週刊通販生活トップページ > 読み物:「決死救命、団結!」――希望の牧場・吉沢正巳の訴え(前編)-3
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首相官邸に宣伝カーで乗り付けて自分の思いのたけを叫ぶ。その吉沢の願いが実現したのは2012年6月のことだ。
この頃、当時の民主党・野田政権は関西電力大飯原子力発電所の再稼働方針を打ち出していた。そして再稼働に反対する人々が毎週金曜日に首相官邸前に集まり、抗議活動をしていた。
警官隊が設置したフェンスの隙間から、今にも車道にあふれだしそうな人。それを抑えようとする警官隊。「再稼働反対」のリズムを刻むドラムの音。人々が高く掲げるプラカード……。
同年5月末に、牧場のパソコンからその様子をインターネット中継で見ていた吉沢は、取材のために訪れていた私にこう言った。
「原発事故が収束していないのに再稼働なんてありえない。よし、おれも行く」
2014年6月30日。首相官邸前での抗議行動の様子。
2012年6月22日。吉沢は浪江町から宣伝カーを運転し、首相官邸前に現れた。すでに首相官邸前周辺の歩道は集会参加者と警察官で埋め尽くされていた。私が取材のために車に乗り込むと、吉沢はおもむろにマイクを握ってスピーカーのスイッチを入れた。
「福島県双葉郡浪江町、希望の牧場です! われわれ双葉郡の避難民は、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、今も仮設住宅での避難生活を余儀なくされております! それなのに今、国は原発を再稼働すると言っています。こんなことがあっていいんでしょうか!」
スピーカーから大きな音が発せられると、その音に驚いたスーツ姿の警察官が3人、宣伝カーめがけて一目散に飛んできた。彼らは警察手帳を示しながら、窓ガラスをやさしくコンコンと叩いて吉沢に窓を開けるようにうながした。吉沢はその指示におとなしく従った。
「こんにちは。警視庁麹町署のものです。福島からいらしたんですか? 申し訳ないけれども、ここでは街宣活動はできないんですよ。それとも街宣許可はありますか?」
「できないの? みんな大きな音を出しているじゃない?」
「歩道の抗議行動はいいけれど、街宣車は許可が必要なんです」
「おれだって首相官邸に自分の思いを伝えたいんだ」
「お気持ちはよくわかります。避難生活でご苦労されていることもわかります。だけどここはダメです。免許証と車検証を見せてもらっていいですか?」
吉沢は警察官に免許証と車検証、そして街宣許可証を見せた。それを見た警察官は、やさしい口調で吉沢に言った。
「この街宣許可証は福島のじゃないですか。これじゃあここでは街宣活動はできませんよ」
「わかりました」
「福島のみなさん、本当に大変だと思いますけど。ここはダメなんです。お願いします。あと、ここは車も停めちゃダメですからね。すぐ動かして下さい」
吉沢は再び「わかりました」と言って車の窓を閉めた。
運転しながら演説できるよう、マイクは自作のスタンドで固定されている。
宣伝カーはそれから30分ほど首相官邸と国会周辺をゆっくり周回しただろうか。その間、宣伝カーの屋根に掲げられた看板を見て、沿道から吉沢の車に駆け寄って声をかける人たちが何人もいた。
「吉沢さん、がんばって!」
「希望の牧場の牛たち、応援してますよ!」
インターネットで希望の牧場の活動を知り、支援する人たちの輪は東京にも広がっていた。
そうした声を受けながら、宣伝カーは何度目かの首相官邸前にさしかかった。時間が経つにつれ沿道の人が増え、抗議の声も大きさを増してきた。そのことに気づいた吉沢はここで再びマイクを握った。
「地震で壊れる原発! 津波で爆発する原発はもういりません!」
宣伝カーが官邸前を通りかかるたび、その動きを注視していたさきほどの私服警察官3人がふたたび吉沢の宣伝カーを目指して走ってきた。今度はさきほどと明らかに様子が違う。3人は鬼のような形相で吉沢が乗る車の窓ガラスやボディを「ドンドンドンドン!」と激しく叩いた。
「おい! おい! ちょっと! ダメだよ!」
吉沢は窓を開けずに言葉を続けた。
「東京の電気のために! 原発事故のせいで! ぼくらの町はチェルノブイリになってしまった! この大損害の償いは、残りの人生をかけながら、東京電力に対し、国に対し、求めていきたいと思います! 原発なくてもやっていける日本の明日を! エネルギーを! みんなで考えよう!」
そこまで言い切ると吉沢はようやく窓を開けた。警察官は顔を真っ赤にして厳しい口調で怒鳴りつける。
「あんた! さっきダメだって言っただろう! ちゃんとルール守れよ!」
その言葉を聞いた吉沢は、警察官を真正面から睨み返して声を荒らげた。
「ルールだって!? それじゃあ国はどうなんだ! あれだけ『安全だ、安全だ』って言っていた原発を爆発させておいて、なにがルールだ! おれたちは原発事故の避難民だ! 流浪の民だ! もう浪江町に帰る意味なんてないんだよ! その気持ちがあんたにわかるのか!」
吉沢の勢いに圧倒され、3人の警察官は絶句した。しかし、そのうちの一人がようやく吉沢の目を見てこう怒鳴った。
「おれだって、あんたを逮捕なんかしたくないんだよ!」
3人の警察官と吉沢の間に張り詰めた空気が流れた。ひと呼吸おいて吉沢が言った。
「わかった。もう行くよ……」
2013年9月19日。安倍晋三内閣総理大臣が東京電力福島第一原子力発電所を視察すると聞き、一人で原発前へ訴えに向かった吉沢。警察官からの職務質問を受けた後、安倍総理を乗せた車がスピードを緩めることなく前を通り過ぎて行った。
吉沢は宣伝カーを官邸前から移動させると車を降り、歩道に設けられた演説ブースまで歩いて行った。そしてそこで自分の思いの丈を心の底から叫んだ。吉沢のまわりには、希望の牧場ののぼり旗を持って立つ東京在住の支援者たちが集まっていた。
こうした吉沢の行動力とエネルギーは、世間一般が描く「被災者」のイメージとはかけ離れたものかもしれない。しかし、その行動力がプラスの結果を生み出すことも少なくない。
吉沢の鬼気迫る東京電力本店での行動が功を奏したのか、エム牧場の牛に対する東京電力の賠償は思いのほか早く決着した。東京電力は被曝した約330頭の牛に対する損害賠償を、牛の所有者であるエム牧場にすんなりと支払ったのだ。
牛舎で餌を待つ牛たち。競争に負けて痩せていく牛もいる。
「だけど経済活動としてのエム牧場浪江農場は、この時に終わったんだ……」
牧場のスポークスマンとして東京に乗り込んだ吉沢の行動は結果として実を結んだ。それでも吉沢は少し寂しげに語った。
それも無理はない。牧場には約330頭の生きた牛たちが残った。しかし、雇われ牧場長である吉沢個人が受けった賠償は、浪江町民に対するものと同額の月額10万円だ。経済価値がゼロになった牛たちを生かし続けるための経費が東京電力から支払われるわけではなかった。
しだいに吉沢が原発事故後も牛の世話を続けていることが知られるようになると、避難を余儀なくされた農家から生き残った牛の世話を頼まれることもあった。飼い主が避難する際、「自力で生きられるように」との願いを込めて離された牛たちが餌を求めて牧場に迷いこんでくることもあった。そんな時、吉沢はそうした牛たちにも限られた餌を工面し、自分の牧場の牛たちと同じように生かし続けてきた。吉沢の負担は増える一方だった。
「だって、あいつら生きてるんだもんよ。生きたいと思ってやってきた牛を見殺しにできるかい?」
1頭や2頭ならまだわかる。しかし、吉沢は2012年6月、双葉郡楢葉町の農家で飼育されていた約60頭の牛も救っている。
野菜くずも牛たちの餌となる。特別に弱っている牛は別に囲って保護することもある。
この楢葉町の農家は原発事故後も動物愛護団体や個人ボランティアの支援を受けながら牛の飼育を続けていた。しかし、2012年5月末、75歳という高齢の飼い主が、誰もいない牧場で倒れてしまったのだ。
この時はたまたまやってきた農家仲間がすぐに救急車を呼んだため、幸いにも飼い主は一命を取り留めた。しかし、その後は入院を余儀なくされ、医師や家族からもこれ以上の牛の世話を止められてしまった。
そしてこの農家の支援者たちは牛の飼育の素人だった。とてもではないが体重600キロを超える大型哺乳類である60頭の牛の世話などできない。そう考えた飼い主はやむなく殺処分に同意することを決めたのだった。
「なんとか助けてください」
農家の支援者から相談の連絡を受けた吉沢は、実は一度はその申し出を断っている。
楢葉町から避難している別の知り合いからその話を聞いた私は吉沢に電話でたずねた。
「吉沢さん、楢葉の牛はどうするんですか?」
「うちではもう無理だ。そりゃあ、5頭や6頭ならなんとかなるかもしれない。だけどうちには今も300頭以上いて、牧場のキャパシティはいっぱいなんだ。確保できる餌の量も限られている。かわいそうだけどしかたがないんだ」
この時、飼い主が殺処分の同意書を楢葉町役場に提出すると決めていた6月20日まで残り1週間を切っていた。
早朝に与えた干し草はあっという間に牛たちの胃袋に収まっていく。一日に必要な餌の量は5トン。
それから3日後。私は再び吉沢に電話をかけた。60頭の牛の行く末がどうなるか、気になったからだ。
吉沢はすぐに電話に出ると、こちらが話す前に話しはじめた。
「避難中の飼い主に会って話してきたよ」
その飼い主は75歳という高齢にもかかわらず、原発事故から1年以上、毎日2時間かけて避難先のいわき市から楢葉町の牛舎まで通っていた。その上、牛の餌は栃木県の那須まで自分で車を運転して取りに行っていたという。そんな中で国の殺処分方針に抗い、60頭もの牛を生かし続けてきたのだ。吉沢は同じ畜産家として思うところがあったのだろう。インターネット上では、千件もの殺処分反対のコメントが集中していた。
「うちは今でも餌がなくてパンク状態だけど、やっぱり見捨てることはできない。引き受けることにしたよ。60頭の牛が殺処分されれば、警戒区域で牛を生かし続けている他の農家の心も折れるだろう。牛の命が減って喜ぶのは国だけだ。この60頭の牛たちの命を守ること。それが希望なんじゃないか」
原発事故から現在まで3年10ヵ月。吉沢は牛たちとともに浪江町で生きてきた。これから先、何年続けられるかはわからないが、牛たちが寿命をまっとうするまでは世話を続けようと考えている。
60頭の牛を引き取った後に牧場を訪ねた際、吉沢はこうも言った。
「満足に餌とか管理がやれなくて、うちの牧場でもこれまでに200頭近い牛が死んだよ。牧場の牛舎の裏にはその牛たちの墓場がある。『希望の牧場』っていう名前だけど、そこだけは絶望の風景なんだ。
でも、死んでいった牛たちと同じくらいの数の牛をよそから預かったり、新たに子牛が生まれたりしている(※現在は繁殖を管理するために希望の牧場の雄牛は去勢されている)。もし、今ここで牛を置いて逃げ出せば、もうおれは一生ベコ屋に戻ることはできないだろう。そんな人生は考えられない。おれは牛たちと運命をともにするよ」
牧場ではいまも新しい命が生まれている。
少しの沈黙の後、吉沢は深く息を吸って、それまでよりも大きな声で話しながら私の顔を見た。
「でも、経済価値がない牛たちを生かすことに、はたして意味はあるんだろうか?」
そして吉沢はこちらの答えを待たずに言った。
「最初はおれも『おそらく意味はないだろう』と思っていたんだ。それでも毎日、答えの出ない自問自答を繰り返しながらここまで牛を生かし続けてきた。ここでやめるわけにはいかない。これからも続けるよ」