前考では、万葉集巻15の歌の麻里布の浦8首のうち、2首の麻里布の浦に掛かる「見れど飽かぬ」をキーワードにして、麻里布の浦を岩国市麻里布ではなく、熊毛郡平生町曽根の神花山古墳のある田布施川河口部(旧熊毛湾口部、田布施町麻里府説とは対峙する場所)一帯の地と比定している。
麻里布の地名は、岩国市のほか、熊毛郡田布施町別府(こちらは麻里府と表記)と対岸の平生町曽根にも麻里府大権現の伝承がある。『注進案』熊毛郡上関宰判の麻郷村と曽根村の項にある、麻里府村や麻里府大権現の由来伝承話は興味深いものではあったが、どれも万葉の時代まで遡れる地名・伝承ではないようだ。『地名淵鑑』によると、岩国市のそれを含め、いずれも万葉集の遣新羅使歌に因んで中世以降に地名・伝承となったもののようである。麻里布の浦を、平生町曽根に比定した根拠は、持統天皇の吉野行幸で柿本人麻呂が詠んだ「吉野の宮歌」長歌(36)と反歌(37)に初出する「見れど飽かぬ」語を、人麻呂創始の地霊鎮魂や魂振りの定型呪詞とする時、古代熊毛王国の歴代の王墓のうち、若き女王の墓・神花山古墳のあるこの浦こそが、地讃めの対象として最もふさわしい地とみたことにある。 そこで前考をうけて、今度は万葉集に詠まれた津々浦々の歌から、遣新羅使船の航路行程を考察して、麻里布の浦の旧熊毛湾口部説の検証を試みた。
万葉集巻15には、天平8年(736)に新羅に遣わされた使人等の詠んだ145首がある。目録には、夏6月に難波津(大阪南港)を出航したとあり、歌に付された題詞や歌の内容からは、武庫の浦(西宮市西宮港)−明石の浦(明石市明石港)−玉の浦(倉敷市玉島)−神島の磯間の浦(福山市神島町あるいは笠岡市神島)−むろの木(福山市鞆町)−長井の浦(三原市糸崎)−風早の浦(広島市安芸津町)−長門の浦(呉市倉橋町)と西進を続け、山口県周防部に入っている。周防部沿岸では、玖珂郡麻里布の浦(岩国市麻里布?)−大島の鳴門(大畠瀬戸)−熊毛の浦(上関町室津?)と続き、佐婆沖(防府市沖の周防灘)では嵐に遭い、一夜漂流して豊前国下毛郡分間の浦(中津市中津港付近)に到着した。この後、一行は筑紫の館(福岡市博多港)、筑前国志摩郡韓亭(福岡市西区宮浦)、引津の亭(糸島郡志摩町)、肥前国松浦郡狛島の亭(唐津市神集島)、壱岐島、対馬島浅茅の浦、竹敷の浦(長崎県)の各浦を経て、新羅国へ渡っている。
遣新羅使船航路行程図 (『万葉集釈注8』による難波津から対馬までの往路行程)『続日本紀』によると、今回の遣新羅使は、新羅では国書の受取りを拒否され、大使の阿倍継麻呂は復路の対馬では死去している。ようやく天平9年(737)正月27日帰京したが、副使の大伴三中は伝染病に罹り、拝朝は2ヶ月遅れて3月28日になったとある。彼等は往路の前述した浦々での歌を多く残しているが、新羅国と復路での歌は、「播磨国家島5首」をみるだけである。国交不穏な状況にあったこともあり、使命を果たせず、嵐や疫病に祟られ日程も大幅に遅れ、そのうえ大使までを喪うなど失意の帰り旅となり、彼等は歌を詠むどころではなかったと思われる。そんな彼等がやっと明石海峡を間近にした家島を目にした時、望郷の想いが一気に噴出し、歌となったのであろう。
遣新羅使の歌は、編者大伴家持によって、難波津を出航してからの津々浦々を、ほぼ時系列的に編纂(脚色も)されてはいるが、月日の確実なのは、七夕(7月7日)を詠んだ「筑紫の館」(博多湾沿岸)のみである。あとは「月読の光を清み」とあることから、月明かりで船出した神島の磯間の浦(「月読の光を清み神島の 磯みの浦ゆ船出す我れは」3599、福山市神島)と長門の浦(「月読の光を清み夕なぎに 水手の声呼び浦み漕ぐかも」3622、呉市倉橋島)が満月(15日)の前後の頃だろうということ、そして黄葉の散る晩秋(9月末)頃には対馬にいたのがわかる程度である。(※ 月日は旧暦表記)
そこでまず、月明かりのもと船出したとある神島と倉橋島が、いつの出航であったかをみてみる。
『万葉集全注・巻15』(吉井巌、有斐閣、1988、以下『全注』という)では、『日本古典文学全集・万葉4』(小学館、1978、以下『古典全集』という)の頭注をもとに、難波津を天平8年6年1日、神島は6月7日、倉橋島は6月12日に出航したと、当時の潮汐・潮流を推測して、これを詳細に検証している。これをうけて『万葉集釈注8』(伊藤博、集英社、1998)には、往路対馬までの航路・行程図と各浦泊着の推定月日が整理されているが、この日時設定には従えない。
特に備後灘の分水線にかかる神島の夜の船出を、7日21時頃に推定しているのは不合理である。7日は上弦の月(半月)にあたるので、よく晴れていたとしても夜の航行には暗すぎるし、なによりも『理科年表』では、6月(現行暦では7月)の上弦の月の南中時刻は18時頃で、入りの時刻は深夜23時過ぎ、日の入りは19時過ぎとなっているから、夕暮れに月が見え始めた時は、もう西に傾いていることになる。こんな暗い夜に、「吹く風も おほには吹かず 立つ波も のどには立たぬ 畏きや 神の渡りの」(3339)と表現されているほどの、神島沖の複雑に入り乱れる風と潮流を乗り越えるために、船出したとは考えられないのである。
福山市鞆から呉市倉橋島までは直線距離で約100km、密集した島々を縫うようにして進むため、実航行距離は約130kmとみる。この間、万葉集に載る港泊地(以下、浦泊という)は、長井の浦(三原市糸崎)、風早の浦(東広島市安芸津町)であるが、これでは2泊3日の船旅となり一日の行程としては長すぎる。当然、詠まれていない浦泊での泊りもあったことであろう。
この遣新羅使船は、6月初めに出航して博多港には7月初めには到着しているから、約1ヶ月間の行程となっている。大阪−博多間の海上距離は560km(第6管区及び第7管区海上保安本部のWebページより)、山陽沿岸の浦々に寄港しながら行く航路を想定し、実航行距離は約750kmとすると、一日の行程は25km程度となる。当時はほぼこの間隔で浦泊が置かれていたと推定する。
平安中期の『本朝文粋』には、播磨−摂津間の行程が次のように記されている。
摂播5泊(魚住泊は明石の浦、河尻泊は武庫の浦)「舟船海行之程、自[木聖]生泊至韓泊一日行、自韓泊至魚住泊一日行、自魚住至大輪田泊一日行、自大輪田泊至河尻一日泊」。この[木聖]生泊、韓泊、魚住泊、大輪田泊および河尻泊は「摂播5泊」と呼ばれ、天平年間に行基(668〜749)が整備したという浦泊である。それぞれの地は現在の、兵庫県たつの市御津町室津、姫路市的形町福泊、明石市魚住町、神戸市兵庫区および尼崎市神崎町に比定されているというから、各浦泊間は約20〜30kmの距離となるのも、前述の推論を裏付けている。
このことから兵庫県以西の浦泊も、山陽沿岸部に一日の行程分の距離間隔でおかれ、それらの地では熟練した漁師を水先案内人に徴用しながら、次の浦泊まで船を進めたのであろう。
天平8年までの、大陸や朝鮮半島への派遣船の主なものとしては、600年から始まった遣隋使船が618年までの5回、次いで遣唐使船が10回(遣唐使船は894年まで続き、全回数は20回との説もある)、そして今回の遣新羅使船が第23次(遣新羅使船は779年の第27次まで)と、過去37回の渡航記録があることから、海の道・浦泊も陸の道・駅宿と同様に設定されていて、官船の航路行程はみなこれに従っていたと思われる。平安中期の延喜式・巻24(主計上)にも、太宰府までは海路30日との所要日数が定めてあるので、ここまでは所定の航路をほぼ予定の日数で到着したことになる。
瀬戸内海は、四国の東西にある紀伊水道と豊予水道によって太平洋と通じ、最西端の関門海峡が響灘に開いている。東の紀伊水道は約40kmと最大の水路幅を持つが、瀬戸内海へは淡路島で遮られ、鳴門海峡と明石海峡と合わせた有効水路幅は約6kmとなっている。これに対し、西の豊予水道は約25kmと広いため、潮の流出入量は多く、内海の大部分の潮流を支配している。すなわち備後灘の福山市福山港あたりを分水線とし、これより西の関門海峡までの約270kmは豊予水道、東の明石海峡までの約150kmは紀伊水道の影響下にある。周防灘の西端の関門海峡は、幅1km弱と最も狭いがその分流速が大きく、宇部市沖以西の潮流を複雑にしている。潮の干満は6時間余の周期で繰り返されるので、古代から瀬戸内を往来する船は、外海の干満現象によって内海に生じる潮流をうまく利用しながら移動していたのである。一日2回繰り返される潮の満ち引きのうち、昼間の潮流に乗って船を漕いだのであるから、一日の実漕走時間は6時間程度、帆(この当時は筵帆)の補助もあり、遣新羅使船の平均時速は約5km(2.7ノット)弱となる。
そこで、夜の出航とみられる神島の磯間の浦と長門の浦の日時を、次のように修正してみた。
『全注』のいうように、備後灘の神島西方には潮流の分水線があることから、夜の潮流変化(上げ潮から下げ潮)を利用してむろの木(福山市鞆町)まで進み、そこで碇泊したのであろう。その後は、昼間の下げ潮を待って、長井の浦(三原市糸崎)へ向かった。翌日は風早の浦(東広島市安芸津町)まで、ともに浦間距離は30kmを超えるが、潮流や帆の助けもあり、一日の行程としては許容範囲である。しかし次ぎの長門の浦(倉橋島)までは約55kmとなるから、一度の下げ潮(最大3.4ノット、平均2.4ノット=時速約4.5km)では無理である。そこで地図をみてみると、安芸津町から約20km、倉橋島へは約35kmのところに蒲刈島(呉市蒲刈町)があった。中世の廻船寄港地として登場する港であるから、この時代にも浦泊の一つになっていたとしてもよいだろう。
長門の浦からの夜の船出は、大畠瀬戸の「名に負う鳴門の渦潮」を避け、昼間の満潮直後のまだ緩やかな下げ潮に乗って通過するため、岩国市沖ではなく、大畠瀬戸の入口部まで、屋代島の北側を島伝いに航行し、大畠瀬戸の北口付近での潮待ちを目的にしていたと思われる。大小の島々が密集している内海では、潮流が複雑に変化することから衝突や座礁などの危険をともなうため、夜、船を漕ぐことはしなかっただろう。しかし時と場所によっては、定期的に変化する潮流を読んで、夜間航行も強行している。この場合の条件は満月の前後、十三夜〜十七夜の間のよく晴れた夜に限られるだろうから、ともに「月読の光を清み」とある、神島磯間の浦から倉橋島長門の浦の出航までの5泊6日を、満月の6月15日の前後に振り分けて、神島での出航は12日夜、長門の浦は17日夕刻の出航とみるのが妥当なところと考える(5泊は、鞆、長井、風早、蒲刈、長門の各浦泊である)。
これを基に、Webの「海の情報交差点」(第七管区海上保安本部海洋情報部)にある潮流推算、潮汐推算ページを利用して、天平8年6月12日夜の福山湾付近と17日夜の周防大島北部海域の潮流、及び18日の大畠瀬戸の満潮時刻から、これらの地の出航到着時刻を推算してみた。天平8年6月の12日、17日および18日は、ユリウス暦に換算すると、736年7月の24日、29日および30日となる。
玉の浦から長門の浦まで(『万葉集釈注8』の行程を修正)『理科年表』から、天平8年6月12日夜の月の南中時刻は23時頃、月の入り時刻は翌未明3時頃、13日の日の出時刻は5時頃と推測する。「海の情報交差点」からは、分水線以東の潮流が西向き(上げ潮)となるのは12日14時過ぎからで、福山湾付近の満潮時刻は21時頃、分水線以西の潮流が西向き(下げ潮)に変化するのは13日0時頃から、下げ潮は5時過ぎまで続き、最大流速は2時から3時の0.3ノット(時速0.5km強)とわかる。
玉の浦を12日14時頃に出航した一行は、水島灘の潮流が東向きに反転し始める21時頃までには福山湾口(潮待ちであるから、福山市神島ではなく湾口部の笠岡市神島とするのが適当か)に到着したのち、潮流の変わり目を利用して分水線を越え、0時からの下げ潮に乗って、むろの木(=鞆の浦、福山市鞆町)までの約10kmを十三夜の月明かりを頼りに漕ぎ進み、仮泊の後、13日10時頃からの次ぎの下げ潮を待って長井の浦へ向かったのである。
次に長井、風早、蒲刈の各浦泊を経た後、一行は長門の浦に16日19時頃までには到着し、翌17日14時頃からの下げ潮に乗って出航したと考えられる。
長門の浦から姫島(漂着経宿)まで(『万葉集釈注8』の行程を修正)大畠瀬戸を昼間の満潮直後の下げ潮に乗って通過するため、瀬戸の北口(周防大島町の田ノ尻鼻か対岸の柳井市神代)付近での潮待ちを目的にしての夜の出航である。18日の大畠瀬戸の満潮時刻は10時頃であるから、倉橋島から大畠瀬戸の北口付近までの約35kmを、十七夜の月明かりのもと(この夜の月の出は21時頃、南中するのは1時頃、月の入りは6時過ぎ、日の出は5時頃である)帆を張り潮流に乗って、屋代島の北に連なる柱島、黒島、前島などを順次目標にしながら、島伝いに漕ぎ行けば、十分到着可能な時刻であり、ここで潮待ち碇泊して満潮直後の1.2ノット(時速2.2km)の下げ潮に乗って瀬戸を通過したものと推定する。「これやこの名に負う鳴門の渦潮」(3638)の瀬戸も、満潮直後のまだ穏やかな潮流であれば、安全に航行できるのである。
『全注』のいう、麻里布の浦を岩国市沖とし、倉橋島からは広島湾内の潮流(弱い旋回流)に乗り、ここで潮待ち碇泊していたとする説は、大畠瀬戸まで約30kmと遠すぎて、瀬戸の潮流変化に即応できない。なによりも瀬戸の通過を、操舵の困難さから遭難のリスクが最高となる、最大潮流時刻(14時頃、6.6ノット=時速12.2km)頃とし、この下げ潮に乗って一気に室津まで船を進めるということは、官命を帯びた使節団としては、まず選択しないものと考える。
もし、熊毛浦を上関町室津とし、そこを次ぎの寄港地とするのであれば、潮流の読みやすく最短の伊予灘航路、つまり屋代島の南を行く航路をとるのが賢明である。周知のとおり中世以降になると、瀬戸内を往来する廻船は、鹿老渡(倉橋島)−沖家室(周防大島)−竃戸関(上関)と、伊予灘を航路としているのが証左となろう。内海航路が、山陽沿岸を行く地乗り航路(島々の間の狭い海路を通ることで、大きな潮汐差から生じる潮流を主推進力とする省エネ航法)から、島伝いの沖乗り航路に変わるのは、帆や船の構造が改良され、一日の行程が長くとれる様になった、平安後期以降になってからのことと思われる。竃戸関の史書初出も、『吾妻鏡』文治2年(1186)9月条にある「賀茂別雷社文書」(9月5日付、周防国伊保庄、竃戸関、矢嶋、柱嶋等の住人に対する源頼朝下文)というから、伊予灘航路は、万葉の時代の朝廷の定めた「海の道」には入っていなかったのであろう。
661年、斎明天皇が、百済救援のため筑前へ征西したさいに、伊予灘を通過しているが、これは途中の伊予国熟田津の石湯(道後温泉)で逗留したことによるものである。そして、この時に詠まれたのが「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」(8)と、ここでも下げ潮を待っての月夜(3月15日頃とされている)の船出がみられる。外海との開口部としては瀬戸内海最大である豊後水道を、干満の潮流を利用して横断するための船出であったのだ。その後、斎明天皇一行は、伊予灘を国東半島へと渡り、豊前沿岸部を辿って関門海峡を通過、娜大津(博多港)へ到着している。
わざわざ難所である大畠瀬戸を渡ってでも行かなければならない浦泊となると、柳井津以外にはない。
古柳井水道と旧熊毛湾柳井市の古名である揚井本庄は、長寛2年(1164)、後白河上皇が造営したという京都の蓮華王院(三十三間堂)の荘園として開かれたとあるが、柳井津は、古柳井水道の東の入口部に位置し、古くは熊毛王国の繁栄の一翼を担ってきたところであるから、律令時代になっても瀬戸内海運の拠点として、浦泊の一つに指定されていたのであろう。ここから上関に廻らず周防灘へ出るには、古柳井水道から旧熊毛湾に入る以外にない。一行はここで休息あるいは1泊の後、次ぎの上げ潮を待って旧熊毛湾へと進んだのである。古柳井水道の潮流は定かではないが、大畠瀬戸で水路が狭くなっている形状を考えると、上げ潮時には古水道への流れ込み(西流)が生じたのではないか。または古水道の水位上昇を待ったとも思われる。
古柳井水道がいつまで存続したかについての確かな史料はないが、同様な古水道の例がある。倉敷市の南に突き出した児島半島も、昔は古児島水道によって内陸とは分離していた。治承4年(1180)、安徳天皇に譲位した高倉上皇の一行が、平清盛の招きで安芸の厳島参詣をしているが、この船旅では、3月23日に児島の泊に泊り、翌日は古児島水道を通り、備中国の「せみと」に着いていることが「高倉院厳島御幸記」(『中世日記紀行集』新日本古典文学大系51、岩波書店、1990所収)に記録されている。今、児島の泊は玉野市八浜、「せみと」は笠岡市神島に比定されている。
古児島水道は、川砂の堆積から次第にその機能は失われ、室町期以降は、児島の南岸を航路とするようになったとある。古柳井水道の閉塞も、海面の水位低下ではなく、田布施川や柳井川の運んできた土砂の堆積とみるのがよく、少なくとも平安中期頃までは、航路としての機能も十分に果たしていたと考えられる。熊毛半島の南、上関町に竃戸関が置かれ、屋代島の南を廻るようになったのは、古柳井水道航路が廃された後のことであろう。
遣新羅使船の規模は不詳であるが、同時期に存在した遣唐使船を復元したものが、倉橋島の「長門の造船歴史館」に展示されている。Webで検索すると、平安後期の絵画をもとにした後期遣唐使船ということであるが、全長27m、幅7m、17m高の帆柱2本に6双の櫂を備え、乗員約120人、吃水3mの平底ジャンク船のような箱型構造船とあった。第23次遣新羅使一行は、総勢約80人(水手も含む)と推察されている。万葉の時代、柳井水道および旧熊毛湾も、古児島水道や児島湾と同じく、この程度の船の往来は十分に可能であったと思われる。
熊毛王国が繁栄したのは、天然の良港である旧熊毛湾内に浦泊を設け、古柳井水道によりこの海域の廻船航路を集約独占化に成功したからである。その王国も7世紀後半になると、奈良朝廷の支配下に置かれ、王族最後の墳墓・後井古墳を遺して姿を消したが、これ以後も古柳井水道−旧熊毛湾航路は存続している。
こうして、姫島−祝島航路は、早くから官制航路から外れはしたが、島名の由来ともされている、祝島出漕のさいに海路の安全を祈って神を斎ひ祀ったという故事伝承が、そのまま
家人は帰り早来と伊波比島 斎ひ待つらむ旅行く我れを(3636)
草枕旅行く人を伊波比島 幾代経るまで斎ひ来にけむ(3637)
と「麻里布の浦8首」に詠み込まれたのであろう。「筑紫道の加太の大島」(3634)も、屋代島(周防大島町)を指すものではなく、もともと島であった熊毛半島のことで、新羅系渡来人が多く住むことから「韓(から)の大島」とも呼ばれていたのが、「加太の大島」としてこの「8首」に入っていること、そして平生町尾国辺りの海域を「可良の浦」(3642)と比定されていることは前考(麻里布の浦考−1)で触れている。
沖辺より潮満ち来らし可良の浦に あさりする鶴鳴きて騒きぬ(3642)
これは、「熊毛の浦に船泊りした夜に作る歌4首」に含まれている。「熊毛の浦」を光市室積に比定した場合、ここからは熊毛半島にある「可良の浦」は遠くて見えないが、「朝になって潮が満ちはじめてきた(出航の時間がせまってきたのだ)、沖のほうからは鳴き騒ぐ鳥たちの声が聞こえてくる。あれはきっと、(加太の大島にある)可良の浦で、餌を漁っている鶴たちの声であろう」と、前日通過した麻里布の浦や加太の大島のことなどを思い出しての歌とみればよい。天平8年6月22日朝出航とする、熊毛の浦(光市室積)干潮時刻は6時過ぎであるから、7時頃からの上げ潮を待ち、出航の準備に慌ただしい様子と海鳥の鳴き騒ぐ声をダブらせたのであろう。ただこの遣新羅使の一連の歌は、6月に詠まれたものであるから、この時期冬の渡り鳥である鶴は日本にいないことになる。鶴はこの他4首(3595、3598、3626、3627)にも出ており、このため、他人の作がここに挿入されたとの説がある。しかし鶴は万葉集全体としても46首あり、季節を限定せずに出ているようだ。『万葉集』(伊藤博校注、角川ソフィア文庫)では、67歌の「鶴が音」の脚注に「旅情を慰める景物」とあることから、旅で聞く鳥の声=鶴の声との図式があったとすれば、必ずしも鶴と限定しなくてもよいだろう。
結局、前考で記したとおり、「麻里布の浦」の比定地を岩国市麻里布沖とするのは、遣新羅使船の航路行程検証の面からも成立し難いものになる。やはり平生町曽根の、熊毛王族の若き女王の眠る神花山古墳のあるあたり(旧熊毛湾口部)が最もふさわしい場所であると考える。
神島の敷間の浦(笠岡市神島)での夜の船出を6月12日とすれば、万葉集に記録されていない浦泊での泊りを考慮して逆算し、出発地の難波津(大阪南港)出航日は6月4日頃となる(『古典全集』は6月1日、『全注』は6月3日としている)。筑紫の館(福岡市博多湾)到着日も不詳であるが、長門の浦(広島県倉橋島)の夜の出航を6月17日として、同様の手法で7月5日頃と推算する。ここまでを約1ヶ月の船旅とみる、先学の推定とは大きく変わらない。
なお遣新羅使船はこの後、「熊毛の浦」(上関町室津ではなく、光市室積に比定)で船泊りしているが、「佐婆海中」(防府市沖の周防灘)で嵐に遭い、一晩漂流して「豊前国下毛郡分間の浦」(大分県中津市中津港付近)に到着している。このことから多くの説は、当初予定していた山陽沿岸の最短航路を外れ、やむを得ず九州沿岸部を辿り、関門海峡を通過して博多湾の筑紫の館へと進んだと解釈している。
しかし、題詞の「佐婆の海中……」との記述からは、「途中で嵐に遭い一晩漂流したが、翌日には順風を得て、予定通り分間浦(大分県中津市)に到着した」とするのがよいだろう。深く凹んだ豊前海岸線と対峙するように突き出した宇部市の岬とで形づくられた周防灘西部の海域は、関門海峡の外海と内海とで生じる干満の時間差もあって、宇部市沖以西では潮流が衝突交錯するなど複雑に変化しているから、防府市あたりからは、国東半島方向に南下する潮流に乗って宇佐市や中津市へ行き、あとは豊前海岸沿いに関門海峡に至る緩い潮流を利用する航路のほうが、大迂回路とはなるが労力は最小と評価されていたのであろう。
延喜式の海路法定所要日数では、安芸国まで18日、長門国まで23日とある。周防国については海路日数の表記はないが、『防府市史』には「約20日となる」とあった。倉橋島(ここまでは17日か)を安芸と周防の分岐港とすれば、倉橋島から佐波津(防府市勝間)までの海上距離は約110km、途中の船泊りを柳井津と室積の2泊と想定すれば、周防国(防府市)までを20日とするのは頷ける。そうだとすれば佐波津から長門国(下関市長府)までは、宇部港経由の長門沿岸コースでは僅か約60kmしかなく、ここを同じく2泊3日と置くのは不合理である。やはり佐波津からは、周防灘を南下する豊前海岸経由の約140kmの迂回路が、官制の海の道(灘道・船路)となっており、遣新羅使船もこれに従っていたとするのがよいだろう。
浦みより漕ぎ来し船を風早み 沖つみ浦に宿りするかも(3646)
の歌からも、「(熊毛の浦から)佐波津を目指して漕ぎ出たところ、途中嵐に遭遇して流されるなど難儀はしたが、なんとか次ぎの浦泊・姫島(大分県東国東郡)の港に避難でき、一夜を過ごした」と受け取れる。沖つみ浦が姫島であれば、翌日の順風を得て到着した分間の浦までは約40kmと、一日の行程距離とも符合する。外海・響灘から関門海峡に入り、周防灘を東進する場合は、この逆の潮流を利用し、逆の航路を辿ればよい。九州と都(大和)を結ぶ航路は、古くは記紀の記述からも、国東半島とこれに続く豊前海岸が九州の玄関口とされ、姫島−祝島−安芸津コースや姫島−佐波津コースがあったことが伺える。前者は神武東征の、後者は景行征西以降の、ともに周防灘航路として推定されている。
『隋書 倭国伝』には、大業4年(608)、遣隋使小野妹子に同行来朝した隋の使者斐世清の紀行文がある。この中で注目されるのは「経都斯麻国迥在大海中。又東至一支国、又至竹斯国、又東至秦王国。其人同於華夏、以為夷州、疑不能明也。又経十余国、達於海岸。」の一節である。朝鮮半島の百済から対馬・壱岐を経由する九州までのコースは『魏志』以来変わらない。竹斯国は筑紫国のことで、「この東には秦王国がある。そこの人々は中国人に似ている。ここを夷州というが、はっきりしない。また十余国を経て、海岸に達した」との意に訳されている。今、この秦王国の比定地としては、そこから海岸へ出るまで十余国を経るとの解釈から、九州圏内にする説が多くあるが、秦王は周防の音をうつしたもので周防国とする説もある。中国人に似ているのは新羅系帰化人を指すともいうから、同時代にここ周防国東部に栄えていた熊毛王国とも符合することになる。十余国を過ぎて達したという海岸も、そこで倭王の歓迎を受けていることから、都の入口である難波津を指すものとしてよいと考えられる。十余国は秦王(周防)国以東の瀬戸内沿岸にあった諸国を数えたものとすれば、秦王国を熊毛王国に比定しても特に不都合はなくなる。
(後に熊毛王国は奈良朝廷の周防国に組み入れられ、熊毛王族(秦氏)から国造周防凡直の支配下するところとなる。しかし周東町用田の極楽寺は、天平16年(744)、玖珂郡の大領(長官)秦皆足の創建と寺伝にあるから、天平年間になってもまだ周防凡直に対抗できるだけの勢力を維持していたようである。)
そうだとすれば、これは中国史書において周防部航路に言及した初めてのものとなり、長門の浦−大畠瀬戸−古柳井水道−旧熊毛湾−熊毛の浦−佐波津−姫島との周防部航路が、遣隋使船以来の官制航路となっていたことを裏付ける史料ともなるだろう。
その後、船舶構造や航海技術の進歩から、一日の行程も大きく伸びたこともあるが、廻船の寄港がもたらす利益に目をつけた各地の豪族や寺社が、それぞれに所領する地所に海関・浦泊を開設して、政治的に官船航路への参入を画策するなど、航路・浦泊も時代とともに変化している。豊前海岸を迂回する姫島−佐波津航路が、長門部沿岸を辿って直接関門海峡へ通じる航路に集約されていくのも、山陽道沿いに多くの寺社荘園が開かれはじめる平安期以降のことになると思われる。
柳井津は、古柳井水道の閉塞により熊毛半島南端廻りの航路に変更され、上関町室津に浦泊が移った後も、広島湾宮島参詣航路の海関・浦泊として残り、竃戸関(室津)をも束ねる要所として繁栄している。
追記 2008/05/24/
文中では、竃戸関の地名の初出を『吾妻鏡』にある文治2年(1186)としているが、源俊頼自撰の「散木奇歌集」第6・悲歎部(『群書類従』巻15、所収)に、長門・周防の沿岸風景を詠んだ歌があり、そのなかに「あかま」(赤間)、「ひくしま」(彦島)、「むへのとまり」(宇部泊)、「くちなしのとまり」(未詳、防府市あたりか)、「むろつみ」(室積)などとともに「かまと」(竃戸)の地名があるのを見つけた。
むへといふとまりにて……
鳥の音も涙もよほす心ちして むへこそ袖はかはかさりけれむろつみといふ所をいてゝかまとゝいふとまりを過ぎて……
むろつみやかまとを過る船ならは 物を思ひにこかれてそ行承徳元年(1097)、太宰府で死去した父・経信の遺体(遺骨か)を、海路、都へ運ぶ途中の浦々での風景を詠んだものというから、この頃には周防灘航路が山陽沿岸に移り、古柳井水道が閉塞し熊毛半島南端の竃戸関経由となっていたのであろう。
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