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百済王家と天皇家をむすぶ「石城山城」の謎
は じ め に
六六三年、百済復興軍と倭国の水軍は唐・新羅連合軍に白村江の戦いで大敗(太平洋戦争における
ミッドウェ−の敗戦に匹敵する)を喫し、そのため百済王豊璋(天智のモデル)は平壌へ逃亡、
引き続き熊津城でも敗れた百済王たちはついに朝鮮本国を捨てて、武士団らとともに倭国(九州)へ亡命した。
そのあとを追って倭国に進駐してきた唐・新羅連合軍は、太宰府に筑紫都督府(占領軍司令部・GHQ)を
構えて倭国支配を始めたが、やがて新羅は畿内にあった秦王国を併せて「日本国」をつくり日本列島の支配権を
自分たちのものとした−これが奈良朝廷の実体であろう。
この時、西日本各地の要衝の地に新羅花郎軍団の駐屯基地や水軍基地がつくられ、それを守るためと、
非常の際の「逃げ城」としての「朝鮮式山城」が築かれたが、
それらの、応神陵や仁徳陵の大古墳に匹敵する---いやそれ以上の---大遺跡は今なお、
当時の本当の歴史を物語る「生き証人」として西日本各地に二一ヶ所も現存している。
今まで学者がこの問題に触れないのは、天智二年(六六三)八月から約半年間
『日本書紀』の記録が「欠史」になっていて、白村江の敗戦後倭国が無条件降伏したことと、
倭国の代表大石らが唐将・劉仁軌に連行されて中国山東省の泰山に至り
「城下の誓」をさせられた事実を隠しているからである。
日本の石城山城と同じものが韓国にあった
だが最近、この二一ヶ所の山城遺跡の一つ、周防(山口県東部)の石城山遺跡と
同じ名前の「石城山城」が百済の旧都扶余に存在することが判明した。
さらに六世紀初頭、百済武寧王から賜ったという「石城山」の勅額が倭国に伝えられて
---周防石城山の石城神社に現存し、敏達天皇の勅額「石城山」とされているのでは---という
可能性が出てきたのである。
何故かといえば朝鮮史と日本史を整合してゆくと、武寧王と敏達天皇は同一人物ということが判るから、
そのことを知り尽くしていた人物---即ち百済の高級官僚または将軍によって石城山の築城が
成されたと推定されるからだ。
だが、周防の石城山の築城は六六五年以降のことと考えられるから、
その間二世紀位の歴史はどうなっていたのか。
高句麗、新羅、百済という三韓と倭国(のちの日本)の関係、
当時の世界帝国であった唐との関わりなどを調べているうちに、
『書紀』に記してある「長門城」がなんと「石城山城」であったことに気がついたという次第------
そしてこれは、百済王家であった扶余族(神武族)の子孫たちが日本列島に亡命渡来し、
約一世紀の雌伏を経て新羅王朝(北朝)を打倒し、南朝天皇家の平安王朝を建てる端緒と
なったものであった。
その「朝鮮式山城」をめぐるドラマと歴史の真実に迫る。
皇山系の古代遺跡に関連して
周防に熊毛半島とも室津半島ともいうかなり大きな半島があるが、
約三四〇年前までは大嶋という島であり、「古代長門水道」の中心であった。
その突端の皇座山頂は、失われた安羅国(邪馬壱国)の「高天原」だったと推定され、
また神武東征?に関わる熊毛神社遺跡も存在するようなので、
最近柳井広域圏の考古学と歴史に興味を持つ熱心な人々が発掘の為の調査を始めた。
その方々への励みになればと思って書いた提言集をまとめたもので、
同志のような地方史研究家の参考になればと思っている。
天皇への不敬罪という「虎ノ門事件」の真相
やがて扶余族百済王たちは『記紀』を改竄して、「万世一系」という虚構の
神話をつくり天皇教の教義とした。それは今日なお日本人の心の中に奴隷根性として根着いているが、
戦前は天皇という言葉を口にするさえ憚られ、
天皇制を批判すれば忽ち憲兵に捕らえられるという恐怖政治が横行していた。
その犠牲となった最大の者は、大正一二年(一九二三)九月、関東大震災直後に行われた
在日朝鮮人への「いわれなき弾圧」と大杉栄らに対する暗殺事件であろう。
このことは現在では、大方の人がよく知っている。
しかし同年一二月に起った「虎ノ門事件」すなわち難波大助による
摂政ヒロヒト(昭和天皇)への狙撃事件のことは、
当局の「大助は不敬罪により死刑になったテロリスト」であるという一方的な発表を
未だに信じているような始末である。
筆者は長年これに疑問を持ち、地元のことでもあるので詳しく調べているうちに、
当局の主張とは全く違い難波大助は学習院生であったことをつきとめた。
しかも皇太子ヒロヒトと大助は同級生で、大助がガ−ルフレンドの良子王女と
仲良く交際している姿を、何時もうらやましそうに見ていたヒロヒトが横恋慕し、
宮内省の役人を使って皇太子妃に横取りしたということが判明した。
さらに、虎ノ門前で摂政の車めがけて鉄砲を撃ちかけながら
「革命万歳」を叫んだという当局の発表とは違い大助は車の直ぐそば12センチまで近寄り、
「おれの女を取りゃ−がって」と叫びながら空気銃の筒先を空に向けて撃ったという。
これでは話がまったく違う「若い者同士の恋愛ごっこ」ではないか。
そこでこの二人の家系を調べて見ると、またまた驚くべき「歴史の真相」が浮かび出てきたのである。
しかもそれは百済王家、天皇家、石城山などに関連する「明治維新史」をふくむ壮大な物語となって展開する------
平成天皇のスットボケタ「お言葉」
めったにものを云わない天皇がたまに発言すると、真面目な話もS・Fじみてくるという
「日韓親善」に関するおはなし------
百済王統譜と皇統譜の比較対照表もついているので、真面目に学習する人には便利な小論となっている。
日本人とアイヌ人のル−ツ
血液人類学者松本秀雄の新モンゴロイド説は立派な学説だが、『記紀』の偽史性に毒されて、
真実を見極めるメガネがいささか曇っているようなので、これを正すため、現代日本人のル−ツが
「南倭」と「北倭」であることを論じた。
『韓国と日本の歴史』序章として述べている。
これらのことを思いつくままに断片的に述べていたものを一冊に纏めたのがこの「小論集」である。
今後、 『韓国と日本の歴史』 本章 、 『二人で一人の明治天皇』を発行予定です。
松重 正
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