わが身も滅びることになったことは、実に情けないことであった。」 最後に、平等院の地で、西を向いて、念仏を十遍唱えて、腹を切った源頼政であるが、上品、中品、下品と九つに分かれた中で、どんな往生を遂げたのであろう。筆者は「下品中生」であったと考えたい。 雨の中、睡蓮が阿字池に咲いていた 11 王朝文化を象徴する華「平等院」 宇治平等院と王朝時代の終焉について考えてみたい。当時の日本の社会は、朝廷(摂関政治)の一極支配の構造が崩れ、武士階級と大きな寺社勢力が、荘園という経済基盤を背景として、日本の社会を牽引する実力を付けつつある時代だった。 まさに、この時代は、平和の世から、戦乱の世になっていく大転換期だった。またこの時代は、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」などの女流文学の隆盛に象徴されるように、女性の時代でもあった。 栄華物語に描かれているように、藤原道長の時代を王朝時代の絶頂期とするならば、その子頼通の時代は、摂関政治の形が崩れ、院政の時代に入ろうとする翳りの時代だった。その中にあって、道長や頼通には、源信という僧侶が書いた「往生要集」に触発された浄土教の教え(極楽浄土を希求・観想・唱和する教え)が、時代を突破する光りに見えたかもしれない。いや、最高権力者の彼らだけではない。多くの日本人が、浄土に救いを求める教えに、希望を見出していたはずである。 父道長は、源信の思想に帰依し、都の王宮の近くに大寺院「法成寺」を建立。亡くなる時には、法成寺の阿弥陀堂において、導師に導かれるまま往生の時を迎えた。その子頼通は、道長から相続した宇治の別業に平等院を建立し、おそらくは、この平等院において、最期の時を迎えようとしたであろう。しかしどのような理由かは不明だが、それが果てせず宇治の邸宅で亡くなった。 言うならば、宇治平等院は、王朝時代という平和の時代から武門が雌雄を争う戦乱の時代への転換期にあって、極楽往生を願う藤原頼通が建立した王朝時代を象徴する平和の記念碑という位置づけができる。 事実、頼通が、宇治の別業を「平等院」として仏門に喜捨(きしゃ)する一年前、奥州の地で、前九年の役(1051ー1062)が、起こった。やがて奥州全体を巻き込む騒乱となったこの戦は、陸奥守となって多賀城に赴任していた源頼義が任期を終えて帰国する際、安倍貞任が些細な恨みから、乱暴狼藉を働いたとして始まったものである。今日では、安倍氏の富の源泉ともなっていた砂金に目がくらんで、頼義が陰謀によって、安倍氏との交戦状態を作ったとの説が有力になっている。 ともかく、この戦争は、後冷泉天皇と摂政関白頼通にとって、大変な財政負担を余儀なくされる戦争であった。安倍氏には、地の利があり、資金力があり、東北は馬の産地である。簡単に敗れるような敵ではなかった。むしろ、鎮守府将軍に任命された源頼義率いる政府軍が、極寒の奥州の山野を敗走するなどの危機的時期もあった。 平泉の衣川を挟んだ国境附近を境に、奥州全土に、戦乱は拡大し、京の都にも、この合戦をめぐる否定的な情報が、もたらされるにつれて、厭戦気分は、都にも蔓延したものと考えられる。 源信の「往生要集」で描いた地獄の様が、奥州のそこかしこで繰り広げられたのである。源頼義とその息子義家率いる政府軍は戦局の打開のため、出羽の豪族である清原武則(生没年不詳)に援軍を頼み、安倍氏を北の厨川柵(くりやがわのさく:盛岡市付近に比定地あり)まで追い詰める。そして、ついに12年間続いた悲惨極まりない戦争に終止符が打たれる。 この戦争の模様は、「陸奥話記(むつわき)」として漢文体で記録され、軍記物の魁けとの評価がなされるようになった。この書は、絵巻物にもなり、戦争の時代(武者の時代)の幕開けを告げるものとなった。まさに、末法の世が、前九年の役によって始まり、時の最高権力者藤原頼通は、平等院を建立し、末法の世の道標(みちしるべ)としたことになる。 私たちは、平等院という日本を代表する建築物が、前九年後三年の役という前代未聞の戦争の時代において、摂政関白職を得ていた藤原頼通という時の最高権力者によって建てられた事実を忘れるべきではない。おそらく頼通の内面は、平和な時代から戦乱の時代の転換期にあって、矛盾に満ちたものだったはずだ。 彼は源信の浄土の教えに帰依して、万民の幸福を願いながら、一方では戦争という避けがたい現実の政治と向かい合う政治家であった。しかし頼通は、それでもどこかで、平等院鳳凰堂に象徴される万民が、敵も味方もなく、平(たい)らかに等しく、阿弥陀如来の来迎を受けることができるという源信固有の浄土思想を、どこかで信じていたのだと思いたい。 平等院と宇治川の境の古道を行く人 12 平泉の無量光院に受け継がれた平等院 宇治の平等院について、様々な角度から考察してきた。その結果、筆者の脳裏に、漠然と浮かびあがってきたことがある。それは、この宇治の平等院という優美な歴史的建造物の背後に、「平和な時代は、やがて終わる。そして日本中が、戦乱に巻き込まれてしまうのではないか!?」という不吉な予感を払拭する時の権力者藤原頼通自身の祈りのようなものが込められているのではないかということであった。 さて、この考察の最後に、頼通の祈りともいうべき「平等院鳳凰堂」の後世への影響について考えてみたい。 そこで真っ先に思い出されるのは、奥州平泉の「無量光院」である。この寺は奥州藤原氏三代藤原秀衡によって創建されたものである。何だか、この「無量光院」という寺号を耳にしただけで、「観無量寿経」のことが連想される。 鎌倉時代の正史「吾妻鏡」は、この寺を次のように記している。 「無量光院(新御堂と呼ぶ)の事 これは、奥州平泉に源頼朝率いる鎌倉軍が入ってきた時、中尊寺の経蔵別当の心蓮という僧侶が、頼朝の宿所にやってきて、「平泉の中尊寺をはじめとする寺は、藤原清衡が創建したものではありますが、鳥羽院の『御願寺』として、寺領を寄付され、営々と続いている聖地です。ところが、寺領の住民たちは今回の鎌倉軍の侵攻に怖れをなして、どこかへ隠れてしまいました。どうかご安堵するお触れを出してください」と要求したのである。 これをみると、平泉の地には、僧兵のような武装した僧侶はおらず、無血開城したようである。頼朝は、心蓮という僧侶の堂々とした態度に敬意を示し、平泉に藤原三代が建立した寺塔などを聞き、さらに詳細については、文章にして提出するように命じた。吾妻鏡は、この報告書を、そのまま記載している。その中に、三代秀衡の建立した無量光院があった。 無量光院は、宇治の平等院をことごとく模したという。中には、秀衡自身が、殺生の禁を描いた「狩りの図」もあったということだ。もちろん九品来迎図も、平等院と同じように、源信の「往生要集」の発想のままに、上品、下品の区別、差別なく、さらりと描かれていたことだろう。これひとつをみても、秀衡の並々ならぬ決意が読み取れる。 その後、無量光院に関する記録は、残っていない。12世紀中に、戦禍か野火によって、焼失したものと推測されている。ただ不思議なのは、平泉の住民たちが、藤原三代の栄華を伝える「無量光院」の骨格とも言うべき伽藍の礎石や阿字池、中島の跡を、そのまま田んぼとして大切に保全し続けてきたことだ。おそらく、平泉に住んだ人々は、「今は難しいが、やがて時が来れば、無量光院そのものが復元されかもしれない!?」そんなことを思いながら、無量光院跡を大切に保存してきたものと考えられる。 事実、戦後の昭和20年代に、平泉の遺跡についての学術調査が開始され、無量光院についても、昭和27年秋、藤島亥治郎氏(東大名誉教授)や板橋源氏(岩手大学教授)らによって、綿密な調査が行われた。その結果、吾妻鏡にある記述が、真実であることが明らかとなった。それによって、中央の本堂は、ほぼ同じ寸法、左右の翼廊については、やや無量光院が大きいことが明確となった。また無量光院には、尾廊が存在しなかったことも判明した。(ただし当時藤島氏は、著書の中で「尾廊の有無はわからなかった」としている。学生社「古寺再現」昭和42年刊) 無量光院の区画は、その後の発掘調査で、南北に約320m、東西に約230mほどあった。西側、北側、東側には、それぞれ土塁が盛られ、西側の土塁の高さは約5m、長さは約250mもあった。また周囲には堀があり、猫間が淵と呼ばれた水辺とも接していたと推測されている。 平等院の阿字池にあたる無量光院の園池は、東西約150m、南北約160mに及んでいた。池のスケールとしては、平等院(東西約70m、南北約100m)を遙かに越えて、毛越寺の大泉が池(東西に180m、南北に80m)を凌駕するスケールである。 無量光院という寺院は、前に膨らみを持たせ園池が存在し、そこには平等院には存在しない中島があった。そこに、遙拝所や舞台、楽屋などと推定されている三重の建物が建っていて、東西に向けふたつの橋が架かっていた跡が発見されている。またこの中島周辺の石組には、趣のある眺めを造る庭石の配置が見られるようである。藤島氏により、往時の無量光院復元図が描かれている。もちろんこの復元図には尾廊が描かれていない。現在これに最新研究も盛られたCG(コンピューターグラフィックス)による復元図も公表されている。 この無量光院を創建した秀衡の意図(思い)というものを考えてみたい。まず何故、宇治平等院をことごとく模した阿弥陀堂を建立したのかということである。 無量光院は、奥州藤原氏三代秀衡が、その最晩年に建立した寺である。秀衡が亡くなったのは文治3年(1187)の秋であった。 秀衡の最晩年には、百年の平和を謳歌した平泉に戦の影が射してきていた。鎌倉の源頼朝が、平泉打倒を祈願して、秀衡を呪詛するなどしていた。頼朝は、平家を討ち滅ぼした勢いで、東北の黄金の都平泉の富みを独り占めにして、実質上日本の支配権を、わが手に収めようと画策していた。 また頼朝は、平家追討の最大の功労者で実の弟でもある源義経を執拗にいたぶって、叛乱を煽り、ついには最後のターゲットであった「黄金の都市平泉へ、平泉へと」逃亡するように仕向けた疑いすらある。 平泉は、初代清衡が、前九年の役、後三年の役という、ほぼ40年に渡って、悲惨な戦争のために、多くの戦死者が出たことを憂い、二度と戦争の惨禍が起こることのないことを祈念して建都した平和の都である。そのことは、清衡が起草した「中尊寺供養願文(1126)」に明確に書かれている。 秀衡は、祖父清衡の建都の精神を受け継ぎつつ、戦争の足音のようなものを感じながら、無量光院を建設したに相違ない。 吾妻鏡に掲載されている秀衡の人物評がある。 「・・・三代秀衡は、父(基衡)から譲り受けたものを、絶やさずに継ぎ、廃れていたものを再興しました。(鎮守府)将軍を拝命してからは、名実ともに、官位でも俸禄でも、父基衡や祖父清衡の域を越えて、その繁栄は、子弟にまで及びました。(後略)」 これは秀衡の治世下で、役人として秀衡をつぶさに見てきた清原実俊(生没年不詳)という人物が、頼朝を無量光院に案内した折りに語った人物評である。 この中で、印象に残る言葉は「絶やさずに継ぎ、廃れていたものを再興した(原文:継絶廃興)」という下りである。絶やさずに受け継いだ中で、もっとも大切なものは、初代清衡が、中尊寺供養願文で宣言したように「あらゆる生きとし生けるものを平等に扱い、供養する」と、二度と戦争の惨禍が起きないことを誓うという”平和の理念”」ではなかったか。 それが無量光院創建に込められた祈りである。だからこそ、頼朝が平泉に侵攻してきた時、何らの抵抗もなく、無血開城されたのである。またその時、清衡の寺「中尊寺」、基衡の寺「毛越寺」、秀衡の寺「無量光院」では、おそらく平和を祈願する祈祷が行われていたと思われる。不思議な静けさの中に、頼朝率いる鎌倉軍は入ってきたはずである。戦や殺戮が禁止されているはずの平和の都「平泉」の静寂は、こうして守られたのである。 かつて、極楽浄土を疑う者は平等院を見よ、ということが喧伝されたという。おそらく、秀衡は、若い頃、基衡の名代として、様々な政治交渉をする傍ら平等院を実際に見た経験があるものと推測する。そして、秀衡自身、極楽浄土というもののイメージについて、確信をもって受け入れたに違いない。そこで、自分の生涯の集大成として、戦争の足音が高くなってきた聖都「平泉」に、この世に忽然と現れた浄土のような「平泉の平等院」ともいうべき寺院を建設する意味があると決心したと思われる。秀衡自身、無量光院の壁面に、動物を殺生する場面である狩りの図を自ら描いたとされる。 さて、時の摂政だった藤原頼通が、源頼義によって引き起こされた前九年の役という東北で起こった戦争の報告を聞きながら、宇治の地に平等院を創建した。それから百年数十年の歳月が経ち、戦場だった東北の地は完全復興を遂げ、黄金の都と呼ばれるまでになった。ところが、源頼義から数えて5代目に当たる頼朝は、その時に奪えなかった奥州平泉を、制圧しようと企んだのである。 晩年を迎えていた秀衡は、戦争の足音を聞きながら、宇治の平等院を模して、「無量光院を建立し、これを「新御堂(しんみどう)」と呼ばせた。これは平等院が「御堂(みどう)」と呼ばれていたことを意識し、奥州平泉の地に、新しい「平泉の平等院」とも言うべき寺が建立されたことを内外に宣言したことを意味するものだ。こうして、秀衡は、祖父清衡の平和への思いと、頼通による万人が平等に極楽往生できるという思いを後世に伝える役割を果たし終えて亡くなったことになる。 今回平等院を廻りながら、京都の宇治と東北の平泉という遠く隔たったふたつの地域に、戦も不平等もない極楽浄土をイメージするための寺院があったことを、とても不思議に思えた。きっと頼通の思いが、時を越えて、秀衡の心にさざ波のような感動を呼び起こした結果だろう・・・。佐藤弘弥記(完) |