好太王碑(こうたいおうひ)第19代広開土王(好太王)の業績を称えた顕彰碑

100年前と現在の好太王碑
100年前と現在の好太王碑

衰微した高句麗を中興し、領土を大きく拡張した偉大な大王

国や日本で好太王とも永楽大王とも呼ばれている広開土王(374-412)は、第18代の故国壌王の息子である。父の死とともに辛卯年(391)に18歳で王位につくと、彼の治世の22年(391-412)は、鮮卑族の前燕の攻撃を受けて衰微した高句麗を中興し、領土の拡張に費やされた。彼の死の2年後の414年の旧暦9月29日、現在の集安市街を見下ろす丘に、広開土王の諡号が贈られた偉大な大王の墓が築かれ、その墓域に王の業績を顕彰する石碑が築かれた。それが好太王碑の名で知られる巨大なモニュメントである。

1927年に修建された好太王碑亭
1927年に修建された
好太王碑亭
さ約6.3m、幅約1.5mの角柱状の碑の四面に、総計1802文字が純粋な漢文で刻まれている。風化によって判読不能な箇所も存在するが、碑文は三段から構成されている。一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承と建碑の由来、二段目に広開土王の業績、三段目に広開土王の墓を守る守墓人烟戸の規定が記されている。当時の東アジアの歴史を語る第一級の金石文であり、その貴重さは計り知れない。

太王碑は、将軍塚からおよそ1.6キロ南西に下った緩やかな丘に建てられている。この碑が近くの農民によって発見されたのは1880年(明治13年)のことだそうだ。今から130年ほど前である。土の中に横倒しに埋まっていたのかと思ったが、そうではなく、現在のように立っていたそうだ。

909年に撮られた写真が近くの記念館に展示されている。近くに民家があり、当時は野ざらしの状態にされていたことがよく分かる。風雨によって風化が進むのを避けるため、1927年に覆屋(おおいや)が建てられた。最近立て直された覆屋は内部に入ることができず、見学者は外からガラス越しに仰ぎ見るだけだった。近頃は写真撮影禁止を条件に、覆屋の中に入って間近に碑の面を実見できるようになった。

好太王碑へのアクセス道路
好太王碑へのアクセス道路
スを下りると、緩やかな丘の上に築かれた歩道が好太王碑に向かって続いている。道の両側に植えられた街路樹がなんとも奇妙な形をしている。まるで柳のように枝が垂れているが、木の葉はクスのようでもある。女性のガイドに木の名前を聞いたが、彼女も知らないようだった。

者は一度、好太王碑を見たことがある。と言っても現物ではない。実物大のレプリカだ。場所は韓国の仁川国際空港近くの松巖美術館で、2003年9月の韓国西海岸の島々を巡る史跡見学旅行の帰りだった。そのエントランスホールに黒ずんだ岩肌の巨石がそびえていた。その碑面から撮られた拓本も、その翌年に東京国立博物館で見たことがある。中国の「高句麗の古代都市と王族・貴族の古墳群」が世界遺産に登録されたのを記念して開かれた特別展で、「好太王碑」の拓本が数種類展示されていた。


塀に囲われた好太王碑
塀に囲われた好太王碑

面をガラスで囲まれた覆屋の中は明るい。蘇教授は王の業績が記された碑面の前で解説された。この碑が我々日本人にとって重要なのは、4世紀末から5世紀初めにかけて当時の倭人の朝鮮半島における活動が示されているためだ。碑文の中で注目される箇所は、次の一文である。
  百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民

来、日本の学者はこの一文を以下のように読んできた
”新羅・百残は(高句麗の)属民であり朝貢していた。しかるに倭が辛卯年(391年)に[海]を渡って来て百残・■■(加羅(任那)と読む説もある)・新羅を破り、臣民となしてしまった”
だが、韓国の学者は、当時の倭に百残・新羅を支配下に置けるほどの国力は無かったという認識や、また高句麗の碑文に倭の戦績を書く理由が無いという認識から、次のように読むべきだと反論している。
”新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に来たので、(高句麗が)海を渡り(倭と結託した)百残を破り、新羅を救い、臣民とした”

好太王碑文の一部
好太王碑文の一部
国の学者の読みは、歴史的事実を客観的に認識するというより、碑文の解釈にナショナリズムを持ち込んでいるようだ。当時の倭が百済や新羅を臣民としたというのは、顕彰碑特有の誇張表現だろうが、倭について次のように記述している箇所もある。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出むいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た。
400年、大王は新羅の願いに応じて5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅の王都を占領していた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

観的にみて、こうした記述は、倭が百済を助けて高句麗の南進を阻止しようとしたり、伽揶諸国を助けて新羅に侵入した事実があったことを物語るものであろう。さらに『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」とあり、人質となった王子を連れ戻すために朴提上が活躍する逸話が記載されている。当時の倭が、朝鮮半島南部の百済や新羅、伽揶諸国に対して国際関係上優位にあったことは認めてよい。

972年、李進煕(りじんひ)氏はその著作『広開土王陵碑の研究』の中で好太王碑に関する驚くべき研究を発表された。陸軍参謀本部の密偵・酒匂景信(さこうかげのぶ)は1883年に碑文の一部を削り取るかまたは不明確な箇所に石灰を塗布し改竄したのち、双鉤加墨本(そうこうかぼくぼん)を作り持ちかえり、さらに酒匂の偽造を隠蔽・補強するためさらに1889年から1900年ごろ参謀本部は碑の全面に石灰を塗布したというのである。さらには、そうした改ざんは、我が国の朝鮮半島へ進出を正当化する意図でなされたというのだ。

氏の研究論文は当時センセーショナルな波紋を呼んだ。しかし、2005年6月になって、酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一である旨の新聞報道がなされた。さらに2006年4月には中国社会科学院の徐建新氏により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。これにより、李進煕氏が主張した旧日本陸軍による改竄・捏造説が成立しないことが確定したことになる。


えてみれば、広開土王は前途多難な時期に高句麗王として登極したものである。高句麗が発展するきっかけとなったのは、第15代美川王(在位300-330)の時代だとされている。同王の14年(313年)に楽浪郡を侵し、男女2千余人を捕虜とし、翌5年には帯方郡に侵入して、旧楽浪・帯方の両郡を奪取した。これによって、高句麗は初めて朝鮮半島の西海岸地帯を領有し、豊富な資源を獲得するとともに南方進出の足がかりを得た。同時に漢民族が長い間扶植していた漢文化の根をそのまま受け継ぐことができた。

広開土王の墓とされる太王陵
広開土王の墓とされる太王陵。広開土王碑の西南約360mに位置していている

が、大陸では西晋が衰微した後、五胡の中の鮮卑族の慕容氏が遼西に侵入して前燕を建国すると、かっての玄菟郡と遼東郡の地を高句麗と争うようになった。故国原王の12年(342年)には、前燕は大挙して丸都城を攻めている。その結果、故国原王は単騎で逃げ延びて山中に身を隠す有様だった。前燕軍は美川王の墓を暴き、歴代の財宝を略奪し、宮室の焼き払い、王母を拉致し、男女五万人を捕虜として連れ帰ったという。このため、敵の撤去後、高句麗は一時的に首都を東黄城に遷さざるをえなかった。

方、南に新しく興った百済は破竹の勢いで勢力を増してきていた。両国の本格的な衝突は、故国原王が369年に百済の北界に侵入したことに端を発する。そこで、百済の近肖古王は、371年に太子の近仇首とともに精鋭3万を率いて高句麗の南進の牙城である平壌城を攻めた。このとき、故国原王は不幸にも百済軍の流れ矢にあたって死んでしまった。この故国原王の戦死は、高句麗にとって忘れがたい怨恨事となり、それ以後百済との衝突はますますエスカレートしていく。

開土王が18歳で即位したのは、こうした時期である。王は在位わずか22年、39歳という春秋に富む身で亡くなったが、その間南征北伐、東討西略と文字通り国土に拡充に努めた。王が実際に経略した地域は、南は礼成江流域、西は遼河、北は松花江、東は日本海に及ぶ。王がもう少し長生きしたならば、あるいは朝鮮半島は完全に高句麗に支配され、後の新羅や百済、伽揶諸国は消滅していたかもしれない。おそらく、広開土王は死の床にあって、朝鮮半島の南端まで完全制覇ができないまま黄泉の国に旅たつ己の運命を呪ったことだろう。倭国にとっては幸いだった。対馬海峡を挟んで、強大は高句麗軍と対峙することがなくて済んだ。



次へ 前へ