メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

【重要】サービス終了のお知らせ

中東リポート&街角から

中東リポート

連載 イスラーム国とカリフ制(1) カリフ制の歴史的成立

中田 考

1.序

2014年6月29日(イスラーム暦1435年ラマダーン月初日)、「イラクとシャームのイスラーム国(ISIS)」はその首長であったアブー・バクル・バグダーディーをイラク第二の都市モスルでカリフ(khalīfah)位に推戴し、イスラーム国(IS)と改称し、ISこそがカリフ制(khilāfah)であると宣言した。後に詳しく説明するが、「カリフ」とは預言者ムハンマドの後継者の意味であり、世界中のイスラーム教徒全ての指導者である。

拡大イスラーム暦1435年ラマダーン1日、アブー・バクル・バグダーディーのカリフ就任によるカリフ制樹立宣言の横断幕」(2014年シリア)

2014年9月には周辺のアラブ諸国が米国と有志連合を形成し、イスラーム国への軍事攻撃を決めた。その後、米に続き、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアなど非ムスリム諸国も空爆に参加した。しかし、CIAの推定によると空爆後もイスラーム国には1000人以上の外国人が義勇兵として流入している。

なぜ、イスラーム国が世界各地からの義勇兵を引き寄せるのかを理解するためには、イスラーム国が自己同定するカリフ制について知らなければならない。

そこで今回から(1)カリフ制の歴史的成立、(2)イスラーム法上のカリフ制、(3)サラフィー・ジハード主義、(4)イスラーム国とは何か、の4回にわたって、イスラーム国とカリフ制の関係を明らかにしたい。

2.アブー・バクルのカリフ就任

アラビア半島のマッカのクライシュ族出身の預言者ムハンマドは、610年頃、およそ40歳の時、唯一神アッラーからの啓示を授かりマッカでイスラームの教えを説き始めたが、マッカで迫害を受けて、622年にメディーナに移住(ヒジュラ)した。イスラーム歴はこの移住の年を元年とするため、ヒジュラ暦とも呼ばれる。630年にマッカを征服すると、アラビア半島の遊牧民諸部族はこぞってイスラームに入信し、彼が亡くなる632年にはアラビア半島のほぼ全域が預言者ムハンマドの権威を受け容れていた。しかし、預言者の死後、ムスリム共同体は分裂の危機に陥った。

この分裂を収拾したのがアブー・バクルであった。現代の「イスラーム国」の首長の本名は「イブラヒーム・ブン・アワド」である。イブラヒーム・ブン・アワドが、「アブー・バクル・バグダーディー」を名乗っていたのは、初代カリフ・アブー・バクルを念頭に置き、意識してのことであると思われる。迂遠に見えても、初代カリフ・アブー・バクルのカリフ位就任について詳述する所以である。

預言者の娘ファーティマ、娘婿アリーらの遺族が預言者ムハンマドの葬儀の準備に追われていた時、マディーナの在地の住民「援助者(アンサール)」は、自分たちの将来を決めるべく、有力者サアド・ブン・ウバーダを囲んでサーイダ族の広間に集っていた。それを聞きつけたアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダら、マッカからの「亡命者(ムハージルーン)」の長老たちはそこに駆けつけた。援助者たちは最初、自分たちは独自の指導者を立て、亡命者たちも彼ら独自の指導者を立てるのがよい、と主張した。激論が続いたが、最終的には、「アラブの名門であり預言者の出身部族でもあるクライシュ族の亡命者の指導者でなければ、アラビア半島の全てのアラブ部族を従えることはできない。」とのウマルの説得が功を奏し、サーイダ族の広間に集まった「援助者」たちは、ウマルを先頭に「亡命者」の最長老アブー・バクルとバイア(忠誠の誓い)を交した。

アブー・バクルは翌日モスクに向かい、マディーナの住民たちを前に、有名な以下の説教を行なう。

「人々よ。私はあなたがたの中で最良の者であるからといって、あなたがたの上に立つわけではない。それゆえ私が正しければ私を助け、私が誤りを犯せば私を正して下さい。 -中略- 私がアッラーとその使徒に従う限り私に従いなさい。もし私がアッラーとその使徒に背いたなら、あなたがたには私に従う義務はない。後略-」

ここにマディーナの「援助者」とマッカからの「亡命者」がアブー・バクルとバイアを交し、アブー・バクルは「アッラーの使徒の後継者(khalīfah rasūl Allāh)」を名乗ることになり、そのカリフ位が成立したのである。

これが、スンナ派の視点から遡及的に再構成されたアブー・バクルのカリフ位成立であるが、注意しなければいけないのは、アブー・バクルのカリフ位就任の時点では、後のカリフ制において制度化されていたような、カリフ就任のルールがあったわけではないことである。それどころか、その時点では預言者ムハンマドの統治がいかなる性格のものであったかさえ、明文化された規定があったわけではなく、信徒の間に合意が成立していたわけでもなかったのである。

(2)アブー・バクルのカリフ就任に対するアリーの反対

スンナ派の理解では、サーイダ族の広間での協議と翌日のモスクでのバイアによってアブー・バクルのカリフ位は成立したことになる。しかし既述の通り、その時点で、預言者ムハンマドの後継の手続きがはっきりと決まっていたわけではなく、信徒たちの間でその理解が共有されていたわけではなかったので、実はアブー・バクルが預言者の後継者カリフであることは全てのムスリムにすんなりと認められたわけではなかった。

第一の問題は、アブー・バクルのカリフ選出に際して、預言者の葬儀に忙しかった遺族のハーシム家の面々がサーイダ族の広間での協議に参加できずアブー・バクルのカリフ推戴において何の相談に与らなかったことが、後々禍根を残すことになった。

幼少時より預言者の養子として育てられ、預言者の従兄弟で預言者の愛娘ファーティマの夫でもあったアリーは、アブー・バクルのカリフ位選任に不満を抱き、彼とバイアを交すことを拒否する。預言者の出身氏族ハーシム家の主だった人々、アリーの心酔者たちもこれに従った、と言われる。彼らの中で、預言者が生前にアリーを後継者に指名していた、と考える者たちが現れる。

ところが妻のファーティマが預言者の死後半年ほどで父の後を追うように亡くなって後、人心が離反するのを感じたアリーはアブー・バクルを訪問し、和解を申し出、翌日、モスクで公衆を前に、彼とバイアを交した。

こうしてマディーナのイスラーム共同体の分裂は取り敢えずは、回避された。しかし、アリーの服従によって、アブー・バクルのカリフ位が確立したというわけではなかったのである。

3.リッダ(背教)戦争

預言者ムハンマドが亡くなる六三二年にはアラビア半島のほぼ全域が預言者ムハンマドの権威を受け容れ、彼に宗教税ともいうべき法定喜捨(ザカー)を納めていた。ところが預言者の死後、イスラームに入信して日も浅く、イスラームの知識も乏しく理解も浅かったアラブ遊牧部族の多くが、イスラームから離反する。いわゆる「背教戦争」である。

「背教戦争」のきっかけは、遊牧アラブ諸部族が、礼拝の義務だけを追認し、法定喜捨のアブー・バクルの居るマディーナの国庫への納入を拒否したことである。生前の預言者ムハンマドは政治的権威、宗教的権威を一身に体現するカリスマ的指導者であった。そして中央集権国家による統治の経験を有さない遊牧民たちは、「個人」と「公職」を区別する近代的市民的思考法とは縁が薄かった。

法定喜捨は、イスラーム国家の長としての預言者ムハンマドが、シャリーア(イスラーム法)の定める義務である納入と配分の執行者として徴収するものであった。しかし、多くの遊牧民たちはそれをムハンマド個人への貢納として理解していた。ムハンマドに納めていた喜捨の納税義務は彼の死と共に消滅する。遊牧民たちはこう考えたのである。遊牧諸部族による喜捨の支払い拒否という事態への対応をめぐって、マディーナでは意見が割れた。和平派の代表は後に第二代カリフとなるウマルであった。ウマルは戦いを主張するカリフ・アブー・バクルに対して以下のように述べた。

「『人々が、アッラーの他に神はない、と証言するまで戦うようにと私は命じられた。そして、アッラーの他に神はない、と証言した者は、その証言に伴う義務を除いて、その身命と財産の保全を私によって保証され、その裁きはアッラーに委ねられる。』と預言者が言われたというのに、どうしてあなたは彼らと戦うのか。」

これに対してアブー・バクルは、「アッラーに誓って、私は礼拝と喜捨を区別する者と戦う。なぜならば喜捨とは、『アッラーの他に神はない』との証言に伴う財産にかかる義務だからである。」と返答し、ウマルら和平派を論破し、法定喜捨を徴収しイスラーム法を施行するカリフの権威を認めない者を「背教者」とみなし、その討伐を決めた。

アラビア半島全土を揺るがした「背教」戦争は、多くの教友の犠牲の上に、イスラームによるアラビア半島の再統一によって終わる。半島の再統一を果たしたアブー・バクルは、二年あまりの短い治世を終え病没したのである。

4.カリフ制成立

サーイダ族の広間での談合でアブー・バクルがカリフに推戴され、彼が翌日モスクでカリフの所信表明演説を行ない、マディーナの住民たちが彼とバイアを交してカリフ制が成立した、というのは、あくまでも後世のスンナ派が遡及的に再構成した「物語」である。

「背教」戦争でアブー・バクルが破れていればイスラーム自体が消滅し、カリフ制も歴史に残ることはなかったであろう。あるいは、支持者たちからは預言者ムハンマドの本当の後継者であると考えられており、4代目のカリフとなったムハンマドの従兄弟で娘婿でもあったシーア派にとっての初代イマームであるアリーが、ウマイヤ朝初代カリフとなるムアーウィヤとの政争に敗れ暗殺されることなく天寿を全うし、長子のハサンにカリフ位(イマーム位)を継がせ、アリー家の支配が確立していれば、アリーこそが最初から預言者の後継者(カリフ)であったことになり、アブー・バクルは簒奪者としてカリフの歴史から抹消されていたであろう。しかし、アブー・バクルが「背教」戦争に勝ったため、アブー・バクルの事績が、事後的にカリフ就任のルールとなったのである。

預言者ムハンマドの死後、サーイダ族の広間での談合でアブー・バクルがカリフに推戴され、翌日、モスクにマディーナの援助者と亡命者からなる住民たちを集めてカリフ就任の所信表明演説を行ない、彼らとバイアを交わすことで、カリフ位が成立したことは既に述べた。しかし、それはあらかじめ存在したカリフ位就任のルールに則って行なわれたわけではなく、全てのムスリムがそれに同意していたわけでもない。

つまり預言者ムハンマドには一人の後継者カリフが存在し、イスラーム法に則り、ムスリム全体の統一を護らなければならないこと自体が、亡命者と援助者の一部の有力者のみの談合によって決められた。そしてそこでその新設のカリフ位にアブー・バクルが初代カリフとして推戴されたのであり、マディーナの他の住民は、カリフ位創設についてもその人選についても、相談に与ることはなく、事後承諾の形で新任のカリフとバイアを交わしたのである。聖都マッカの住人たちもアブー・バクルのカリフ選任において全くの蚊帳の外であった。そして、新たにイスラームに入信したアラビア半島の諸部族に至っては、アブー・バクルが預言者ムハンマドの後継者カリフとなることに事後承諾すら求められることもなく、イスラームの教える礼拝を行なっていたにも拘わらず、法定喜捨の新任のカリフへの納税を拒んだために、一方的に「背教者」の烙印を押され、討伐されたのである。

アブー・バクルは、預言者ムハンマド亡き後も、彼が有した政治的権威によるウンマ(ムスリム共同体)の統一が、その一人の後継者カリフによって継承され、それは預言者の高弟の有力者たち、つまりウンマの政治的中枢の者たちによって決められ、預言者の町マディーナ、現在で言うところの首都の住民の事後承諾を得ることで確定し、それ以外のムスリムはただその決定に従う、という先例を確立したのである。

但し、カリフの就任手続きは、この時点では定式化、明文化されることはない。それはおよそ数百年後のことになるが、それについては次回、「(2)イスラーム法上のカリフ制」において述べたい。

5.正統カリフ

後のスンナ派はアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの四代のカリフを正統カリフ(khulafā̕ rāshidūn)と呼ぶ。彼らはどのようにしてカリフになったのであろうか。

アラビア半島の再統一を果たしたアブー・バクルは、二年あまりの短い治世を終え病没するが、アブー・バクルは臨終に当たってウマルを次期のカリフに指名し、アブー・バクルの死後、ウマルはこのアブー・バクルの遺言に基づき、マディーナのムスリムたちのバイアを受けて第二代のカリフに就任する。

第二代カリフ・ウマルは暴漢の凶刃に斃れるが、死に臨んで、ウスマーン、アリー、アル=ズバイル、タルハ、アブド・アル=ラフマーン、サアドの六人の預言者ムハンマドの古参の高弟たちを指名し、彼らの間で協議して次期カリフを選ぶように遺言した。この六人はアブド・アル=ラフマーンに選定を依頼した。彼は最終的にアリーとウスマーンの二人に絞り、モスクに人々を集め、その前で先ずアリーの手を取り、「あなたはアッラーの書(クルアーン)とその預言者のスンナ(慣行)とアブー・バクルとウマルの行跡に則って統治することで私とバイアを交しますか」と尋ねたが、アリーは「いいえ、私は自分自身の能力と裁量によって統治します。」と答えた。次いでアブド・アル=ラフマーンがウスマーンの手を取り、同じことを尋ねると、ウスマーンは「はい、そうします。」と答えて、アブド・アル=ラフマーンの手を取った。そこで人々がウスマーンにバイアを捧げ、こうしてウスマーンが第三代カリフに就任したのである。

第三代カリフ・ウスマーンがマディーナの自宅を叛徒によって襲われ殺害されると、当時のカリフの座、首都マディーナの信徒たちのバイアを受けてアリーが第四代カリフに就任する。しかしアリーの就任に当たっては、第三代カリフ・ウスマーンの親戚でシリア総督であったムアーウィヤが、アリーにウスマーン殺害者の処罰を求めて異議を唱えた。しかしアリーがそれを拒否したことから、ムアーウィヤはアリーのカリフ位の正当性を認めず、自らもカリフ位を要求し、内乱となった。

アリーがムアーウィヤとの戦いの途中に、離反した分離派ハワーリジュ派の刺客によって暗殺されると長男ハサンがカリフの位をムアーウィヤに禅譲したため、ムアーウィヤがカリフに就任する。ムアーウィヤはそれまでの慣行を破り、息子のヤズィードへのカリフの世襲を力ずくでムスリムたちに押しつけ、ウマイヤ朝が成立する。以後、カリフ位は世襲王朝に変質する。それゆえ、世襲ではなく人々のバイアによってカリフになったアブー・バクルからアリーまでの四代のカリフをスンナ派では正統カリフと呼ぶのである。

正統カリフたちのカリフ位成立を見ると、アブー・バクルは預言者ムハンマドの一部の高弟たちによる談合でカリフに推戴され、翌日マディーナの住民のバイアを受けてカリフになり、第二代ウマルは初代カリフの指名を経てマディーナの住民のバイアを受け、第三代ウスマーンは第二代カリフの指名したカリフ選定人の裁定を経てマディーナの住民のバイアを受けて、第四代アリーはマディーナの住民のバイアによって、カリフになっている。つまり、カリフの選定の手続きは様々で、共通点は、カリフの座、首都マディーナの住民のバイアによってカリフ位が成立する、ということであった。

スンナ派はアリーのカリフ位を認め、彼を第四代正統カリフとみなす。しかし、実際にはもはや巨大になった「イスラーム帝国」において、カリフの座、首都マディーナは政治経済的にはもはや独占的な影響力を有しておらず、マディーナのムスリムたちだけのバイアを得ただけではカリフ位は確立されなかった。アリーとムアーウィヤの争いは、預言者の町マディーナの有力者だけでカリフを決めるという正統カリフたちの慣行の破綻を意味するものでもあった。マディーナでカリフになったアリーも後にカリフの座をイラクのクーファに移した。そしてその後現在に至るまで、マディーナは、カリフの座に戻っていない。

6.カリフと王

イスラーム史家たちは、正統カリフ以降にムアーウィヤが開いたウマイヤ朝、それを倒したアッバース朝のムスリムの統治者たちも、カリフと呼ぶ。クルアーンには預言者の後継者という意味でのカリフの用例はないが、「カリフ」に言及したハディースは数多い。正統カリフとそれ以降のムスリムの支配者たちがカリフと呼ばれるのは、かれらのハディースのカリフの語の用例に則ってのことである。
ここではいくつかの重要なスンナ派のハディースのみを以下に挙げよう。

正統カリフに言及しているのはアブー・ダーウードが伝える以下の有名なハディース(預言者の言葉)である。「預言者職のカリフ職(の存続)は三〇年である。その後は、アッラーは王権をお望みの者に授けられる。」

このハディースはカリフの存続がアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの正統カリフ四代の治世(六三二―六六一年)三〇年であり、その後には王制(mulk)が敷かれることを指しており、このハディースの字義は、カリフ制度が三〇年で終わることを示している。
しかし、別のハディースでは、後世に出現する暴君がカリフと呼ばれている。長文だが以下に引用しよう。

「人々はアッラーの使徒に、吉事について尋ね続けましたが、私は彼に厄災について尋ねました。すると人々は彼に目をやりました。すると(使徒は)言われました。『あなたがたが知らないものが生じるだろう。』私が『アッラーの使徒よ、アッラーが私たちに授けられたその吉事の後に、その前にあったような厄災があるでしょうか。』と言うと、(使徒は)言われました。『はい。』私が『どうすればそれから護られるのでしょう。』(使徒は)言われました。『剣です。』私が『アッラーの使徒よ、その後には何が。』と言うと、(使徒は)言われました。『地上にアッラーのカリフ(代理人)が現れ、あなたの背を打ち(暴政をしき)、あなたの財産を奪う。それでも彼に従うか、さもなければ(人里離れた山に逃れて)草の根を囓って(飢えて)死になさい。』私が『その後には何が。』と言うと、(使徒は)言われました。『それから偽救世主(ダッジャール)が表われるが、彼には川と火がある。彼の火に落ちた(命令に背いた)者には、その重荷が免じられその報酬が必定となるが、彼の川に落ちた(命令に従った)者はその報奨が減らされ重荷が必定となる。』私が『その後には何が。』と言うと、(使徒は)言われました。『その後には最後の審判の日が到来する。』」

一方、カリフ制再興論者たちが典拠とするハディースの中では以下のように暴君の時代の後に「預言者制の道に則った」カリフ制が現れる、と言われている。

「アッラーの使徒は言われました。『あなたがたの中にアッラーがお望みの間、預言者制が続くが、その後でアッラーはそれを取り上げようとお望みの時にそれを取り上げられる。その後で預言者制の道に則ったカリフ制が到来しアッラーがお望みの間存続するが、その後でアッラーはそれを取り上げようとお望みの時にそれを取り上げられる。その後で暴政が現れアッラーがお望みの間存続するが、その後でアッラーはそれを取り上げようとお望みの時にそれを取り上げられる。その後で預言者制の道に則った(ʽalā minhāj nubūwah)カリフ制が到来する。』そして(アッラーの使徒は)口を閉ざされました。」(イラーキーなどが伝えるハディース)

これらのハディースを整合的に解釈すると、「カリフ」には善悪を問わずムスリムの支配者全てを指す広義の用法と、「正統カリフ」や「預言者制に則ったカリフ」のような預言者の後継者の名に相応しい正義のカリフを指す狭義の用法という二種類の意味があることになる。

そこで、スンナ派イスラーム学は、イスラーム的統治の理想を体現した正義の統治者としてのカリフは「正統カリフ」しかおらず、正統カリフの死後には世襲の暴君の時代である王制に移行し歴史の終りに至るまで正しいカリフは現れないとの冷めた現実主義に立って、暴君であるムスリムの統治者をも全て「カリフ」と呼ぶのである。

スンナ派は、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの四人の正統カリフのカリフ就任の事績を範型に、イスラーム法上正統な統治制度としてのカリフ制度を定式化した。そして、ウマイヤ朝以降、オスマン朝に至る王朝の統治者たちを、彼らの統治が「預言者制に則ったカリフ制」ではなく、暴虐な王制でしかないことを承知の上で、服従が求められ、反逆が禁止される支配の正当性を有する「カリフ」と呼んできたのである。

7.終りに

カリフ制を名乗る「イスラーム国」とは何か、を論ずるために、正統カリフの就任の歴史から説き起こしたのは、日本の首相や、アメリカの大統領のように、一定の手続きによって特定の日時に一義的に決まるものではない、ということを理解してもらうためであった。

そはまだイスラーム法体系が存在していなかった正統カリフ時代に限ったことではない。
イスラームには、キリスト教のような教会、公会議、教皇のような公的な教義決定機関がそもそも存在しない。誰がカリフなのか、決めることが出来る権威は最初から存在しないのである。

イスラーム国が彼らが自称するように本当にイスラーム法に定められたカリフ制であるのか否かを知るには、イスラームという宗教の性格からして、どうしても歴史の審判を待たねばならないのである。

イスラーム国の首長アブー・バクル・バグダーディーは、初代カリフの名アブー・バクルを名乗った。それは初代カリフ・アブー・バクルが彼のカリフ位就任を認めない者たちとの「背教戦争」を戦わなければならなかったように、自分のカリフ位がすべてのムスリムから異議なくすんなりと認められることはなく、「背教戦争」のようにイスラームの礼拝を行ないムスリムを自認する者たちとの戦争を勝ち抜くことでしか、カリフ制を再興することはできない、と彼が予め考えていたことを示していたようにも思われる。

アブー・バクル・バグダーディーのカリフ就任演説は、初代カリフ・アブー・バクルのカリフ就任演説を意識したものであり、身贔屓や汚職の不正を撲滅し、「法の支配」を確立しようとの所信表明でもあった。

拡大預言者制に則った正統カリフ制」と書かれた建物。(2014年シリア)

そしてイスラーム国で見た「預言者制に則ったカリフ制」の標識は、単にカリフ制を再興しただけではなく、ウマイヤ朝以来オスマン朝まで世襲の王制に堕していたカリフ制を預言者制に則った平等で民主的な真の正義のカリフ制に戻したと標榜するイスラーム国の自己理解を示しているのである。(写真参照)

 

中田 考(なかた・こう)

 同志社大学高等研究教育機構客員教授、株式会社カリフメディアミクス代表取締役社長。1960年岡山県生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。カイロ大学大学大学院文学部哲学科博士課程修了(博士号取得)。在サウディアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部助教授、同志社大学神学部教授などを歴任。専攻はイスラーム学。ムスリム名はハサン。主著に『イスラームのロジック』(2001年)『ビンラディンの論理』(2001年)『イスラーム法の存立構造』(2003年)『一神教と国家 イスラーム、キリスト教 ユダヤ教』(共著、2014年)『日亜対訳クルアーン』(翻訳・監修、2014年)

Facebookでコメントする

ご感想・ご意見などをお待ちしています。