慰安婦 ノ・チョンジャ ハルモニの証言を見ていきたいと思います。
ノ ハルモニの証言のキーワードは黄色。
日本軍に黄色、という色を結びつけているんですね。
帽横章で黄色というのはありますが、これは将校の色ですから、畑になんか来ることはありません。そして日本は昭和9年に陸軍軍服の色を統一したので、黄色の軍服は存在しません。というか、その前も存在してません。念のため、朝鮮憲兵隊、朝鮮総督府警察にもありませんでした。
そして、もう一つこの黄色は教えてくれるものがあります。それは黄埔の軍服は黄色だったということ。
1924年に孫文が創設した中国国民党の軍官学校の教官たちが着ていた軍服の色が黄色なのです。
で、このノ ハルモニは慰問団だったようですね。元朝日新聞、吉田治史氏の捏造の一つに、皇軍慰問女子挺身隊、と呼ばれるものがあります。今では、これは吉田氏のファンタジーの産物であることが分かっていますが、慰問団が慰安婦を兼ねることはありません。
全体を通して言えることは、慰問団として働いていたんだろう、ということと、慰安婦が本当ならば中国国民軍慰安婦だったのではないか、ということ。中国軍軍は現地調達とともに、"兵士"として女性を送り込み、女性兵士を男性兵士の慰み者にしていたようですから。
証言から分かることは、慰問団として売られたノ ハルモニは途中、中国国民軍の慰安婦となっていた。こう考えると、ハルモニの証言が納得できるのですが。
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ノ・チョンジャ
1920年 忠清南道大徳郡生まれ
(住民登録上の年度は1922年)
1934年(15歳)
卷番(日本帝国強占期の妓生たちの組合)に入り、踊りと歌を学ぶ
1938年頃(19歳頃)
日本の憲兵に連行される満州などで日本軍「慰安婦」の生活
1945年頃(26歳頃)
解放後に帰国
「だから、私があの時、17歳だったか、18歳だったかな。農村では畑作なんかもするじゃないか。何人かの小作人と畑の雑草を取っていたら、黄色い服を着たやつらが4人か5人やって来て。」
「日本のやつら、だから憲兵隊、ここの刑事と同じようなもんだよ。巡査よりも階級が高いっていうやつらだよ。」
黄色い、全部軍人なんだけど、軍人の前で歌を歌ったんだ。「食堂で慰問団をしたんだ。」(東北亜歴史ネットより抜粋)
ノ ハルモニの証言のキーワードは黄色。
日本軍に黄色、という色を結びつけているんですね。
帽横章で黄色というのはありますが、これは将校の色ですから、畑になんか来ることはありません。そして日本は昭和9年に陸軍軍服の色を統一したので、黄色の軍服は存在しません。というか、その前も存在してません。念のため、朝鮮憲兵隊、朝鮮総督府警察にもありませんでした。
そして、もう一つこの黄色は教えてくれるものがあります。それは黄埔の軍服は黄色だったということ。
1924年に孫文が創設した中国国民党の軍官学校の教官たちが着ていた軍服の色が黄色なのです。
で、このノ ハルモニは慰問団だったようですね。元朝日新聞、吉田治史氏の捏造の一つに、皇軍慰問女子挺身隊、と呼ばれるものがあります。今では、これは吉田氏のファンタジーの産物であることが分かっていますが、慰問団が慰安婦を兼ねることはありません。
全体を通して言えることは、慰問団として働いていたんだろう、ということと、慰安婦が本当ならば中国国民軍慰安婦だったのではないか、ということ。中国軍軍は現地調達とともに、"兵士"として女性を送り込み、女性兵士を男性兵士の慰み者にしていたようですから。
証言から分かることは、慰問団として売られたノ ハルモニは途中、中国国民軍の慰安婦となっていた。こう考えると、ハルモニの証言が納得できるのですが。
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