平成20年2月21日付と3月6日付の山口新聞「四季風」欄に、興味深い論説が記載されていた。
かつて熊毛半島の付け根部分にあったという「古柳井水道」の閉塞時期を古墳後期とする従来説に対して、柳井西中の松島幸夫校長の、平安末期までは存続していたとする新説をもとに、『万葉集』巻15にある遣新羅使の詠んだ「麻里布の浦」の所在を、岩国市麻里布ではなく、熊毛郡田布施町としている。 その傍証として「麻里布の浦」に掛かる「見れど飽かぬ」をキーワードにあげ、『万葉集』に51例あるという「見れど飽かぬ」の解釈を、その土地の持つ神聖な霊力を身につける地鎮(ほ)めの歌とみる故白川静博士の論評をもとに、海の難所を無事通過できるように祈った歌であるから、航行に支障のない岩国沖に比べ、狭く、浅い海の難所だった古柳井水道を通過するときに詠んだのではないか、とするものである。
『万葉集』巻15には、天平8年(736) 6月に難波津(大阪市住之江区)を出発し、翌9年正月に帰朝した遣新羅使等が詠んだ歌145首が記録されている。『続日本紀』によれば、新羅では国書の受取りを拒否され、大使の阿倍継麻呂は復路の対馬で死去している。ようやく天平9年(737)正月27日帰京したが、副使の大伴三中は伝染病に罹り、拝朝は2ヶ月遅れて3月28日になったとある。この旅は、3581や3586歌にあるように、秋(9月頃か)には帰朝の予定であったが、悪天候や疫病に祟られ、6ヶ月以上をも要しながら目的を果たすことができなかったという悲惨な船旅であったようだ。
この時の遣新羅使の行程は、この145首に付された題詞や歌の内容などから、瀬戸内の各浦に寄港しながら順次西進して行ったことがわかる。山口沿岸部では「安芸国長門の浦(広島県倉橋島)」(3617〜3624)の次に「周防の国の玖珂の郡の麻里布の浦を行く時に作る歌8首」(3630〜3637、以下「麻里布の浦8首」と略す)、「大島の鳴門を過ぎて再宿を経ぬる後に、追ひて作る歌2首」(3638〜3639)、「熊毛の浦に船泊りする夜に作る歌4首」(3640〜3643)に続き、「佐婆の海中にしてたちまちに逆風に遭ひ、漲ぎらふ浪に漂流」して、豊前国下毛郡分間の浦(大分県中津市中津港付近)に漂着したとある。
遣新羅使船の周防部航行経路図(『全注』説) 山口大学教育学部 国文学講座Web教材より
「麻里布の浦」を岩国市とみるのは、題詞に「玖珂郡」とあること、そしてこの後に「大島の鳴門(大畠瀬戸)」を過ぎ、西廻り廻船の拠点・上関町室津港に比定される「熊毛の浦」へと続くことによるという。
「麻里布の浦」は「麻里布の浦8首」のうち3首にあり、「見れど飽かぬ」はそのうちの2首にかかる。
真楫貫き船し行かずは見れど飽かぬ 麻里布の浦に宿りせましを(3630)
いつしかも見むと思ひし粟島を 外にや恋ひむ行くよしをなみ(3631)
大船にかし振り立てて浜清き 麻里布の浦に宿りかせまし(3632)
粟島の逢はじと思ふ妹にあれや 安寐も寝ずて我が恋ひわたる(3633)
筑紫道の可太の大島しましくも 見ねば恋しき妹を置きて来ぬ(3634)
妹が家路近くありせば見れど飽かぬ 麻里布の浦をみせましものを(3635)
家人は帰り早来と伊波比島 斎ひ待つらむ旅行く我れを(3636)
草枕旅行く人を伊波比島 幾代経るまで斎ひ来にけむ(3637)
岩国市麻里布町は、JR岩国駅の西側一帯の地名である。
『防長地名淵鑑』(御園生翁輔、1931、以下『地名淵鑑』という)には、「小字麻里布といへるは、海岸より十町許距つる所にありて、約三百年前の開作地なりと云へり。其他麻里布川平、麻里布開は維新後の新開作地なり」と、江戸時代に干拓され、その時に古伝説にあったという「麻里布」を地名としたと書かれている。『山口県の地名』には、文化3年(1806)の開作で、翌4年に御開作成就を祝い麻里布明神を勧請したとある。
麻里布の地名は、ほかに防府市と熊毛郡田布施町にもあり、史書文献の記述は次のとおりである。
防府市の「まりふ」は、桑山の南にある鞠生町である。
天正15年(1587)7月10日、細川幽斎は防府天満宮を参詣しているが、この時詠んだ「まりふの浦」の歌が、紀行文『九州道の記』にある。
田島の湊よりまりふの浦を見るに網の多くかけほしてあれは
まなこちにあみはりわたしもてあそふ まりふの浦の風もたえつゝ
(『注進案』では、この歌を上関宰判麻郷村麻里布の項で引用しているが、これは誤りである。)しかし防府市鞠生町は、今この比定対象地から外してよいだろう。
熊毛郡田布施町の麻里府は、今、麻里府港あたりの、別府と麻郷にまたがる地域であろう。
旧熊毛湾口部空中写真(国土地理院 昭和56年撮影)『防長風土注進案』(近藤清石、1983、以下『注進案』という)熊毛郡上関宰判麻郷村の麻里布の項には、「此浦はむかし歌人の遊覧せし所にて、諸国にも稀なる絶景なりし事、萬葉集に詠る濱清きの歌にても知られ候。往古は今の平生、竪ヶ濱、田布施までも此浦より続きたる内海にて、與田、新庄、柳井へも汐ゆきめくり、與田の阿古山は神武帝の御宇湧出し島なりと閭里に言ひ伝へ候。惣而海岸松生ひつゝき、六ッの大島、三十四の小島ありて、かの奥州松島にも髣髴たりとそ、しかるに物換り星移りて山崩れ潮去て、滄海田園と變し、佳景もやゝ失行て、只龝の松原に麻里布の名のみ残り候。云々」とある。しかし御園生翁輔は、この記事を牽強付会の説と一蹴し、「町村制に別府・馬島より成る。村名麻郷の内に麻裏府あれば、旧麻合郷の縁にて其の佳名を取れる歟」としている。この町村制施行は、明治22年(1889)の時であるが、馬島+別府、何かしら麻里府の地名造語の由来が思われる。
なお、『注進案』同宰判の曽根村には、麻里府大権現の項があり「祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命。由来:麻里府大権現勧請年序つまびらかならず候へども、天文年中(1532〜54)までは百済部(平生町)と申す所に鎮座。云々」ともある。平生町曽根字百済部は、田布施町別府とは田布施川を挟んで対峙する位置にあるから、旧熊毛湾口部(現・田布施川河口部:平生町曽根付近)一帯を「麻里布の浦」と呼んでいたとも考えられる。
しかし岩国市と田布施町ともに、麻里布の地名が奈良時代まで遡れる確たる史料はなく、麻里布明神や麻里府大権現という神名も由来不詳であるから、後年に『万葉集』の歌に付会して創られたもののようである。そこで山口新聞の「四季風」にいう、「麻里布の浦」の田布施町説が成立するかを考察検証してみた。
まず、『万葉集』に出る「見れど飽かぬ」を、Webの「万葉集検索システム」(山口大学教育学部)を使って、検索してみると29首があり、その類似語を含めると57首となった。吉野川や宮滝など山川を歌いながら、天皇あるいは宮廷を讃美したもの、地名・植物讃美によせて恋情を詠んだものなどもあるが、最も多いのが土地讃美を詠んだものである。その初出は、巻1に「吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」との題詞のある次の長歌と反歌である。
やすみしし わご大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内と み心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百礒城の 大宮人は 舟並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも(36)
反歌
見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまたかへり見む(37)
『白川静著作集11、万葉集』(平凡社、2000)では、人麻呂の第一作は「この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも」という語句で結ばれ、またその反歌はそれを承けて「見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまた還り見む」と歌う。長歌の末尾は一篇の律動の集約されるところであり、反歌はその集約をゆるめて抒情化し、余韻を託するものであるとすれば吉野讃歌の主題は「見れど飽かぬ」ということばでその山川を讃頌することにあるといえよう。「見れど飽かぬ」はその状態が永遠に持続することをねがう呪語であり、その永遠性をたたえることによって、その歌は魂振り的に機能すると論評されている。
人麻呂は持統天皇の吉野行幸に随行し、草壁皇子や明日香皇女などの殯宮に挽歌を多く献じている。このことから持統・文武時代を通じ、宮廷に仕える歌人であったことは確かであるが、『万葉集』に名を残すのみである。『新撰姓氏録』に、柿本氏は大春日族に属する祭祀者和邇系の一族とあることから、折口信夫は、彼を「大和朝廷の遊部や吉言部を出自」とし「柿本とは垣ノ本(かきのもと)であり、それは宮廷の外周ないし宮廷領としての大和の垣(=境界)にあって、そこを守護した部民」で、その職掌は「地境において霊物の擾乱を防ぐことにあったらしい」と推論している。人麻呂歌集に「礒城島の大和の国は言霊の 助くる国ぞま幸くありこそ」(3254)がある。言霊(ことだま)とは「その言葉に宿っている不思議な霊威、古代にはその力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」(『広辞苑』)とあるように、言葉のもつ霊力をもって荒魂を鎮め、持続するよう、「言幸く ま幸くませ」と呪力を込めて、「言挙げした」(詠い挙げた)のであろう。 このように、人麻呂が創始したというこの呪語「見れど飽かぬ」は、以後、山川など自然讃美の定型語となって用いられるようになったが、それは単に「見ても見ても飽かぬことよ」(沢瀉久孝訳)と訳してすむ言葉ではないという。
これをうけて、この吉野讃歌を意訳すれば次のようになる。
(長歌)我が大君(=持統天皇)のお治めになる国はあまたあるなか、とりわけ山川の美しいと御心をお寄せになっている、ここ吉野の国の秋津野に離宮が建てられると、多くの宮人たちが、朝に夕にと舟を並べ、競うようにして、川を渡って訪れてくる。激しく流れる滝のそばに建つ吉野の宮よ、この川の水の絶えることがないように、この山の高くあるように、いつまでも変わることなく栄え続けていて欲しいものだ。
(反歌)吉野川の川床に生える水苔の絶えることがないように、この離宮も永く栄え続けることだろう、またやって来よう。田布施町から平生町、上関町にいたる一帯は、4世紀から7世紀にかけて古代熊毛王国の栄えたところである。
古柳井水道と旧熊毛湾(古墳時代の海岸線を現海抜の10m辺りとする)細線は現海岸線
田布施町郷土館作成の「熊毛王国古墳街道マップ」によると、この時代の海岸線は海抜10m辺りとされているから、田布施川河口部は宿井の城南小学校辺りまで後退し、JR山陽本線以南の海岸線は、田布施町側では県道164号線辺りまで、平生町側では県道165号線の後方までと大きく広がり、旧熊毛湾を形成していたとある。旧熊毛湾からは、熊毛半島(室津半島ともいう)の付け根部分に水路・古柳井水道が開け柳井津へと通じていた。このため旧熊毛湾は、奈良の大和朝廷と九州や朝鮮半島・中国とを結ぶ航路の主要な中継点となり、熊毛王国の繁栄をもたらしたのであろう。この旧熊毛湾を取巻くように、初代熊毛王の墓とされる国森古墳(田布施町)から茶臼山古墳(柳井市)、神花山古墳、白鳥古墳、阿多田古墳(以上平生町)、納蔵原古墳、稲荷山古墳、石走山古墳そして王国最後の王墓・後井古墳(以上田布施町)まで歴代の墳墓が築かれている。
「見れど飽かぬ」を、単なる土地讃美の歌としてではなく、地霊鎮魂や魂振りの定型呪詞とすれば、ここ熊毛王族の眠る旧熊毛湾、特に神花山古墳のある湾口部一帯の浦こそが「麻里布の浦」の比定地として最もふさわしい場所と思われる。『続紀』養老5年(721)夏4月丙申の条に、「周防国熊毛郡を分けて玖珂郡を置く」とあり、『注進案』熊毛郡上関宰判の麻郷の条には「玖珂の郡にて御座候處其後熊毛郡に属し候」と、田布施町麻郷を含む一帯(上関宰判)は、熊毛郡→玖珂郡→熊毛郡と時代変遷があったことが記されている。遣新羅使の詠んだ「麻里布の浦」もここ旧熊毛湾内にあり、当時は「周防国玖珂郡」に属していたとみれば、「麻里布の浦8首」に付された題詞も支障にはならなくなる。
この古柳井水道の閉塞時期は不詳であるが、山口県埋蔵文化財センターでは古墳後期(7世紀)頃と推定している。古水道の閉塞による航路変更(熊毛半島の南・上関町室津経由)が、熊毛王国衰退の主因とする観点からである。もしそれを平安末期頃まではあったとするならば、天平8年(736)、大伴の御津(大阪市住之江の難波津)を出発した阿倍朝臣継麻呂を大使とした遣新羅使一行も、600年、聖徳太子の時代から始まった遣隋使と、それに続く遣唐使やそれまでの遣新羅使と同様に、山陽沿岸の浦々を辿りながら瀬戸内海を西進し、安芸国長門の浦(広島県倉橋島)以西の周防国沿岸部は、大島の鳴門(大畠瀬戸)→柳井津→古柳井水道→麻里布の浦(旧熊毛湾)→熊毛の浦(光市室積か)→佐婆(防府市)の最短航路をとったものと推測できる。
松島校長の新説は、柳井市の古墳時代後期とされている水金古墳の調査結果から、古水道の海岸線を5m前後とし、閉塞時期は平安時代末頃におくものという。なお『平生町史』には、「7世紀頃の海面は標高3〜3.5mにあったと考えられている」とあり、また奈良時代後半には熊毛郡の郡家(郡衙)が、旧熊毛湾岸(同町史では平生湾とある)の平生町大野本郷に置かれ、瀬戸内水運の拠点となっていたともある。
応長元年(1311)、鎌倉幕府は竃戸関(上関町)に地頭を置き、半島先端部の室津を軍事、流通の拠点・海関としている。この上関は「平安時代から室町中期にかけてはもっぱら「竃戸」あるいは「竃戸関」とよばれた」(『山口県の歴史』小川国治、1998)というから、半島の南端・上関(竃戸関)経由の航路が確立したのは、早くても平安中期(11世紀)以降となり、それまでは周防東南部の主要航路として、古柳井水道は存続していたという傍証になるだろう。「竃戸関」地名の史料初出は、『吾妻鏡』にある文治2年(1188)9月5日付「賀茂別雷社文書」で、「上関」地名は、朝鮮王朝の外交官申叔舟が1471年に記した『海東諸国記』に載る。
ところで「麻里布の浦8首」のうちの2首の第五句に、「宿りせましを」(3630)、「宿りかせまし」(3632)とあるが、これらは「泊りたいのだが」「泊ることができないものか」と訳され、題詞の「麻里布の浦を行く時の歌」と併せ、単純に考えると「麻里布の浦」は素通りし、次の「熊毛の浦」で船泊りしたとも解釈される。しかし、「安芸の長門の浦」(倉橋島)から、熊毛半島の南端とされている「熊毛の浦」までの距離を考えると、一日の行程とするには長すぎるように思われる。そして「大島の鳴門を過ぎ再宿(2泊)の後、追って作る歌2首」がこの間に入っているのも疑問となる。 3630歌は「大きな櫂を取り付けた官船で(新羅国へ)行くのでなければ、この聖なる麻里布の浦に泊りたいものだ」、3632歌は「この大船から樫杭を投げ立てて船を繋ぎ止め、この清い浜辺のつづく麻里布の浦に泊ることはできないものか」と訳せるから、ともにここを素通りすることを惜しんだ歌である。 このように、「麻里布の浦」の沖をただ通り過ぎたとすれば、岩国市に麻里布を比定するのはさらに不合理となる。岩国市沖までを迂回すると、倉橋島から直接大畠瀬戸へ行くのに比べ、約2倍の距離を要することになり、そうまでしなければならないだけの必然性を見つけることができないからだ。
『万葉集全注 巻15』(吉井巌、有斐閣、1988)では、「鳴門の瀬戸」(大畠瀬戸)を昼間の下げ潮(6ノットを超える最大潮流時)を利用して、上関町室津に比定している「熊毛の浦」まで一気に漕ぎ下るために、6月12日夜は岩国市沖で碇泊し13日朝出航したとあるが、そうであれば大畠瀬戸の直近で潮待ち仮泊するのが常識的だし、それを大畠瀬戸から30km以上離れている岩国市沖に置くというのは、やはりどうみても不合理である。
遣新羅使の歌に付された題詞には、武庫の浦を出帆してから各浦々での宿泊は一様に船泊りとある。ほとんどの使人(随行員・水手)らは、(逃亡防止のためか)上陸することを許されず、毎夜、船中泊を強いられてきたと思われる。
神花山古墳の女王像そのような彼等が、この熊毛王族の墳墓の集まる場所である旧熊毛湾内で、潮待ち・風待ちのため停泊した後、湾口部の「麻里布の浦」を通り過ぎる時、若き女王の墓・神花山古墳のある浜辺を目前にし、「ここで船を停め、女王の眠るこの清らかな浜辺で仮宿をとることはできないものか」と詠んだものとすれば、「見れど飽かぬ」の呪詞とともに理解できる。そうであれば、この題詞は、編者・大伴家持が湾内での船泊りには言及せずに、「宿りせましを」などの語から「行く時」としたとも考えられる。冒頭の「四季風」にいう、狭く浅い古柳井水道から旧熊毛湾に至る海の難所を無事通過するよう祈った歌ではなかったのである。
湾内での「再宿」(2泊、あるいは1泊は柳井津か)後に、「大島の鳴門を過ぎて」の歌2首が詠まれ、「熊毛の浦」へと続いて行ったとすれば、全体の時系列も成立することになるだろう。
熊毛王国最後の王墓とされる後井古墳(7世紀、田布施町宿井)からは、多くの新羅系陶質土器や小鍛冶道具が出土していて、熊毛平野の周防灘沿岸部には古くから渡来系の職人集団がいたとも推論されているが、平生町にも、百済部やカランドウ(韓の峠?)の地名があり、渡来人も多く集住していたことがわかる。同町尾国コミュニティセンター前には、
沖辺より潮満ち来らし可良の浦に あさりする鶴鳴きて騒きぬ(3642)
の歌碑があるが、「可良」は「韓(カラ)」から派生したもので、尾国の西、佐合島と長島(上関町)に囲まれた海域を「可良の浦」とするのに異論はない。また、「筑紫道の可太の大島」(3634)も、「加太(カダ)」は「韓」の転訛とも考えられるから、当時、古柳井水道で分離され、本来は島であった熊毛半島に比定できることになる。屋代島(周防大島)に次ぐ大きさの熊毛半島が、今のように陸続きとなるのは、17世紀後半に行われた一連の柳井開作築立によるものである。「粟島」については比定地が見つからないことから、実在する島ではなく「逢はじ」の枕詞と解釈されているが、湾内にあったという「六ッの大島、三十四の小島」の一つ(粟粒のように小さな島)で、この開作築立で消滅したとも考えられるだろう。そして「麻里布の浦」からの出港にさいして、これからの航海の無事を斎ひ祭れと祈った「伊波比島」(上関町祝島)も航路の南方にある。このようにしてみると、これらが「麻里布の浦8首」に入っていることにも違和感はなくなる。以上のことから、「安芸国長門の浦」(倉橋島)から周防国に入った遣新羅使一行は、岩国まで北上迂回することなく「大島の鳴門」(大畠瀬戸)を過ぎ、柳井津から古柳井水道を経由して、旧熊毛湾内で再宿(2泊、あるいはそのうちの1泊は柳井津か)した後出港した。そして湾口部の麻里布の浦にさしかかった時、若き女王の眠る端麗な墳墓を目にした彼等は、「見れども飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを」などと土地讃めした「麻里布の浦8首」と「大島鳴門2首」を詠み、「熊毛の浦」(光市室積あたりか)で1泊して周防灘を西進した。そして「佐婆」(防府市)沖の周防灘で嵐に遭い、「沖つみ浦」(大分県姫島)で一夜を過ごし、翌日「豊前国下毛郡分間の浦」(中津市)に到着したとみるのが妥当なところであろう。
『万葉集』巻9に、「或は柿本朝臣人麻呂が作」と左注のある2首がある。
1710 我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を 刈りて収めむ倉無の浜
1711 百伝ふ八十の島廻を漕ぎ来れど 粟の小島は見れど飽かぬかも
である。
遣新羅使の一連の歌のなかにも、人麻呂の歌を下敷きにして詠んだ歌5首(左注に「柿本朝臣人麻呂が歌には……」とある3606〜3610)と、「柿本朝臣人麻呂が歌」とある七夕歌1首(3611)がある。
人麻呂の没年は不詳であるが、最後の挽歌(196〜198)を献じた明日香皇女の没年は文武4年(700)であるから、四半世紀を経たこの時代になっても人麻呂の歌が広く愛唱されていたことがわかる。人麻呂の歌に「一には」「ある本には」などの異伝歌が多くあるのは、伝承してゆく過程で少しずつ変形していったもので、それだけ後年の歌人達が人麻呂歌を愛唱し手本にした証拠ともなるという。
人麻呂には、他に瀬戸内海の船旅を詠ったものがある。狭岑島3首(220〜222)、羇旅歌8首(249〜256)、筑紫下向歌2首(303、304)である。人麻呂が何度も瀬戸内海を旅したとは思えないから、これらは筑紫下向往復の海路で作歌したものとしてもよいだろう。
1710歌の「倉無の浜」の比定地は未詳であるが、大分県中津市の闇無神社に歌碑が建ち、「倉無の浜」はここだという。そうだとすれば1711歌の「粟の小島」も、「見れど飽かぬ」をキーワードにして、「麻里布の浦」すなわち旧熊毛湾内の、今は消えてしまった小島群の中に比定することができる。人麻呂は筑紫下向時に旧熊毛湾で、神花山古墳を眺めて「粟の小島は見れど飽かぬかも」と詠み、遣新羅使達もこの歌をベースにして「見れど飽かぬ麻里布の浦」と詠んだのであろう。
麻里布の浦考−2(「月読の光を清み」から遣新羅使船航路行程を解く)は次ページへ。
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