資料8 正本堂の意義について・・・「新・人間革命」から抜粋

この池田会長の記述は、平成16年11月から12月にかけて執筆されたものです。正本堂建立当時、つまり、浅井らが正本堂を賛嘆しご供養集めに奔走した頃から現在まで、学会の見解はどこも変わっていません。しかし、浅井によると「学会は変えてしまった」などと散々言っている。変わってはいません。つまり、変わったのは浅井なのです。

 創価学会の池田大作名誉会長執筆による、小説「新・人間革命」の“羽ばたき”という章に、正本堂の意義や、ご供養そして建設されていく経緯が克明にかかれています。

尚、文中登場者は偽名でかかれていて、「山本伸一」は作者の池田大作名誉会長です。本文はすべて真実が記されています。

 私も昭和39年には創価学会員であったし、このご供養に参加した一人です。

 当時発表されていた意義やご供養の心構えなど、まったくこの記述そのままでした。

 そして、忘れてはならないのは、この正本堂の建設費を信徒のご供養によってまかなわれることなのだが、そのご供養、浅井昭栄はじめ父親の甚兵衛そして、当時妙信講といっていたときの現顕正会のメンバーもしっかりと参加している。

 このご供養に参加した時の模様を、浅井は自らの機関誌に載せている。この項の最後に載せてありますので、あわせて参考にしてください。


  新・人間革命から  「羽ばたき」の項 

 最初に記念撮影を行ったのは、被災したメンバーであった。

 そのなかには、あの渡瀬健也の顔もあった。

 山本伸一は、会場に姿を現すと、撮影台に並んだ同志に語りかけた。

「皆さん、もう災害の方は大丈夫ですか」

「はい!」

「お元気な皆さんに、お会いできてよかった。大変でしたね。心からお見舞い申し上げます。

 皆さんは、大きな苦難に遭いながら、広宣流布の使命を胸に、負けるものか!″と、決然と立ち上がられた。

 そして、自分も大変ななか、被災したあの人を励まそう、この人を救おうと、懸命に奔走されてきた。それこそが、仏の振る舞いであり、地涌の菩薩の姿です。

 そこにこそ、自他共の幸福と繁栄の根本要因がある。その尊い皆さんが仏法の法理に照らして、幸せにならないわけがない。また、皆さんがいる限り、地域も栄えていくことは間違いない。

 いな、災害で苦労した地域だからこそ、最も幸せに満ち満ちた楽土を築かねばならない。 それが皆さんの使命です。そして、必ず築くことができると、私は断言しておきます。

 長い目で見れば、今回の災害も、広宣流布の使命を果たすための重大な転機であることが、よくわかるはずです。

 大聖人は『大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげ(歎)かせ給うべき』(御書1300n)と励まされております。

 どうか、一人ももれなく、幸せになってください。こんなに功徳を受けましたと、胸を張って報告に来てください。

 既に正本堂も、その威容を現し、新しい時代の到来を待っています。

 さあ、未来に羽ばたこうではありませんか!」

 参加者は、目頭を潤ませながら、再起への決意を新たにしたのである。

 渡瀬も、男泣きしながら、心で誓っていた。

先生。わしも必ず地域広布の力になります″

「信仰がひとを強くし、希望がひとを向上させる」(注)とは、スイスが生んだ大教育者ペスタロッチの洞察である。

 九州で、広島で、島根で……、この各地での記念撮影会は、被災した人びとに、勇気の新風を送り、新しき飛翔の舞台となっていったのである。

 世界中の同志が待ちに待ったその日は、天高く見事な快晴であった。

  一九七二年(昭和四十七年)十月十二日――。  総本山大石寺に建立寄進される正本堂の、完成奉告大法要が行われたのである。  富士の山肌は青紫に映え、頂の白雪が王冠の如く輝いていた。

  その富士を背景に、堂々とそびえ立つ白亜の正本堂は、今まさに羽ばたかんと翼を広げ た、鶴の英姿を思わせた。 

 正面には大理石の巨大な円柱が立ち並び、妙壇(本堂)に入ると、美しい羽模様の天井 が広がっていた。

  荘厳であった。雄大であった。誰もが、その威容に目を見張った。 

 正午前、開式が告げられ、読経が始まった。 

 六千人の参列者の声が一つになつて、力強く堂内に響いた。

  どの顔も、晴れやかであった。どの顔も、歓喜に燃えていた。

  参加者のなかには、飛行機をチャーターするなどして来日した、海外五十カ国・地域の メンバーの姿もあった。

  読経、日達法主の「慶讃文」に続き、臨華講総講頭で正本堂建立の発願主である山本伸 一の「慶讃の辞」となった。 

 モーニングに身を包んだ彼は、大御本尊が安置された須弥壇の下まで進み出た。

  そして、大御本尊を見上げると、「慶讃の辞」を語み始めた。 「我等一同、唯今、凡愚の六根を整え、六千一会の信徒同心に襟を正し、此処妙壇宝塔に 安置し奉る、事の一念三千、一閻浮提総与、本門戒壇の大御本尊を拝し……」 

 伸一の声が、朗々と響き渡った。 

 満座の参列者は、しわぶき一つせず、じっと耳を傾けている。 「……抑も正本堂建立の念願は、二代戸田城聖会長に由来して、真の遺訓を汲みて山本伸 一是れを構想、去る昭和三十九年五月三日創価学会第二十七回総会に於て此れを発議。大 方の讃同を得て御法主日達上人睨下に誓願申し上げ、その欣諾を賜わりて決定致せし所の 願業なり……」 

 伸一は、感慨無量であった。

  彼の胸には、恩師である戸田の遺言を、実現することができた喜びが満ちあふれていた。

  「慶讃の辞」を読む山本伸一の脳裏に、正本堂完成までの、幾星霜の来し方が、次々と去 来していった。

  一九五八年(昭和三十三年)三月、総本山に大講堂を建立寄進した戸田城聖は、伸 一に、次は大客殿を建立するように伝え、さらに、こう語ったのである。

  「大客殿の建立が終わったならば、引き続いて世界建築の粋を集めて、一閻浮提総与の大 御本尊を御安置申し上げる正本堂を建立しなさい」 「正本堂」という名称は、第六十五世の日淳法主が用いている。

  戸田は、正本堂の建立に思いを馳せ、どこに建てるべきかなど、登座前の日達法主と、 構想を語り合っていた。 

 そして、大客殿に次いで、大本堂ともいうべき正本堂建設の大事業を、最も信頼する弟 子に、託したのである。 

 大業は一代にしてはならない。師弟ありてこそその成就もあるのだ。 

 伸一は、師の言葉の通りに、六四年(同三十九年)四月、大客殿が落成すると、五月三 日の本部総会の席上で、正本堂の建立寄進を提案した。 

 彼は本部総会で、この正本堂の建立をもって、総本山における広宣流布の布陣は最後に なることを述べ、「あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」と語ったので ある。 

 翌六五年(同四十年)の一月には、正本堂建設委員会が発足。日達法主から、発願主で ある伸一が委員長に任命された。

  委員は、伸一を除いて学会側三十人、宗門側二十人でスタートし、さらに法華講からも 五人が加わった。

  第一回の正本堂建設委員会は、大聖人御聖誕の日に当たる二月十六日、総本山で開かれ た。

  出席した日達法主は、冒頭のあいさつで、正本堂の意義に言及した。 「正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでご ざいます。 

 過日来いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせがきておりますが、そ れに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。 

 いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておき たい」

 重大な発表である。 

 

 日達法主は、あえて、初の正本堂建設委員会の席で、一番重大な問題について、語ると いうのである。 

 委員会のメンバーは、襟を正して、次の言葉を待った。 「大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒 壇を建立せらるべきなり』(御書一六〇〇n)とおおせでありますが、これはその根源に おいて、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご 遺訓であります。 

 これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っている が、これは間違いであります。

  堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇 堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。 

 小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒 を受持することであります。

  よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。

  したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安 置申し上げるべきであります。

  それゆえ、百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』(同八六七 n)と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。 

 また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼茶羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり』 (同八六九n)と、こう明らかにされておるのでございます」 

 つまり大聖人が遺言された「本門寺の戒壇」建立とは、特別な戒壇堂を建立することで はなく、日興上人が相承された大御本尊を安置した本堂が、そのまま、戒壇になるという のである。

  日達法主は、さらに言葉をついだ。 「したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正 しいことになります。 

 ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるの であります」

  参加者は目を輝かせながら、話を聴いていた。

  日達法主は、正本堂こそが戒壇の大御本尊を安置するところであり、広宣流布の暁には、 この正本堂が、大聖人が仰せの「本門寺の戒壇」の意義をもつ建物であることを明らかに したのである。 

 日達法主は、あいさつをこう締めくくった。 「この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂 を造っていただきたいと思うのでございます。 

 もしこの建立にあたって、少しでも傷がつくようなことがあれば、それは宗門あげての 恥にもなりますので、全力をあげて建設にあたっていただきたいと念願いたします」 

 山本伸一は、日達法主の示した正本堂の深い意義に感動を覚えた。 「本門の戒壇」の建立は、日蓮大聖人の御遺命である。 

 戸田城聖も、伸一も、そこに大きな焦点を当てて、日夜、広宣流布に邁進してきた。弾 丸列車のごとき大驀進であった。 

 大聖人は、「三大秘法抄」で、その戒壇建立の条件を、次のようにお述べになっている。

 「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」(御書一〇二二n)――これは、「王仏冥合」の法 理であり、仏法の生命の尊厳や慈悲の哲理を根底とした文化、社会の建設と拝される。 「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」(同)――社会に広く正法が流布され、人びと が慈悲などの仏法の精神に目覚めゆくことである。 

 さらに、「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(同)と仰せで ある。 

 覚徳比丘は唯一の正法の護持者で、彼が破戒の悪僧に襲われた時、全身に傷を受けて覚 徳比丘を守り、死んでいったのが有徳王である。 

 この「不惜身命」「死身弘法」の戦いを再現する実践を、大聖人は、戒壇建立の条件と して要請されたと拝察される。 

 これは、仏法を実践する伝持の人と、社会的な指導者が、共に殉難を恐れずに、仏法の 精神を貫くために戦う不撓不屈の信念の確立といえる。 

 日蓮仏法は形式主義ではない。強き信念なくして、勇猛果敢な実践なくして、仏法の精 神を社会に確立していくことはできないのだ。

 日蓮大聖人は、戒壇建立の条件を述べられたあと、「勅宣並に御教書を申し下して霊山 浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ」(御書一〇二 二n)と、仰せになっている。 

 大聖人御在世当時、新たに戒壇を建立しようとすれば、先例にしたがって、政治的権威 をもつ朝廷の「勅宣」と、政治的実権をもつ幕府の公文書である「御教書」が必要であっ たにちがいない。 

 また、当時は、国家の指導者の帰依がなければ、一国の広宣流布は考えられないことか ら、「勅宣・御教書」を得るように書き残されたのであろう。  しかし、現在は「主権在民」である。

  一人ひとりの民衆が正法に帰依すれば、そのまま広宣流布の実現となる。今日では、民 衆の意思が、それに代わるものとなろう。 

 大聖人は、そうした条件を整え、霊山浄土に似た最もすばらしい場所を探して、戒壇を 建立するよう、後世の弟子たちに託されたのである。 

 さらに、この戒壇について、「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵 天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」(同)と仰せである。 

 つまり、インド、中国、日本をはじめ、世界中の人びとが懺悔滅罪するための戒法であ るばかりでなく、梵天や帝釈も参詣すると言われているのである。

  梵天・帝釈は諸天善神の代表である。世界を守護する力であり、世界のさまざまな指導 者といえよう。 

 いわば、各界の指導者をはじめ、あらゆる国の人びとが集い、人類の平和を祈願する場 所が戒壇なのである。 

 山本伸一は、広宣流布の暁に、その戒壇となるのが正本堂であるとの日達法主の話に、 身の引き締まる思いがした。 

 思えば一九六四年(昭和三十九年)の春、日達法主は、伸一に「既に広宣流布しておる」 と語ったことがあった。 

 学会の大前進を目の当たりにして広宣流布を実感し、戒壇建立近きにあり″と感じ、 正本堂の意義を明確に発表したのであろう。

  伸一は思った。 時が来たのだ。広布の新章節の扉が、開かれようとしているのだ″

  山本伸一は、正本堂の重要な意義を明らかにした日達法主の話を、深く胸に刻みながら、 固く心に誓った。

 私は、全精魂を注いで、この正本堂を建設しよう!

 人類の文化遺産となる世界最高峰 の、荘厳な宗教建築にしなければならぬ……″ 「意志ある所に道あり」との諺がある。一切は強き決意から始まる。 

 聖教新聞では、この日達法主の話を受けて、「正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ 意義をもつ」と報道した。

  また、宗門の機関誌である「大日蓮」でも、日達法主の発表を、次のように報じている。 「戒旦に対する一般の見解についての誤りを御指摘なされたあと、戒旦の大御本尊は大石 寺の正本堂にご安置申し上げるのが、もっともふさわしい、という趣旨を述べられ、正本 堂建立が実質的に戒旦建立と同じ意義であるという、日蓮正宗の奥儀にわたる重大なお言 葉があった」(昭和四十年三月号)

  三月二十六日の第二回建設委員会では、正本堂建立のための供養を呼びかける、御供養 趣意書が作成された。

  この趣意書では、日達法主の発表をもとに、正本堂の建設は実質的な戒壇建立であるこ とを訴えている。

  そこには、宗門の総監をはじめ、僧侶二十一人も名を連ね、当時、宗務院教学部長であ った阿部信雄の名もある。

  阿部は、後に法主日顕を名乗り、やがて、先師の日達法主の業績である総本山の建物を 次々と破壊し、なんと八百万信徒の赤誠によって建立された、この正本堂をも破壊するの である。

  趣意書を目にした全国の学会員は、欣喜雀躍して語り合った。 「正本堂の建立は、実質的な戒壇の建立になるんやね。戒壇の建立は、まだまだ先のこと や思ってたから、感激やわ」 「広宣流布の時が迫りつつあるということや。もっと頑張って活動せなあかんちゅうこっ ちゃ。

  それにしても、この正本堂の御供養に参加できるやなんて、ほんまに千載一遇やな」 「この七百年間、誰もこんな機会には恵まれへんかったんや。私も頑張りまっせ!」 

 十月の供養の受け付けに向かって、皆が決意を新たにした。

 正本堂建設委員会のメンバーは、「実質的な戒壇の建立」という大きな使命に闘志を燃 やしながら、着々と準備を進めていった。 

 正本堂の設計は、奉安殿、大講堂、大化城、大客殿を設計した建築家の横田君雄が担当 することになった。 

 彼は、大客殿の設計で日本建築学会賞を受賞した建築家で、近代的な寺院建築の先駆者 として、注目を浴びていた。

  横田は、山本伸一と対話し、正本堂の建立に全精魂を傾ける伸一の決意を、痛いほど感 じた。横田も、その心に応え、正本堂は、断じて世界に誇る宗教建築にしなければならな いと誓った。

  それだけに、彼の悩みは深かった。 

妙法を表現できる建築物にしたい。雄大な富士とも調和し、しかも気高く、力強く、そ びえるものにしなければならない……″

  思いは、様々に駆け巡った。横田は、何か参考になるものはないかと、動植物の動きを とらえた写真集や、鉱物の顕微鏡写真にも目を通した。

  また、施主である伸一の意向を知ろうと、毎週月曜日には学会本部を訪ねた。労苦は、 偉大なる創造の母である。

  伸一は、横田の思い通りに、自由に設計してほしかった。だから、横田のイメージを束 縛することがないよう、具体的なことは、ほとんど語らなかった。

  ただ、報告と連携だけは密にしてほしいことを望んだ。 

 横田は、正本堂は、なんとしても、歴史に残る宗教建築にしたいと、祈りに祈り、思案 に思案を重ねた。呻吟の日々が続いた。

  一九六五年(昭和四十年)八月、彼は、伸一と日達法主に同行し、アメリカとメキシコ を訪問した。現地で見るメンバーの歓喜あふれる姿に、日蓮仏法の世界性を肌で感じた。

  横田は、メキシコを訪問したあとは、伸一たちと別れ、各国の有名な建築物を視察して 回った。 

 そして、帰国した彼は、浮かんでくるイメージをもとに、すさまじい勢いで下絵を描き 上げていった。 

 外観図だけでも早く発表し、皆を喜ばせたいというのが、伸一の希望であったからだ。

  正本堂の供養の受け付けは、一九六五年(昭和四十年)の十月九日から十二日まで、各 地区ごとに、全国一斉に行われることになっていた。 

 その受け付けを五日前にした十月四日、正本堂を正面から見た外観図が、聖教新聞の一 面に、大々的に発表されたのである。 

 建物の最も高いところは六十六メートルで、間口、奥行きともに百メートル近くあると いう。

  皆、正本堂は、世界的規模の壮大な宗教建築になるのだと、実感することができた。感 動を覚えた。そして、この時に生まれ合わせ、この大事業に参加できることに、大きな喜 びを感じるのであった。

  九日から実施された供養の納金受け付けには、全国で約八百万人の同志が参加した。 

 どの会場にも、喜びの笑顔があふれていた。 

 各地で、爪に火をともすように、生活を切り詰め、供養に参加した同志の、涙と感動の ドラマがあった。

  早朝、草刈りの仕事をし、供養の金を貯めた婦人部員がいた。交通費を節約して貯金を するために、毎日三時間は歩いたという男子部員もいた。 「この一年、服も靴も買わずに貯金しました」と、胸を張る女子部員もいた。

  夏休み中、電球をつくる工場でアルバイトし、給料をすべて供養した高校生や、一年間、 新聞配達をして、供養に参加した中学生もいた。  また、酒もタバコもやめて貯金をし、「御供養は健康の直道だ」と、大笑いする壮年も いた。 

 皆が喜捨″の心で、財を仏法に捧げようと、供養に取り組んだのだ。

  正本堂の供養は、厳しい不況にもかかわらず、創価学会として三百五十億六千四百三十 万五千八百八十二円に上った。  これは、当初、目標として掲げていた額の十倍以上の金額であった。

  それに、僧侶寺族同心会の一億五千七百八十七万八千二百六十五円、法華講の三億一千 三百八十二万百六十二円を合わせ、総額三百五十五億三千六百万四千三百九円となったの である。 

 一人ひとりの真心から紡ぎ出された、尊き浄財が、誰人も予想しえなかった多額の供養 となり、歴史的な大遺産となる正本堂の建設を可能にしたのだ。 

 正本堂建設の場所は、「大御本尊は客殿の奥深く安置する」との相伝に基づき、大客殿 の後方と決まった。 

 設計については、正本堂建設委員会で検討を重ね、一九六六年(昭和四十一年)七月に は外部基本設計が決まり、翌六七年(同四十二年)二月には、内部基本設計が決定した。 

 横田君雄が設計に着手してから、描いた下絵は実に千枚を超えていた。そのなかで練り 上げられた設計である。雄大で気高かった。 

 正本堂の外観は、「法庭」「円融閣」「思逸堂」「妙壇」の四つに分かれていた。 「法庭」は正本堂前面の広場で、その中央には「涌出泉水」の義にちなみ、八葉の花弁形 の大噴水が造られる。 「円融閣」は、正面玄関ともいうべき場所であり、妙法蓮華経の五字の意義を込めて、五 本の大円柱が立っている。その柱の直径は五・三メートル、高さは屋根を含めて三十メー トルを超えていた。 「思逸堂」は玄関ホールにあたる場所で、ゆるやかなスロープとなっている。 

 正本堂の中枢部となる「妙壇」(本堂)には、法華経従地涌出品に説かれた、六万恒河 沙の地涌の菩薩の出現にちなみ、六千のイス席が設けられることになる。 

 また、内部の空間には一本の柱もなく、世界に類を見ない「半剛性吊り屋根構造」であ った。 

 その屋根の形は、羽を広げて大空へ羽ばたく鶴をイメージした、まことに洗練されたデ ザインになっていた。 

 横田は、戒壇として大御本尊を中心とした荘厳な建物にすることは当然のことながら、 終始、参詣する人間を主体にして設計を考えた。 「円融閣」で待機する人びとは、その壮麗な柱を仰ぎ、高まりゆく気持ちで入場し、静け さに包まれた「思逸堂」を通りながら心を落ち着かせる。

  そして、広くて、高い天井の「妙壇」の席に着き、荘厳な思いで、平和と幸福を祈願す る。

  祈りを終え、満ち足りた心で、再び「法庭」に出ると、天高く噴水が舞い、美しい虹が 懸かっている。

  参詣者は、生命の充実感、開放感を覚え、歓喜のなか、新たな出発を期すことになる― ―。

  正本堂は、横田君雄の基本設計に基づいて、建設が進められることになった。 

 建設については、複数の建設会社による、ジョイントベンチャー(共同企業体)方式で 行うことが決まった。

  正本堂の工事は大規模であり、正確さと最高の技術を要することから、一社ではなく、 秀でた技術と実績をもつ建設会社が、連合して建設にあたるようにしたのである。  また、工事の期間は、作業の安全と工事の完璧を期すため、十分な時間をとり、完成は 一九七二年(昭和四十七年)をめざすことになった。

  建設委員会の委員長である山本伸一は、六七年(同四十二年)の八月、日本を代表する 大手建設会社六社の社長ら役員を総本山に招き、正式に施工を依頼した。

  この時、伸一が、強く念願したことは、各社が心を合わせて、最高の力を発揮してほし いということであった。 

 インドの大詩人タゴールは叫んでいる。 「多くの人の仕事の団結が、いままで考えられなかった大きな成果を産み出した」(注) と。団結こそが最大の力を発揮する。 

 反対に、それぞれが、いかに優れた力をもっていても、自分の分野のことしか考えず、 呼吸が合わなければ、大事業の成就はない。 

 各社の代表たちも、正本堂という二十世紀を代表する宗教建築の建設に携わることに、 最高の誇りを感じていた。

  伸一が、「よろしくお願いします」と言って握手を交わすと、各企業の代表は、「心を 一つにして、歴史に残る大建築にしてまいります」など、口々に決意を披歴した。

  その目には、共に歴史を創ろうとの、闘魂が燃え輝いていた。 

 待望の正本堂建立発願式が挙行されたのは、この六七年(同)の十月十二日のことであ った。 

 その日は、見事な秋晴れであった。 

 特設された祭壇の脇には、供養に参加した八百万人の名簿と、後に定礎される世界百三 十五カ国・地域の石が桐箱に納められ、供えられた。 

 式典は、午前十一時半から盛大に営まれた。 

 正本堂は、建設の第一歩を踏み出したのだ。 

  正本堂建立発願式は、読経、そして、日達法主の「願文」と続いた。 「願文」には、日興上人が謗法の山と化した身延を離山し、南条時光の供養によって大石 寺が建立されたことが述べられていた。

  そして、現代に至り、創価学会の外護を得て、宗門が大興隆したことに言及し、さらに 山本伸一の功績を讃えていった。 「前代より正法守護の大任を継いで折伏弘教に精進す。  或る時は獅子王の如く国内に跳躍し或る時は鳳凰の如く海外に雄飛す。正に広宣流布の 一時に来たるやと我等をして驚嘆せしむ」 

 日達法主は、伸一の手で、広宣流布は一気に進んだことを、「願文」のなかで明言した。 それは伸一と学会員の功績を賞讃する永遠の証である。 

 そして、さらに、伸一が正本堂の建立寄進を発願したことを、讃嘆するのであった。 「しかのみならず故恩師の遺志を紹いで茲に法華講総講頭として正本堂を建立せんとし発 願を為す。 

 其の規模たるや拡大に其の景観たるや荘厳なり。其の設計は既に成る……」 

 伸一は、正本堂は大聖人御遺命の本門の戒壇となった。ならば、全精魂を注いで建設 にあたるのは当然である″と、深く決意していた。

  日達法主が「願文」を読み終えると、時計の針は正午をさしていた。

  続いて伸一の「発誓願文」である。 「……夫れ正本堂は、末法、事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又、 仏教三千余年、史上空前の偉業なり。 

 我等この発願の盛儀をもって、将に四海の静謐と、万民の福祉を希う人類の、究極の大 理想実現への第一歩と確信するものなり……」 

 澄んだ力強い声が、青空に響いた。

  そこでは、大聖人は本門の題目を唱え、本門の大御本尊を出世の本懐として建立された が、三大秘法のうち戒壇の建立を滅後の末弟に託されたのはなぜか――に言及していた。 

 そして、それは、末法万年にわたる、広宣流布の揺るぎない基盤を、末弟たちに築き上 げさせ、地涌の菩薩の使命を果たさせようとされたからであると訴えた。

(語句の解説)
 ◎南条時光  一二五九〜一三三二年。鎌倉幕府の御家人で、駿河国(静岡県中央部)富士郡上野郷の 地頭。十代で日蓮大聖人に帰依し、日興上人を師兄と仰いで純粋な信心に励んだ。特に、 熱原の法難の際には、果敢に大聖人一門を外護した。また身延を離山された日興上人を、 進んで自領に迎えた。

 山本伸一は「発誓願文」で、正本堂の意義を述べていった。 「唯我が日本民衆の鎮護国家の道場なるのみならず、世界人類の永遠の平和と繁栄とを祈 願すべき根本道場なり……」 

 ――過去の戒壇は、勅命による戒壇であった。また、在家への授戒も、王侯貴族など、 上層の人びとに限られていた。 

 しかし、正本堂は、民衆の信心の赤誠で建立され、老若男女の違い、また、職業、階級、 民族等、いっさいの差別を超え、全世界の民衆が、等しく平和と幸福とを祈願する「根本 戒壇」であることを、伸一は読み上げていった。

  さらに、正本堂の建設に至る経過や規模、設計の概要に触れ、供養に参加した全員の名 を、百三十三冊の名簿に収めて、永遠に正本堂に保存することが決定した旨を発表したの だ。 

 そして、「夫れ民衆は国家の主権者たり。されば、斯くの如き大戒壇は、正しく民衆立 の戒壇とも呼ばれるべきなり」と、ここに宣言したのである。 

 フランスの歴史家ミシュレが叫んだように、まさに、民衆こそ「歴史の主役」なのであ る。 「発誓願文」は、こう結ばれていた。 「その時代(広布)は、未だ未来に居すと雖も、而も亦、甚だ近きを信ず。  我等末弟、その日の実現の一日も早からんことを希い願うて、日々、月々、年々に、更 に折伏行に断固邁進せんことを堅く誓うのみ……」 

 戒壇となる正本堂建立の伸一の誓願は、まさに広宣流布の大誓願にほかならなかった。 

 それは、全学会員の決意でもあった。皆の目が輝いていた。 

 根本の目的は、どこまでも広宣流布であり、その証、帰結としての戒壇の建立である。

  現実に正法が流布されて、人びとの幸福と平和が実現されるからこそ、戒壇は、尊く、 偉大なのである。

  そして、その実践のなかにのみ、仏法の正法正義は流れ通うのである。 

 集った同志の顔は、歓喜に燃えていた。広宣流布を、折伏を、皆が心に深く誓っていた。 

 布教の聖業に励む人ほど、尊貴にして偉大な人はいない。

 発願式を終えると、正本堂建設委員会では、本山内の総合的な整備について検討を重ねた。 

 正本堂建立地内にある墓地や納骨堂の移転先の検討をはじめ、将来、大幅に増える登山 者が、安全に、快適に過ごせるよう、施設面などの見直しも真剣に行われた。 

 また、基本設計をもとにして作成された正本堂の設計図は、建設委員会で、さらに吟味 されていった。 

 一九六八年(昭和四十三年)の十月には、正本堂建立に合わせた整備計画の一環とし て、三門前の広場や三門橋の整備も竣工した。 

 特に、三門橋は、登山者が道路を渡らなくてよいように設置された歩道橋であったが、 高齢者のことも考え、一般の歩道橋に比べ、ゆったりした幅で、勾配にも余裕をもたせて いた。 

 建設委員長である山本伸一が最も心を砕いていたのは、参詣者の安全と至便であった。 

 やがて、日本は高齢化の時代を迎え、お年寄りも増える。また、体の不自由な人や、子 ども連れの家族もいる。 

 参詣に来た方々が、安全に、疲れず、快適に過ごせることを、彼は重要なテーマとして いたのである。 

 建築には、思想が表れる。どんなに立派で、厳かな建物であったとしても、人びとの安 全や快適さを二の次に考えた設計であれば、人間を手段とした権威づけのための伽藍と なってしまう。 

 正本堂も、それに関連したいっさいの施設も、人間を大切にする、人間主義の思想に貫 かれた建物でなければならないというのが、伸一の信念であった。

  大聖人は、「末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」(御 書一三〇四n)と仰せである。

  なれば、その方々を徹して守り、最高に大切にしていくなかにこそ、仏法はある。  伸一は、自ら総本山を歩いて、危険な場所はないかを見て回った。また、皆がどこに不 便を感じているかなど、直接、意見を聞いたりもした。

  体の不自由な人や高齢者の話も参考にした。

  そして、それを反映した建築になるよう、関係者とも、相談を重ねていったのである。

 正本堂の着工大法要が営まれたのは、建立発願式から一年を経た一九六八年(昭和四十 三年)の十月十二日であった。

  勤行、鍬入れ式に続いて、山本伸一があいさつに立った。

  伸一はまず、「三大秘法抄」の一節を、朗々と拝し、この「法華本門の戒壇」たる正本 堂の着工大法要が無事終了した御礼を簡潔に述べた。 

 そして、伸一が工事開始のスイッチを押すと、式場の北側で、ダイナマイトが炸裂し、 もうもうと土煙があがった。

  会場の西側では七つのくす玉が割れ、「慶祝正本堂着工」の文字が現れた。待機してい た六台のブルドーザーが動きだし、六百六十羽の鳩が放たれ、天高く舞い上がっていった。

  この着工大法要を終えると、正本堂の建立地の測量や地質調査、また、地盤がどれだけ の重さに耐えられるかを調べる、載荷試験などが行われていった。

  地盤の載荷試験では、当初の設計で要求された一平方メートルに六十トンという強度の、 三倍以上の荷重強度があることがわかった。 

 長期にわたって十分に建造物を支えうる、強い地盤であることも立証されたのである。 

 やがて、基礎コンクリートを流すための、地盤の掘削工事が始まった。

  工事関係者を最も悩ませたのは、地中にたくさんある岩石であった。それをブルドーザ ーで移動させるのだ。

  だが、大きすぎて、ブルドーザーでも動かせない巨石もあった。 

 最も大きなものは、なんと百八十四トンもあったのである。

  巨石の粉砕には、ダイナマイトが使われた。

  取り出された岩石は、石垣などに利用された。

  岩石を処理した穴は土砂で埋めるのではなく、一つ一つ、コンクリートを流し込んでい った。

 手間のかかる労作業であった。 

 フィリピンの格言に、「苦闘が多ければ多いほど、勝利は輝かしい」とある。 

 建設に従事する人たちも、二十世紀を代表する宗教建築の正本堂を、自分たちの手で造 っていくのだという誇りにあふれていた。

  最高の仕事をしようと皆が燃えていた。作業場には活気があった。 

  正本堂の建設にあたっては、使用するコンクリートは、最も品質の優れたものにするこ とが、基本方針として定められていた。 

 半永久的に残る建物を建設するうえで、コンクリートの品質こそが生命線となるからだ。

  検討を重ねた結果、コンクリートは、建設現場で製造することにした。 

 担当者には、プラント(生産設備)の設置からコンクリートの製造、施工、品質管理な どのために、二カ月の技術研修も行われた。 

 砂なども厳選され、富士川の砂と砂利が使われることになった。

  プラントが設置されると、コンクリートの品質管理基準も厳格に定められ、製造された コンクリートから、適宜、サンプルを採取し、厳しい品質試験が行われた。 

 基準値にわずかでも合わないコンクリートは、容赦なく返品された。

  皆が妥協を排して万全を期したのだ。 

 風洞実験や振動実験等々の各種構造実験は、東京大学航空宇宙研究所(当時)などで、 日本を代表する専門家の指導を受け、丹念に行われた。 

 正本堂の建設で、最も複雑で困難であったのは本堂にあたる「妙壇」であった。 

 その安全性を追求するさまざまな計算のために国内有数のコンピューターをフル回転さ せた。 

 また、使用する鉄骨に対しても、加工や溶接後の引っ張り試験や衝撃試験などが厳密に 行われたのである。 

 さらに、正本堂建立地の一角に大実験室が設けられ、そこに妙壇の十五分の一の大型模 型がつくられた。模型といっても、幅九メートル、高さ四メートルである。

  この模型で、起震機を使って、横揺れ、縦揺れで受ける影響や、風、雪に対する強度試 験、妙壇屋根面の梁の強度試験などが繰り返された。 

 失敗の許されない仕事である。検証がなされずに、あいまいさや不明な部分がわずかで も残っていれば、それが大事故の原因となる。 

 大事業とは、どんな小さな事柄も疎かにせずに、一つ一つ検証し、確認することによっ て初めてなされる、完璧な小事の集積である。油断、妥協を徹底して排することから、大 事業は成る。

 着工大法要から一年を経た、一九六九年(昭和四十四年)十月十二日には定礎式が行わ れた。 

 御本尊を安置する須弥壇の基底部分に、世界百三十五カ国・地域の石を埋める儀式であ る。 

 山本伸一は、正本堂建立を発表した六四年(同三十九年)五月三日の本部総会で、日本 各県の石はもとより、世界各国の石も集め、正本堂の基礎に埋め、荘厳したいと語った。 

 正本堂は、世界平和を祈願する大殿堂であり、人類の幸福を実現しゆくための道場であ る。 

 それだけに、その礎には、なんとしても、世界の石を納めたかったのである。 

 伸一は、その先頭に立ち、海外を訪問するたびに、自ら石を採取して歩いた。

  また、彼の提案に賛同した海外のメンバーも、来日の折に石を持ってきてくれるなど、 協力を惜しまなかった。 

 幾つもの言語や宗教、民族によって構成されるユーゴスラビア(当時)の石も届いた。 

 パリで画家として活躍する長谷部彰太郎が、ユーゴスラビアで行われた版画展を訪れ、 会場の美術館の前で見つけた美しい石を、送ってきたのである。 

 仕事で海外に出張した会員や外国航路で働くメンバーも、各国の石を採取してきてくれ た。 

 これら同志の尊い尽力によって、分断された双方の国や、紛争が絶えない国の石も集ま った。 

 サウジアラビアやイスラエル、イラク、イランなど、中東諸国の石もそろった。ソ連を はじめ、社会主義国の石も、たくさん集まった。  アフリカの石もあった。なかでも、ガーナからは、独立の父エンクルマ初代大統領の別 邸として使われた家の庭の石が届けられた。 

 その家に、日本から手工芸関係の技術指導員として派遣された壮年部員が住んでいたの だ。彼はこの庭の石を大西洋の海水で洗い、磨いて日本に送ったのである。

  南極観測船の乗組員となった学会員が届けてくれた、昭和基地周辺の石もあった。 

 平和建設の礎石とは何か――それは、この世から断じて不幸をなくそうという、人間の 固い誓いである。強き意志力である。その心が正本堂に結集されたのだ。

 定礎式が始まった。 

 既に周囲には、建物の骨格となる鉄骨が立てられていた。

  式典会場の中心となる須弥壇の基礎部分には穴がつくられ、そこに世界の石を入れた、 直径一メートルの円板形のカプセルが納められていた。 

 このカプセルは特殊ステンレス製で、フタを開けると、中には蜂の巣状に穴があり、そ こに、世界の石が一つ一つ入れられている。 

 日達法主は、この式典の「表白文」のなかで、「正本堂は、本門戒壇の大本尊安置の霊 堂にして、梵天帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇也」と、「三大秘法抄」の御文に即し て、正本堂の意義を再確認した。

  そして、カプセルのフタに、山本伸一が願主として刻んだ銘文を読み上げていった。 「此の正本堂は一閻浮提総与の大御本尊を御安置し奉る法華本門 事の大戒壇である。全 人類の永遠の平和と繁栄を願望する民衆の建立による立正安国の根本道場たる大殿堂なの である。

 (中略)世界全民衆の参画を象徴し世界百三十五か国から寄せられた石を大御本尊御安置 の真下の礎石のなかに収め茲に定礎とする」 

 参列者は、その意味を深くかみしめていた。 

 続いて定礎の儀式となり、日達法主と伸一が、カプセルに納めきれなかった世界の石を、 スコップでカプセルの上に注いだ。 

 伸一は、戦火の絶えない世界を思いつつ、心で真剣に、平和を祈り念じていた。 

 この年、中ソ国境では三月に武力衝突が起こっている。核兵器を保有した両国の紛争は、 第三次世界大戦に発展しかねない脅威を、人びとに与えていた。 

 一方、ベトナムでは、段階的に米軍の撤兵が始まってはいたが、事態は泥沼化の様相を 呈し、和平への確かな展望は、いまだ見えなかった。

 だからこそ、世界平和祈願の大殿堂たる正本堂を建立するとともに、仏法という生命の 尊厳と平和の大哲理を、一日も早く、世界に流布しなければならない″ 

 それが、伸一をはじめ全学会員の決意であり、誓いであった。

  平和の実現を離れて宗教はない。平和への貢献こそ、宗教者が果たすべき第一の使命で ある。

 定礎式から、工事は第二期に入り、建設に拍車がかかった。 

 一九七〇年(昭和四十五年)三月には、「妙壇」の最初の鉄柱が立てられた。 

 この年の十月十二日には、上棟式が営まれ、須弥壇の真上にかかる「棟梁」の取り付け が行われた。地上約五十五メートルでの作業であった。 

 その後の工事の大きな山場は、「妙壇」大屋根の支えを解除する「ジャッキダウン」で あった。 「妙壇」の屋根は東西百十メートル、南北八十二・五メートルもあり、完成時の屋根の重 量は、約二万トンと想定されていた。

  その大屋根を吊り上げるのが、自転車の車輪のように、中央リングから楕円形の縁梁に、 放射線状に延びた三十六本の鉄骨である。 

 この鉄骨の要となる中央リングを、地上約三十メートルの高さで支えてきた仮設構台か ら、ジャッキを使って外す作業が「ジャッキダウン」である。

  仮設構台を外せば、中央リングは降下し、それによって柱も動く。もし、これまでの構 造計算に間違いがあれば、どんな事態が生じるかわからなかった。 

 七一年(同四十六年)六月十七日、遂にその日が来た。

  建設現場は、早朝から、ピリピリした空気が流れていた。 問題はない。コンピューターを駆使して計算を重ね、実験に実験を重ねてきたのだ…… ″

  担当者には、完璧を尽くしてきた自負があった。しかし、それでも不安は拭えなかった。 新しき挑戦に、「安心」という言葉はないのだ。 

 中央リングは、十メートル四方の台の上に設置された、十二基のジャッキで支えられて いた。

  午前十時五分、作業が開始された。

  油圧ポンプを使い、約十分かけ、十二基のジャッキにかかる荷重を均等にしながら、少 しずつ下げていった。

  そのたびに、中央リングの降下量、梁の歪み、南北最高部の柱頭の内外への移動量など が計測された。 

 三十分後に第二回、そのまた三十分後に第三回が行われた。 

 そして、午後四時五十二分、最後の十一回目のジャッキダウンが行われたのである。 

  作業員は、息を凝らして、中央リングを見つめていた。 

 スピーカーから弾んだ声が流れた。 「ただいま、ジャッキダウンが終了しました」  肉眼では、何も変化は感じられなかった。大成功であった。作業員から、歓声があがり、 拍手が沸き起こった。

  中央リングの降下量が測定された。 

 結果は、三十四・二五ミリであった。これはコンピューターが予測した三十八ミリより も少ない数値である。それにともなう柱の傾きもほとんどない。すばらしい技術であった。 

 正本堂よ永遠なれ――との関係者の強き一念が、大規模で複雑な難工事を可能にしたの だ。 

 一九七一年(昭和四十六年)の十月十二日には躯体完成式が行われ、工事は、いよいよ 最終段階に入った。 「法庭」の池のタイル工事や「円融閣」の大理石仕上げ、中央ブリッジの取り付け、「思 逸堂」の絨毯張り、また、「妙壇」の縁梁外壁の仕上げや信徒席の設置など、細部に至る まで丁寧に作業が進められた。 

 正本堂の完成を五カ月後に控えた、七二年(同四十七年)四月二十八日のことである。

  この記念すべき宗旨建立の日に、日達法主は訓諭を発表し、再度、正本堂の意義を確認 している。 

 そこには、次のようにあった。 「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。 

 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。 

 但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公 開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。 

 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂は まさにその達成の実現を象徴するものと云うべし」  つまり、正本堂は大聖人御遺命の戒壇を事前に建立したものであり、広宣流布の暁には、 そのまま、本門寺の戒壇となることを、後世の証明として重ねて明言し、周知徹底したの である。

 一九七二年(昭和四十七年)の十月一日には、遂に正本堂の完工式が営まれるに至った。

  式典には、学会をはじめ、宗門、法華講、設計・工事関係者の代表のほか、国内外の来 賓千数百人、報道関係者五十五社九十人など、合わせて六千人が参列した。 

 山本伸一は、「法庭」から正本堂の中に入る中央ブリッジ入り口の紅白のテープにハサ ミを入れた。そして、日達法主を先導していった。 

 白亜に輝く、正本堂の荘厳さに、参加者の誰もが息をのんだ。

  完工式は、読経に続いて、宗門の総監のあいさつとなった。

  ――正本堂の発願主であり、建設委員会の委員長として辛労を尽くしてきた山本伸一が いてこそ、今日の完成を迎えることができたと、彼は深く感謝の意を表した。 

 さらに、正本堂建立共同企業体の代表から、山本伸一に、「正本堂竣工引渡書」が提出 され、伸一からは「受領書」が渡された。 

 そして、伸一から日達法主に御供養目録が差し出され、正本堂は、建設委員会から大石 寺に正式に供養されたのである。 

 副会長の十条潔の経過報告のあと、海外各地から寄せられた祝賀のメッセージの一部が 紹介された。メッセージは国連事務総長やアメリカの副大統領、カナダの首相、フランス ・パリのオペラ座の総支配人など、全部で百通を超えていた。 

 この日、海外からも多くの来賓が出席していたが、席上、アメリカのサンタモニカ市長 から、伸一に名誉市民の称号が授与された。 

 サンタモニカには、アメリカの中心会館がある。市長は、苦悩にあえいでいた人びとが、 仏法によって蘇生していく姿を目にしてきた。

  その仏法の指導者である山本伸一に、賞讃の意を表して、名誉市民の称号を贈ることを 希望したのだという。 

 このほか、正本堂落慶に際して、伸一の社会と平和への功績を讃え、世界の三十一の州 ・都市からも、名誉市民などの称号が贈られている。 

 また、式典では、ベネズエラの特命全権大使の祝辞もあった。

 それらは、まさに「大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」(御書一〇二 二n)との御文を思い起こさせた。 

 設計者、共同企業体代表の話のあと、山本伸一があいさつに立った。

  彼は、建設委員会の委員長として、関係者に対し、心から御礼の言葉を述べた。 

 そして、民衆の真心によって建立された正本堂は、民衆のための施設であり、宗教的権 威を象徴する建物ではないことを訴えていった。 「正本堂は人類の恒久平和と世界文化の健全なる進歩、発展を祈願する殿堂でありますが、

 その祈願者は、総じてはここへ参拝する人、全部であります。

  すなわち人種や老若男女を問わず、民衆全体が祈願者でありまして、ここが最大の特徴 をなしているのであります。

  古今東西を問わず、普通、『参拝者は聖職者から祈願を受けて帰る』のでありますが、 ここ正本堂は『民衆が猊下とともに』『祈願をして帰る』のであります。 

 この点において正本堂は解放された未来の世界宗教にふさわしい殿堂であると、私は信 ずるのであります。 『聖職者から祈念を受けて帰る』べきであるとするならば、それより私は『無教会主義』 の方が、より進歩的であり、かつ正しいと、考えるものであります。 

 また、宗教そのものは建物や形相的荘厳とは違うものであります。したがって、民衆が 仏と一体関係下において、能動者として祈願するものでなければ、殿堂は不要である。無 殿堂主義の方が進歩的であり、より正しいと、私は考えるのであります」 

 一閻浮提の一切衆生、すなわち、全世界の民衆を、幸福にしゆくための大御本尊である。

  また、大聖人は「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」(御書 一二四四n)と仰せである。

  そこには、聖職者によって祈願してもらうなどといった発想はない。 

 民衆一人ひとりが、御本尊と相対して自ら祈願することこそ、日蓮仏法の本義なのであ る。

  さらに伸一は、民衆が結束して建立した正本堂こそ、人類の生命の尊厳を祈る民衆の宗 教殿堂であることを語った。 

 そして、正本堂の完成をもって、広宣流布は第二章の開幕を迎えたことを宣言したので ある。

 日蓮仏法は、人間主義の世界宗教である――山本伸一のあいさつには、その強い確信が みなぎっていた。

  彼の話に、場内からは大拍手が沸き起こった。 

 完工式では、最後に伸一から、設計、施工にあたった各社の代表に感謝状と記念品が贈 られた。 

 彼は、できることならば、建設作業に携わった方々を、一人ひとり抱きかかえ、心から 御礼を言いたい思いであった。

  正本堂の建設が始まってからというもの、作業に励む人たちのことが、伸一の頭から離 れることはなかった。 

 日々、彼は、全員の無事を祈って題目を送り続けてきた。 

 厳寒の日や炎暑の日など、よく側近の幹部に、今日は何人の人が作業にあたっているか を調べてもらった。そして、靴下やシャツなどを手配し、贈ることもあった。 

 また、伸一自身、何度となく、建設現場に足を運んだ。応対してくれた人や、黙々と作 業に励んでいる人に、記念のメダルなどを贈呈したこともあった。  汗だらけになって、セメントを運ぶ人がいる。鉄骨を担ぐ人がいる。高い鉄柱の上でボ ルトを締める人がいる。作業場に水を撒く人がいる……。 

 その人たちこそが、世紀の大殿堂たる正本堂建設の大功労者なのだ。

  ある時、建設現場を訪れた伸一は言った。 「作業に励む皆さんの姿から、永遠に残る不滅の正本堂を建設しようという心意気が、ひ しひしと伝わってまいります。 

 工事の無事故、大成功を、毎日、御祈念しております。本当にありがとうございます」 

 そして、深く、深く、頭を下げた。 

 伸一は、各社の代表に連なる、多くの作業従事者のことを考え、合掌する思いで感謝状 と記念品を手渡していった。 

 人は、建物の荘厳さには感嘆する。しかし、供養や労作業など、陰で精魂を尽くし、そ れをつくり出した人に、目を向けようとはしない。だが、その人こそが尊いのだ。 

 そして、その労苦に眼を凝らし、心を砕くことから、人間主義の行動が始まるのだ。

  ――正本堂の建立寄進の発表から八年五カ月、ここに、本門の戒壇となる大殿堂が、晴 れて完成したのである。

 山本伸一は、総本山にあって、全力で正本堂落成慶祝行事の指揮をとっていた。 

 日達法主との打ち合わせや、次々と到着する海外メンバーへの激励など、日々、フル回 転であった。 

 十月五日には、総本山の総合整備計画の一環として建設が進められてきた、開闡会館、 輸送センター、浣衣堂が完成。伸一がテープカットし、開館式が行われた。

  開闡会館は報道関係者のセンターとして、輸送センターは登山会の運営拠点として使用 される。 

 また、浣衣堂は登山会参加者の大浴場である。 

 七日には、海外メンバーら三千人が唱題し、見守るなか、大御本尊を奉安殿から正本堂 に遷座したのである。

  十一日、大御本尊御遷座大法要が執り行われ、正本堂での初の御開扉となった。

  本門の戒壇となる正本堂に、大御本尊が安置されたのだ。

  参列者の唱題が響くなか、須弥壇の円形扉が左右に開くと、さらに美しい朝焼けを思わ せる、朱金の綴れ織をあしらった垂直扉がある。その扉が上がると、金色燦然たる厨子が 現れる。 

 皆、厳粛な思いで、合掌した。 

 ――そして今、遂に慶祝式典の中心行事となる、十月十二日の正本堂完成奉告大法要を 迎えたのである。 

 山本伸一には、建立寄進の発表から、今に至るまでの奮闘の日々が、一瞬の出来事のよ うに思えるのであった。 

 真剣勝負がもたらす、日々の生命の燃焼は、歳月の長さを感じさせないものだ。 

 正本堂の完成を大御本尊に奉告する伸一の「慶讃の辞」は続いていた。 「今幸にも日中国交の正常化成ってアジアの断絶解消の曙光明らかなり。五濁の長闇破れ て東洋の空、戦雲霧消せんとする瑞か。 

 ……正本堂出現を契機として、弥々東洋広布の時代の幕は開くべき乎。 

 法自ら広まらず・人・法を広むるが故に人法共に尊き道理。乞う、諸天も我等が指向す る真実の平和への道を照覧あれ」 

 平和への決意にあふれた「慶讃の辞」が終わると、再び読経となり、歓喜の唱題が響い た。

 完成奉告大法要の最後に、日達法主から山本伸一に記念品と感謝状が贈られた。

  感謝状には、彼が建設委員長となって、正本堂を建立寄進したことに対して、「宗門史 上未曾有にして且つ永久不滅の大功績として宗門一同等しく稱歎するところであります」 とあった。 

 万雷の拍手が正本堂の大天井にこだました。

  伸一は、この感謝状は苦楽を共にしてきた全同志への賞讃であると思った。一方、参列 した同志もまた、わがこととして心から祝福の拍手を送った。この不二なる心の連帯にこ そ、創価学会の不屈の強さがある。 

 完成奉告大法要のあとは、「法庭」で、千人のメンバーによる、琴の演奏が行われるこ とになっていた。

  正本堂の「円融閣」には、幅百メートル、縦二十三・六メートルの、茜色の大緞帳が張 り渡されていた。前年の東京文化祭で衣装係を務めたメンバー二百十人が担当し、二十日 間を費やして仕上げたものだ。

 本門の戒壇となる正本堂完成の儀式に、どんなかたちでもよいから尽力し、共に荘厳し たい″ 

 その思いで、仕事の合間をぬい、夜を徹するようにして、縫い上げたのである。 

 その大緞帳が映える法庭に、一千人の琴の大演奏が響いた。 

 メンバーは、流派も、技術力も異なっていた。しかも、居住地は全国に及んでいるため、 全員が一堂に会して練習する機会は、ほとんどもてなかったのである。 

 その条件のもと、ましてや屋外で、千人もの人が息の合った見事な演奏をすることは、 至難この上なかった。だが、皆が燃えていた。

 大聖人の御遺命の実現となる正本堂落慶の大式典だ。絶対に大成功させてみせる!″ 

 伸一の妻の峯子も、この大演奏の一員として、琴の練習を重ねてきた。式典当日は、来 賓の応対などのために出演できなかったが、同じ心で大成功を真剣に祈っていた。 

 演奏は、「さくら変奏曲」「桜花爛漫の歌」、そして「正本堂讃歌」と続いた。

  歓喜が表現され、優雅であり、荘重であった。 

 演奏が終わった時には、大拍手が晴れ渡った天空に轟いた。一念が不可能を可能にした のだ。

 十三日は、正本堂法庭涌出泉水大法要が行われた。法庭に設置された八葉の池の大噴水 を始動する儀式である。 

 正本堂での法要に続いて、法庭で噴水の噴き上げ式が始まった。 

 ファンファーレが高らかに鳴り響き、日達法主や山本伸一らが桶の水を池に注ぎ、伸一 がポンプのスイッチを押した。 

 池の中央から、高さ三十メートルの噴水が勢いよく噴き上げた。 

 その水柱に向かい、池の周囲からも水が八本の曲線を描いた。

  さらに中央の噴水を囲むように設けられた、幾つもの水の噴き出し口からも、水が噴き 上げた。

  音楽隊、鼓笛隊が、軽快な調べを奏で始めた。 

 太陽の光を浴びて、噴水に虹が懸かった。

  噴水は、音楽に合わせて、歓喜の舞を踊っているかのようでもあった。 

 水柱の向こうには正本堂が、彼方には富士がそびえていた。妙なる名画であった。 

 噴水を見上げ、目を潤ませる一人の女子部員がいた。彼女は、語りかけるようにつぶや いた。 「お母さん、あれが正本堂、そして、噴水にはきれいな虹……。見えるでしょ」  彼女の胸には亡き母の写真が収められていた。

 母親は、正本堂の外観図が発表された 時、瞳を輝かせて言った。 「本門の戒壇となる正本堂の供養に参加できるなんて、これほどの誉れはないわね。それ に、立派な噴水までできるのね。早く見てみたいわ」  そう語っていた母の、嬉しそうな顔が忘れられなかった。

  この時、母は癌の宣告を受け、あと一年の命と言われていた。 

 しかし、「正本堂ができるんだから広宣流布を進めなければ」と、病魔に負けず、喜々 として、一日、また一日を生き切っていった。 

 母は、法華経寿量品に説かれた「更賜寿命」(更に寿命を賜う)の実証を示し、五年の 歳月を生き抜いた。そして、二年前、正本堂の完成を楽しみにしつつ、他界したのである。

  噴水に懸かる虹を見ながら、娘は誓った。 お母さんの分まで、私が頑張る。そして、必ず、社会に幸せの虹を懸けるわ″

  彼女には、青空に輝く太陽が、微笑む母の顔に思えた。

  翌十四日は正本堂落慶大法要が営まれた。 

 席上、完成した正本堂を総本山に供養し、使命を果たし終えた正本堂建設委員会を代表 して、副委員長の十条潔から会計報告が行われた。 

 これは、建設委員会で正式に承認された、収支決算の報告であった。 

 十条は、正本堂の建設にともなう収支と、総本山側に設置された、正本堂運営委員会に 引き継いだ資産ならびに、残存事業について報告した。 

 彼は、御供養金の最終額、それに対する受け取り利息、その他、雑収入を合わせ、正本 堂総合事業の収入総額は、四百八十七億五千八百二十万五千十一円となったことを報告し た。

  次いで支出を項目別に述べていった。 

 正本堂の建物本体に二百二十八億七千八十万六千八百九十八円、正本堂の土地代金及び 整備費に三十二億二千七百五十六万百二十円等々、正本堂建設事業費の合計は三百十六億 二千五十九万九千六百一円であった。

 また、正本堂の維持基金として、六億円を確保したことを語った。 

 さらに、この事業計画の残存工事とその予算について説明し、最終的に残余金が出た場 合は、正本堂の維持基金に繰り入れることを発表した。

  一円たりともゆるがせにしない、極めて詳細な報告であった。 

 最後に、法華講の総講頭である山本伸一が、あいさつに立った。 

 彼は、全参加者に祝福と感謝を述べたあと、新しき出発の決意を促していった。

 「とかく人の気持ちというものは、何か大事な事業を完遂すれば、これで一段落したとホ ッとして、安易な気持ちになりがちなものであります。  しかし、ここに正本堂が見事に完成したということは『終わり』ではなく、それは『始 まり』なのであります」 

 大きな課題を成就し、その喜びの余韻にひたっているうちに、人は油断し、闘争心も警 戒心も忘れ、安逸と惰性に流されていくものだ。 

 実は、それこそが「魔」なのである。 「すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし」(御書一一九〇n)と仰せの通りで ある。 

 ゆえに、常勝の道を行く者は、「勝って兜の緒を締めよ」との言葉を、生命に刻むこと だ。

 山本伸一は、自らに新しき挑戦への闘志を燃え上がらせながら訴えた。 「正本堂の完成は、この大仏法が世界宗教として、地球上のあらゆる人びとを迎え入れ、 救済できる準備ができあがったということであります。

  正本堂ができあがったことで、基盤づくりは終わり、大聖人が目的とされた肝心要の広 宣流布の『本番』が、この十月から、いよいよ始まったわけでございます。  遂に広宣流布の総仕上げの、幕開けを迎えたのであります。 

 日蓮大聖人の仏法は、永遠に本因妙です。したがって、広宣流布の旗を掲げ、未来へ、 未来へと永遠に前進していくことこそ、私たちの使命であります。

  これから、ますます信心堅固に、川を渡り、山を越え、嵐も、怒濤も越えて、法のため、 世のため、人類のために、長期的展望に立って、本格的な活動を進めていただきたいので あります」 

 皆の心のなかには、正本堂の建立をもって、大闘争は終了するかのような思いがあった。

  伸一は、その気持ちを打ち破り、新しい旅立ちの銅鑼を、高らかに打ち鳴らしたのであ る。 

 皆の目が光った。大拍手が鳴り渡った。

  翌十五日には、正本堂世界平和祈願大法要が行われた。

  この日午前、大石寺のある富士宮市では、日米の音楽隊、鼓笛隊によるパレードが行わ れた。 

 日本語と英語で「みんなで築こう世界の平和」と書かれた横断幕を先頭に、勇壮なトラ ンペット、ドラム、さわやかなファイフの音を響かせ、華麗な行進が始まった。 

 市民の多くは、アメリカの音楽隊や鼓笛隊も参加した、これほど大規模なパレードを見 るのは初めてであった。 

 日米のメンバーが仲良く、はつらつと曲を奏でる姿を見て、ある住民は感嘆の声をあげ た。 「これは、世界の平和のモデルです。正本堂には世界中の人が参詣すると聞いてましたが、 いよいよ世界平和″がこの町にやって来るんですね。私たちの町が世界の富士宮″に なることは、本当に嬉しい」 

 市民も、共に正本堂の建立を喜んでくれていたのである。 

 世界平和祈願大法要に先だって、山本伸一は、正本堂の建設工事に携わってきたメンバ ーの代表や、妙壇の基底に埋めた世界の石″の提供者たちと、法庭の階段で記念撮影を 行った。 

 伸一は、建設関係者に、深い感謝の思いを込めて語った。 「大変にお世話になりました。この席をお借りしまして、厚く御礼申し上げます。 

 皆さんが、命がけで努力してくださったことはよく存じております。真心に胸が詰まり ます。 

 皆さん方の功績を讃え、お名前を刻んだ顕彰の碑を、永遠に妙壇の基底に納めさせてい ただくことにいたしました」 

 銅板に名前を刻んだ顕彰の碑は既に用意され、皆の前に置かれていた。 

 そこには、「人類悠久の平和を祈願する大殿堂たる正本堂を幾多の難工事を克服して完 遂した妙法のたくみの姓名を銅板にきざみ永遠にその功績をたたえるものである」との一 文が刻まれていた。 

 メンバーは、伸一の心に触れた思いがした。  皆、感無量で、記念のカメラに納まった。 

 また、世界の石″の提供者は、日本をはじめ、東南アジア諸国、アメリカ、イギリス、 フランス、ギリシャ、ベルギーなどから、百二十余人が集っていた。 

 伸一の提案で、この日の式典に招待されたのである。

  皆、大喜びであった。

  メンバーは、年齢も大きな開きがあり、職業も、貿易会社の経営者や商社マン、船員や 芸術家など、多彩であった。

  伸一は言った。 「ありがとう。皆さんの献身によって、世界の石″が正本堂に定礎されました。この事 実を、孫の孫の代まで語り伝えて、誇りにしていってください」 「民衆立」である正本堂は、民主の時代の象徴であり、民衆讃歌の大殿堂であらねばなら ない。

  伸一は、正本堂の建立に尽力してくれた方々を、いかに讃え、励ますか、いつも心を砕 いていたのだ。

  皆が「仏」の生命を具え、皆が「仏子」、皆が「宝塔」であると仏法は教える。したが って、一人ひとりを大切にするなかにこそ、仏法はある。 

 ゆえに仏法のリーダーとは、配慮と気配りの人でなければならない。

 正本堂での世界平和祈願大法要に続いて、午後には円融閣前に特設されたステージで、 「世界平和文化祭」が晴れやかに繰り広げられた。

  文化祭は、正本堂の完成を慶祝する、優美な日本舞踊で幕を開けた。 

 第二景では、女子部のリズムダンスや婦人部の民謡踊り、音楽隊の演奏と、日本のメン バーによる歓迎の演技が続いた。 

 舞台は第三景「世界は一つ」に移った。

  香港の友による獅子舞、ブラジルの友による陽気なサンバ、アメリカの友によるハワイ アンダンスなど、さまざまな民族衣装に身を包んでの熱演であった。 

 声援と大喝采が空に舞った。

  また、ヨーロッパのメンバーは、山本伸一の詩「栄光への門出に」をもとにした創作バ レエを披露。世界平和への新しき旅立ちの決意が全身で表現されていた。 「まい(舞)をも・まいぬべし」「立ってをど(踊)りぬべし」「をど(踊)りてこそい (出)で給いしか」(御書一三00n)との御聖訓を彷彿とさせる歓喜踊躍の舞であった。

  伸一は、一つの演目が終わるたびに、さあ、共に出発をしよう!″との思いを込めて、 賞讃の拍手を送った。 

 第四景「前進の誓」では、鼓笛隊が演奏するドボルザーク作曲の「新世界より」の調べ をバックに、王朝風の衣装をまとった日本の男女青年による舞踊が展開された。 

 新世界――まさに、その幕が開かれたのだ。

  ここで、各国の代表に伸一から花束が贈られ、フィナーレとなった。 「フォーエバー・センセイ」の調べが流れた。これは日本の同志の愛唱歌「今日も元気で」 に、アメリカの友が英語の歌詞をつけたものだ。 

 メンバーは、あの地、この地で、苦しい時も、悲しい時も、人生の師である山本伸一と の「共戦」の誓いを込めて歌ってきたのである。 

 皆、曲に合わせて大きく手を振り、熱唱した。 

 国籍も、民族も異なる人たちである。しかし、その心は、今、一つに結ばれていた。 

世界の人びとの幸福と平和を、断じて築くのだ。それが私たちの使命なのだ!″

  国家、民族を超えた人間と人間の結合――その縮図が、ここにあった。

  「フォーエバー・センセイ」を歌い終わると、大歓声があがった。 「センセーイ!」  皆が、そう叫んで、ちぎれんばかりに手を振っていた。肩車に乗って手を振る人もいた。

  どの目にも、涙があふれていた。抑えていた胸の思いが一気に爆発したのだ。

  海外メンバーは皆、正本堂落慶の式典への参加をめざし、懸命に仕事に励み、生活費を 切りつめて、旅費を捻出した。そして、苦心に苦心を重ねて休暇を取り、世界中から日本 に来たのだ。

 山本先生と共に正本堂の完成を祝おう!″先生と世界平和への出発をしよう!″と、 歯をくいしばって、頑張り抜いての来日であった。

  それだけに今、夢に見た出会いが実現し、喜びが弾け、涙が込み上げてきてならないの だ。 

 熱き求道の心には、歓喜の炎が燃え上がる。その時、辛かった日々は、黄金の歴史とな る。 

 メンバーは、感涙を流しながら、新たなる世界広布への出発を誓うのであった。 

 伸一には、皆の熱い心が切々と伝わってきた。その求道の一念が嬉しかった。彼は諸手 をあげ、皆に応えた。 「ありがとう! おめでとう! 今日は、大いに楽しみましょう。 

 海外の皆さんのために、向こうに茶席も用意しました。日本情緒を満喫してください。 私もまいります」 

 大講堂横の庭園には茶席が設けられ、琴の音が響いていた。  これは海外メンバーをもてなそうと、伸一が提案したものだ。 

 彼は庭園に行くと、メンバーと握手をし、ねぎらいの言葉をかけていった。また、代表 に茶の作法を教えるなどして、遠来の友を歓待した。 

 それから伸一は、バスの発着場所に向かった。帰国第一陣のメンバーを見送るためであ る。

 今が発心のための光を送るチャンスだ。時を逃してはならない!″

  人波のなかに飛び込んだ伸一は、まず香港のメンバーと固い握手を交わした。 「長い間の滞在、本当にご苦労さま! 

 香港は、私がアジア訪問の第一歩を印した先駆けの天地です。どうか、皆さんは、東洋 に幸の光を送る、太陽の存在となってください」 

  山本伸一は、帰国するメンバーと次々に握手を交わし、声をかけた。 「正本堂が完成したということは、いよいよ本格的な世界広布の幕が開いたということで す。

  日蓮大聖人の仏法が、世界を照らす時代を迎えたんです。

  その希望の太陽こそ皆さんです。新しい広宣流布の歴史をつくってください。 

 私も妻も、皆様方の幸福を願って、一生懸命にお題目を送り続けます。 

 また、お会いしましょう。ありがとう!」 

 真剣な励ましに、皆が伸一の真心を感じた。感動と新たな決意で、皆の目が潤んだ。

  メンバーがバスに乗り込むと、伸一は妻の峯子と共に移動し、バスが通る道路沿いの石 垣の上に立った。 

 そして、約一時間にわたり、帰国する第一陣のメンバーのバスを見送ったのである。 

 同志は皆、その国の広宣流布を担う、大切な仏子である。

  それぞれの国へ帰れば、頼みとなる先輩や同志もほとんどいない。自らが一人立って、 新たな広宣流布の道を開くしかないのだ。

 大河の流れも、一滴の水から始まる。この一人ひとりを、世界広布の源流にするのだ! ″ 

 そう思うと、伸一の腕に力がこもった。

  伸一と峯子は頑張れ! 頑張れ!″と、心で叫びながら、バスが見えなくなるまで、 大きく手を振り続けた。

  翌十月十六日は、「久遠の灯」の点火大法要が行われた。 

 正本堂の中央ブリッジ前に設置された「久遠の灯」の灯火台に灯をともす儀式である。

  この灯には、無明の闇を破り、人類の未来を照らす、かがり火の意義がこめられていた。

  正本堂での御開扉に続いて、ブルーのブレザーに身を包んだ七人の青年たちが、白煙を 上げるトーチを掲げて、法庭の階段に並んだ。 

 アジア、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、南アメリカの世界六大州と、 日本の代表の青年である。  ファンファーレが秋空に高らかに鳴り響いた。 

 青年たちは、一斉に灯火台に向かって走りだした。灯火台の前には、スーツ姿の、山本 伸一が立っていた。 

「久遠の灯」の灯火台は、高さ一・四八メートル、直径二・三一メートルで、上広がりに 五層の円盤を積み上げた形をしていた。 

 走ってきた日本の青年が、山本伸一に、金色のトーチを手渡した。 「ありがとう」  伸一は、灯火台の横に立ち、受け取ったトーチを掲げた。六大州の青年も灯火台を取り 囲んだ。 

 伸一がトーチを傾けた。青年たちも続いた。

 灯火台の中央から、赤々と火が燃え上がった。 

 号砲が轟き、拍手が響き、噴水が高々と飛沫をあげた。

  それは、世界広布への誓いの灯であり、人類の闇を照らす希望の明かりであった。また、 平和を願う全人類の連帯と情熱の炎であった。 

 伸一は、この日も、帰国する欧州、北・南米のメンバー約千三百人を、バスが通る道路 の側に立って見送った。

  バスが走り去っていくたびに、メンバーの健闘を祈って、両手を高く掲げ、大きく振り 続けた。

  彼は、わが同志の胸中に、広宣流布を誓う「久遠の灯」をともそうと必死であった。 

 伸一の姿を見つけた海外のメンバーは、バスの中で歓声をあげた。そして、窓を開け、 盛んに手を振り、叫んだ。 「サヨナラ!」 「ガンバリマス!」  火は燃え広がる。魂もまた燃え広がる。リーダーの胸に、天を焦がす闘魂と情熱が燃え 盛っているならば、それは、必ずや、友から友へと伝播していくのだ。 

 翌十七日は、慶祝法要最後の日であり、正本堂記念品埋納大法要が営まれた。須弥壇下 の埋納室に、さまざまな記念品を納める儀式である。

  勤行に続いて、山本伸一のあいさつとなった。

  彼は、今日までのすべての行事が晴天に恵まれ、無事故、大成功で終了したことに対し て、皆に感謝の言葉を述べたあと、御宝前に供えられた、五つの楠の箱について説明して いった。

  それぞれの箱には、正本堂建立発願式の際の日達法主の「願文」や伸一の「発音願文」 などのほか、建立発願式で法主が着用した法衣一式、正本堂御供養者名簿、今回の大法要 参列者署名簿などが納められていた。

 羽ばたき 五十八 (2953) 

 埋納する正本堂の記念品を入れた楠の箱は、さらに銅製の箱に納め、大御本尊の真下に あたる妙壇の基底部の部屋に格納されるのである。

  山本伸一は、その説明をしたあと、彼方を仰ぐように顔を上げると、力強い声で語った。 「この部屋は、正本堂建設委員会で決議されたうえで、猊下の御認可を得まして、第一回 は今日より七百年後、第二回は三千年後、そして第三回は一万年後に開かれることになっ ております」  感嘆の声と拍手がわき起こった。  気の遠くなるような、想像もつかない未来である。しかし、皆、壮大なロマンに胸が躍 った。 

 後世の人たちが、供養者名簿を見て、大偉業に参加した自分たちのことを想像する姿を 思うと、誇り高かった。 

 有名な報恩抄の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながる (流布)べし」(御書三二九n)との一節が、皆の心に轟いた。  また、この正本堂が幾世紀を越えて、平和の殿堂として存在し続けることを、誰もが確 信していたのである。

  ところで、正本堂の耐久性について、構造設計担当者の恩師である東大の坪井善勝名誉 教授は、こんなエピソードを紹介している。

  ――一九七一年(昭和四十六年)十月、日本で行われたIASS国際シェル会議に出席 した折のことである。

  鉄骨構造の権威である、イギリスのマコースキー教授と、正本堂の技術的な問題につい て話し合った際、ある新聞記者が「この建物は何年ぐらいもつと考えるか」と尋ねた。 

 すると、マコースキー教授は、「一万年」と答えたというのだ。  坪井名誉教授は記している。 「この建物がマコースキーの言う耐用年数を期待することは我々構造設計者の能力の限界 を超えたことである。 

 すなわちいつまでも我々の次の時代また次の時代、その次の時代……の人々が大石寺正 本堂を大切に守るかどうかによって耐用年数は決定するのである」

(注)  法要終了後、御宝前に供えられた、五箱の埋納品は、十人の青年の手で運ばれ、所定の 部屋に納められたのである。

  引用文献 

 注 坪井善勝著「空間構造の発達と大石寺正本堂」(『正本堂構造設計篇』所収)、正 本堂記録編纂委員会 

 参列者は、妙壇から出ると、法庭に集まった。 

 円融閣いっぱいに掲げられている大緞帳の「開幕式」である。

  山本伸一が紅白の紐を引くと、十一日の大御本尊御遷座大法要以来七日間にわたって、 正本堂落成慶讃の儀式を荘厳してきた茜色の大緞帳が、スルスルと巻き上がっていった。

  正本堂は、ここに、その全容を現したのだ。  くす玉が割れ、紙吹雪が舞い飛び、色鮮やかなテープが風に泳いだ。 

 これで、落成の式典はすべて終了した。  伸一は「開幕式」を終えると、その足で戸田城聖の墓に向かった。一刻も早く、一切が 無事に終わったことを、報告したかったのである。 

 恩師の遺命を果たした弟子の心は、晴れ晴れとしていた。 先生! 伸一は、ご遺言を成就しました。あとは、まっしぐらに世界広宣流布に突き進 んでまいります。 

 先生の弟子の戦いをご覧ください″

  合掌する弟子の目に、恩師の会心の笑顔が浮かんだ。 

 正本堂建立の喜びは日本列島の津々浦々に広がっていた。 

 落慶の式典が終了したこの十月十七日から、六日間にわたって、全国各地で正本堂落慶 記念ブロック座談会が、盛大に開催されたのである。

  大聖人御遺命の戒壇となる正本堂を建立できたことが、皆、嬉しくて嬉しくて仕方なか った。

  どの会場にも、大きく描かれた正本堂の絵や、写真などが飾られ、参加者の満開の笑み が光っていた。

  有志が撮影した正本堂の八ミリ映画を観賞したところもあれば、記念式典を報じた聖教 新聞を展示した会場もあった。 

 地域の友人が二十余人も参加し、共に喜びを分かち合ったブロックもあった。 

 ある人は、地域の来賓に、胸を張って訴えた。 「人類の平和を実現することが、創価学会の目的です。その平和を祈願する大殿堂が、私 たちの力で、民衆の力で完成したんです。 

 世界の、どの宗教建築にも負けない、日本が誇る二十世紀を代表する最高の建物です」 

 皆の顔には、歓喜と誇りがあふれ、晴れやかに輝いていた。

 正本堂は建立された。あとは、広宣流布を実現することである。 

 日蓮大聖人が「三大秘法抄」に「王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三 秘密の法を持ちて……」(御書一〇二二n)と仰せの社会を創り上げることだ。 

 つまり、仏法に説かれた生命尊厳の哲理を根底とした、人間文化の建設である。社会の あらゆる人びとが、仏法の人間主義に目覚めた時代を創出することである。 

 今、その広宣流布への、確かなる道標が打ち立てられたのだ。

  学会は勇躍、「広布第二章」に向かって、羽ばたいたのである。 

 それは、線から面への、新しき展開の本格的な開幕であった。

  正本堂落成慶讃大法要の一連の儀式を終えた総本山では、記念登山会が始まり、連日、 登山会参加者で賑わっていた。

 山本伸一は、しばらくは総本山にあって、各地から集って来るメンバーの激励に、日々、 全力を傾けていた。 

 儀式がいかに荘厳であっても、人間の一念が変わり、皆が立ち上がらなければ、単なる 形式であり、一夜の夢に終わってしまう。

  日興上人は「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(同一六一八 n)と、弟子の道を示されている。  その確固不動の決意に立った広布の戦士を育むことだ。一人ひとりの胸に、闘魂を燃え 上がらせることだ。

  伸一は学会員の姿を見れば駆け寄り、全精魂を込めて激励した。 「皆様方の血と汗と涙の御供養で誕生した正本堂です。本当にありがとうございました。

  人生の幸福を満喫するために、広宣流布のために、ますます元気に生き抜いてください。 

 地元に戻られたら、皆さんにくれぐれもよろしくお伝えください」 

 輸送班の青年とは、一緒にカメラに納まり、抱きかかえるようにして握手を交わした。 「これからは、世界中の人が、この正本堂にまいります。輸送班の皆さんには、ご苦労を おかけしますが、私と共に、世界と日本の友を迎えてください。

  私も、日々、絶対無事故を祈ってまいります」 

 学会員に対する、総本山での山本伸一の激励は、日に何度となく繰り返された。握手で手が痛み、喉も嗄れた。

 しかし、もう一人、もう一人と、彼は走った。

「広布第二章」の伸一の戦いは、正本堂を訪れる同志への、生命を揺さぶるような励ましから始まったのである。

 完成した正本堂は、全信徒の誇りであった。

 民衆の力によって築かれた、民衆のための荘厳な正本堂を見て、日蓮大聖人の仏法への理解を深めていった各界の指導者や学識者も少なくない。

 また、全世界の友が、ここに集い、人類の平和と幸福を共に祈念する姿には、麗しき人間共和の実像があった。

 一九九八年(平成十年)の六月、落成からわずか二十六年にして、なんと、その正本堂の解体が始まったのである。

 この暴虐の破壊者は、日蓮正宗総本山第六十七世の法主を名乗る阿部日顕であった。

 八百万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門寺の戒壇」たるべき大殿堂を破壊するという大暴挙である。大聖人の法門に対する大変な反逆である。

 御聖訓には「謗法と申すは違背の義なり」(御書四n)と厳しく仰せである。

 さらに、日顕は、師の日達法主にも背き、その指南をも覆したのだ。

 正本堂の解体は「世界の宗教上及び文化上の遺産を甚だしく傷つけること」だと、海外の識者も強く抗議した。

 日顕の常軌を逸した、この蛮行の淵源には、伸一と会員を離間させ、会員を信者として奪い取ろうとする悪辣な陰謀があった。いわゆる「C作戦」(Cはカットの意)である。

 ――一九九〇年(平成二年)の年末、突然、宗門は宗規の改正を口実にして、総講頭であった伸一をはじめ、大講頭らを一方的に、事実上、解任処分にした。

「C作戦」が実行に移されたのだ。

 日顕は、自らの陰謀を正当化するために、伸一を大謗法″の者に仕立てあげることに、躍起となった。

 そして、年が明けた一月、六八年(昭和四十三年)の正本堂着工大法要での伸一の発言に、全く見当違いな言いがかりをつけたのである。

 

 総本山では、一九九一年(平成三年)の一月六日に全国教師指導会、十日に教師指導会が行われた。

 その席で日顕は、正本堂着工大法要の折、山本伸一があいさつのなかで「三大秘法抄」の御文を引き、「この法華本門の戒壇たる正本堂」と語ったことを取り上げ、こう発言したのだ。

 ――日達上人は「明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものズバリの形でおっしゃってはいない」。正本堂が「本門の戒壇」という意義づけは、伸一が、勝手に行ったものである。

 そして、宗門として正本堂を位置づけた公式発表は、一九七二年(昭和四十七年)四月二十八日の、日達上人の「訓諭」であり、それ以前に、一信徒が正本堂の意義を確定するなど、言い過ぎである。反省し、訂正しなければならない――と非難したのだ。

 事実経過を無視した、支離滅裂な妄言である。

 着工大法要での伸一の言葉は、六五年(同四十年)二月に開かれた第一回正本堂建設委員会での、日達法主の説法を受けたものだ。

 その席で日達法主は、正本堂が広布の暁に本門寺の戒壇の意義をもつ建物であることを明らかにしたではないか。

 この説法が、正本堂がいかなる意義をもつかを示す原点となっていったのだ。

 さらに何よりも、その後、日達法主が、「事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります」(『大日蓮』昭和四十四年六月号)と述べているのだ。

 第一回建設委員会での日達法主の説法以来、宗内の僧俗をあげて、本門の戒壇としての正本堂の意義を強調していったのである。

 それは宗門関係者の発言を見れば明白である。

 まず、当時、宗務院教学部長であった日顕自身が、こう記しているのである。

「宗祖大聖人の御遺命である正法広布事戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て……始めてその実現の大光明を顕わさんとしている。その事実こそ此の度の正本堂建立発願式であろう」(『大日蓮』昭和四十二年十一月号)

 

 正本堂を日蓮大聖人の御遺命の戒壇とする、宗門関係者の言葉は、『大日蓮』の昭和四十二年十一月号だけを見ても、枚挙にいとまがない。

「この正本堂建立こそは、三大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり」(佐藤慈英宗会議長)

「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである」(椎名法英宗会議員)

「この大御本尊御安置の本門戒壇堂の建立をば『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり時を待つべきのみ』云々と、減後の末弟に遺命せられたのであります。その御遺命通りに、末法の今、機熱して、本門寺の戒壇たる正本堂が……」(大村寿顕宗会議員)

 ところが日顕は、着工大法要で山本伸一が正本堂を「本門の戒壇」と言ったのは独断であり、以来、そのような空気が宗門を巻き込んでいったというのだ。

 これらの宗門関係者の発言は、着工大法要で伸一があいさつをする一年も前のものである。

 大聖人は「僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」(御書一三五五n)と喝破されている。

 僻事とは道理に合わず、事実と違うということである。日顕宗は、自ら邪教であることを証明したことになる。

 また、仮に伸一の発言が間違っているならば、そんな大問題を、なぜ、二十年以上も放置しておいたのか。ましてや日顕は、当時、宗務院教学部長である。甚だしい責任放棄ではないか。

 さらに、日顕は、この一九九一年(平成三年)の全国教師指導会で、正本堂の意義について述べた七二年(昭和四十七年)四月の日達法主の訓諭と伸一の発言は、意味が「非常に違っておるのであります」と強弁したのだ。

 訓諭には「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」とある。この「意義を含む……」について日顕は、次の趣旨の、珍妙な解釈をしてみせた。

 ――意義を含んでいても、まだ、その意義全体が現れたことではないから、正本堂は「一期弘法抄」「三大秘法抄」に仰せの戒壇そのものではない。

 日達法主の訓諭は、さらに「即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と明記しているが、日顕はそれに対しても、こう言って憚らなかった。

 ――「たるべき」とは「予想」「あらかじめ思う」ことであり、「予想はすなわち予定」である。「ですから一往、そうは思っても、将来において変わる場合もある」

 建立した正本堂が「本門の戒壇」となるというのは予定にすぎず、将来のことは不確定であるというのだ。

 これは正当な文法の解釈のうえからも、明らかに間違いである。

 日本を代表する最高権威の国語学者たちが、この「たるべき」は「確定している将来形の表現」(中田祝夫・筑波大学名誉教授)等と、日顕の解釈を否定しているのだ。

 つまり、訓諭の意味するところは、「まさに正本堂は、広宣流布の暁には本門寺の戒壇となる大殿堂である」ということなのである。

 ともあれ、この全国教師指導会、教師指導会での日顕の発言は、自語相違の極みであった。また一切を注いで供養に参加した八百万信徒の心を足蹴にする、悪逆非道な暴言であった。

 日顕の発言を知った学会員は、愕然とした。

「こんなおかしな話があるものか!」

「日達上人は、正本堂は本門の戒壇″になると、おっしゃっていたではないか!」

「そうだ。何度も言われていた。私も明確に心に刻みつけている」

 たとえば、一九七〇年(昭和四十五年)五月の本部総会に参加した学会員は、「この正本堂が完成すれば、今、奉安殿に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、正本堂にご遷座申すのでありますから、その時は正本堂は本門事の戒壇であります」との話が、胸に焼きついていた。

 皆、そうした言葉に、決意を新たにしてきたのである。

 それだけに、怒りはおさまらなかった。

「変な理屈をつけて、日達上人の言葉を覆すなんて、まるで詐欺のような所業ではないか」

 学会としても、絶対に看過するわけにはいかぬ重大な問題であった。

 早速、この説法の矛盾点や疑問点について、文書をもって日顕に質したのである。

 

羽ばたき 六十五 (2960)

 学会の質問に対する日顕の回答は、三月九日付で、宗務院から書面で届いた。

 それは、空しい言い訳に終始し、矛盾だらけの回答であった。納得できないばかりか、ますます疑問が増した。厳たる歴史的事実を歪め、欺こうというのだから、嘘と詭弁で塗り固める結果になるのは当然である。

 学会としては、内容を整理し、書面で四十八項目にわたる質問を、再び提出したのである。しかし、回答はなかった。

 そして、この一九九一年(平成三年)の十一月七日、遂に宗門は、一方的に、創価学会に「解散勧告書」を送付した。

 さらに、二十八日には「破門通告書」を送り、正法正義を守り抜いて広宣流布に邁進しゆく学会を破門″にするという、仏法破壊の極悪の大罪を犯したのである。

 愚昧な彼らは、これで学会は窮し、多くの学会員が宗門に付くと考えたのであろう。

 それは衣の権威に民衆は従う″という、人間蔑視も甚だしい思い上がりである。

 謗法と腐敗にまみれ、信徒を蔑視してきた邪宗門に、真実の学会員が付き従うはずがなかった。

 学会員は、宗門の卑劣にして極悪な所業に苦しみ、憤怒しながら、その本質を鋭く見極めてきたのだ。

 ――宗門は、「本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体」などと法主を絶対化し、信徒には隷属を強い、一閻浮提総与の大御本尊をも私物化した。さらに、文化を否定し、世界広宣流布の道を閉ざそうとした。

 しかも、日顕自ら禅寺に墓を建てるなどの大愚も犯し、法師の皮を著た畜生さながらに供養を貪り、遊興を繰り返してきたのだ。

 その誤りを戒め、戦ってきたわが同志にとって、破門″は、栄えある解放であった。

 それは、仏法の人間主義をもって世界を潤す、新しき夜明けの到来であり、その日は、創価学会の魂の独立記念日となったのである。

破門″の知らせが流れるや、各地の会館に、万歳の声がこだました。

 この一カ月後には、全世界の千六百二十五万人が署名した「退座要求書」が日顕に突きつけられたのである。

 そもそも戒壇の重要な意義は防非止悪にある。自らが非法・悪法を止める深き信心を誓うとともに、社会が非道・悪道に陥っていくのを止める広宣流布の戦いを起こしていくことを誓ってこそ、事の戒法である。

 大聖人が、有徳王、覚徳比丘の不惜身命の戦いを戒壇建立の条件として掲げられているのも、この防非止悪の具体的な姿を示されていると拝することができる。

 しかし、宗門は、自ら日蓮仏法の正法正義を踏みにじってきたのだ。

 大聖人は「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(編年体御書一七二九n)と御遺言されている。ましてや法主を名乗る人物が、広布破壊の天魔の本性を明らかにした寺に、どうして参詣する必要があろうか。

 しかも彼らは、大聖人が全民衆のために御図顕された大御本尊を私物化し、その仰せ通りに広宣流布を推進する創価学会を、切り崩す道具にしているのだ。仏法破壊の輩が集う所は、いかに大御本尊が御安置されていても魔の巣窟にすぎない。

 大聖人は、「霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(御書七五七n)と、厳と仰せであられる。

 大石寺が霊山ともいうべき意義をもち、そして正本堂が戒壇の意義をもちえたのは、まさに清浄な信心を起こし、広宣流布、立正安国の誓いを立て、法戦を貫き通してきた創価学会員が集ってきたからである。

 地涌の使命に生きる本門の勇者が集ってこそ、大聖人の仏界の御生命を御図顕された御本尊と相呼応し、そこが本門の戒壇となるのである。

 大聖人は、戒壇の建立を、後世の門下の目標として示されたが、それは伝教大師が比叡山延暦寺に法華経迹門の戒壇を建立したという先例に従って、当時の時代状況のなかで、広宣流布の目標を表現されたものとも拝察できよう。

 大聖人の根本目的は、どこまでも立正安国の実現にあった。民衆の幸福と、社会の繁栄と平和のために、生涯、戦い抜かれた。それを継承してきたのが学会である。

 その不惜身命の実践もなく、遊戯雑談に耽り、化儀を振り回して自らを権威づけ、民衆を脾睨する輩は、まさに仏法を弄んでいるのだ。

 

(語句の解説)

 ◎伝教大師

 七六七〜八二二年。日本天台宗の開祖・最澄のこと。諸宗の誤りを正して法華経を宣揚した。比叡山に大乗戒壇の建立を推進。逝去七日後に、その勅許が出て、翌年(八二三年)に延暦寺戒壇として初の授戒が行われた。

 

 ◎化儀

 衆生を教化し、仏道に導くための儀式・規範。

 

 日顕宗が創価学会に「破門通告書」を出してから四年後の、一九九五年(平成七年)秋のことである。

 日顕は、日達法主の時代に、山本伸一の発願により、創価学会が建立寄進した、大客殿の解体に着手した。

 地震対策を理由にしての解体であった。

 耐震診断を担当した大客殿の設計者と構造設計者は、診断結果を歪曲されたと厳重抗議したが、日顕は、多くの人びとの反対を押し切り、解体を強行したのである。

 伸一と学会への怨嫉のゆえか、先師の日達法主への嫉妬のゆえか、異常極まる行動であった。

 さらに彼らは、九八年(同十年)に入ると、正本堂の大理石に赤サビが出た″コンクリートに含まれる海砂が鉄筋を腐食した可能性が高い″などと騒ぎだした。

 そして四月五日、日顕は、突如、正本堂の閉鎖を発表。その日のうちに、大御本尊を遷座したのだ。

 それは、夕暮れ迫るなか、小人数で人目を避けるように強行された。二十六年前、奉安殿から正本堂に大御本尊を遷座した、あの晴れやかな式典とは、全く異なる陰々滅々とした光景であった。

 正本堂の解体工事が始まったのは、この年の六月のことである。

 日顕は正本堂を絶讃していたにもかかわらず、自語相違も甚だしく、「仏法を歪曲した謗法の遺物を徹底して駆逐」すると、臆面もなく言い放っての決行であった。

 取り壊しに、強い反対の声が起こった。保存を推進する建築家の集いも結成され、富士宮市や静岡県に保存の陳情書や要望書も提出された。

 しかし、頭破作七分のためか、もはや日顕には、いかなる良識の諫言も通じなかった。

 機械を使って、鶴の羽の形をした屋根がはがされ、壁が崩されていった。辺りには、連日、「ガガガガーッ」「ゴゴゴー」という不気味な音が響き渡った。

 富士宮の学会員は、怒りに打ち震えながら、日々、その解体の光景を目に焼き付けた。

 皆が「本門戒壇の建立」と信じ、命を削るようにして供養に参加したのだ。

 日々、破壊されていく正本堂を見ると、わが身が切り刻まれていく思いがするのであった。

 

(語句の解説)

 ◎頭破作七分

 「頭破れて七分と作る」と読む。法華経の行者を誹謗する者が受ける罰。

 正本堂が破壊されていると聞いて、耳を疑い、自分の目で、直接、確かめようと、全国各地から正本堂を見に来た人も少なくなかった。

 夫を失い、女手一つで三人の子どもを育てながら供養に参加した北九州の老婦人は、長男夫婦と孫と一緒に東京に向かう途次、富士宮に立ち寄った。

 長男は、大学生の子どもをもつ、壮年になっていた。

 大石寺がよく見える畑の傍らで車を降りた。皆、変わり果てた正本堂の姿に息をのんだ。

 屋根もなく、壁も削られ、剥き出しの鉄骨が見えた。時折、「ゴゴーン」という音が響き、もうもうと土埃が上がっていた。

 残ったコンクリートの梁と柱が、天に向かって悲痛な叫びをあげる巨大な口のように思えた。

 皆、しばらくは言葉を失い、その光景を黙って見ていた。

 白髪の老婦人の背中がぶるぶると震えた。

 ――昼は魚の行商、夜は清掃の仕事をして働き、毎日、爪に火をともすように節約を重ね、供養に参加した日のことが彼女の頭をよぎった。

 辛いといえば辛い日々であった。しかし、彼女は、正本堂は、やがて「本門の戒壇」となり、世界中の指導者が、民衆がここに集い、平和への祈りを捧げるのだと思うと、どんな苦労も喜びに変わるのであった。

 だが、その正本堂が、今、無残この上ない姿をさらしているのだ。

 彼女の目には、涙があふれていた。

 それは、自分の人生の誇りを、信心の赤誠の証を、踏みにじられたことへの悔し涙であり、煮えたぎるような怒りの熱い血涙であった。

 しかし、老婦人は、決然と涙を拭うと、叫ぶように言った。

「日顕はうちらを騙して、大聖人の御遺命の戒壇を、本門の戒壇を、ぶち壊しよる。信心の真心を、土足で踏んづけて、粉々にしてから!

 人間のやるこっちゃない。天魔や。第六天の魔王や!

 こんな悪坊主がのさばっちょると、仏法が滅んでしまう。みんなが不幸になる!

 うちは許さん。絶対に絶対に許さんけね!」

 怒りは、破邪顕正の炎となって、激しく燃え上がっていった。

 老婦人の言葉を受けるようにして、傍らの息子が口を開いた。

 彼は、正本堂の供養の時は中学生だったが、自ら新聞配達を始めて、供養に参加したのだ。

「おふくろ、俺も日顕は絶対に許さん!

 純粋な学会員を利用するだけ利用しとって、供養を搾り取り、そして、裏切りよった。

 それに、誰よりも広宣流布に、宗門に尽くした大功労者の山本先生を切り捨て、仏意仏勅の広宣流布の団体である学会をつぶそうとした。

『彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには』(御書二四n)だ。日顕一派を打ち倒さんと、仏法破壊の根っこは断てん」

 隣にいた大学生の孫も老婦人に言った。

「学会は宗門と離れてよかった。現代の身延離山″をしたことになるんやけ。

 信徒を平気で見下したり、伏せ拝″とか言うて、日顕を見たら土下座するような宗教なんかおかしい!」

 老婦人が、笑みを浮かべて頷いた。

「本当にそうやね。

 仏法は勝負だ。うちらはすべてに勝って、必ず学会の正義を証明しちゃるわ!」

 彼方には、秋空に悠然とそびえる、富士の姿があった。

 孫が言った。

「ばあちゃん。ほら、あそこの家に、三色旗が立っちょるよ」

 一軒の民家に、学会の三色旗が堂々と掲げられ、風に翻っていた。

学会の正義は厳たり。邪宗門と断じて戦わん″との決意を込めて、大石寺周辺でも、創価の同志は、厳然と三色旗を掲げていたのだ。

 

 御遺命の戒壇となる正本堂を日顕は破壊した。

 しかし、正本堂の建立は、御本仏日蓮大聖人を荘厳したのだ。その功徳、福運は無量無辺であり、永遠に消えることはない。

 一方、日顕宗は、正本堂の破壊をもって、天魔の本性をさらけ出し、邪教であることを自ら証明したのである。その罪もまた、未来永遠に消えることはない。

 学会は、宗門による暴虐の嵐を勝ち越え、人間主義の世界宗教として二十一世紀の大空へ、雄々しく飛翔していったのである。

  (終了)

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 (顕正会資料)

 以下は浅井の言葉である。
 昭和四十年二月日達法主による正本堂建立委員会で「正本堂は事の戒壇の建物」という説法があった三ヵ月後だ。

・昭和四十年五月二十五日、妙信講総幹部会・浅井 ・・・・・・「富士」二十四号 

 正本堂建立への御供養三年後に一万世帯達成    ―浅井企画室長の指導―  

二大目標へ火の玉の前進  大法戦には必ず大功徳 

 「今回、総本山において御法主上人猊下の御思召によりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立 される事になります。戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体 の重大な慶事に、妙信講も宗門の一翼として、講中の全力を挙げ、真心を込めて猊下に御供養をさせて 頂く事になりました。 

 実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊にましすのであります。 この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来、広布のときを待って、歴代の御法主上 人によって巌護せられて来たのであります。今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘 せられてまいりました。唯そのスキマもる光を拝して、一分の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝 を賜っていたのであります。

  その御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる、御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下 の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。その深い意義は凡下の 我々のみだりに窺がう所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にそ の御姿を徐々におあらわしになる。私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を 奉りたい。先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせ て頂こうではありませんか」 

 

・昭和四十年七月「富士」二十四号十一頁 

  いよいよ正本堂建立の御供養  千載一遇の御奉公に歓喜の参加  真心を尽して悔いなき結晶を

  「この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私 達の生涯に二度とはない大福運であります」

 

・昭和四十年八月「富士」ニ十五号  浅井(当時本部長) 

 「すでに広宣流布の時はきております」

 さて、では浅井はその後、この説法に対して、どう言い出したのか、見てみよう。

「この説法は、まさに事の戒壇と義の戒壇をあえて混乱せしめて、広布の暁の『本門寺の戒壇』すなわち国立戒壇建立を否定せんとしたものである」

 「しかるに細井管長(注:日達法主)は・・・池田寄進の建物を勝手に正本堂と名づけることよって、・・・たぶらかしたのである」

といことだ。だったら、当時供養などせずにキチンと説明すればよかったはず。浅井の欺瞞がよくわかるではないか。

 顕正会ではこのことを悟られないように四苦八苦している。たとえば顕正会では「インターネット禁止」などとしている。浅はかなことだ。

 ちなみに、千歳一遇とは、千年に一度あるかないかの出来事に出会うこと、つまり、一生に一度、歴史上にたった一回だけというような意味だが、もし、浅井がいうように、国立戒壇が出来ることがあったとしたら、なんと言うのだろう。「二回目の千歳一隅」というのか、または万歳一遇なんて言葉を言い出すのか、まあ百年もすれば、浅井は勿論今の地球上に生きている人間のほとんどがいなくなる後だけに、どうなることやらと、他人事ながら心配してみるのだが・・。

 結論を言うと、正本堂は事の戒壇たるべきものという認識は、当時の坊さんや信徒は、浅井や妙信講も含め全員もっていた。だから、全員供養に参加した。

そして、「国立戒壇」と口には出していたものの、「国立」というのは本来日蓮正宗の教義ではなく、時代にそぐわないということもみんな認識していた。

 明治時期以後「国立戒壇」という言葉を使っていた日蓮正宗だが、「国立」に深い意味があるのでなく「事の戒壇」に意味がある。

 だから、明治以前の600年間は「国立」などといった人は宗内(国内)に誰一人としていなかった。日蓮大聖人も勿論、言ってはいない。  本来ならば正本堂建立を持って、一つの広宣流布のけじめをつけるということは、僧俗一致した考えだった。

 だから浅井も、S40.2.16の日達法主の説法に異を唱えなかった。

 そういう建物が建つ機運というものが、当時創価学会の目覚しい布教活動で、宗内に満ち満ちていた。そして正本堂建立となっていく。

 さて、では何で浅井が国立戒壇問題を持ち出したのだろう。ここが肝心なところ。

 浅井は宗門の中でリーダーシップを取る池田会長に嫉妬した。自分がそういう立場になろうという思いがあったため、池田会長が憎らしくてしょうがなかった。  そこで国立戒壇という問題をあえて誇張し、学会に難グセをつけた。

 つまり、学会を攻撃するチャンスを虎視眈々と狙っていたのだが、そのきっかけになったのが「言論問題」だった。

 昭和40年頃は、宗門も国立戒壇というのは否定すべきだということを明確にしていた。浅井は父親の甚兵衛とともに、法華講連合会といざこざを起こしていてた。

 池袋東武百貨店行われた「聖人展」に、言いがかりをつけたりしているうち、戒壇問題などを出してきた。しかし、このときは宗門も相手にしなかったので、浅井父子は黙ってしまっていた。

 そして起きたのが言論問題。昭和44年の衆議院選挙で公明党は47議席を獲得した。それにより、学会に対して、各方面からの凄まじい学会攻撃が起こった。

 このとき藤原弘達の「創価学会を斬る」という、難グセの本が出版され、真実から程遠い小汚い批判本に対して抗議し、出版を差し控えるよう働きをかけたことが言論の自由を奪うものだとして、この問題で学会と公明党を一挙に抑圧しようという動きが起こった。

しかも、宗門のあり方そのものまでも追求しようというねらいで、国会でも狙い撃ちしてつぶそうという動きが始まった。そこにでてきたのが「国立戒壇」「国教」の議論だった。

 そういう事態を収拾しようと、すでに昭和40年ごろから、将来建設される戒壇は国立戒壇ではないと明確にされていたことを、法主があらためて明確に宣言した。

それが昭和45年5月3日の日達法主の説法だった。これは浅井のいうような、突然否定した説法というものではない。

私、深道は、当時から学会員であったので、全くこの通りの雰囲気であったことを証言できる証人でもあります。

当時国会の論議の流れの中で、文化庁より照会状が来たので、学会は国立戒壇を明確に否定する回答を出した。学会・公明党の敵対勢力はこれで攻撃の糸口を見出せなくなったのだが、浅井にしてもあてがはずれたままで、このままでは講員への示しがつかない。

 「血を見る」とか「正本堂落慶を血で汚す」とか、宗門や学会に攻撃の刃を剥き出しにして来た。その暴力体質は今も変わっていません。浅井らの非礼・横暴な行為が相次いだ。実力行使による横暴な態度、法華講妙観講との暴力事件、学会本部への街宣車突入と集団不法侵入事件。乱暴の限りを尽くした暴徒は全員現行犯逮捕で検挙された。法主はことあるごとに浅井らを説得してきたが、それも無駄な事だった。そういう経過の中妙信講は破門ということになった。

 今若者達が顕正会からの執拗な勧誘、だまし討ち、おおげさな予言(当たらないが)、非常識な論理、脅迫と言った被害を受けているが、そういう行為はまさに昔のままの暴力体質といえるだろう。

 以上が正本堂問題の真実です。

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