2014年11月10日に、研究者、ジャーナリスト、元「慰安婦」の方々の支援に関わってきた人たちらが集まり、熊谷奈緒子『慰安婦問題』(ちくま新書 2014)の読書会を行った。この本は2014年6月に出版された。新書なので手にとりやすく、 また、朝日新聞の「検証」記事が8月に出たため、結果として絶妙のタイミングで出版されたこともあり、書店では平積みされており、影響力がありそうなことから第一回読書会のテーマとして本書を選択した。
以下、読書会での議論の内容を紹介する。
「客観的」で「特定の立場によらない」議論とは?
著者の熊谷は、「慰安婦問題を、主観的かつ表層的、一面的に捉えることなく、客観的かつ多面的に理解することの必要性を訴えたい」(22)と述べ、自らの立場は客観的であると主張している。また、この本の帯には「特定の立場によらない、真の和解を目指してー冷静な議論のためにいま何が必要か?」とも書かれている。読書会参加者からも、この問題についてよく知らない人が読んだら、「中立的でよくできている本」という印象を持ってしまうかもしれないという発言が相次いだ。実際にそういう感想をまわりの人たちから聞いた参加者も複数いた。だが、著者は本当に「客観的かつ多面的」に、「特定の立場によらない」「冷静な議論」を行っているのだろうか?
まず、 書籍の全体的な構成のバランスが悪い。日本軍「慰安婦」制度については、第一章で簡単に扱われているのに対し、他国の制度について細かく述べる第二章は長い。さらに、アジア女性基金に関する章が非常に長いという構成から、本書が何に力点をおいているかがよくわかる。
さらに、言葉の使い方からも筆者の立場性が見えてくる。例えば、「慰安婦」「自虐的」「反日的」などの言葉を、鍵括弧をつけずにそのまま使っている。そして、著者は「性奴隷」の概念を全面的に否定・批判している。この著者によれば「性奴隷」概念は、「非常に狭い概念しか扱っておらず、こうした戦場の性的暴力の構造上の問題を捉えることができない」(33)とされているが、それはなぜかについての説得的な解説もない。
また、和解に関しては、「被害者側の許しと努力も必要となる」という朴裕河らと共通する路線を打ち出し、「昨今の韓国や在米韓国人の動向は、信頼関係の構築や慰安婦問題の最終的な解決をより難しくしている」(13)という。日本政府は「法の支配を貫く」(20)とされ、冷静な日本と、そうではない韓国、という図式が打ち出されている。
第二章では、海外の事例を分析しているが、そこからは「日本だけが特殊ではなかった」という著者の主張が見える。そして、事実認定のための要求水準が日本軍「慰安所」制度と、他国軍の対応する制度とで全然違っている。例えばドイツについては「すべて警察の管理下におき」といった強い表現を使い、ドイツは組織的、日本は組織的ではないという印象をつくっている。
そもそも「慰安婦」問題に関して、中立的な立場をとると主張することはいったい何を意味しているのか?現状、および力が強い側の立場を肯定するだけではないかというより根本的な問題もあるが、この課題については今後の読書会でも議論をすすめていく予定である。
そもそも「慰安婦」問題に関して、中立的な立場をとると主張することはいったい何を意味しているのか?現状、および力が強い側の立場を肯定するだけではないかというより根本的な問題もあるが、この課題については今後の読書会でも議論をすすめていく予定である。
文献引用の問題や断定的表現
本書は全体的に、いろいろな人たちによる言説を寄せ集めた構成になっており、一次資料に基づく独自の文献調査や聞き取り調査に基づいたものではない。だれの意見をどのようにかいつまんで主張の基底ラインをつくっているのかについて議論となった。
例えば、第二章のドイツ軍の軍管理売春への姿勢に関する箇所(60—62)では、ザイトラーを秦郁彦が引用したものをずっと孫引きしている。ザイトラーの著作は、70年代に書かれたものであり、その後研究は相当進んでいるはずだと思われるが、そうした新しい研究は参照されずに、秦に全面的に依拠している。
著者はアメリカの大学院出身にもかかわらず、引用された英語文献は少なく、すでに日本語訳されている文献や、1960年代などの古い文献などがほとんどだ。英語で出版されている、最新の「慰安婦」問題に関する書籍や論文をおさえているとは言いがたい。
さらには、事実関係で断定できないと思われることに関して、断定している箇所が目立つ。例えば、日本人慰安婦の沈黙が示すものとして、「日本人慰安婦が名乗り出ていないもう一つの理由として考えられるのが、植民地支配国そして軍事的侵略国の女性としての負い目である。」(43)と言うが、名乗り出ていないのであれば誰も証言を聞いていないのだろうに、断定している。「RAA下の売春婦は四〇〇〇万の大和撫子の純潔を守るための防波堤となり、占領下の秩序維持に貢献する存在とされた」(44)の箇所も、誰により「された」のかが書かれておらず、著者自身の認識のように見え、問題だろう。
さらに、初歩的な間違いも指摘された。例えば「日本軍や官憲が「慰安婦」を強制連行したとする公式文書はない」(36)と著者は書くが、歴史家なら「内地や植民地についてはそのような公式文書は見つかってない」と書くだろう。さらに、サンフランシスコ講和条約に関して、「旧連合国のみとの講和」とする箇所は 初歩的な間違いである。こうしたミスや穴が随所に見られる本であり、研究者として研究し尽くして書いたという印象ではない。編集や校正にも疑問符がつく。
フェミニズムの視点なのか?
本書は、フェミニズム論者を引用しつつ、ジェンダー視点を取り入れた「慰安婦」問題の理解を目指すものだと打ち出している。だが本当にそうなのか?
著者のいう「フェミニズム」の意味が不明な箇所は多い。例えば「一九七〇年代のフェミニズムを経て、今日の日本における売春の意味はかなりリベラルになっている……肉体の解放を経た後での、選択としての現代の売春は、戦前戦中の貧困ゆえの売春とはやはり違う」(38)という箇所では、「一九七〇年代のフェミニズム」も「リベラル」の意味も不明だ。「20世紀のフェミニズムについては、いわゆる「婦人問題を扱ったに過ぎず…」(46)も、「20世紀のフェミニズム」が誰のどういう主張なのかわからない。さらに、著者は「韓国やフィリピンでは、このフェミニスト的視点は広まらず、ナショナリズム的視点に覆われた」(224)と主張し、両国ではフェミニズムの貢献はないものかのような扱いである。
また、「慰安婦にどこまで自由意思があったのか」(30)という問いを著者は立てており、「自由意思」という言葉を本書中で多数使っているのが非常に気になるという参加者は多かった。「自由意思」があったから、強制性はなかった、というイメージ操作になってはいないか、という指摘もあった。だが、「各国の慰安所で働いていた女性にどこまで自由意思があったのかについては、さらなる研究が必要となる」(80)と、肝心な被害者自身の声が必要なところについては、「さらなる研究」で誤摩化されてしまっている。
熊谷氏の書き方が、一方ではこういう意見もあるが、こういう意見も、というスタイルをとっているところが多く、微妙なところについては「引き続き観察・研究が必要」といって終える。この人自身のフェミニストとしての立場が見えづらく、どのような立場の人が読んでも都合よく解釈できてしまうように見える。
アジア女性基金の理解
第四章を中心とした「女性のためのアジア平和国民基金(略称:アジア女性基金)」についての論考が 最も問題含みであるとして、議論となった。 ここで著者は、ほぼ大沼保昭に依拠しており、アジア女性基金を高く評価し、支持する側にたった論考を展開している。
著者の議論の前提は、日本政府は粛々と法に乗っ取ってきたのだが、法と道義のバランスを目指したアジア女性基金は失敗してしまった。その失敗は、元「慰安婦」支援団体、とくに韓国の支援団体のせいであるというものである。大沼保昭の「新しい公」という概念を参照しつつ、アジア女性基金は頑張ったにもかかわらず理解を得られなかったというストーリーを書き、基金が意義のある試みであったと印象づけている。そして、アジア女性基金の意義を継いでそれにかわるものを模索していくべきだと主張する。
この著者の一連の議論では、「慰安婦」問題は国家間の政治、そして論争として見られており、被害者はまったく置き去りにされている。だが、そうした本書が「中立」なものとして受け入れられがちな現状があり、それこそが問題だという議論が行われた。
著者の言う「当事者主権」はすなわち「支援者にも誰にも臆せずに主張できるということ」(158)のようであり、いかにも支援者に臆したから主張できなかったという印象を与えている。だが、著者自身が元「慰安婦」女性に聞き取りを行った形跡はみられず、彼女たちのすでにある証言さえも本書でほとんど参照していない。
こうした記述について、とくに元「慰安婦」支援に関わってきた人たちから問題が指摘された。支援運動側に被害者らが従ったと思われているようだが、現実は違う。韓国だけではなくて、台湾やフィリピン、オランダなどでも、被害者たちの間での論争もあったが、それが伝えられていない。著者に差別的視点があるから、元「慰安婦」のおばあさんたちはわからないに違いない、と見下してしまっているのではないか。当事者たちの声や、主体性がまったくないことのように描かれているのは大きな問題であろう。
右派の動きの過小評価
本書においては一貫して、日本の右派の動きを過小評価している点が多く見受けられると指摘があった。例えば、「日本の名誉を守ることを目的とする保守の議論は、慰安婦問題においては「国家の意思による強制連行の有無」に自然と集中した」(138)とあるが、これを「自然」とすることは、著者の立場性の表れだろう。
本書の基金の元「慰安婦」への手紙の方針と内容について議論している箇所で無視されているのは、例えば手紙の英訳で "My personal feeling" と「パーソナル」という単語をいれたことの背景に日本の右派のどのような巻き返しがあったかである。右派は徹底して国家補償を拒絶することにこだわっていたのだが、そういった右派の動きを落として問題の矮小化をはかっている。
終章でも日本の修正主義の動きについて、「河野談話批判の論調」(211)という表現ですませ矮小化するなど、著者の歴史修正主義や右派の動きに関する言及、分析、批判はきわめて弱い。
「真の和解」とは?
「真の和解に向けて」という終章の扉には、「女たちの戦争と平和資料館(wam)の、そして、その前章の第五章の扉には、女性国際戦犯法廷の写真が使われているが、どちらも共同通信社提供の写真である。著者自らの撮影ではないことからも、女性国際戦犯法廷も、wamも、著者自らが取材をしたわけではないことが想定される。(実際、wamは熊谷氏からの取材を受けたことはないという。)だが、こうした写真を扉に使うことで、著者は女性国際戦犯法廷やwamの立場に立っていると読者に思わせる効果を発揮してしまっているかもしれない。
だが、終章においても、著者は「日韓双方に問題があると考えている」(211)としつつ、 韓国に多くのスペースを割き、批判している。韓国は歴史的に大国に翻弄されてきたから、大国を責め続けることでアイデンティティ形成をはかっている(211)と主張すると同時に、「韓国政府や韓国社会のいわば反日運動とも受け取れる最近の攻勢の背景」は「日韓の国力のバランスの変化がもたらした韓国の自信」(217)であると異なる説明がなされ、分析に一貫性がない。
さらに、韓国側の活動の問題として、2007年の米国下院での決議や、米国での「慰安婦」記念碑や少女像建設の動きを、「反日」の動きとして批判的にとりあげている。これに対して「日本はもとよりアメリカの日系団体からも抗議があった」とし、在米日本人が中心の運動をあたかも「日系アメリカ人」の運動と誤解を招く表現で記述。ここでの著者の主張は、まさに右派の論調そのものである。
「あとがき」において、著者は「私は常に慰安婦問題を、観念論に終わらせず、元慰安婦のエピソードのみにも終わらせないことを自らの課題とし続けてきた」(228)と述べている。しかし、著者がいつ頃から、どのように「慰安婦」問題に取り組んできたのか、本書に先行する「慰安婦」問題についての業績の有無も、本書では明らかにはされてない。そして、本書は、「元慰安婦のエピソードのみに終わらせない」と言いつつ、元「慰安婦」たちの証言はほぼ参照していない。著者のオーラルヒストリーや女性の人権の重要視などの主張と、この本の実態には大きなズレがある。何より、被害回復を望む当事者の思いを全く考慮に入れていないことが最大の問題だろう。
謝辞で名前が挙げられているのが、朝日新聞の第三者委員会のメンバーでもあった、国際大学長の北岡伸一氏である。第三者委員会の報告書などもあわせて、考察する必要を確認した。
(まとめ:山口智美)